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透明なひと  作者:
74/75

第八章 生を知る 十

「聞いてませんわ!」

 渚の金切り声が、狭い室内に響き渡った。藤堂は換気扇の下で煙草を吹かしながら、あからさまに顔をしかめる。彼の隣に立っていたゆなも、両手で耳を塞いだ。

「だって、渚ちゃんが言ったんじゃないの?」

 祐子は困ったように頬に手を当て、溜息混じりに聞き返した。その隣で、乃木坂が小さくなっている。激昂する渚が、怖いのかも知れない。芹香は会話には入らず、疲れた顔で傍観していた。

 長い一日が終わった翌日、祐子は約束通り事務所へとやってきた。何故か菓子折りを持った乃木坂が一緒に訪ねて来たので、困り果てた挙げ句にまた店を閉め、藤堂の家に引っ込んで今に至る。

「私は鳳コーポレーションを買い取れなんて、一言も言ってませんわ!」

 渚が更に怒鳴ると、流石の祐子も閉口して、困ったように眉根を寄せた。

「株を全部買い占めただけで、会社自体を買い取ったワケじゃ……」

「同じ事だろう」

 芹香が冷ややかに突っ込むと、祐子は唸った。乃木坂はまたもや萎縮して、ハンカチで額を拭う。小心というよりは、女に囲まれて戸惑っているだけだろう。

 テーブルを叩いた姿勢のまま祐子を睨んでいた渚は、深い溜息を吐いて座り直した。勝手に持ってきて、勝手に自分専用にしたクッションを抱え、彼女は僅かに柳眉を歪める。

「もういいわ、後でお父様を問い詰めます」

「そ、そうしてちょうだい」

 祐子はようやく渚から解放され、安堵の息を吐いた。

「それで……祐子さん、あなたはどうして警察に?」

 聞いてから渚は、ゆなが出した麦茶を一口飲んだ。あれだけ怒鳴れば喉も渇くだろう。

「ぶちょ……じゃなくて、警部に誘われたのよ」

「誘われてホイホイ入れるのかよ、警察ってのは」

 藤堂が横から口を出すと、祐子は彼を見上げて睨んだ。余計な口を挟むなと言いたいのだろうが、黙っていたら黙っていたで、何か言えと言うのだから対応に困る。だからといって、逐一揶揄する必要もないのだが。

「失礼ね、アタシは警官じゃないわよ。協力してただけ」

「新藤君は異例ですよ。十年程前から、警察の方が内部に潜り込んでいたのです。社長のやり方に疑問を持った、中立派社員の告発を受けてね」

 ふうん、とゆなが鼻白んだ。

「十年もかけたのに、警察には何も出来なかったという訳ですな。とんだ国家権力なのです」

「税金返せよ泥棒」

「話が進まないからあんた達は黙ってなさい」

 祐子に怒られ、藤堂はゆなと顔を見合わせて肩を竦めた。乃木坂はまた、額の汗を拭う。やっぱり、存外気が小さいようだ。大人数を連れて乗り込んで来た時は、威勢が良かったように記憶しているのだが。

「中立派の中には、そんな捜査員が何人かいたワケよ。でも、社長もバカじゃないでしょ。なかなかボロ出さなかったみたいでさ」

「気付いておられたのか、そうでなかったのか……話だけはされましたが、現場に連れて行かれたのは、新藤君だけでした」

「ポチを芹香に消されちゃったから、あの穴から引っ張り出してくれたのよ」

 藤堂は濡れたシンクに押し付けて煙草の火を消しながら、怪訝に眉根を寄せた。

「……それって辞めた後じゃないの?」

 祐子は藤堂に向かって頷き、鞄からビニール製のポーチを取り出した。その中から出て来た煙草を見て、藤堂は彼女に灰皿を差し出す。

「吸うならこっち来て」

「なんでよ」

「いいから」

 ふうん、と鼻を鳴らして、祐子は煙草をしまった。立ち上がるのが億劫だったのかも知れない。

「……まあ、辞めた後よ、アタシが初めてあの屋敷に行ったのは。社長に戻ってきてくれって言われて、会社に戻ったの」

「あなたは、元は社長秘書だったな」

 思い返してみれば、確かに祐子は退治屋を辞めることを決めた時、OLに戻ると言っていた。

「そ、気に入られてたのよこれでも。だから簡単に執行部に異動させてくれたし……まあそれはいいんだけど」

 祐子は一つ咳払いして、横の乃木坂を見た。

「一度辞めて屋敷を見た後よ、警部から話が出たのは。いいタイミングだったわね」

「君はアレだが、あの霊食いは使えるからな。生身の人間を生かしたまま捕縛出来るという点では、うってつけだ」

「アタシがアレってどれよ」

 乃木坂は祐子から視線を逸らし、助けを求めるように藤堂を見た。藤堂は彼を無視して、煙草に火を点ける。助けようにも、藤堂自身祐子には弱い。

 実際祐子も、何がしたいのかよく分からない。明と一悶着起こしたから、罪悪感はあったのだろうが。

「社長の処分は、どうなる?」

 芹香が聞くと、祐子は乃木坂に目配せした。彼は懐から携帯電話を取り出し、パネルを操作する。眼鏡を指先で押し上げながら、乃木坂は芹香に向き直った。

「全て自供していますね。詳しくはお伝え出来ませんが、ああいった今までにない事件を裁けるほど、体制が整っていないのが現状です。物的証拠は何一つありませんし、会社も他人の手に渡っています。ここから先は弁護士次第ですが……恐らくは、法的措置は取られないかと」

「情状酌量の余地があるしね。洗いざらい自白したのも、良かったかも」

「情状酌量?」

 渚の問いには、乃木坂が答えた。

「鴻清十郎の両親は、彼がまだ幼い頃に亡くなっています。それからは、使用人に育てられたそうです」

「それでは、色々と分かっておられないのも頷けますな」

 ゆなは冷凍庫から棒アイスを取り出しながら、納得したように呟いた。

「会社の経営は、社長が成人するまで父に一任されていた」

 芹香の言葉に、え、と渚が問い返した。乃木坂が頷く。

「鴻は、焦ったのでしょうね。過激派連中に、堤さんを……」

「あの人ね、最初はあんたのお父さんの魂、使うつもりだったらしいのよ」

 芹香が俯いたのを見て祐子が話をすり替えたが、彼女は益々深くうなだれた。藤堂は些か呆れる。口が達者なのはいいが、祐子は常に一言多い。

 困惑したような芹香の表情に、祐子は慌てて再び口を開いた。藤堂はこれ以上余計な事は言わないでくれと、祈るように思う。

「協力してくれると、思ってたらしいの。あんたも堤常務も。あの人は死ぬ事が幸せだと思ってたから……」

「本当に、悪い事とは思っていらっしゃらなかったのね」

 死を悲しめない事が、引き金になったのかも知れない。鴻は焦り、芹香に協力を求めた。しかし本当にそれだけだったのか、疑問に思えど藤堂には知る由もない。

 それでも、それだけだったとは思えない。鴻は堤の死を、悲しんだのではないだろうか。堤の死と、主を浄化した時期が重なったのは、紛れもなく偶然だったのだ。それまで鴻は、何一つ大きな行動を起こさなかったはずだ。堤の死に動揺し、事を急いでしまったのではないだろうか。

 そして彼は、疑問を持ったのではないだろうか。堤の死に動揺した自分に。死が幸福ではないのではないかという、疑問を持った事に対しても。だからあの時藤堂の言葉を聞いて、落ち着いたのではないだろうか。

 こればかりは、本人にさえ分からない事なのかも知れないが。

「幸せにしたい、か」

 祐子はぽつりと呟いた。そして何故か藤堂を見る。思わず視線を逸らした先に、俯く芹香が見えた。

 藤堂は昨夜、一晩中考えていた。その日起きたことを思い返している内に、疑問が浮かび上がってきたからだ。悩むのに疲れた時、あっさりと明が真実を告げた。あの時コウが消えた理由を。

 薄々感づいてはいた。実感が湧かなかっただけだ。

「まあ、また何かあったら来るわ。会社行って、色々処理しないと。かなり社員が減っちゃったから」

「残ったのは中立派の半分と僅かな穏健派、過激派の末端……あとは事務員か。何にせよ、会社の方は高屋敷氏任せだな」

「あ、そうだ」

 藤堂の声に、立ち上がりかけていた祐子が再び腰を下ろした。迷惑そうな表情だが、元はといえば、社内のいざこざに巻き込まれたのはこちらだ。迷惑がられる筋合いはない。

「鴻が過激派連中を追い出さなかった理由、聞いた?」

 祐子は不思議そうに首を捻ったが、居住まいを正して、藤堂に顔だけを向けた。

「芹香から聞かなかった? 過激派って、上の方だけは金目当ての業突張りだったんだけど、末端は違うのよ」

「霊に恨み持ってるんだっけ?」

「そうそう。中立派の人達も、大体そうだったみたい。皆、霊に誰かを殺されて、恨みを晴らす為に退治屋になったの……アタシも半分そうだけど」

 祐子はそこで言葉を止めて、グラスに残った麦茶を飲み干した。アイスをかじりながら、ゆなが首を傾げる。

「悪霊に魂食べられると、消滅しちゃうでしょ? だから中立派は、社長に常夜から霊を引っ張り出してもらって、最後に話がしたいって人達だったのよ。社長の目的は違ったけど」

「引っ張り出せなかったのか?」

「出せるわよ、霊操れるんだから。だから社長に逆らえなかったんじゃない、中立派の人たち。恩があるから。アタシは彼氏に引け目があったから、やってもらわなかったけど」

 ふと、祐子は芹香へ視線を移した。芹香は何も言わずに、ただ俯いている。思案するような表情だった。

「……社長のご両親、つまり先代ね。こっちもそうだったの。悪霊に食われて、常夜に行った」

「自分と似たような境遇の方々を、無闇に排斥出来なかったのですわね」

 渚が納得したように言うと、祐子は頷いた。そして彼女から視線を外し、肩を竦める。

「まあ実際聞いたワケじゃないから、分かんないけどね。波風立てたくなかっただけかもだし」

「過激派と穏健派の抗争に世間の目を向けさせる為に、過激派を残しておいた可能性もありますが」

 渚と祐子から同時に睨まれ、乃木坂は身を硬くした。藤堂は思わず噴き出す。嫌味のような発言をする割に、気が小さいようだ。

「じゃ、今度こそ帰るわ。またね」

「この度は、大変ご迷惑を……」

「ああもうこんな時間! 行きましょ警部!」

 祐子の声につられて時計を見ると、時刻は三時を回っていた。この時間では、今日も休みにするしかないだろう。発言を遮られた乃木坂は、祐子に腕を掴まれて立たされる。傍目には、この二人の上下関係がよく分からない。

 乃木坂を引っ張って出て行く祐子の背を見送った後、ゆなが食べ終わったアイスの棒を、藤堂の目の前に突き出した。棒には焼き印が捺されている。

「アタリなのです」

「そうかい。レシートやるから交換して帰れ」

 ゆなは不満そうに顔をしかめて、棒をかじった。渚が携帯電話を握りしめたまま、おもむろに立ち上がる。

「お休みにするなら、私はお父様の所に行って参りますけど」

「抗議なりなんなりして来い。ついでに、ゆなも連れて……痛っ」

 耳を引っ張られて手の主を見ると、案の定ゆなだった。帰らないとでも言い出すのではないかという懸念が、脳裏をよぎる。しかしゆなは、耳を引っ張られた拍子に屈んだ藤堂の耳元に顔を寄せ、にやりと笑う。

「報告は、真っ先にゆなにして下さい」

 藤堂は一瞬、固まった。渚も含み笑いしている。何故に女というのは、こういう時ばかり勘がいいのだろう。

 気付いてもらえるに越した事はない。無理に追い出して、気まずい思いをするよりはましだ。けれどこちらにも、心の準備というものがある。決心する前に焚き付けられてしまっては、言えるものも言えない。

「明日はちゃんと、仕事しなければなりませんな」

「藤堂が浮かれていなければね」

 ぐう、と唸って、藤堂は二人を睨んだ。妙に楽しそうな彼女達は、睨まれても動じる事なく、にやにやと笑みを浮かべている。藤堂は虫でも追い払うように、手を振った。

「あーうるせえ、お前らさっさと帰れ」

 藤堂のその態度に怒るでもなく、ゆなと渚は顔を見合わせて、小鳥がさえずるように笑う。箸を転がしても可笑しい年頃とは、よく言ったものだ。二人はこちらに向かって手を振りながら、跳ねるように家を出て行った。

 残された芹香は、手を振って二人を見送った後、藤堂を見上げた。藤堂は思わず、身を硬くする。

「私に言うことがあるんじゃないのか?」

 こっちもかと、藤堂は心中溜息を吐いた。普段は藤堂と張るほど鈍いのに、こういう時だけはやけに聡い。特に最近は、その傾向が益々顕著だ。

 彼女は、理解してきたのかも知れない。藤堂は無闇にものを言わない代わりに顔に出るから、読めるようになったのだろう。

「ちょっと、出ようか」

 芹香は頷いて、立ち上がった。


 店から車で、二十分ほど走っただろうか。行く手には、水平線が見える。まだ日は高いが平日ということもあってか、道路を走っている車は少ない。霊の活動が活発化する盆の時期は、彼らが集まる水辺は危ないから、無闇に海へ行ったりする者もいないだろう。

 けれど藤堂は、ここがいいと、何故かそう思った。後ろにいる明のせいかも知れない。それは少々癪に障るし、そもそもこの場所自体人目がない訳でもなかったが、狭い家の中でムードもへったくれもないよりは、幾らかマシだ。

 ガードレールに車を寄せて停め、藤堂は車外へ出た。磯の香りが鼻腔を擽り、波の音が郷愁を感じさせる。海などついこの間見たばかりなのだが、今日ばかりは、全てが新鮮に見えた。太陽の光を反射して煌めく水面が眩しく、藤堂は目を細める。

「何故、ここなんだ」

 湿り気を帯びた潮風が、彼女の髪をなびかせた。水面と同じく、その銀色も眩しいほどに輝いている。

「メイに、ここで口説かれた」

 芹香は一瞬驚いたように目を丸くしたが、言葉の意味を理解したのか、すぐに笑った。

「浄霊屋をやろう、か?」

「よく分かったね」

 低い堤防に腰を下ろし、藤堂は煙草に火を点ける。あの日もこんなふうに、海に背を向けて明と話した。あの時はまさかこんな事になるとは、思ってもみなかったが。

 思えば明よりも、芹香と出会った方が先だった。あの時の事が、何十年の前のことのように思える。出会ってから、そう時間は経っていないというのに。

「大体分かる。あなたの事なら」

 芹香はガードレールに凭れて、海を見ていた。正面から少し逸れた位置にいる彼女の顔が、眩しくて見られなかった。

 彼女を、真っ直ぐに見られなかった時期もあった。目を逸らさないと決めて早々、つい昨日、彼女から目を逸らした。もう、あんな思いはしたくない。

 そんなふうに考えられるようになったのも、きっと、明のお陰だ。振り回されてはきたが、彼女のひたむきな姿勢が、藤堂を変えてくれた。大人になってしまった彼が変わるには、明ぐらい強引に引っ張ってくれる方が、丁度良かったのだろう。

「メイが、刀使ってくれってよ」

 驚いたように藤堂を見上げ、芹香は二三度大きく瞬きした。

「私が? ゆなじゃないのか?」

「ゆなには持てねえだろ、あんな重い刀。渚もな」

 芹香は思案するように視線を落とした。無言の間など普段は全く気にならないのだが、今日はやけに気にしてしまう。波の音が、煩わしくさえ思えた。

「……お前が入ってから、どのぐらいだっけ」

 視線を落としたまま、芹香は僅かに首を捻った。

「覚えていないな。随分経ったような気もするが、今まで短かったようにも思う」

「不思議なモンだな。コウは腹ん中入っちまうし」

「気付いていたのか」

 藤堂は緩く、左右に首を振った。

「メイから聞いた」

 あの時堤が取り出したのは、胎児の魂だった。胎児と言うほど成長はしていなかったのだろうが、代わりにコウが入ったのだと、明は言っていた。

 母親の腹の中で死んだ子供に、他の魂が入る事は、稀にある事だという。その殆どは気付かれないまま終わるが、ごく少数は、生前の記憶の断片を残したまま産まれる。前世の記憶を残して産まれた子供というのが、大体これに当たる。

 無論魂が違っても、血は繋がっている。腹の子はコウであり、藤堂の子でもある。明から聞いた時は複雑だったが、一晩経った今では、それもまた喜ばしい事だと思えた。

「アイツらと一緒だから、寂しくないよな」

 芹香は黙って頷いた。藤堂は携帯灰皿に煙草を押し付けて、火を消す。

 守護霊達の力が弱くなっていたのは、コウが運命を予知していたからなのだと、明は言った。妙に芹香に懐いていたのも、そう考えれば説明がつく。藤堂を行かせまいとしていたのは、彼が後悔して傷つくと思ったから、なのだろう。

「お前、鴻の事、好きだったの?」

 無言の間が嫌でそう問いかけると、芹香は小さく笑った。

「小学生の頃にな。あの頃はよく、父に連れられて家に来ていた。兄のように思っていたよ」

 やっと、胸のつかえが取れたような気がした。藤堂は自分が馬鹿馬鹿しく思えて、力なく笑う。思えば、下らない事を気にしていたものだ。

「結婚しよう」

 芹香があからさまに顔をしかめた。藤堂は返事を待たずに苦笑いを浮かべ、灰皿をしまうついでに取り出した指輪を差し出す。透明な石の嵌った、銀色の指輪だった。

「随分なタイミングだな」

「生まれつき間が悪いの」

「なんだそれは」

 差し出された掌に指輪を乗せ、藤堂は素っ気なく答えた。銀色に輝く輪を摘んで、芹香はそれを目線の高さまで持ち上げる。

「いつの間に買ったんだ」

「お前に会う前」

 また、怪訝な顔をされた。嘘臭くとも事実だから、そうとしか答えようがない。

「イニシャルが入ってる」

「偶然。いや、奇跡?」

「意味が分からん」

 冷たい返答だったが、白い頬には朱が上っていた。

「まあ、なんでもいいだろ」

 芹香は暫く黙って指輪を見つめていたが、ふと口元を緩めた。そして徐に、左手に持った指輪を藤堂に差し出す。笑うのを堪えているようでいて、今にも泣き出しそうにも見える。藤堂は喉の奥で笑い、指輪を摘んだ。

 白い手の甲が上に向き、止まった。指先が、かすかに震えている。形の良い爪を撫で、藤堂は細い薬指を摘んだ。

 指輪は、しつらえたようにぴったりと嵌った。少し距離を保ったまま、二人は同時に笑う。

「幸せになろうか」

 目を細めた芹香は、首を小さく左右に振った。長い睫毛の端で、涙の粒が輝いている。

「いいや」

 伸ばされた両腕が、藤堂の首に絡む。潮風に混じって、出会った日にも感じた彼女の匂いが、鼻先をくすぐった。

「もう、充分」

 腹の底から込み上げるものが、胸を満たして喉の奥を突いた。堪えきれない笑みが、顔をくしゃくしゃに歪める。きっとこれを、幸せと呼ぶのだろう。

 手に入れた幸福をきつく抱きしめ、藤堂は静かに、目を閉じた。


 どこまでも淀みなく、真っ直ぐだった。拗ねて卑屈になっても、曲がったりはしなかった。誰の色にも染まるようでいて、悩んだ末に下すのは、誰の決断でもない。最後の最後に、決めたのは自分自身。

 白ではない。何ものにも染まらないけれど、黒でもない。他の何色にも例えられない。だからあなたは――


 透明なひと。

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