第八章 生を知る 六
何を、しているのだろう。藤堂は心中、自嘲気味に笑う。
勝手に拗ねて勝手に引きこもって、こうして廊下でぼんやりとしている。何がしたいのか、自分でも分からなかった。何をすべきかさえ、分からなくなっていた。
フローリングの低い温度が、直に触れた素足の裏へと伝わってくる。その冷たい感触を求め、背中で壁を擦りながら、その場に腰を下ろす。シャツの裾が捲れ上がって、素肌が壁に触れた。ひやりとした硬い感触が、熱を持った体を冷やして行く。それでも、頭だけは一向に冷えなかった。
いつ戻れるか分からないというのは、戻れない事と同義だ。それが理解出来ない程幼くはないし、またいつかという言葉を鵜呑みに出来るような純粋さも、いつしか失ってしまっていた。戻れないであろうことも分かっていたのに、止めようともしなかった。
拗ねて卑屈になって、全てを放棄した結果が、これだ。笑い事ではないのに、笑うしかない。藤堂は意識的に唇を歪めたが、笑みの形など作ってはいなかっただろう。ねじ曲がった性根は、大人になってしまった今になって、変わる筈がなかった。
今に始まった事ではない。変わったつもりで、ただ自己満足に浸っていただけなのかも知れない。今まで拗ねていた事を振り返って反省するつもりで、ごっこ遊びに興じていただけかも知れない。それでも友人達を大事に思う気持ちは、偽りではない。
出来ることなら、人の為になることがしたい。それが例え自分を満足させる為の偽善でも、そう思えた事が、明確な変化なのだろうと思う。偽善でも行動を起こす事が出来るなら、少なくとも行為自体は善行と呼べる。行動を起こしたかどうかという疑問には否と答えるしかないが、見守りたいと確かに思った。何も出来ないから、代わりに信じていようと。
たったそれだけの事でさえも、最後までやり遂げられなかった。初めて心の底から愛しいと思った人でさえ、引き止める事が出来なかった。振り返ったその顔を見るのが怖くて、目を逸らした隙に彼女は意思を固め、離れる道を選んだ。
分かっていた。彼女が父親に対して罪悪感を抱いていたのは知っていたし、真正面から力が必要だと言われたら、彼女は断れない。誰が止めていても、きっと彼女は向こうへ行ってしまっていただろう。こちらから離れたのではなく、向こうに戻ったのだとそう思えば、幾分気が紛れた。
けれどそんな思考は、己を正当化するための言い訳に過ぎない。本当は、分かっている。あの時彼女は、最後に振り返った。その視線が向いていた先がどこだったのかも、気付いていた。
あの時藤堂が引き止めれば、目を逸らしたりしなければ、彼女はきっと行かなかった。いくら考えることを拒絶しても、そう思えてしまう。出来る事なら離れたくなかったのに、子供じみた感情が邪魔をした。彼女の気持ちなど、最後に振り返った時点で分かりきっていたのに。
ただ、不安だった。それを免罪符にするつもりはないし、理由をつける事で誰かに許してもらおうとも思わない。それでも、不安だった。
尊敬しているのだと目を輝かせて言った彼女は、あの青年に、未練があるのではないか。そんなどうしようもなく下らない事を、考えていた。そしてそのせいで、何も言えなくなった。気付くのが遅すぎた、ただそれだけの事なのに、取り戻せない程の距離が出来てしまった。
そもそもあの青年の言葉が真実であったのかどうかさえ、判断する事が出来ない。他人の感情に敏感な明が何も言わなかったから、悪意はなかったのだろうと思う。しかし具体的にどうするかは、何一つ聞いていなかった。また、昔のように戦いに明け暮れる事になるのではないかと、そう思った。
戦うことが彼女の幸せなのではないかと、考えたこともあった。ついこの間その見識を改めたというのに、今日また、そんな思いが頭をよぎった。けれど、そんな筈はないのだ。
役目を終えるまで、彼女はきっと、戻らない。それは二度と会えない事と、同義なのではないだろうか。感傷に浸っている場合ではないと分かっているのに、胸が締め付けられるように痛かった。
額に浮かんだ汗が、玉となって流れ落ちる。涼を求めて触れた床も壁も、いつしか体温で温まっていた。廊下を満たす熱気が肌に絡みつき、不快感を増長させる。体を動かさずにいても湿気を帯びた空気が体温を上げ、全身の毛穴から汗が噴き出す。背中に滲んだ汗がシャツを濡らし、肌に張り付かせていた。
額から流れた汗の滴がこめかみを伝って目尻に流れ込み、溜まって行く。きつく目を瞑ると水滴が頬を撫で、顎から胸元へ零れ落ちた。最後に泣いたのはいつだったろうと、霞がかった頭で考える。
彼女は、幸せという言葉の意味を知っていたのだろうか。二人して怒られた後に呟いた、幸せかも知れない、という言葉が、胸に鈍い痛みを与える。声の調子も抑揚さえも、ありありと思い出せる。あの時確かに藤堂は、嬉しいと思った。幸福という言葉の意味を、強く噛み締めた。それなのに。
それなのにどうして、手を離してしまったのだろう。今だってこんなにも、深く想っているのに。
店の方から、怒鳴り声が聞こえた。或いは悲鳴だったのかも知れない。聞き知った人の声だった。それでも、この場を動く気になれない。
ドア越しでも、店内の声はよく聞こえた。その会話の内容を、聞くでもなく耳に入れる。彼女達はあんなにも心配しているのに、自分はこんな所で何をしているのだろう。
祐子の話を聞いても、騙された、とは思わなかった。そうなのかも知れないと、薄々感付いてはいた。考えたくなかったというよりは、逃げていただけなのかも知れない。
思えば、いつだってそうだった。物心ついて、霊が見えない事が異常なのだと認識した時も、学校を追われた時も。自分の身に起きた事実を客観視して、現実から逃げていた。深く考えるのが、嫌だった。己が他人より劣っていると考えるより、どうせ、と拗ねてしまう方が楽だった。
だからかも知れない。好意を持って接してくれる他人に対して、深入りする事を拒絶していたのは。言い訳をするつもりはないが、霊が見えないというコンプレックスは、自分で思うより遥かに強いものだった。見えなくてもいいのだと知ったのは、ごく最近のことだ。
容赦なく心の中に入り込んできた彼女達は、いとも簡単に藤堂の劣等感を打ち砕いた。真っ直ぐに生きる彼女達を眩しく思ったし、彼女達がしてくれた事に、報いたいとも考えた。それでも、結局何も出来ない。言われるがままついて行って、後ろから眺めるだけで、満足していた部分もある。
明のひたむきさが、ゆなの純粋さが、渚の優しさが、藤堂には眩しかった。真っ直ぐに想ってくれた芹香の孤独を埋めてやりたいと、そう思っていた。しかし最終的に目を逸らして全員を裏切ったのは、自分だった。そんな事ぐらい、分かっている。
許して欲しいとは思わない。責めて欲しかった。何故止めなかったのかと、そう言って責めて欲しかった。それも、甘えに過ぎないのだろう。
いつまでも甘えているつもりはない。甘えるというのも妙な話ではあるが、実際今までがそうだった。何も出来ないのをいい事に店番と称して何もせず、そのくせ余計な口だけは出してきた。これでは駄目だと思いながらも、状況を打開する手だてはない。
どうせ何も出来ないと、諦めていてはいけなかったのに。何をするにも守護霊の助けが必要だとしても、何もしないよりはましなのではなかっただろうか。
耳に残る祐子の声が、ドアの向こうから聞こえて来る。
あの世のシステムに疑問を覚えた事は、何度かあった。教科書で習った事と、明から聞いた事を総合して考えてみても、どこか違和感はある。そもそも罪を犯したら皆悪霊になるという話には、疑問しか覚えてはいなかった。
罪を犯せば、幽世への道を閉ざされる。それがつまり、罰を受けるということだ。そんな当たり前のことが、不思議で仕方なかった。悪霊が現世に留まるというのなら、罰というのはつまり。
背筋を冷たい汗が伝った。つまり、現世の邪気を受け続ける事が、罰だったのではないだろうか。本当は、常夜は地獄でもなんでもなく、悪意に満ちたこの世こそを、地獄と呼ぶのではないだろうか。それならば、最も罪深きは――
――やめよう。
考えても仕方のない事だ。天の摂理を、否定出来はしない。誰がどう足掻いても変わらない事を、だらだらと考えていられるような時間は、今の藤堂には残されていない。
魂を引っ張り出されるというのは、痛いものなのだろうか。目には見えなくとも体の一部だから、痛いには痛いのかも知れない。川重の様子を思い出すと、確かに痛そうだった。
問題は、そんなことではないのだ。
指先の震えが、止まらない。暑さは変わらないのに背筋を寒気が這い上がり、汗がすっかり引いてしまった。そのくせ濡れたワイシャツは、相変わらず背中に張り付いている。ドアの向こうの沈黙が、耳に痛かった。
小刻みに震える指先に、何かが触れたような気がした。膝の間に埋もれていた顔を上げると、額にほくろのある少年が、しゃがんで顔を覗き込んでいる。大袈裟に首を傾げて不思議そうな顔をしているが、藤堂はその表情を見て、幾分落ち着いた。
透けた小さな指先が、藤堂の震える指を掴んでいる。何も感じないが、確かに見えていた。眼鏡をかけたままだったことを、すっかり忘れていた。
藤堂と目が合うと、コウはにっこりと笑って立ち上がった。早く行こうと、急かしているようにも見える。胸のつかえが取れたような不思議な安堵感に、藤堂はため息を吐く。コウの笑顔に、全てが許されたような気がした。
まだ、遅くはない。
「ありがとな」
呟いて、藤堂は緩慢な動作で立ち上がる。こんな事をしている場合ではない。それでも足は、自然と寝室へ向かっていた。
寝室の隅に置かれたタンスの、一番上の引き出しを開ける。乱雑に詰め込まれた衣類に紛れて、青いビロードの張られた小さな箱が、顔を覗かせている。気休めでしかなかったが、何も持たないよりはマシだった。
蓋を開けて中身だけをジーンズのポケットに入れ、藤堂は再び廊下へ向かった。
どうなろうと、知った事ではない。たとえ大企業と敵対することになろうと、こちらにも後ろ盾はある。それでもこちらに分はないのかも知れないが、もう、腹は括った。
ドアの向こうから、渚の怒鳴り声が聞こえてくる。何故か自然と、笑みが零れた。
ゆっくりと、店へ続く扉を開ける。屋敷に居た時大きな地震があったのに、店内は無事だ。そんなことを考えられる程、心に余裕があることが不思議だった。
事務所内にいた全員の顔が、一斉に藤堂の方を向く。自分に視線が集まっても彼はもう、臆さなかった。
「迎えに行くぞ」
泣き出しそうに歪んでいた明の顔が、ぱっと明るくなった。そして大きく、首を縦に振る。おう、とゆなが片手を挙げ、渚が満足げな微笑を浮かべた。
きっとどうにかなる。まだ、誰も欠けていない。
「祐子さん、悪かったな」
椅子から立ち上がりながら、祐子は笑って肩越しに手を振った。
「来た時は、ブン殴ってやろうかと思ったけどね。さっさと行きなさい」
言いながら、祐子は店を出て行く。明は抜き身の刀を握り締めたまま外へ飛び出し、ゆなもそれについて行った。渚は歩きながら携帯電話を取り出して、どこかに電話を掛け始める。
渚の電話の相手は恐らく、実父だろう。頼るつもりはないが、相手が相手だ。現場には来られなくとも、何かしら手は回してくれるはずだ。
渚が店を出たのを確認して、藤堂はシャッターを閉める。背後で急かす明の声が、やけに頼もしく聞こえた。