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透明なひと  作者:
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エピローグ

 繁華街から少し逸れた裏道に、薄汚れたビルがある。周辺に建ち並ぶペンシルビルよりは幾分大きく見えるが、所詮は旧世代の遺物だ。その時代遅れで古ぼけた外観を嫌って、テナントもなかなか入らない。

 ビルの一階には、大手除霊屋の支店が入っている。ここはつい一年ほど前まで質屋を営んでいたのだが、ある日突然、浄霊屋を始めた。そこまでは、よくある話だ。問題はこのしがない除霊屋が、大手除霊屋に吸収合併されたこと。

 鳳コーポレーション東京東第六支店と名を改めたこの事務所は、三人の従業員と、一人の霊媒師見習いが切り盛りしている。ここのメンバーはそれぞれそれなりのポストに就いている上、個々の実力も他支店の支店長をも凌ぐのだが、会社側は彼らを他の支店へ割り振ろうとはしなかった。

 シャッターが閉められている為、事務所内の様子を窺う事は出来ない。しかし物珍しそうに、店内を覗こうと試みる通行人の姿が、時折目に付く。平日の昼間に退治屋が閉まっている事も、そうそうない。

 この店の従業員達は、全員店の奥にある居住スペースに引っ込んでいた。1DKの、狭い家だ。主にはそれなりに愛着もあったのだが、彼は最近ようやく、ここも事務所として使う決意を固めた。金銭面に余裕が出来た事もあるが、自宅として使うには、手狭になってしまったのだ。

「ウチの坊主にも、こんな頃があったよ」

 鹿倉清澄は細い目を更に細めて、懐かしそうに呟いた。丸い背中を更に丸くして、彼は床に直接胡坐をかいている。

「触ったら弾けちまいそうでさ、怖かったなァ」

「妙な事言うなよ」

 迷惑そうにぼやいて、藤堂匡は腕に抱いた我が子を鹿倉から遠ざける。社長直々に支店長を任された彼の顎には、結婚した頃には確かになかった筈の無精髭が、また生え始めていた。

 鹿倉は悲しそうに太い眉を下げて、洗い物をする少女を見上げる。

「ゆなちゃん、ちょっとコイツに何か言ってやってよ。俺三万も包んだんだぜ」

 黒江ゆなは肩越しに振り返って、渋い顔をした。あどけなさを残した顔に浮かぶ表情の機微は、付き合いの長い者にしか見て取ることが出来ない。

「三人の諭吉がどうしたというのです。お子様にはお金で買えない価値があるのです。幸せはプライスレス」

「こんな時にお金の事なんて、口に出すものじゃありませんわ」

 高屋敷渚は小馬鹿にするように鼻を鳴らし、そう言ってのけた。彼女の父親は一日にして大企業の社長へとのし上がり、彼女自身、業務執行取締役というポストに就いた。しかし彼女がそれを鼻にかける事はない。

 元々お嬢様育ちだったから、今更という感もある。威張るどころか、月一度の取締役会に出席するのが面倒なのだと漏らしていた。渚は体力がない割に、現場仕事が好きなのだ。

 ゆなと渚に揃って突っぱねられ、鹿倉はがっくりと肩を落とした。藤堂が鼻で笑う。その手はしっかりと、赤ん坊の小さな手を握っていた。渚の手が子供に伸び、指先で赤い頬をつつく。むずかるようにもごもごと口を動かした赤ん坊を見て、渚は嬉しそうに笑った。

 つい昨日病院から帰ってきた藤堂芹香は、変わらない様子に安堵していた。この浄霊屋事務所が鳳コーポレーションに吸収合併され、彼女も業務部の部長に就任したのだが、本社に異動になることはなかった。高屋敷社長は自由だ。更に就任してすぐ産休に入ってしまったから、仕事と呼べるような仕事も碌にしていない。

 心苦しくはあったが、事務所のメンバーに変わりがないことを、芹香は嬉しく思う。

 帰宅したばかりなのだから少し休ませろと藤堂は言ったのだが、結局三人とも待ちきれなかったようで、こうして訪ねて来てしまった。ただ来るだけなら、藤堂も追い返していただろう。

 しかしゆなと渚は昼飯を作ると言って聞かなかったし、鹿倉には玄関で駄々をこねられ続け、結局折れた。更に早く芹香に会いたいと言われては、藤堂も無碍には出来なかったようだ。

「さあて」

 言いながら手を拭いたゆなは、渚の反対側へ座り込んで身を乗り出した。目を輝かせながら赤ん坊の顔を覗き込むゆなの姿が、芹香には微笑ましく感じられた。

「ふにゃふにゃですな」

 ゆなは声をひそめてそう呟く。渚は口をつぐんだまま、小さく頷いた。

「鼻からスイカを出す感じだと、母上様が言っておられました」

 ゆなは大きな目で、芹香を見上げた。芹香は少し眉根を寄せ、顎に指先を当てる。ゆな自身変だが、彼女の母親もまた、たまに変な事を言う。

「スイカを鼻から出した事がないから分からん」

「そういう事聞いてんじゃないから」

 鹿倉が、豪快な笑い声を上げた。彼は既に子供がいるから、他より幾分落ち着いている。旦那など今は普段通りだが、子供を見た瞬間硬直していた。あれは恐らく、呼吸もしていなかっただろう。

「……魂を出されかけた時の方が痛かった」

 顎に手を当てたままそう言うと、藤堂は眉間に皺を寄せた。彼も、思い出したくはなかっただろう。けれどなかった事にするのも良くないと、芹香は思っている。

「アレ、そんな痛いの?」

「気持ちの問題だ」

 ううむ、とゆなが唸った。藤堂は例えようのない複雑な表情で、子供を見つめている。

 この小さな生き物を守ってやれるのかと、芹香は不安にもなった。けれど今は一人ではないから、なんとかなるだろうという気はしている。旦那はこう見えて器用だから、自分が何も出来なくとも、きっと支えてくれる。

 そうでなくとも、こうして肩が触れているだけで嬉しいと、芹香は思う。何も不安がる事はない。今はこんなにも、幸せなのだから。

「メイが、おめでとうってよ」

 僅かに沈黙が続いた後、藤堂は唐突にそう言った。守護霊の声は守護される側の人間と、霊以外には聞こえない。

 藤堂の肩口から顔を出した明が、芹香に向かってにっこりと笑いかけた。彼女の表情も、どこか幸せそうに見える。明が守護霊になったと血縁者に報告しに行った時も、彼女は今日と同じように、幸せそうに微笑んでいた。

 何を幸せと思うかは、人それぞれ違う。他人の物差しで、人の幸せは測れない。明はこうして藤堂の守護霊となって、友人達といられる事が、幸せなのかも知れない。

「メイも、嬉しそうだな」

「お前が帰ってきてから、ずっと浮かれっぱなし」

「あなたが浮かれていたのが、明さんにも伝わったのではなくて?」

 藤堂は少し笑って、そうかもね、と呟いた。

「祐子お姉さんは、いつ頃来られるのですか?」

「さあ。時間が空いたら、彼氏と来るっつってたけど」

 彼氏と、という辺りが祐子らしい。知らず口元を緩めていた芹香の頬を、旦那がつついた。

「ニヤニヤしちゃって」

「ニヤニヤしているのはそっちだろう」

「二人共幸せそうで、何よりだよ」

 鹿倉がそう言ってからかった時、チャイムが鳴った。芹香は応対しようと腰を上げたが、渚に制されてその場に留まる。昨日も旦那に、何もするなと怒られたのを思い出す。二人共、過保護なのだ。

 渚がドアの鍵を開けた瞬間、新藤祐子が飛び込んできた。スーツ姿ではあるが、相変わらず盛大に胸元を開けている。藤堂があからさまに嫌な顔をした。

「ヤダ、もう皆いるのね。ちょっとは遠慮しなさいよ」

 本社勤めにはなったが、彼女は退治課の課長として、相変わらず霊喰いと共に奔走している。今日もスーツ姿でいるから仕事中なのだろうが、まさか抜け出して来たのだろうかと、芹香は訝る。

「あんたもな」

「あらちっちゃい、ちょっと抱かせて……あ、これ出産祝い。おめでとう」

「忙しいなあんた」

 祝儀袋を押し付けて早々藤堂の手から赤ん坊を取り上げた祐子は、嬉しそうに笑みを浮かべた。渚が呆れた表情で、そんな祐子を見ている。

 開いた扉から、恐る恐る顔を出す青年が目に入った。つい最近祐子と付き合い始めた彼は、常に一歩引いた位置から彼女を見ている。そういう形もあるのかも知れないと、芹香は感慨深く思う。

「鴻さん、どうぞ」

 芹香が声を掛けると、鴻清十郎は頭を下げながらようやく上がってきた。渚はドアを閉めて、元通り施錠する。曲がりなりにも元社長である彼は、高屋敷現社長の計らいで、専務取締役に就任した。色々問題もあったようだが、芹香は詳しく聞いてはいない。

「おめでとうございます、藤堂君」

 鴻に、お咎めはなかった。証拠が何一つない事が主だった要因だが、本人の真摯な態度も手伝った事と思われる。

 彼は暫く引き継ぎや後処理で忙しかったようで、謝罪に来たのはつい二ヶ月ほど前の事だ。事務所へ来るなり額で地を擦らんばかりに土下座して見せた彼を、責める気は起きなかった。

 それよりも、一緒に訪ねてきた祐子に散々怒られたのだと言っていたから、寧ろ同情した程だ。祐子に怒られるのは、芹香も怖い。

 藤堂は曖昧に笑って、頷いた。受け取った祝儀袋を持って立ち上がり、彼は一旦寝室へ向かう。

「ホラちょっと清ちゃん見てよ、顔真っ赤よ真っ赤。だから赤ちゃんていうのね」

「うん、可愛いね」

 祐子と鴻が付き合っているとの報告を受けたのは、病院のベッドの上だった。告げた旦那も動揺していたが、芹香は更に動揺した。驚きすぎて産気づいてしまった程に。

 祐子に促されるまま子供の顔を覗き込んだ鴻は、あどけない寝顔を見て柔和に微笑んだ。穏やかな彼の表情に、芹香は安堵する。彼も今はきっと、幸せなのだろう。

「いいなあ、子供欲しいなあ」

「そうだね、いいね」

「あんたらまだ結婚もしてねえだろ」

 出産祝いを置いて戻ってきた藤堂は、溜息混じりにぼやいた。

「鴻さんは、尻に敷かれそうですな」

「ちげえねえ」

 鹿倉はたっぷりと髭を蓄えた顎を撫で、愉快そうに笑う。彼はたまたま謝罪に来た鴻と祐子に出くわし、その場で仲良くなってしまった。祐子も鹿倉も軽い性格だから、馬が合ったのだろう。

「祐子に引っ張って行って貰えば、私は間違えずに済みますから」

「祐子さんは間違いだらけだけどな」

「アタシがいつ間違ったって言うのよ。正しい事しか言わないじゃない」

 藤堂は軽く肩を竦め、芹香の隣へ腰を下ろした。祐子と言い合うのは避けたいようだが、その割には逐一突っかかる。

 彼はあまりにも不器用だ。手先は器用な方なのだろうが、彼の行動も言動も、全てが裏目に出る。かと思えば勘が良かったり、妙な所で鈍かったりもする。そんなムラのある性格が、正直者と評される原因なのかも知れない。

 実際藤堂は真っ直ぐなのだと、芹香は思っている。口を利くのが苦手な分、彼の言葉に嘘はないし、間違いもない。芹香は元々良く喋る男を厭う。

 藤堂本人は人と向き合う事に苦手意識を持っているようだが、その実、向き合いたいと考えているようにも見える。そんな拗ねたような性格が徐々に変わって行くのを見るのが、楽しかった。隣で見ていたいと、そう思った。

 けれど彼を好きになったきっかけは、今でも曖昧だ。きっかけというなら、彼の最初の言動がそうだったように思う。彼は誰もが知る有名人と接触して開口一番、あんたは退治屋かと聞いた。

 あの時芹香は、多少なりとも驚いた。驕っていた訳ではないが、自分を知らない人間など、それまで会った事がなかった。

 同時に、嬉しかった。既成概念がなければ、穿った目で見られないで済む。冷たい女だと言われるのにも、黄色い声を上げられる事にも、正直なところ、辟易していた。

 彼が自分のどこを見て好きだと言ったのか、聞いた事はない。仮に祐子が言う通りの理由だとしても、それでも別に構いはしない。今はただ、幸せだった。

「おや」

 大人達が下らない雑談に興じている間に、息子は腹を空かせたようで、火がついたように泣き始めた。ゆなが祐子の腕の中で泣く子供を見て呟き、芹香を見る。

「ゴメンねー。お姉さんはおっぱい出ないのよー」

「大きさ的に出そうだけどな」

 鹿倉が呟くと祐子は快活に笑い、手を出した芹香に赤ん坊を渡す。しかしのっそりと立ち上がる藤堂に気付くと、首を捻った。

「なんであんたも行くのよ」

 祐子を視線だけで見下ろした彼は、芹香を指差した。

「こいつが壊滅的に不器用なの知ってんだろ」

「ああ、一人で授乳出来ないのね」

「悪かったな」

 事実だが、改めて言われると些か不愉快だった。芹香は眉間に皺を寄せて祐子を睨んだが、彼女は既に藤堂を見ていた。

「男の子は大変よ、胸萎むわよ。ねえ藤堂君」

「知らねえよ。萎んでも困らねえよ」

 祐子は目を丸くして、まじまじと藤堂を見た。芹香も思わず、寝室に向けかけていた足を止める。

「……困らないのか?」

 しかめた顔が、芹香に向けられた。

「なんで困るの」

 意外な返答だった。彼が自分の胸ばかり見ていたのには気付いていたから、困るものとばかり思っていた。

「芹香さんがゆなのような洗濯板になっても、困らないのですか」

「流石にそこまでは萎まないわよ」

 旦那が安堵の息を吐いたのは、この際見なかった事にした。芹香もなんとなく、安心してしまう。萎む萎まないは別として。

「もううるせえからお前ら帰れ。出産祝いごちそうさん」

「アタシまだ帰らないわよ。渚ちゃんの夕飯ごちそうになるまで帰らない」

「祐子さんはお仕事なさって下さいな」

 呆れた渚の声を背中で聞きながら、芹香は寝室に入って扉を閉めた。畳に腰を下ろすと、手足をしきりに動かしていた子供が、少し落ち着く。あどけない泣き声に、胸がじんと痛む。

「ブッサイク」

 据わらない頭を掌で支えながら、藤堂が呟く。

「赤ん坊は皆こんな顔だ。顔がしっかりしてきたら、あなたよりいい男になるさ。なあ晃太」

 子供の丸い額には、薄いほくろがあった。あの少年と同じ位置、同じ位の大きさの、ほくろ。これを見た時、コウが自己主張しているのだと、旦那は笑った。

 命は尊い。まだ生きる意味に疑問を持つことすら知らない幼子が、生きようと懸命に乳を吸う姿を見る度に、そう思う。下手な理由を付ける事が馬鹿馬鹿しく感じられるほど、この小さな命を大事に思う。

 普通に結婚し、普通に子供を育む。これが夢だったと言ったら、旦那は笑うだろうか。笑われても構わない。続いて行く命の連鎖を、受け継がれる心を、今は大切に守りたい。

 そして我が子を優しい目で見守る旦那が、何よりも愛しい。ふと上げられた視線と目が合うと、お互いなんとなく笑った。額と額を軽くぶつけ、痛いと呟く。

 腕に我が子の重みを、額に愛しい人の温もりを感じる。深い安らぎの中、芹香はそっと、目を閉じた。

これにて完結です。

ここまでお読み下さった方、誠にありがとうございました。

サイトの方に下らないあとがきを載せておりますので、暇で暇で仕方のない方はhttp://uonomex.sakura.ne.jp/toumei0.htmlへどうぞ。


2010/10/17:とんでもない間違いに気付いたので修正ついでに加筆。

それでは改めて、ありがとうございました。

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