第二章 旅立つ娘 一
ブランド物のバッグや高価な貴金属類が所狭しと並ぶ、質屋の店内。整然と片付いてはいるのは、店主が几帳面な為ではなく、商品が動かないからだ。壁の両側に大きなキャビネットが置かれているせいで少々狭く見えるが、実際は見た目よりかなり広い。静かな室内には換気扇の音だけが、やけに大きく響いていた。
入口の正面、一番奥にはカウンターが置かれており、そこには常に、眠たげな顔の男が座っていた。濃い眉と目の間が狭く、よくよく見れば精悍な顔付きをしている。しかし奥二重の瞼が半ばまで落ちている為、どこか間が抜けて見えた。まばらに生えた無精髭と、短いとも長いとも言えない中途半端な長さの髪が、更にそれを助長させている。だらしのない男なのだ。
カウンターに頬杖をついて煙草を吹かす藤堂匡は、紛れもなくこの質屋の店主だ。しかし彼には、接客をしようという姿勢が全く見られない。気張っても客は来ないのだから、怠けていても同じだというのが、彼の持論だった。
細くたなびくタバコの煙が、カウンターの真上に設置された換気扇に吸い込まれて行く。それを目で追いながら、藤堂の横に畏まった少女はひっきりなしに薄紅色の唇を動かしていた。
「だから悪霊っていうのは、霊魂が変質したものなの」
彼女は渋い表情の藤堂へ、先ほどからひっきりなしに話しかけていた。物分りの悪い彼にも呆れることなく、根気よく悪霊について説明している。
少女のセーラー服の白い生地と、赤いスカーフの対比が眩しい。彼女を強く印象付けるのは、大きな垂れ目と幅の広い唇。緩やかな曲線を描く頬はばら色に染まり、娘らしさを際立たせていた。
「幽霊に人間だった自覚がなくなると、凶暴化して、形も変わっちゃうの。生前罪を犯した人も、そうなるかな」
「ああ、だからあの婆ちゃんあんなんなってたのか」
納得したような藤堂の声に、知恩院明は深く頷いた。肩の位置で切り揃えられた黒髪が、さらりと流れて元に戻る。
「そう。悪霊に人間だった事を思い出させて罪を理解させて、その罪を浄化するのが私達の仕事。浄霊屋の役目なの」
「それがよく分かんない。悪霊ってのは、体を欲しがるだろ。なんで人間だったこと忘れてんの?」
明は困ったように首を傾けて竦め、藤堂から視線を外した。
「自我が崩壊してるって言えばいいのかな、欲望しかなくなっちゃうんだよ。物欲か食欲に分けられるけど、悪霊の殆どは物を欲しがるタイプなの。でも、霊は無機物に触れないでしょ?」
「それでなんで、人の体なの」
「理由は知らない。悪霊は体を欲しがるの。そういうものなの」
ふうんと鼻を鳴らして、藤堂は煙草を灰皿に押し付けた。興味のなさそうなその素振りに、明は僅かに頬を膨らます。散々説明させておいてこの反応では誰でも怒るだろうが、藤堂は興味がなかった訳でも、聞いていなかった訳でもない。元々、何を言われても薄い反応しか返せないのだ。
明は拗ねたように両手で頬杖をつき、入口へ視線を向ける。疲れきって肩を落とした中年のサラリーマンが、足を引きずるようにして店の前を通り過ぎて行く。繁華街から少し外れたこの辺りは、通行人もまばらだ。
静かなものだ。客は来ないし、電話も鳴らない。客が来ないのは藤堂にとっていつもの事だが、明はそろそろ、こうするのにも飽きて来ているだろう。
浄霊屋を始めて一週間が経つが、明は何だかんだと煩わしい手続きに追われていたようで、店に顔を出したのは今日が初めてだ。藤堂は、明がいない間に依頼人が来たらどう対応すべきかと心配していた。けれど依頼人どころか、質屋の方の客さえ来ないような有り様だった。
茶でも煎れてきてやろうか。藤堂がそう思った時、明が顔を上げて彼に微笑みかけた。見上げてくる大きな目には、既に先程までの不機嫌そうな色がなくなっている。
初めて会った時も思ったが、大人しそうな外見の割には快活な少女だ。秋の空のようにころころ変わる彼女の表情を見ているのも、中々楽しいと藤堂は思う。
「浄霊屋だって、そんなにぽんぽん人が来るようなものじゃないよ。ここは、知名度がないんだから」
果たしてこの娘は心を読めるのかと疑いたくなるような台詞に、藤堂は眉を顰めた。
「なに、いきなり」
「心配そうな顔してたから」
ああ、と呟いて、藤堂は心中、安堵の息を吐いた。当たり前だが、心が読める訳ではなかったらしい。
「優しいね」
藤堂は思わず、どきりとした。それは彼が何度となく、女性から言われてきた言葉だ。普通なら、言われて嫌な気分にはならないだろう。寧ろ喜ぶ筈だ。しかし藤堂は、その言葉を言葉のままの意味で使われた事が殆どない。
あなたは優しいから。それは藤堂にとって、別れの常套句なのだ。あなたは優しすぎて、私には勿体無い。あなたは誰にでも優しいから、やきもきするのに疲れてしまった。
それは全て、別れる際に言われた台詞だ。無論彼女達が真にそう考えていたとは、藤堂は思っていない。そこまで愚かではないし、彼女等が別れを切り出した本当の理由も、藤堂は気付いていた。
要は、藤堂に意思がないのが問題なのだ。甲斐性もない。流されるままぼんやりと生きて、何かを問われれば肯定も否定もせず曖昧に濁し、強く主張する事もない。だから告白されるままに誰かと恋人関係になり、そんな藤堂に嫌気が差した相手の方から、別れを切り出す。そんな付き合いばかりを繰り返して来た。
流されるままに生きる彼を優しいと、彼女達は言った。それは言わば比喩のようなもので、実際そう思っている訳ではなかった筈だ。
しかし負け惜しみではないが、藤堂の方にも、別れる際特に未練などはなかった。元々好きでもないのに、告白されたからという理由だけで付き合っていたのだから、当然ではある。
「……藤堂さん?」
明の怪訝な声に、藤堂は困ったように頭を掻いた。知らず渋い表情になっていたのだろう。明は不安そうな面持ちで、藤堂を見上げている。こういう時、上手い言い訳も思い付かない自分が、歯痒く思えた。
「私、変な事言った?」
「いや、そうじゃなくて……大人の事情っつーかなんつうか」
説明し辛い。大人の事情とは無縁そうな小娘に、説明する気も更々ない。しかし明のことだから、このまま納得の行く答えが出るまで、延々問い詰めてきそうだ。
「済みません」
明が弾かれたように入口を向き、藤堂は視線だけを流した。助かったと、藤堂はそう思う。
「浄霊屋さんは、こちらでしょうか」
申し訳なさそうな声だった。ゆっくりとした足取りでカウンターに近付いて来る女は、藤堂の目には二十代後半に見えたが、女の年齢は見た目だけでは判断出来ない。緩やかにウェーブしたクリーム色の髪と、白いタイトスカートが良く似合っていた。
それにしても奇抜な色の髪というのは、やはり違和感がある。物心ついた時から見慣れているというのに。
「いらっしゃいませ。お掛けになって下さい」
何も言わない藤堂を見かね、明が立ち上がって椅子を勧めた。女はすみませんと小さく言って、キャスター付きの椅子を引く。どことなく落ち着かない明と、座って息を吐いた女性を交互に見ながら、藤堂は首を捻る。
明は慣れているものと思っていた。一人で浄霊屋をやっていたというから、慣れていて当然と考えていた。しかし今の彼女の様子を見る限り、そうでもなさそうだ。
そわそわと落ち着かない明と、依頼人の視線が合った。同時に口を開く二人を見て、藤堂は眉をひそめる。
「知恩院と申します」
「あの、娘が」
声が被った。同時に言葉を止め、二人は気まずそうに俯く。藤堂は溜息を吐きたくなるのを堪えて、姿勢を正した。
「あー……藤堂です。まずはお名前を」
藤堂が聞き直すと、女はおずおずと顔を上げて彼を見た。垂れ下がった眉尻を見て、幸薄そうな女だと藤堂は思う。
「黒江愛と申します……その、娘が……」
愛はそこで、言葉を詰まらせた。見る見るうちに涙ぐむ依頼人に、明は痛ましげに眉根を寄せる。
しかし藤堂は、一気に白けた。彼は誰かが泣くのを見ると一歩引いてしまうタチで、貰い泣きとは縁がない。振られるのは得意だが、泣かれるのは苦手なのだ。
茶でも煎れに引っ込んでしまおうかと思ったが、愛が涙声で言葉を続けてしまったので、そうも行かなかった。藤堂は心持ち居住まいを正し、表情を引き締める。
「娘が……悪霊に取り憑かれてしまって。毎日部屋に閉じこもって出て来てはくれないし、家族を見て暴れ出す始末で……もう、どうしたらいいのか……」
鞄から取り出したハンカチで目元を抑えながら、愛は搾り出すように悲痛な声を漏らす。明は労るような手つきで、愛の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫ですよ、黒江さん。お嬢さんは、私達が必ず、救って見せます」
「知恩院さん……」
目尻に涙を溜め、愛は縋るような目で明を見詰めた。それに応えるように、明は大きく頷いて見せる。
歯の浮くような台詞だと考えながら、藤堂は引いた目で二人を見ていた。藤堂はお涙頂戴のチープな劇を厭う。しかも訪ねて来て早々これでは、彼でなくとも引いてしまうだろう。明のように依頼人に同情出来れば良かったのだが、無条件に感情移入出来るほど、藤堂は若くない。己の順応性の低さが恨めしかった。
藤堂は流されるまま浄霊屋となった事を、今更ながら後悔する。考えてみれば、藤堂自身には何もするべき事がないのだ。出来る事といえば、守護霊を貸し出す事だけだろう。しかし依頼人が来てしまった後では、やっぱりやめると言う訳にも行かない。
「まずはお嬢さんの状態を確認しに、一度伺いたいと思います。ご希望のお日にちは?」
「はい、ええと……」
愛が鞄から取り出した携帯電話を開いた所で、藤堂は依頼受付用紙があった事を思い出した。話を聞くだけでは忘れるからと、明が用意してきたものだ。記入を促さなかった所を見ると、忘れているのだろう。
何やら前途多難だ。しかし呆れている訳にも行かない。
「こちらに、ご記入頂けますか」
藤堂はカウンターの隅に置かれた用紙にペンを乗せて、愛の前に差し出した。それを見て、明がしまったというような顔をする。頷いて記入を始めた愛と藤堂を交互に見比べた後、明は藤堂に向かってぺろりと舌を出す。
依頼人に気付かれないように溜息を吐いた藤堂はふと、憑いた霊をどうやって浄化するのだろうと考える。断らなかったから出来るのだろうが、まさか憑かれた人間ごとあの刀を刺すのだろうか。流石にそれは両親の精神衛生上、良くないような気もする。
少女が書くような丸文字で用紙を埋めた愛は、明の方にそれを差し出した。明はそれを受け取って確認すると、小さく頷く。
「……確かに。当日また、こちらの番号にご連絡します」
顔を上げた明が微笑んでみせると、愛はほっとしたように表情を緩めた。
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げ、愛は席を立つ。物腰の柔らかな女だが、藤堂には、どこか陰があるように見えた。
明は愛の背中に向かって、ありがとうございました、と声を掛けた。依頼人が店内から出て行ったのを確認して、藤堂は煙草に火を点ける。
「依頼料の話は、しなくていいのか?」
肩の力を抜くついでに全身から脱力した明は、藤堂に向き直って僅かに唇を尖らせる。
「お金の話は、被害者の状態を確認してから。話だけじゃ、どれだけもらったらいいか分からないじゃない」
「ああ……そりゃそうか」
気のない藤堂の声に、明は少し膨れた。
「忘れたと思ったんでしょ」
拗ねたようにそっぽを向いた明は、カウンターに両手で頬杖をついた。藤堂は確かにそう考えていたが、果たして拗ねるような事だろうかと疑問に思う。
「仕方ないじゃない。私今までお客さんとは、メールか電話でしかやり取りしなかったんだから」
藤堂は煙を吐き出しながらくぐもった声で、ああ、と呟いた。だからぎこちなかったのか、と納得する。客と面と向かって話す機会が少なかったのであれば、対応が不自然なのも仕方のない事だろう。それより未だに接客に慣れない藤堂の方が問題だ。
下らない事で拗ねる辺りは、子供らしい。子供と言っていいような年齢でもないのだろうが、藤堂はそれで幾分、安心した。何しろ大人びた娘だから、年上の威厳が、などと下らない事を考えていたのだ。
藤堂はふてくされた明の頭に掌を置いて、宥めるように軽く叩いてやる。明は一瞬驚いたように藤堂を見上げたが、少し笑って、カウンターに視線を落とした。