第八章 生を知る 七
洋館の扉を開けた瞬間、真っ先に飛び出したのはコウだった。玄関ホールにひしめく異形の悪霊達には目もくれず、ひたすらに駆け抜けて行く。扉を開けた明はおろか、全員が全員激しく狼狽し、思わず立ち竦んだ。
彼が誰の頼みでもなく自ら飛び出して行ったのは、初めての事かも知れない。コウが夥しい数の悪霊達の間をすり抜けた時には、渚がとうとう悲鳴を上げた。
藤堂は慌ててコウの後を追おうとしたが、襟首を掴まれて立ち止まる。振り返ると、明が厳しい表情で彼を見上げていた。
「私が道開けるから。藤堂さんは、後ろに行って」
藤堂が頷くのを待たず、明は彼の前へ出る。明は足を踏み出すと同時に、すぐそこまで迫ってきていた霊達を一刀の下に切り捨て、駆け出した。それを皮切りに、全員一斉に中二階へと向かう。床に散らばったシャンデリアの破片が、一歩進む度に靴底へ刺さる。あの時の地震は地震ではなく、常夜へ続く穴が引き起こしたものだったのだろう。
執事はゆなと渚を両脇に抱え上げ、走っていた。ゆなはヘルメットを目の前に掲げて、襲い掛かる悪霊達を跳ね返す。渚は顔をしかめながらも、反対側から迫り来る霊がそれ以上近寄れないよう、札を胸に当てていた。
走るのはごめんだと思っていたのに、藤堂はそうせざるを得なかった。頭皮の下に火でもつけられたように、頭が熱い。忙しなく空気を求める肺が、ひどく痛む。動かし続けた足が重い痛みを訴えるが、走るのをやめる訳には行かなかった。
中二階の扉を勢い良く開けた明は、待ちかねていたように飛び出してきた霊を袈裟掛けに斬り捨てた。昼間来た時の静けさからは考えられないような数の悪霊達が、尚も行く手を阻む。
長い廊下の突き当たりにある窓からは、橙色の光が差し込んでいる。もう、夜はすぐそこまで迫って来ていた。今が夏である事が、せめてもの救いだろう。
それでも、時間がない事には変わりない。永遠とも思えるほど長く続く廊下を、明は片手で刀を振るいながら駆け抜ける。そして廊下の突き当たりでほぼ直角に曲がり、飛び降りんばかりの勢いで階段を下りて行った。今までにないほど、彼女は焦っている。
藤堂も明に続くが、ここまで休む間もなく動かしてきた足が鈍い痛みを訴え、上手く進めない。泥濘に捕らわれたようだった。
「藤堂、持っていなさい!」
驚いて振り向くのとほぼ同時に、執事に抱えられたままの渚が、札を投げつけて来た。慌てて受け取ると、足の痛みが嘘のように引いて行く。上がった息が落ち着く事はないから、足の痛みは何らか霊の影響を受けていたのかも知れない。情けないものだと、つくづく思う。
明の肩越しに、コウの背中が見える。真っ直ぐに進んで行く彼は、藤堂の感情に呼応して動いているのかも知れなかった。藤堂は今、それほど焦っている。連れ戻さなければと、連れて帰らなければと、気ばかりが急く。
もう、迷いはない。
階段下まで辿り着いたところで、コウは思い出したように振り返って、藤堂の下へ戻って来た。明は階段にいた最後の霊を刺し貫いて抹消し、扉を開け放つ。
地下室から階段へ吹き上げる生温い風に触れた瞬間、藤堂は総毛立った。寒い訳ではない。寧ろ走ってきたせいで全身が火照り、汗でシャツが体に張り付いている。それにも関わらず、両腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。
部屋の前で、明の動きが止まった。肩が微かに震えている。見た目は生身と殆ど変わらないとはいえ、彼女も霊だから、恐らくは穴から吹き込む常夜の空気に影響されているのだろう。
藤堂は明の肩を軽く叩いた後、その横を通って地下室へ入った。真っ先に、眉をひそめた金髪の青年が視界に入る。
その姿を見た瞬間、一気に頭に血が上った。首から上だけ血液の温度が急激に上がってしまったように、ひどく熱い。怒っているのか焦っているのか、自分でも分からなかった。
「芹香返せ」
薄暗い室内に、低い声が通った。淀んだ空気が、僅かに揺らぐ。昼間来た時には気付かなかったが、天井には確かに、直径三メートルほどの穴が空いていた。穴の向こう側は、暗くて見えない。確かに闇に続いているのだと思わせるような、漆黒だった。
天井の穴に気を取られた瞬間、つんざくような絶叫が木霊した。藤堂は一気に青ざめ、声のした方へ視線を移す。
「芹香!」
初老の男が、部屋の隅に置かれた椅子の傍らに立っている。注連縄でその椅子に縛り付けられているのは、紛れもなく芹香だった。無機質に電球の光を反射する銀髪が、激しく揺れる。頭だけは辛うじて動かせるようだが、首から下は硬直したように動かない。或いは力が篭もりすぎて、全身が緊張しているのか。
なんとか逃れようとしているのか、苦しんでいるのか、芹香は左右に頭を大きく振った。苦痛に喘ぐ喉が、軋む声を上げさせている。呻く彼女の声は、痛々しいほど嗄れていた。
彼女の背中から、堤の手が体内へ潜り込んでいる。川重の魂を引きずり出そうとしていた守護霊達の姿が、藤堂の脳裏をよぎった。目を見開いて苦悶の表情を浮かべる芹香を見て、藤堂は思わず一歩足を踏み出す。
「ダメ!」
すぐ隣から聞こえてきた大声に、藤堂は足を止めた。肩を震わせていた筈の明が、制止の声を上げると同時に飛び出して行く。
堤は娘の背から一旦手を離し、駆け寄る明に体ごと向き直って拳を固める。一気に力が抜けたかのように、芹香がうなだれた。
明は真っ直ぐに堤へ向かって行き、銀色に輝く刃を勢いよく振り下ろす。握り締められた拳が、それを迎え撃った。刃は吸い込まれるように、拳へと向かって行く。
斬れる。そう思った矢先、堤の拳に触れた刀が弾き返された。藤堂は思わず目を見開く。
「真正面から行っても駄目よ、入れ墨が残っているのだから跳ね返されて効きませんわ! それより早く縄を切りなさい!」
明は叫んだ渚を肩越しに振り返って頷くと、芹香の背後へ回った。うなだれたままぴくりとも動かない彼女を、明は辛そうに眉をひそめて見下ろす。芹香を縛る縄を刀で切ろうとしたが、伸びてきた堤の手に気付くと、慌ててその場から飛び退く。
死んで尚、破魔の入れ墨はその効力を残している。退治屋にとってあの入れ墨は、命と等しく大事なものなのだという。あれがなくなれば、退治屋は務まらない。手袋があるから入れ墨しなくて済んだのだと、芹香から聞いた。
しかし余程思い入れのある傷でない限り、霊体には残らないと聞いている。霊になっても、退治屋であることに捕らわれているのだろうかと、藤堂は思う。
死して尚、仕事は忘れない。霊になっても、己が退治屋であった事は忘れていないのだろう。それなのに。
「なんでだよ……娘だろ」
思わず、そう呟いた。硬い表情で明と堤を注視していたゆなが藤堂を見上げ、眉尻を下げる。渚が背後から二人の肩に手を置き、前に進み出た。
「彼……鴻清十郎だけが使える、術がありますの。鳳コーポレーションが立ち上げられた時に高屋敷が作り、代々の社長だけに伝えて行く事を決めた」
ゆなが渚を見上げ、息を詰まらせた。彼女も表情には出ないが、動揺しているのだろう。
「それは……どのような」
「霊の自我を消し、操るの。わざわざ自分の霊力を半永久的に消耗して使役しなくとも、浮遊霊さえ意のままに出来る。あんまり多くの霊に使える訳ではないけれど」
「霊を使い捨てるって事かよ。じゃあ、親父さんは」
渚は憎々しげに唇を噛み、鴻を睨んだ。そして勢い良く振り返り、執事を見上げる。
「加勢しますわ。じいや、あなたは手を出しては駄目よ」
執事が首を縦に振るのを確認してから、渚は胸ポケットから札を取り出す。明の刀を片手で跳ね返した堤は、一瞬だけ、虚ろな目を渚に向けた。
堤と視線が合うと渚は怯んだが、すぐに眉をつり上げて札を投げた。札はいとも簡単に掴まれたが、そちらに気を取られた堤の背後から、明の刀が迫る。渚は元々気を逸らすつもりで投げただけで、当てるつもりはなかったのだろう。
彼は丸めた札を捨て、その場に屈んで刃を避けながら、拳を握る。明は一瞬逃げかけたが受ける方が早いと判断したのか、振り下ろされる拳を刀の腹で止めた。
しかし刃に拳が触れた瞬間、明の腕が弾かれた。衝撃で取り落としそうになった刀を両手に持ち替え、すんでの所で踏みとどまる。渚が慌てて駆け寄り、更に迫る堤の腕に向かって札を投げた。火花が散ったような音が響き、堤がたたらを踏む。
それだけだった。仮にも高屋敷本家の人間が書いた札だというのに、堤に対して然したるダメージは与えられていない。効かないというのは、こういう事だったのだろうか。
「無駄ですよ。彼は当社で白銀に次ぐ退治屋だったのですから」
目を細めた藤堂は、金髪の青年へ視線を移した。憎らしげに睨み付ける藤堂を見ても、彼が浮かべた笑みを消すことはない。
「あんた何がしたいんだ。穴空けてどうする気だよ」
「誰から聞いたんです?」
「いいから答えろ」
腹が立って仕方がなかった。人を食ったような鴻の態度にも、天井に空いた穴にも。あんなものの為に父親を操って、娘に手をかけさせた、鴻本人にも。
「人の幸せというものがなんだか、ご存知ですか?」
唐突な問い掛けに、藤堂は顔をしかめる。ふと見下ろすと、ゆなが服の裾を握り締めていた。鴻を睨むような目で見つめているのはゆなだけで、いつも腰に張り付いている筈の、コウの姿はない。
返答に窮する藤堂に、鴻は更に笑った。藤堂には、その笑みが薄ら寒く思える。
「成仏することですよ。どんな業を背負っていても、幸せになる権利はある筈です」
「だからって、この世とあの世を繋ぐ必要はないだろ」
「この世に浄霊の結界を張るんです。ここに小さな円を描けば、世界中を囲んだ事になる。常夜の住人にも、幸せになる権利はある」
整った顔に浮かべられた笑みが、急に恐ろしいもののように思えた。藤堂は僅かに口を開けたまま、鴻をまじまじと見つめる。
「大丈夫、私が全員浄化しますから。苦しいのは、たったの一瞬だけです」
「……ちょっと待て、あんたまさか」
その先は続かなかった。肩が寒くて堪らない。彼がしようとしている事の予想はついたが、理解したくはなかった。
「常夜の住人が全て現世へ出てくれば、全人類が霊になるまでそう時間はかかりません。あなたも、幸せになりたいでしょう?」
肉体を欲する悪霊は、野放しにしておけば、必ず生身の人間に危害を加える。傷付けるという生易しい言葉では済まない。生あるものを殺して、自分が肉体に入ろうとする。
しかし霊媒体質の人間の肉体でなければ、霊達は入る事が出来ない。従って、悪霊は止まらない。たとえ霊媒体質の人間の体を手に入れたとしても、その肉体は所詮自分のものではないから、すぐに腐って行く。
結果、悪霊達は次の器を探さざるを得なくなり、また別の人間を殺害する。連鎖はいつまでも止まらない。それこそ、全人類が死に絶えるまで。
幸せとは、成仏することだ。身内に不幸がある度に、子供は必ず、親からそう言い聞かされる。常世は永遠の安住の地であり、そこに行く事が、目指すべき幸福であると。
それは元々、死を受け入れさせる為の詭弁であったが、人々はいつしか、本来の意味を忘れてしまった。死後の幸せの為に死者を送り出すのだと、そう理解するようになってしまった。確かに死を悲しむよりも、死んで幸せになると考える方が、何倍も楽だろう。死を恐れる事もなくなる。
結果、人々は死を悲しむことが出来なくなった。悲しむどころか、肉親の死を喜ぶ子供さえいるという。それが教育の賜物なら、今のこの世界はきっと、間違っている。
生きているよりも、死んであの世で幸せになりたいと考える人間が増えている。自殺は大罪とされているから自殺者は減ったが、それでも人々は、生きる意味に疑問を覚える。
ふらふらと当てもなく漂っている浮遊霊を日常的に目にする、普通の人間なら、恐らく死後の幸福を信じてしまうだろう。浮遊霊達は虚ろな目をしたまま、ただ徘徊している。幸せに見えるかそうでないかと聞かれたら、そうではないと答える筈だ。現世で生きていれば、辛い目にばかり遭う。だから霊感があれば、成仏する事が幸福であると、きっと信じただろう。
しかし藤堂にはそれがない。霊を見る術はあるが、日常的に目にする訳ではない。だから、理解が出来なかった。それは今でも、そう思う。当然のように死を悲しみ、死者を悼む。それこそが、本来の供養である筈だ。
だから、死なせたくはない。愛しい人を、何よりも大事な人を。それが当たり前の感情で、本来なら、そう思うべきである筈だ。悲しむ事は、罪ではない。
除霊屋になるべくして育てられた子供は、死を直視しろと教えられるという。幸せを願うのではなく、死を真っ向から受け止めてそれを受け入れ、悲しめと。これは渚も芹香も、明もそうだと言っていた。死別を悲しみ、死者を悼み、死を受け入れる。死者が迷わずに行けるよう、送り出す必要があるのだと。
遺族が死を受け入れなければ、死者はあの世へ行く事が出来ない。祐子は恋人が死んだことを悲しみはしたが、死を受け入れてはいなかった。送り出す為の心の準備も出来ていなかったから、彼女の恋人は彼女の悲しみによって、変容してしまったのだろう。
何故、死を悲しむ必要があるのか。その自問に、答えは出ている。けれど、言葉にすることが出来なかった。
「死ぬことを幸せとは思わない」
決然と言い切った藤堂は、きつく拳を握った。鴻の表情が一変する。笑みを浮かべていた唇が引き結ばれ、緩やかな弧を描いていた眉がつり上がる。そこで藤堂は、理解した。
彼は、何かを恐れている。
「幸せに決まっているさ。悲しみに満ちたこの世で生きるより、あの世で穏やかに暮らす方が、幸せに決まってる!」
「あんた今まで、何してた? ずっとこんな所に閉じこもって、死ぬことばっか考えてたのか?」
「幸せになることを考えて何が悪いんだい? あなただって考えるでしょう、幸せというのが何なのか。幸せになりたいでしょう」
反論は、頭の中にはあった。これを言ったら、少なくとも今のこの膠着状態は解けるだろう。けれど、状況がどうなるかは分からない。更に悪化するだけかも知れない。それでも、黙って聞いてはいられなかった。
「あんた、死ぬのが怖いんだろ」
鴻の目が、大きく見開かれた。的を射たのだと思われたが、彼は藤堂に、何も言い返そうとはしなかった。代わりに、執事に向かって人差し指を向ける。
ゆなが藤堂の腕を引いた。見下ろすと、彼女は首を大きく左右に振って逃げようと促す。
「捕らえなさい、彼を」
明と渚が、弾かれたように執事を振り返った。その隙に堤の拳が迫り、明は慌てて身を屈める。渚は二人から距離を取り、頭を抱えた執事に向かって怒鳴り声を上げた。
「やめなさいじいや!」
執事の細い目が、きつく閉じられる。今にも倒れてしまいそうなほど、背中を丸めて頭を抱え込んだ彼は、何かを振り払うように首を左右に振った。
執事が葛藤している間に、藤堂はゆなと部屋の隅へ逃れる。それにどれほどの意味があるだろう。執事が本気でこちらを殺そうとしたら、恐らく一分もかからない。彼に対抗する術を、二人は持っていなかった。
あまりにも、無力だ。守護霊達に、共に戦った事もある執事を止めさせるのは嫌だった。
屈んだ明を飛び越えて、堤は渚に殴りかかって行く。渚は驚愕に表情を歪めて息を呑んだが、反射的に片手に持った札を、目の前まで迫った拳にぶつけた。火花が散ったような音が部屋中に響き渡り、堤の手から白煙が立ち上る。
そこで初めて堤がよろめいたが、拮抗する力に耐え切れず、渚もその場に尻餅をついた。それを見た執事の表情が、憎悪に歪む。未だ彼の内に理性は残っているようだが、いつまで保っていてくれるだろうか。
「さあ、早く」
鴻の声が、執事を急かす。彼は辛うじて頭を左右に振ったが、両手が震えていた。
堤がよろめいたのが好機とばかり、明が刀の切っ先を彼の頭に向かって突き出す。堤は構えようにも間に合わず、よろけて踏みとどまったままの姿勢では、屈む事も出来ない。
これで終わるものと傍目には思われたが、堤はあろうことか、目前まで迫った刃を両手で掴んだ。明が目を見開く。
反発しあう力が切っ先から手元まで伝わり、明の手が震える。堤の腕も、大きく震えている。刃を握り締めたその手からは、赤い雫が滴り落ちていた。明は刃を伝って流れ落ちる血を見た瞬間、首だけを勢い良く芹香に向ける。
「芹香さん起きて! お父さんまだ、操られきってないよ!」
しかし芹香は、微動だにしなかった。胸が僅かに上下しているから、生きてはいる筈なのだが。
起き上がった渚が執事と明を交互に見た後、大きく息を吸い込んで、芹香に駆け寄った。堤の顔が彼女に向けられ、明の刀を渾身の力で押し返す。明は一瞬よろめいたがその場で踏みとどまり、渚へ向かって行く堤に追いすがる。
「お願い芹香さん、起きて!」
悲痛な声と、渚の息を呑む音が重なった。堤の拳が渚に迫る。明は刀の柄を握り締め、堤の背中に向かって振り下ろす。
勢いよく振り返った堤は、振り上げた拳を明の腕に向かって下ろした。慌てて刀の軌道を変え、明はそれを弾き返す。息つく間もなく刀を引き戻して、明は更に切っ先を繰り出した。堤は飛び上がってそれを避け、間合いの外へと着地する。
渚の意識が、芹香に向いたその時だった。執事の体から力が抜け、狼のように鋭い双眸が藤堂を睨む。何も出来ないまま捕まってしまうのかと、藤堂は己の無力さを呪った。
ゆなが藤堂の手を握り、不安そうに見上げた。藤堂は彼女に苦笑いを浮かべて見せる。それで少し、ゆなの表情が緩んだ。
「そうだ、捕まえろ!」
鴻が叫び、執事が地を蹴った。抵抗に意味はない。無駄に抵抗して、執事に傷を負わせる事の方が怖かった。あれは渚にとって、何よりも大事な霊なのだ。
「やめなさいじいや!」
無抵抗のまま藤堂とゆなが執事の腕に捕らえられた瞬間、渚が怒鳴った。彼女は芹香の体に巻きつけられた縄に掛けていた手を離し、踵を返す。執事は一瞬腕の力を緩めたが、すぐに込め直した。腹部への圧迫に、藤堂は小さく呻く。
「藤堂さん!」
明が気を取られた隙を、堤は見逃さなかった。一気に間合いを詰め、彼女の首に手を伸ばす。刀の刃がその腕を振り払おうとしたが、逆に掴まれた。白煙と共に、堤の手から血が流れる。
明は首に向かって伸びてくる腕を避けたが、指先が僅かに肩を掠めた。じゅう、と嫌な音がして、制服の肩が破ける。明は目を見開いて刀を持った手を引き、堤から逃れた。その肩が、真っ赤にただれている。
堤との間合いを取った明に、鴻の人差し指が向けられる。明は驚いたように眉を上げ、ぴたりと動きを止める。明の足が止まると同時に、堤は横を通り過ぎようとする渚の前へ腕を伸ばし、その腹に拳を埋めた。くぐもった声と共に、渚の体が崩れ落ちる。藤堂は一気に青褪めた。
「君も、大人しくしていなさい」
鴻は明に向かって静かに告げ、低く笑った。