第一章 指輪に憑いた想い 七
指輪に憑いた生霊、丹沢冴子が成仏した直後の事だ。期を見計らったかのように医師達が雪崩れ込んで来て、静まり返っていた病室は一転、大騒ぎとなった。どう逃げるかと悩む藤堂を尻目に、明はきっぱりと、この人は無事に成仏しましたと宣言した。
それで万事解決した上に感謝までされてしまったから、最初から退治屋だと名乗れば良かっただろうにと、藤堂は呆れた。もしかしたら明も、病院の職員に説明するのが面倒だったのかも知れない。時間がなかったのもあるだろう。
丹沢婦人の遺体を引き取って行った娘夫婦に、明と藤堂はいたく感謝された。なんでも、母親が指輪に固執していた事は知っていたらしい。しかし指輪の行方が分からず、手の打ちようがなかったようだ。だから植物状態の彼女に延命治療を施し、生かしておいたのかも知れない。
藤堂は娘夫婦に指輪を返そうとしたが、えらく恐縮され、依頼料として受け取って欲しいと強く言われた。実際の所、彼らは退治屋に払う依頼料の心配をしていたのではないかと藤堂は考えたが、明が何も言わなかったので、それ以上は言えなかった。
娘夫婦は藤堂に、葬式に出て欲しいと願い出たが、彼はやんわりと断った。退治屋について行っただけで何もしていない藤堂が、葬式に出るのは妙だと思ったからだ。
しかし代わりに墓参りに行くと約束してしまったので、彼は今、自宅から電車を二回ほど乗り継いだ先にある墓地に居る。
丹沢家の墓はついこの間掃除されたばかりのようで、その周囲は雑草も目立たず、整然と片付けられていた。久しく嗅いでいなかった青臭い土の匂いに、藤堂は郷愁に駆られる。といっても彼の故郷は住宅が密集するベッドタウンなので、思い起こしたのは小学校のグラウンドだったが。
花入れの中で枯れかけていた花を捨て、藤堂は途中で買ってきた仏花を供える。故人と直接的な縁はなかったが、墓の前に立つと無意識の内、神妙な面持ちになった。
藤堂は銜え煙草の火を線香に移し、墓前に供えた。もうもうと立ち上る煙が風に煽られ拡散し、空気に溶けて行く。独特の粉っぽい香りが鼻を突いた。
「藤堂さん」
確認する前に、その柔らかな声の主が誰であるか、予想はついていた。若い娘の知り合いなど、藤堂には一人しかいない。振り向くと、予想通りの人物が立っていた。
「ちゃんと来てたんだね」
相変わらず制服姿の明は、藤堂を見上げて悪戯っぽく笑った。元々垂れ気味の目尻が更に下がり、おかっぱ頭も相まって稚児のように見える。膝上丈のスカートが、風に靡いてはためいた。
「約束、しちまったし」
言いながら藤堂は、携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。流石に墓場に吸い殻を捨てるような、罰当たりな真似は出来ない。
「来ないと思ってた」
からかうような明の口振りに、藤堂は軽く肩を竦めて見せた。
「まあ、このぐらいはね」
困ったような苦笑いを浮かべて、藤堂は柄杓が刺さったままの手桶を持ち上げる。明は快活に笑った。
その場から離れて出口へ歩いて行く藤堂の背を、明はのんびりとした歩調で追う。
雲一つない晴天だった。頬を掠める爽やかな風に、藤堂は思わず目を細くする。ついこの間、命の危険に晒されるような出来事が立て続けに起きたとは、到底思えないほど気分が良かった。
出口付近の通路脇に並んだ水子地蔵の前で立ち止まり、藤堂は桶を地面に置く。手を合わせて目を閉じた藤堂を見て僅かに微笑むと、明は藤堂と同じく地蔵に向き合って黙祷を捧げた。
「あの指輪ね、やっぱり婚約指輪だったみたい」
明は唐突にそう言って、振り向いた藤堂に微笑を浮かべて見せた。その表情はどこか、悲しそうにも見える。果たしてどこで聞いてきたものかと、藤堂は訝る。
「でも旦那さんの仕事が上手く行かなくて、結局売るハメになっちゃったの。その後仕事はなんとか持ち直したんだけど、指輪は次々転売されて行方知れず。冴子さんは、ずっとあの指輪を探し回ってたんだよ」
「よくそんなに買い手がついたな」
「イニシャルが彫ってあったから、隠してネットオークションで売られちゃっただけじゃないの? とにかく、指輪を探し回る冴子さんの念だけが指輪に辿り着いて、強い想いが生霊になった。返さなくて、逆に良かったかも知れないね」
墓地から駅までの道のりは大した距離ではなかったが、藤堂にはやけに長く感じられた。
「なんで?」
短く問い返すと、明は少し困ったような顔をした。藤堂は頭の回転が良くないので、遠回しにものを言われても理解出来ない。こと幽霊に関しては、元から知識もない。
「そんなに強く想ってた指輪だよ。持って行ったら、向こうでばれちゃう」
向こうというのがどこの事なのか藤堂には分からないが、罪がばれるという事なら、確かにそうかも知れないと思った。
成仏した霊は皆、幽世と呼ばれるあの世とこの世の狭間で、一旦滞留する。そこがどんな場所なのか、何の為に存在するのかはそこへ行った霊しか知らないし、彼らは黙して語ろうとはしない。何より一度幽世へ行った霊は、概ね口が利けなくなる。
幽世については様々な憶測が飛び交っているが、一般的な見解は、そこが裁判所であるというものだ。極楽へ行くか地獄へ行くか、そこで判断がなされるのだとされている。
そこへ罪の証である指輪を持って行ったら、どうなっていただろう。彼女の罪は糾弾され、地獄へ落ちていたかもしれない。それでは苦労して浄化したことが全て、無に帰してしまう。存在を消されるのとどちらが恐ろしいだろうと、藤堂は思う。
一人の女性が長い間思い続けた指輪は今、藤堂の家のタンスの隅にしまい込まれている。買い取ったのだから、また商品として並べても良かったが、イニシャルが彫ってあるものなど売れない。
イニシャルを隠して売る事も、出来る事には出来る。けれど、それも故人に対して申し訳ない気がした。女物の指輪など持っていても仕方ないが、藤堂は、もらったものは取っておく主義だ。
十字路に差し掛かった時、明は駅とは違う方向を指差して藤堂を見上げた。大きな目が悪戯っぽく輝いている。
「ねえ、この先、海があるの。行かない?」
藤堂は軽く肩を竦め、指差した方向へ足を向ける明の後をついて行く。断る理由もないし、ここで別れるのも、あっさりしすぎて味気ないような気がした。
墓地から続く緩やかな勾配の坂道を下りきると、急に視界が開けた。道路の先に、小さく海が見える。
シャツの胸ポケットに入った煙草の箱から直接一本取り出し、藤堂は明に声を掛ける。
「お前さ、なんであの婆ちゃんだって分かったの」
明は困ったような表情で、煙草に火を点ける藤堂を見ていた。言い辛い事なのだろうかと、藤堂は思う。
舗装された道路は永遠に続いて行くように思えたが、意外に早くガードレールにぶつかる。正面に広がる海から漂ってくる微かな潮の香りに目を細め、藤堂はガードレールを跨いで歩道に入った。
「最初に見た時には、生霊を飛ばしてる人が植物状態だって事は判ったの。霊体がかなり変質していたから。それから大きい病院を当たって、そういう患者を探したんだけど、名前が分からないから、特定出来なくて」
植物状態の家族を生き長らえさせる人間は、そう多くない。昔は延命治療の中断は躊躇われていたし、中断することで、罪に問われることさえあったという。けれど死後の世界が存在すると一般的に認知された今、安楽死は家族の了承さえあれば、法的にも認められる。
何しろ成仏することが、人間が目指すべき幸福であると広く認知される時代だ。死者の魂は常世で幸せになるのだと信じられているから、高い金をかけて生かし続ける者はいない。どちらがいいのかは、藤堂には分かりかねる。
「イニシャルで特定したのか」
明は小さく頷き、海の方を向いてガードレールに凭れかかった。おかっぱの黒髪が風に靡いて、さらさらと流れる。
太陽の光を反射して煌めく水面が、眼前に広がっている。風に乗って耳に届く、寄せては返す波の音を聞いていると妙に感傷的な気分になり、藤堂は海に背中を向けた。
「ねえ藤堂さん。質屋、儲からないんでしょ」
藤堂は視線だけを明に移した。
「そりゃな」
「だったら、私と浄霊屋やろうよ」
藤堂は明に向き直り、訝しげな視線を落とした。真っ直ぐに見上げて来る明の大きな目には、曇りがない。
「一人で浄霊屋やるには、限界があるの。私、見ての通り若いでしょ。事務所も借りられないから、いまいちお客さんに信用してもらえなくて」
フリーだったのかと、藤堂は少々驚いた。歳が若いから、どこかの会社で働いているのだとばかり思っていた。
「……浄霊屋って何」
藤堂の問いに、明は面食らったようだった。目を丸くして、まじまじと藤堂を見る。
「知らないの?」
「拝み屋と霊媒師と退治屋ぐらいしか知らねえ。あと陰陽師か」
明は何故知らないのかと言わんばかりに表情を歪めたが、藤堂は当たり前のように知らなかった。
彼には霊感がないから興味もないし、その辺りの仕事を志したこともない。職業の区別に関しては学校の授業で聞いたような覚えもあるが、碌に聞いていなかった。そもそも、まともに授業を受けるような子供でもなかった。
「あのね、拝み屋は幽霊からの依頼を受けて、この世への未練を断ち切ってあげるの。成仏させるのね。こういう仕事の中で今一番多いのは、拝み屋かな」
「ああ……」
そういえばそんな話を聞いたような気もするが、何しろ藤堂にとっては十年以上前の話だ。まともに授業を受けていたとしても、覚えてはいなかっただろう。
「退治屋は、幽霊を退治するでしょ。生きてる人から依頼を受けて、悪霊を退治する。これはただ、存在を抹消するだけ。退治屋って一番有名だけど、大きいのは鳳ぐらいだよ」
藤堂は黙ったまま頷く。確かに、話に聞く限りでは退治屋の知名度が一番のようだが、その中で随一だという鳳コーポレーションの名前さえ、藤堂はついこの間まで知らなかった。
「それから霊媒師。これはふつう、遺族か霊本人から依頼を請けて、自分の体に降霊するの。成仏した霊も対象だから需要はあるんだけど、供給がついて行ってないんだよね」
「降霊?」
「いわゆる口寄せだよ。喋れない霊の言葉を、生きてる人に伝えるの。恐山のイタコとか、有名でしょ。知ってるよね?」
藤堂は顎を掻きながら、曖昧に頷いた。いまいち理解していないような彼の様子に、明は呆れた顔をする。
「……まあいいけど。それで、霊媒師の中でも力の強い人は、悪霊を体内に封じ込めて浄化する事が出来る」
「そりゃ初耳だ」
「職種の事なんか、四十年ぐらい前から学校で習うようになってる筈だけど……浄霊屋は、退治屋と霊媒師の中間みたいなものだよ。生きてる人から依頼を請けて、悪霊を浄化する。絶対数は少ないけど仕事の内容が危険だから、一番依頼料取れるよ」
藤堂は眉間に皺を寄せて、明から視線を外した。
「あー……よくわかんねえけど分かった」
「わかってないじゃない」
明の呆れた視線が、藤堂には少々痛い。まさか十七、八の小娘に社会の常識を教えられるとは思っていなかった。知ろうとしなかった自分が悪いから、余計に忍びない。
「まあいいや。藤堂さんには霊感ないけど、守護霊の方には素質あるよ。動きを止めてくれるだけでも、充分やりやすくなるから」
「……それ、俺に得あんの?」
怪訝に聞いた藤堂の顔を覗き込み、明は指を二本立てて見せた。両の口角が、どこか楽しげに上がっている。
「依頼料二等分でどう? 手伝ってくれるだけでいいの。その代わり、お店を事務所代わりに使わせて」
依頼料というのがどの程度の金額なのか、藤堂は知らない。相場はそれぞれあるようだが、退治屋や拝み屋の厄介になる事がなかったので、知る機会がなかった。何れ質屋だけをやっているよりは、収入自体は増えるだろう。
しかし幽霊関係の仕事を始めてしまえば、国からの助成金は貰えなくなる。どちらが得なのか、藤堂には分からなかった。
「表向きは質屋って事にしておけばいいよ。そうすれば助成金は出るでしょ。私に事務所の住所さえ貸してくれれば」
藤堂の懸念を見越したようで、明は朗らかにそう言った。しかし藤堂は表情を歪める。
「明ちゃんそれ、詐欺って言うの。つーかバレるから」
「メイって呼んで。宜しくね、藤堂さん」
藤堂の突っ込みを軽く流して、明は片手を差し出す。藤堂はその手を暫く渋い表情で見詰めた後、軽く握り返した。