第八章 生を知る 九
二つの扉からなだれ込んできたのは、武装した警官隊だった。一見すれば普通の機動隊だが、彼らが構えた盾には、細かな墨字の書かれた札が、何枚も貼り付けられている。恐らくは、霊体討伐隊なのだろう。警察が今更何をしに来たのかと、藤堂は呆れた。
しかし鴻の顔からは、一気に血の気が引いて行った。警官を見て焦った訳ではないだろう。彼は恐らく、司法によって悪であると判断されることが怖いのだ。
鴻は勢い良く顔を上げ、藤堂達を睨み付けた。
「君達が……君たちが呼んだのか」
「動くな!」
張りのある声が、地下室中に響き渡る。困惑した藤堂は鴻と警官隊を交互に見て、顎を掻いた。
警察を呼んだ覚えはない。そもそも何故彼らが今更になって動いたのかも知らないし、彼らの目的も分からない。困惑して立ち尽くす藤堂を尻目に、警官隊の間から出て来たスーツ姿の男は、真っ直ぐに鴻に歩み寄って行った。先ほど叫んだのは、彼だろうか。
男を見上げる鴻の表情が、悲しげなものへ変わった。同時に、芹香が目を見開く。
「乃木坂部長……」
紺色のスーツを着込み、黒縁眼鏡を掛けた男は、芹香に視線を移して頷いた。芹香を助けたという部長だろうかと、藤堂は考える。
「遅くなって済まなかった。無事で良かったよ」
「いや……何故、あなたが」
乃木坂は戸惑う芹香の問いには答えず、鴻の腕を掴んで引っ張り上げた。よろめきながらもなんとか立ち上がった鴻は、悲しみと憎悪の入り混じった悲痛な面持ちで、乃木坂を睨む。そして、ゆっくりと藤堂に向き直った。
「殺してくれ」
藤堂は息を呑み、一瞬呼吸を止めた。
「殺してくれ、これじゃダメなんだ! 自殺じゃダメなんだ、意味がないんだ!」
藤堂は答えられなかった。乃木坂は眉根を寄せて鴻を一瞥した後、天井を見上げて驚いたように目を丸くする。穴がないことに、今更気付いたのかも知れない。何もかも、遅すぎる。
混乱する内、藤堂は段々と腹が立ってきた。今更やって来た警察に腹を立て、あれだけ説教されたにも関わらず、未だに分かっていない鴻にも苛立った。彼は何も理解していない。それがあまりにも、腹立たしかった。
「死んでから知る幸せに、意味があるのか」
その場に居る全員の視線が、全身に刺さった。藤堂はもう、視線を気にしてはいられなかった。自棄になっているのかも知れない。それでも、言いたかった。
「俺はあんたに説教出来るような立場でも身分でもねえが、少なくともあんたよりは分かってるつもりだから、言わせてもらうけどさ。あんた、死ぬ事ばっか考えんなよ。生きる事考えろ。あんたが死ぬ事には意味ねえが、あんたが生きてる事には意味がある。あんたに救われた人だって、大勢いるんだろ」
「私がした事は……」
「霊は向こうに送ったが、生きてる人は救ったろ。これからを生きる人を、救ったんだろ。それが罪か?」
黙りこむ鴻は、全身の力を抜いて呆けたような表情を浮かべた。乃木坂は彼の腕を掴んだまま、困惑したように眉根を寄せる。
「気に病むなよ。それが悪くて天国に行けなくても、生きてさえいれば、いい事ある。いつかは幸せだって思う時が来る。その為に生きてるんだろ」
「そんな事が……」
鴻は言いよどんで、視線を足下に落とした。
「あるだろうか」
藤堂は苦笑いを浮かべ、腰に抱きついたまま首を傾げるゆなの頭を、意味もなく軽く叩いた。気恥ずかしかったのだ。
死にたいと思った事は、藤堂にはない。彼ほどの罪悪感に駆られた事もなければ、生きていると実感した事もない。彼のように命の危険に晒されながら、生きていた訳でもない。
けれど彼と同じように、生きている内に幸せなど、訪れないだろうと思っていた。死後の世界が幸福なら、それでいいかと、そう思っていた。それでも予想もしなかった幸せは、確かに訪れた。
「あるよ。自分の幸せの為に生きてるんだろ。幸せになりたいと思ってるんなら、叶わない事はないよ」
「良く言った!」
藤堂が言い終わるのとほぼ同時に、癖のある高い声が、武装した警官達の間から上がった。驚いて声のした方を見ると、予想通りの人物が、警官達を押しのけながら近付いて来る。
藤堂は驚くよりも、唖然とした。何故彼女は、こんな所にまで現れるのだろう。
「ゆ、祐子さ……」
「ぶちょ……じゃなかった警部、ここには何も証拠なんてありませんよ」
神出鬼没の新藤祐子は藤堂の言葉を遮り、乃木坂の前に仁王立ちした。彼女の顔を見て、無表情を保っていた乃木坂の顔が、困惑したように歪む。やっぱり祐子は誰といても強いのだと、藤堂はぼんやりと思う。
「怪我人はいない、死者もいない。ここには何もない。証拠がなければ、司法は裁けないわ」
警官達の間に、さざ波のようなざわめきが起こる。微かに複数人が言い合う声が聞こえてくるが、狼狽しきった乃木坂の言葉に、かき消された。
「し、しかし新藤君……」
「何かしたって確証もないのに、こんな大勢連れて来るんじゃないわよ。油売ってるヒマがあるなら、そこら辺に湧いてる悪霊を退治しに行ったらどうなのって言ってんの!」
祐子の啖呵が響き渡った瞬間、ざわめきが止んだ。呆気にとられる藤堂は、祐子の勢いに押されて何も言えなくなっていた。一体彼女は、どこまで噛んでいたのだろう。それ以前に、何故ここにいるのだろう。
祐子は呆然と目を丸くする鴻に顔を向け、優しげな笑みを浮かべた。鴻の目が、僅かに揺らぐ。
「鳳コーポレーションは、既にあなたの手から離れました。あなた自身の事は、これからです。全てあなた次第なんです。ご同行願えますか?」
それだけで、鴻は全て理解したようだった。ゆっくりと頷き、背筋を伸ばす。藤堂の説教の為か祐子の登場の為か、彼は先ほどまでより遥かに落ち着いている。
「常務、堤君、済まなかった」
鴻が静かに謝罪の言葉を述べると、堤父子は、揃って元上司に向かって頭を下げた。彼らの動作には、躊躇も戸惑いもない。鴻も彼らに応えるように、深々と腰を折った。そして今度は、体ごと藤堂等に向き直る。
「浄霊屋諸君。君たちにはいつか、償いをしたい。私は取り返しのつかない事をしたんだ」
「社会的に償った後になりますが」
呟いた乃木坂を、祐子が鬼の形相で睨んだ。乃木坂は怯えたように肩を竦め、視線を逸らす。鴻はもう一度深く頭を下げてから、祐子に促されて歩き出す。
「社長」
黙り込んでいた芹香が声を掛けると、鴻は肩越しに彼女を見る。
「必ず生きて、償って下さい。私も父も、あなたの幸せを願っていますから」
鴻はしばらく芹香を見つめた後、済まなかった、と呟いた。芹香は頷いて、傍らに立つ父親に視線を移す。どこか寂しげに鴻の背中を見送っていた彼は、警官隊がぞろぞろと出て行くのを確認した後、溜息を吐いたように見えた。
結局、彼のした事は、罪に問われるのだろうか。祐子に聞きたいことは山ほどあったが、聞けるような雰囲気ではなかった。
祐子は鴻の背に掌を添えたまま、思い出したように藤堂を見た。
「藤堂君、明日説明しに行くわ。謝りがてら」
「なんであんたが謝んの」
「まあ色々……あら、いないと思ったらそこにいたのね」
藤堂は怪訝に眉を顰めたが、祐子は満面の笑みを浮かべるばかりで、答えようとはしなかった。乃木坂に急かされ、彼女は地下室を出て行く。結局彼らの行動は、無駄に終わったのだろう。
それもまた、哀れではある。藤堂は未だ混乱の解けきらない頭で、ぼんやりと思う。
「さて」
沈黙を破ったのは、ゆなだった。藤堂が見下ろすと、ゆなはヘルメットを外して、彼に押し付ける。
「芹香さんとの感動の再会は、後に致しましょう」
「は?」
聞き返しながらも渡されるままヘルメットを受け取ると、ゆなは堤に向かって両手を広げた。
「急がねば、あの世へ行ってしまいます。さあ、最後に思う存分、藤堂さんを煮るなり焼くなり。どうぞ」
堤は几帳面に整えられた口ひげに隠れた唇に、僅かに笑みを浮かべた。頭を下げると同時、彼は白い煙に変わり、ゆなの腕の中へ吸い込まれるようにして消える。ゆなの頭が、首の据わらない赤ん坊のようにがっくりと垂れた。
椅子の傍らに立っていた芹香が、ゆっくりと近付いてくる。藤堂と目が合うと、彼女は僅かに視線を落とした。
「申し訳ありませんでした」
動いたのはゆなの口だが、その声はハスキーな男のものだった。声質や抑揚の取り方が、芹香と似ている。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。あんな風に操られてしまう前に、何が何でも、私が社長を止めるべきでした。まさか、あなた方にこんなご迷惑を……」
「そんな事はもう、いいんですわ」
渚は苦笑いを浮かべ、芹香を見上げた。
「あなた、私達よりも、芹香さんに話したい事があるのではございませんこと?」
ゆなの体を借りた堤は、曖昧に微苦笑した。そして芹香へ向き直り、目を細める。暫くの間、無言が続いた。藤堂はいつしか汗ばんでいた掌に気付き、そっとジーンズで拭う。
「……芹香、済まない」
芹香は困ったように眉根を寄せ、父を見下ろした。
「何故謝るんです。私はこの通り、生きている」
「気付いていただろう。私は……」
芹香は父の顔の前に掌をかざし、言葉を止めさせた。
「いいんです。きっと、こうなる運命だったから。一人は死んだが、一人はきっと、幸せになる」
藤堂は渚と顔を見合わせ、首を捻った。親子の間では通じているようだが、こちらには会話の内容が掴めない。ふと渚の横を見ると、執事が申し訳なさそうに俯いていた。
「あなたが謝る必要は、ありません」
「何が悪かった訳でもない、か……藤堂君」
突然名前を呼ばれ、藤堂は思わず背筋を伸ばした。見た目はゆなだが、放たれる威圧感は確実に堤のものだ。更に今の藤堂には彼への引け目もあるから、尚のこと緊張していた。
「君には申し訳ないと思っているが……感謝もしている」
「……ええと」
返す言葉が見つからなかった。それきり黙りこんで視線を流した藤堂に苦笑し、堤は続ける。
「この子を退治屋にしたのは間違いだったと、私はずっと悔やんでいた」
「父さん」
咎めるような声に、堤は娘を見上げてようやく笑った。
「私の願い通り、お前はいい退治屋になった。その代わり、自分を省みる暇さえなかっただろう。お前の悩みぐらい、知っていたよ……済まなかった」
堤は娘に向かって目礼してから、渚を見た。
「だが退治屋にならなければ、君達には会えなかっただろう」
渚は首を竦めて、はにかんだように笑った。堤は唇の端を上げたまま、藤堂に向き直る。
「君で良かった」
藤堂には脈絡がないように思われたが、芹香は僅かに頬を染めた。堤はとうに、気付いているのだろう。
「こんな子だが、私にとっては大事な一人娘なんだ。社長はああ言ったが、私はこの子が心配で、この世に留まってしまってね……君は不安定だが、芯は太い。信じているよ」
藤堂には、恐縮する事しか出来なかった。肩を竦めて出来る限り小さくなり、何も言えないまま俯く。
堤が急かさない代わりに、渚が藤堂の横腹を肘でつついた。睨むような彼女の顔を見て、藤堂は場違いにも安堵する。
「お嬢さんを幸せにします、とは言えません」
顔を上げた藤堂の第一声に、堤も渚も、執事さえ目を丸くした。芹香だけが、顔を赤らめたまま小さく笑う。
「でもあなたの代わりに、何があっても隣にいます。許してもらえますか?」
驚愕の表情が、徐々に緩んで行く。堤は殆ど閉じてしまいそうなほどに目を細め、ゆっくりと、藤堂に向かって頭を下げた。
彼も、悔やんでいたのだろう。芹香が寂しかったのと同じように、彼も、寂しかったのだ。仕事に明け暮れる父の背中を見て育った芹香は、彼と同じように、仕事しかない人間になった。それを、悔いていたのだろう。
「……頼む」
それだけだった。
堤はそれで、満足してしまったのかも知れない。ゆなの体から白い煙が抜け出して、天井へ上って行く。力の抜けたゆなの体を抱きとめ、藤堂は煙を目で追う。どこまでも真っ白な煙は、天井に当たる前に拡散して消えた。
ゆなは藤堂に支えられたまま、両手を合わせて目を閉じていた。ゆなにあの会話は、聞こえていたのだろうか。
藤堂は視線を芹香に移し、力の抜けた笑みを浮かべた。芹香は未だ赤い顔をしたまま、彼に笑い返す。それだけで、藤堂には充分だった。
「さて、帰りましょうか」
両手を上げて伸びをしながら、渚が言った。藤堂は頷いたが、ふと思い立って顎に手を当てる。何か、大事なことを忘れているような気がする。
渚はゆなの手を引き、執事と共に扉へ向かう。芹香は一旦入り口側から離れ、落ちていた刀を掴んだ。それを見て、藤堂はようやく思い出す。
「あ……ちょ、ちょっと待てよ」
刀を拾って身を起こした芹香が、不思議そうに目を丸くした。藤堂はそんな彼女を怪訝に思う。
「メイは?」
渚とゆなは肩越しに藤堂を振り返り、首を傾げる。執事も彼を見て、苦笑いを浮かべた。
「メイはって……」
芹香は首を捻って、そう呟いた。
「藤堂さん、何を寝ぼけておられるのです」
「あなた、気付いていらっしゃらないの?」
立て続けに言われ、藤堂は怪訝に眉をひそめる。芹香は藤堂の横を通り過ぎ、渚とゆなと、顔を見合わせて笑った。そして彼らは同時に顔を上げ、藤堂に視線を移す。
執事を含めた四人の人差し指が、藤堂を指した。
「後ろ」
守護霊が消えたのに霊達の記憶が見えないことを、まず疑問に思うべきだった。あの状況で霊の記憶が流れ込んで来なかった事を、不思議に思うべきだったのだ。
藤堂は四本の人差し指と笑顔から視線を外し、ゆっくりと振り返った。そして、泣き笑いのような表情を浮かべる。
背後では半透明になった明が、朗らかに笑っていた。
洋館の真っ暗な廊下を抜けて外へ出ると、既にとっぷりと日が暮れていた。湿気を含んだ夜風の生温さは汗ばむほどだが、地下室の淀んだ空気よりは、遥かに心地良かった。洋館の周囲も、相変わらず人気はないが、嫌な空気はなくなっている。
藤堂は真っ先に車に乗り込み、シートへ倒れ込んだ。走ったせいもあるが、体以上に気疲れしている。続いてドアを開けたゆなが、シートを二つ占領する藤堂の頭を、邪魔そうに叩いた。
疑問は多々残っていたが、明日祐子に聞けば済むだろう。とにかく今は、早く帰って休みたかった。藤堂はゆなに叩かれた頭を意味もなくさすりながら、億劫そうに起き上がってハンドルを握る。
「真面目な方ほど、崩れやすいものですわね」
風の音に混じって、渚の声が聞こえた。窓の外を流れる町並みを眺めながら、彼女は憂えたような表情を浮かべている。ゆなの家へと車を走らせる藤堂は、眠たげに欠伸をかみ殺しながら、後部座席の渚を一瞥する。
「どれが本音か、分かりゃしねえがな」
「全て本音だろう」
芹香はシートに頭を預け、視線を落としたまま呟く。あれほど狭苦しかった後部座席が、明一人いないだけで、やけに広々として見えた。
ゆなはヘルメットを抱えて、真っ直ぐに前を向いている。青白い横顔は、少し疲れているように見えた。
「誰もあの方に、教えてあげられなかったのでしょうか」
普段通り抑揚のない声だが、ゆなの表情はどこか物憂げだった。疲れているせいも、あるのかも知れない。
「幸せは教わるものではありませんわ。それ以外は……まず、学校教育を変えないと」
「そんなでかい事は出来ねえな、流石に」
藤堂が呟くと、助手席のゆながシートの背もたれから身を乗り出した。後部座席の芹香を見上げ、首を傾げる。
「芹香さんが、総理大臣になればよろしいかと」
「無茶を言うな」
全員一斉に、声を上げて笑った。無論背後の明の声も、藤堂には聞こえている。一時はどうなることかと思ったが、こんな風にまた笑える事を、まずは喜ぶべきだろう。藤堂はゆなの家の前に車を停めながら、知らず知らずの内、口元に笑みを浮かべる。
家の前では、黒江夫妻が並んで手を振っていた。先に連絡しておいたので、出迎えに来たのだろう。ゆなは車から飛び出して、真っ先に母親へ飛びつく。父親が悲しそうに肩を落とした。
「スイマセン、遅くなっちまって」
「いいえ、とんでもない。その分、ゆなは喜んでいますから」
黒江愛は車内を覗き込んで柔和に微笑み、娘の背中に両手を回したまま、頭だけを下げた。藤堂はつられて会釈する。
「みなさま、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
渚は肩の位置で軽く手を振り、にこやかに告げた。
「おやすみ、ゆな」
「お疲れさん」
愛がドアを閉めても、車が動き出しても、ゆなはずっと名残惜しげに手を振っていた。芹香と渚はシートの背に身を乗り出し、後ろを向いてそれに応える。
藤堂は、そんな和やかな光景を映し出すバックミラーを横目で見ながら、胸が温かくなって行くのを知覚する。これこそ、いつもの光景だ。
家の前まで辿り着くと、渚はドアを開けながら、芹香の様子を窺った。彼女は案外、気を遣う性質だ。
しかし今日は流石に、帰った方がいいだろう。このまま一緒に事務所へ戻っても、話すほどの体力は残っていないし、芹香も疲れている筈だ。藤堂自身、今すぐにでも布団に飛び込みたい。
「お前も今日は、珍しく仕事したな」
揶揄混じりに藤堂が言うと、渚は心外だとでも言いたげに眉間へ皺を寄せる。
「失礼ね、私はいつも真面目に仕事をしていますわ」
「いつも執事に任せっきりじゃねえか」
「霊飼いとはそういうものよ!」
声を荒げた渚に噴き出した芹香は、逃げるように車を降りた。思わず笑ってしまったのだろう。門の方へ足早に逃げて行く彼女の背中を、渚が睨む。藤堂は門の前で手を振る芹香に、軽く掌を開閉させて返した。
「もう!」
呆れと怒りの入り混じった声を上げた渚は、フレアスカートを翻して車外へ出ると同時に、勢いよくドアを閉めた。車に罪は無いので、完全なる八つ当たりだ。
脇目もふらずに門へ向かう渚を追うように、藤堂は拳の裏で半分閉まった窓を叩く。渚が顔をしかめたまま、振り返った。
「また明日」
渚は暫く藤堂を睨んでいたが、やがて小さく溜息を吐き、また、とぶっきらぼうに告げた。門を開けた芹香が、藤堂に笑いかける。夜風になびく銀髪は、柔らかに輝いていた。
二人の背中が門の中へ消えるまで見送った後、藤堂は車を発進させる。煙草を出そうとポケットに手を入れたところで、指先が硬いものに触れた。あ、と声を上げる。
「渡すの忘れた」
独りごちて暫し悩んだが、引き返すのも面倒になって、結局諦めた。どうせまた、明日会うのだ。きっと明日で、決着がつく。
生きてさえいれば、明日がある。何度後悔しても、何度でもやり直せる。平坦な人生を送ってきたから、今まで明日を待つことなどなかった。だから藤堂は今になってようやく、明日を待つ理由を知ったような気がした。