第八章 生を知る 四
全身を揺さぶられるような衝撃につんのめって、藤堂はその場に膝をついた。揺さぶられるような、ではない。世界が揺れている。渚が悲鳴を上げて執事に抱きついた拍子に、ゆなの頭が彼女の背中にぶつかった。
背後から轟音が聞こえて、渚は更に叫び声を上げる。聞こえてきた方向と、ガラスが割れたような高い音から察するに、玄関ホールにあったシャンデリアが、とうとう落ちたのだろう。来る時間がもう少し遅かったら、全員下敷きになっていたかも知れない。藤堂はそう考えてぞっとする。
よろめいたゆなを執事の手が支え、片腕に抱き込んだ。大きな揺れが続いているにも関わらず、彼自身は微動だにしない。霊は地震の影響を受けないのだろう。
「ちょっと、何これ!」
苛立たしげに叫んだ明は、慌てて足下に屈んでいた藤堂の頭を掴む。彼女も執事と同じく、揺れてはいない。気になってふと視線を移すと、ゆなと渚を抱えて踏ん張る執事の向こうで、芹香が壁に手をついて顔をしかめていた。
「何コレじゃなくて地震だろ。なんで俺の頭掴むんだよ、お前どうせ地震関係ねえだろ」
「長い! やだ、長い!」
「やだって言われても」
怖いものなしの明も、虫と天変地異は苦手のようだ。確かに長いが、周りに扉しかなくて良かったと藤堂は思う。店は大丈夫だろうか。
大きな揺れが収まった後も、明はまだ藤堂の頭にしがみついていた。ゆなは早々に執事から離れたが、渚は未だ、彼の胸に顔を埋めたまま離れようとしない。
「妙だな」
壁から手を離した芹香は、未だ動かない五人を置いて、廊下の突き当りまで進んだ。ガラスにひびが入った窓から外を覗き、怪訝に首を捻る。
「何?」
明の腕を離させてから立ち上がり、藤堂は短く問い返す。芹香は彼を振り返り、窓の外を指差した。
「人が歩いていないから確実ではないが、外はなんともなさそうだ。そこの木は揺れてもいなかった」
あの状況で、そこまで見ていたのだろうか。彼女なら地震など物ともしないだろうとは思っていたが、そこまで冷静でいられると、些か複雑な気分だ。ゴキブリはあんなに怖がっていたというのに。藤堂はどちらも平気だから、基準が分からない。
「ここだけが、揺れていたということですか」
「そうなるな……っ」
ゆなの問いに頷いて視線を階段へ移した芹香が、目を見開いて後ろへ飛び退いた。その足下に、巨大な鎌が突き刺さる。いや、透けているから、刺さった訳ではないのだろう。
明が取り落とした刀を拾い、慌てて芹香の下へ駆け寄った。鋼のような輝きはなく、全体が暗い灰色をした鎌は、一旦後ずさりするように二人から離れる。
鎌はそれ自体が意思を持っているかのように再び首をもたげ、芹香へ襲い掛かった。彼女が避ける前に明が刀を突き出し、鎌を受け止める。弾き返した隙に芹香が廊下へ逃げ、明も廊下側へ戻った。さすがにあの狭い場所では、戦えないだろう。
二人を追って廊下へ出てきたのは、下半身と両手が鎌状に湾曲した奇怪な霊だった。カマキリのような顔には、赤ん坊の拳ほどもある目しか存在せず、その目も曇りガラスのように濁っている。実際に、カマキリとの融合霊なのかも知れない。
「これちょっと、危ないかも」
呟いた明は正面から襲い掛かる鎌を刀で弾き返し、その勢いのままカマキリの頭部へ振り下ろす。しかし反対側から繰り出された鎌に驚き、慌てて後ろへ飛び退いた。
刀一本では、太刀打ちできないかも知れない。しかしあの巨大な刃を見る限り、明以外が手を出したら簡単に切られてしまうだろう。この狭い廊下では、刀で受け止めるか後ろへ逃げるか、それしか方法がない。
霊の鎌が、避けた明に向かって振り下ろされた。慌てて刀で受け止めた彼女の腹部へ、反対側の鎌が迫る。明はそれを蹴って跳ね返したが、壁をすり抜けて行った後すぐに戻ってきた為、結局また後退するしかなかった。
「メイさん、こちらへ」
明のすぐ後ろの扉を開けたゆなは、彼女に向かって手招きする。明はすぐに部屋へと駆け込んだが、霊の方はついて行かなかった。鼻も耳も口もない顔を、扉を押さえるゆなに向ける。
ゆなは慌てて逃げようとしたが、鎌が振られる方が速い。鈍色の刃がヘルメットに当たる寸前、飛び出した執事の拳が鎌へ当たり、勢い付いたまま壁に激突した。
老朽化した壁に亀裂が入り、砕けた破片がゆなの頭上へ落ちる。霊の動きが止まったと見るや、ゆなは明が入った部屋へと駆け込んだ。執事が壁から腕を抜くと、鎌の刃に当たって切れたのだろう、赤黒い血が床へ落ちた。
執事は更に拳を構えて攻撃しようと試みるが、それより早く、霊が空中で後転した。下半身の巨大な鎌が執事の顎を狙うが、彼はすんでの所で後ろへ飛び退いた。避けた彼へ、更に鎌が迫る。
「背後から狙うのは好きじゃないんだがな」
執事に向かって振り被った姿勢で、霊の動きが止まった。その腹から、黒い革手袋を嵌めた手が突き出ている。その手の甲は、燐光を放っていた。
「元々イーブンではありませぬ」
空気を入れすぎた風船が割れるような音が、廊下中に響き渡った。霊を抹消した芹香は、扉から顔を覗かせるゆなの頭に掌を乗せ、軽く叩くように撫でる。
「平気か」
「ノープロブレム」
普段どおりの調子でゆなが答えると、芹香は口元に笑みを浮かべて頷いた。しかしすぐに視線を廊下の突き当たりへ向け、表情を引き締める。
「下りよう」
遊んでいる暇はない。何か起きているなら、早く止めなくてはならない。これ以上ここを放置していては、周辺の住民に被害が及ぶばかりだ。
芹香が再び歩き出すと、執事がその後ろに着いた。期を窺っていたのか、札を持った渚がゆなの手を取って、二人に続く。
藤堂がその後ろに着くと、部屋から出てきた明が、何か言いたげに彼を見上げた。足を止めて怪訝に眉を顰めると、明は緩く左右に首を振る。
何かに勘付いたのだろうか。しかし言わないということは、言わなくてもいい事なのだろう。言いたくないのかも知れない。
藤堂は言及せずに、再び歩き出す。繋がれたゆなと渚の手に力が篭もっているのが、傍目からでも分かった。
暗い階段に足を掛けると、爪先から這い上がって来るような寒気を覚えた。拒絶されているのか、本能的に危機を感じているのか、藤堂には判断出来ない。しかしそのお陰で、この下に何かがあるのだという確信を抱いた。
この下に、何かがある。誰が何をしていようとも、これ以上住民に迷惑を掛けるようなら、止めなければならない。友人一家が危ない目に遭うよりは、自分が動いた方が幾分ましだ。
逆にここで誰かが、何かを止めようとしているのだとしても。その時は、手助けすればいい。それが仕事だ。
階段を下りていくにつれて、足の動きが鈍くなる。心なしか、饐えた臭いが漂っているような気もする。前を歩く四人の歩調が変わる気配はないから、自分だけなのかも知れないと、藤堂は思う。またコウが嫌がっているのだろうか。
後ろを振り返って明の様子を確認すると、彼女は俯いたままだった。藤堂の視線にも気付かない。ただ、粘度の高い空気が濃くなって行くのには、気がついているようだった。霊は呼吸をしないから顔色では分からないが、動きが少々鈍くなっている。
「息苦しいのです」
「空気が重いですわ。なんだか臭うし……」
溜息混じりにぼやいた渚は、ふと振り返って目を丸くした。藤堂は彼女の視線に気付いて、怪訝に眉を顰める。
「ちょっと藤堂、あなた真っ青じゃない」
藤堂は更に、表情を歪める。自覚がなかった。確かに息苦しさはあるが、呼吸が出来ないという訳ではない。
渚の声に反応して、俯いていた明が、暗い表情のまま顔を上げた。疲れているようにも見える。
「コウ君達の力が、ちょっと弱まってるんだよ」
え、と渚が呟いた。先を歩いていた芹香が立ち止まって振り返り、不安そうに眉尻を下げる。その表情を見て、藤堂は何故だか少し、落ち着いた。
「匡、平気なのか?」
「いや、俺は別に」
しかし足が重くなっているのは、確かだった。前回来た時も同じような感覚はあったので、また少し酷くなっている、程度にしか思わなかったのだが。
だとしたらここ自体の問題ではなく、守護霊達のせいだったのだろうか。ならばコウが屋敷に立ち入るのを止めようとしたのは、自分達の力が弱まっているせいなのだろうか。それでもここまで来てしまった以上、一人で戻るのも心細い。
「とにかく急がなきゃ。歩ける内に」
明に背中を押され、藤堂は一歩階段を下りた。歩ける内にという意味がよく分からなかったが、彼女は何でも誇張する癖がある。少々不安にもなったが、歩けなくなる程ひどくはならないだろうと、藤堂は自分を落ち着かせる。
心なしか、芹香の歩くペースが速くなっている。焦っているのは元々だったが、ここへ来て更に気が急いてしまったのだろう。そんな彼女の様子にさえ、藤堂は不安を募らせる。
薄暗い階段には、点々と明かりが点っていた。それも古めかしい裸電球がぽつぽつと下がっているだけで、足下を照らす程度の光量しかない。暗さも手伝ってか、恐ろしくさえあった。
「あった、扉だ」
そろそろ帰りたくなってきた藤堂にとって、その声は救いだった。コウの様子に続き、明の言葉に不安ばかり煽られていたが、ここまで来ればもう大丈夫だろうと、安堵する。
否。これから、なのだ。
階段の正面、扉の前にはスペースが全くなかった。全員が下り切ることも出来ないだろう。全員がついて来ている事を確認し、芹香は扉を開ける。焦っているのだろうが、彼女も案外無謀だ。
扉が開いた瞬間、饐えた臭いが鼻を突いた。かび臭いような汗の臭いのような、嗅いだことのない臭い。それも到底、いい香りとは言いがたい。埃っぽくも感じる生温い風が階段へと吹き上げ、まともに吸い込んだ藤堂は少しむせた。
扉の向こうは、藤堂には見えない。ただ凍りついたように動かない芹香の背中が、一瞬震えるのが分かった。
「堤君じゃないか」
柔らかな、若い男の声だった。親しげな声から考えるに、知り合いだろう。あの部屋にいるのは予想していた通り、鳳コーポレーションの社長に違いない。
「どう……して」
震える声で、芹香が呟くのが聞こえた。
「そんな所にいないで、入りなさい。後ろの君たちも」
芹香のすぐ後ろにいた執事が、主に意見を求めるように振り返った。渚は彼に頷いて見せる。動かない芹香の横を抜け、執事が部屋へ入って行った。渚とゆなが、彼の後を追う。
怪訝に首を捻りながらも、藤堂は階段を下りて行く。真っ先に目に入ったのは、漆黒のスーツを身に纏った、金髪の男だった。不健康なまでに白い肌が蛍光灯のチープな明かりに照らされて、淡く発光して見える。薄い唇は弧を描いており、華やかな外見からは年齢の判断がつかない。あの優男が、鳳の社長だろうか。
そして彼の隣にいた初老の男性を見て、藤堂は思わず息を呑んだ。優しげな顔立ちでありながら、どことなく威圧感を抱かせるあの佇まいは、確かに一度見た。今となっては、忘れようがない。
目を見開いたまま動かない芹香を横目で見ると、彼女はようやく唇を動かした。震えながら、形の良い唇がゆっくりと動く。
「父さん……」
震える声を聞いた瞬間、先に入室していた三人の視線が、一斉に芹香へ向いた。
「お……おとう、さん?」
部屋の入り口で立ち止まる藤堂の背後から顔を覗かせた明が、呆気に取られたように呟く。全員、芹香の父親が死んだ事は知っている。それがここにいるということは、つまり。
「ばかな……飼って……」
蒼白になった芹香の腕を掴み、藤堂は軽く引いた。色素の薄い瞳が藤堂を見上げ、微かに揺れる。縋るような目だった。藤堂は痛ましげに眉根を寄せ、掴んだ腕を軽く叩いてやる。
ようやく足を動かした芹香を支えるようにして部屋に入り、藤堂は改めて堤を見た。半透明の彼は、確かに霊なのだろう。彼が悪霊になったとは考えにくいが、普通の霊を使役出来るのは、高屋敷家の人間だけの筈だ。
「ああ、そうじゃないよ」
女のような笑顔だった。これが社長だと言われても、俄かには信じがたい。しかしそう思わせるだけの雰囲気を、彼は纏っていた。端的に言えば、威圧感がある。
しかしそれも堤とはまた、別の感情から来るものだった。堤のそれは物腰や纏う空気に緊張させられるが故のものだったが、こちらは違う。畏怖、とでも言うべきか。柔らかな物腰と優しげな外見とは裏腹に、彼からは何故か、言い知れぬ恐怖を感じた。
「堤君には、言いづらい事なんだけど」
青年は少し表情を曇らせて、横目で堤を見る。彼は能面のような無表情を崩さず、何の反応も見せなかった。あんな人物だっただろうかと、藤堂は訝る。
「私のことを、凄く心配してくれていてね。浮かばれないまま、ここへ来てしまったんだ」
芹香は、何も答えなかった。呆然と父親を見つめたまま、微動もしない。
「その……あなたはここで、何を?」
おずおずと問いかけた明は、些か腰が引けていた。彼女もさすがに遠慮しているのだろう。それとも藤堂と同じように、威圧感を覚えているのか。
「君は知恩院ご夫婦の娘さんですね。若いのに、かわいそうに」
明の表情が俄かに硬くなった。この男は、明が霊である事を知っているのだろうか。否、あの少女の使役者であったならば、知っていて当然だろう。
「何をしているのかと、聞いているのですわ」
続いて問いかけた渚の声は、硬い。怒っているというよりは、返答を急いているような声だった。
男は渚に向き直り、ためらいがちに微笑を浮かべた。
「最近、穴が広がってきているんです」
「穴?」
「そう。常夜へ続く、穴が」
ゆなが息を呑み、身を硬くした。常夜は、罪人が行く場所。常世を天国と言うならば、常夜は地獄と呼ぶべき場所だ。そこは幽世で罰を受けると決定された霊が行く、悪霊だけの世界。
そんな場所へ続く穴が空いてしまったら、どうなるのだろう。ここ最近、悪霊が突然湧き始めたという依頼が増え始めたのは、そのせいだったのだろうか。
「この屋敷は、随分長い間放置されていましてね。人が住まなくなった場所には、霊が溜まる。悪霊ばかりが集まったせいで、境界が緩んでしまったんです」
そんなことが、有り得るのだろうか。藤堂は疑問に思ったが、誰も何も言わなかった。
「あの主を使って、ある程度の均衡を保っていたんですが……一箇所が緩むと、他の所も駄目で。ああ、知恩院君、私が彼女を飼い始めたのは、君のご両親が亡くなった後ですよ」
「両親が死んだ頃、あなたは生まれてなかったでしょうね」
男は大様に頷いた。目を見開いたまま、渚は小さく首を横に振る。信じたくないとでも言いたげな、力の抜けた仕草だった。
「それでは、ここ最近の騒動の発端は……」
「残念ですが」
男の沈んだ声に、藤堂は息が詰まるような感覚を抱いた。この屋敷に、手を出さなければ良かったとでも、言うのだろうか。
この屋敷を封印することに対して反対意見が出なかったのは、そっとしておきたかったからだとでも、言うのだろうか。上層部は、知っていたのだろうか。ならば、何らか対抗策を講じていて、然るべきだったのではないのだろうか。
「社員には、言えなかったんです。たとえ社員にでも、口外すれば混乱は免れない。中立派に属する上層部の人間だけが、本当の理由を知っていました。過激派連中に教えたら、それこそ抹消すると言い出して聞かなかっただろうから」
「その過激派を押さえる為に、穏健派を?」
明が問うと、青年は頷いた。
「済まなかったね、堤君。無闇に社員を解雇する訳にも、行かなかったんだ。分かってくれるかい?」
芹香はやっぱり、何も答えなかった。ただ青褪めたまま、父親を見つめている。当然だろう、無事成仏したと思われたのに、浮かばれないままこんな所にいたのだから。
呆然と立ち尽くしていた渚が、震える唇を開いた。
「私達、なんてこと……」
「いいんですよ、高屋敷さん。あなた方は悪くない。何も言わなかった私が悪いんです」
青年はゆっくりと、こちらへ近付いて来た。藤堂は思わず一歩後ずさる。
「堤君」
芹香の肩が跳ねた。無言で見つめる穏やかな瞳に気付くと、彼女は恐る恐る元上司へ近付いて行く。
「手伝ってくれるね」
心臓が、一際大きく脈を打った。頭の中に、己の鼓動の音だけがどくどくと鳴り響く。
丁度正面に居る芹香の表情は、藤堂からは見えない。あんなにも、彼女の背中は小さかっただろうか。そんな関係のない考えばかりが、藤堂の頭の中を巡る。
「それなら、私達も……」
「知恩院君。霊体である君に、無茶をさせる訳には行きません。高屋敷君のお父様には、散々お世話になっているんです。君にも危ないことはさせられない。執事さんも霊だ。そこの小さなお嬢さんも、ここで事を成すには非力すぎる」
全員をやんわりと拒絶してから、青年は最後に、藤堂を見た。真っ直ぐで、曇りの無い目。あれに見られたら、拒否する気など起きないだろう。
「あなたには、何も出来ません」
言い返す気もなかった。その通りだからだ。何も出来ないから、見守ることが出来ればいいと思っていた。今ここへ来て初めて、それでも駄目なのだと気付いた。
どうして自分には、何も出来ないのだろう。霊の記憶を見るぐらいの事しか、藤堂には出来ない。それもここではきっと、何の役にも立たないのだ。
「具体的に、何をするのです?」
渚が一歩、青年に近付いて、更に食い下がった。
「高屋敷では、ご協力出来ないと?」
「高屋敷家に、ご迷惑をかける訳には行きません。これは私個人の……そうですね、野望とでも言いましょうか」
野望といえども、誰かの為にしている事には変わりない。それを邪魔してしまったのなら、こちらで出来る範囲の協力はすべきだろうと、藤堂も思う。
「堤君、お父上たっての希望でもあるんだ。君は暫く戻れないだろうが……どうかな」
芹香は青年と見つめ合ったまま、何も言わなかった。藤堂は背中がじくじくと痛むような、焦りにも似た感覚に、呼吸さえままならない。
しばらくとは、どれ程の時間だろう。この青年がずっとやってきた事が、芹香一人入ったところで、すぐに終わるとは思えない。
ここへ来るまで抱いていた不安は、これを予期していたせいなのだろうか。離れる事になるから、ここへ来たくなかったのだろうか。どれ程の間、離れなければならないのだろうか。
問いかけることも、藤堂には出来なかった。罪悪感もある。この屋敷を抑えていたという少女を、善意とはいえ浄化してしまったのは、こちらなのだ。あの少女が襲い掛かってきた理由はただ単に、悪霊化していたから、正常な判断が出来なかったというだけなのかも知れない。
無言の間が、痛かった。己の心臓の音だけが頭の中に、耳鳴りのように鳴り響いている。芹香の頭が、僅かに動く。
芹香は。彼女は未だ、彼を――
藤堂はそこで、目を逸らした。絶対に目を逸らさないと誓った彼女から、目を逸らしてしまった。もう、彼女の表情は見えない。
「わかりました」
静かな声が、死刑宣告のように重く肩に圧し掛かる。
「お手伝いさせて頂けますか」
誰の顔も、見られなかった。ただ握り締めた拳を見下ろし、藤堂は唇を噛み締めた。