第八章 生を知る 三
全体が葬式ムードの町に、蝉時雨が降りしきる。うだるような暑さの中、疲れきった表情で歩道を歩く人々は、車道を駆け抜けた黒塗りの車を、見るでもなく眺めていた。彼らの目に生気が感じられないのは、暑さのせいだろうか。
暗い町の中でも特に人通りのない一角へ入って行った車は、朽ちかけた洋館の前で止まる。黒光りする車からまず出てきたのは、刀を持ったおかっぱ頭の少女だった。照りつける日差しの中、眩しそうな素振りすら見せず、彼女は真っ直ぐに洋館を見上げる。
「暑いですわ」
文句を垂れながら車から降りた渚は、洋館を見上げる明を見て、眩しそうに目を細めた。運転席から降りた藤堂は、同じく明に視線を向けて顔をしかめる。セーラー服の白い生地に光が反射して、ひどく眩しい。
続いて出てきたゆなは、明の隣に立ってしっかりとヘルメットを被り直した。幾重にも貼られた札は、古くなったものを新しいものに交換してある。
ゆなは邪魔にならないようにとの配慮からか、髪を一つに結んでいた。しかし彼女は特に何をするわけでもないので、意味がないようにも思える。気分の問題なのだろう。
「前よりも、ひどくなっているな」
最後に芹香が降りてくるのを待って、藤堂は車をロックした。盗み見た横顔はいつものように凛として美しかったが、どこか陰が落ちているようにも見える。
無理もないだろう。霊感のない藤堂でさえ、この場から逃げ出したくて堪らなくなっている。それほど、目の前の屋敷からは、人を寄せ付けない不快な空気が漂って来ていた。夏だというのに、この周囲だけ冷えきっているかのようだった。
黒縁の眼鏡越しに見た屋敷の周囲は、以前来た時からさほど変化はない。しかし屋敷自体から放たれる威圧感は、以前の比ではなかった。ここに訪れる者全てを拒むかのような、胸の内をざわつかせる空気。敷地内に足を踏み入れる事さえ躊躇われた。
錆びた門に手をかけた芹香は、久しぶりにスーツを着ていた。社長と対面することを想定したのかも知れないが、どちらにせよ暑そうだ。会社にいた時は、よほどひどい現場でない限りはスーツでいたようだが、動きにくそうでもある。
「昨日一晩、考えてみましたの」
札を振りながら、渚は暗い表情で呟いた。札から出てきた、ロマンスグレーにして筋肉隆々という異様な風体の執事は、渚を守るように隣へ寄り添う。彼は心なしか、普段より幾分厳しい表情を浮かべていた。
門を開きかけた手を止め、芹香が肩越しに渚を振り返る。渚は、俯いたまま顔を上げようとしなかった。
「もしかしたら社長さんには何の悪意もなくて、ここで何かしようとしているのも、ここに悪霊を集めて、いっぺんに退治しようとしているのではないかと……」
明が驚いたように目を丸くして、刀を握り締めていた手の力を僅かに抜いた。ゆなが無表情のまま、首を傾げる。
「集めるだけ集めていたのはそうだとして、退治をしておられた形跡はあるのですか?」
俯いたまま首を左右に振り、渚は小さく溜息を吐いた。聞くところによれば、彼女の父親と鳳の社長は、昔から懇意にしているのだという。だから彼女は父親から、社長の話を聞いたのだろう。
それとも、悪事を働いているのだと、今更考えたくなくなってしまったのだろうか。何にせよ、昨日までの彼女の様子からは考えられない発言だと、藤堂は思う。一晩経って、頭が冷えたのかも知れない。明と同様に怒りっぽい彼女だが、こういう冷静な判断が出来る分、向こうより大人だ。
「分かりませんわ。抹消すれば、何の痕跡も残りませんから。そういう可能性も、なくはないということです」
渚の不安に気持ちが揺らいだのか、明は首を竦めて上目遣いに彼女を見上げた。
「そうだとしたら、無駄足ってこと?」
「そうでもないさ」
錆びて朽ちかけた門の蝶番が、不快な音を立てた。手に付いた赤錆を払って手袋を嵌めながら、芹香は敷地内へ足を踏み入れる。彼女の歩みには、躊躇がなかった。芹香は芹香で、一晩経って考えがまとまったのかも知れない。
ふと足元を見ると、今にも泣き出しそうな表情で、コウが洋館を見上げていた。怪訝に思って首を捻ると、少年は縋るような目で藤堂を見つめる。
「そうだとしたら、手伝うぐらいは出来るだろう」
藤堂と目を合わせたまま、コウは大きく首を左右に振った。芹香の言葉に対する否定であるのか、行くなと言っているのか。めっきり喋らなくなった彼の意思は、藤堂には伝わり難い。
行くなと言われても、引き下がる訳には行かなかった。確かにこの屋敷には、入りたくない。それでも、コウに言われたから車で待っているとは言えない。ここで丸投げしたくはなかったし、ここまで来たのだから、という気持ちもある。
何より、不安だった。何がと聞かれれば、明言は出来ない。ついて行って、見ていなければならないような気がしていた。そうでないと。
そうでないと、どうなるのだろう。
「どちらの可能性も、行ってみるまでは捨てきれませぬ。ここで長々相談していても、真実は分からないのです」
渚は伏せていた顔を上げ、ゆなを見た。感情の読み取りづらい無表情は、いつもと大差のないものだ。それに背中を押されたのか、渚は曇らせていた表情を引き締める。
変わりのないゆなの様子に、安心したのかも知れない。明は一足先に洋館へ近付いて行く芹香の背中を見た後、後ろの三人を振り返った。
「百聞は一見にしかず。行こ!」
明はコウの表情には、気付かなかったのかも知れない。すぐに洋館へ向き直り、敷地内へ入って行く。それに渚とゆなが続き、藤堂はしんがりで門をくぐる。コウは藤堂にしがみ付いたまま離れようとしなかったが、藤堂を止めようともしなかった。仮に止められていたとしても、藤堂は聞かなかっただろうが。
全身に纏わりつくような、粘ついた空気が漂っている。そのくせ妙に冷えていて、全身に鳥肌が立つ。一歩一歩足を踏み出す事さえ、藤堂には辛かった。一番霊の影響を受けやすいゆなは、ヘルメットをしっかりと押さえたまま、渚の服の裾を握っている。藤堂の傍にいるよりは、渚と居た方が安全だろう。
鉛でも流し込まれたかのように、足が重い。気を抜くと泥濘に捕らわれて、永遠に抜け出せないのではないかという不安にさえ襲われる。この屋敷が纏う空気のせいもあるのだろうが、コウが行かせまいとしているのかも知れない。
ゆっくりと館の前へ進んだ芹香は、取っ手に取り付けられた南京錠を外すと、大きな扉を躊躇なく開け放った。藤堂は一瞬身構えたが、薄暗い玄関ホールに、霊の姿はない。些か拍子抜けしたが、この間のように湧いて出てくる可能性はある。
開けたそばから明が真っ先に入って行ったので、芹香はそのまま、片手で扉を押さえて道を開けた。明に続いて厳しい表情の執事が入り、ゆなの手を握った渚が、その後を追う。気乗りのしない藤堂も彼女らに続こうとしたが、背筋を這う冷たい感覚に身震いし、足を止めた。
完全に、足が竦んでしまっている。藤堂自身は、体が動かないほどの恐怖は感じていなかったのだが、足が言う事を聞かなかった。これも、コウのせいだろうか。
踏み込もうとした姿勢のまま硬直した藤堂を見て、芹香が首を捻る。臆していると思われるのも癪だったが、動かないものは仕方ない。何より彼女も霊感は強いから、コウが引き止めているなら、それと気付くだろう。
「どうした」
「いや、コウが」
不思議そうに瞬きをした彼女は、藤堂の足元に視線を落として、ああ、と納得したように呟いた。扉を背中で押さえたまま、考え事をするように顎へ手を当てる。
芹香の視線が、館の中へ向いた。玄関ホールを見回す明は、しきりに首を捻っている。霊の陰も形もないことを、怪訝に思っているのだろう。
「行きたくないのか」
コウに視線を戻して、芹香はそう聞いた。藤堂の腰に顔を押し付けていたコウは、彼女を見上げて首を横に振る。彼自身が臆している訳ではないらしい。
「匡を行かせたくないのか」
コウの薄い眉がしかめられた。返答に困っているような表情だが、行かせたくないと言えば、その通りなのだろう。曖昧だが、それぐらいはなんとなく分かる。
自分の守護霊が何を考えているのか、藤堂には分からない。けれど彼の意思ぐらいなら、少しは伝わってくる。彼が今藤堂を引き止めているのは、恐らく何かを予期しているからだ。同じく藤堂にも、明言は出来ないが、予感だけはしている。行かなければいけないような、気がする程度ではあるが。
「大丈夫だよ。匡は私が守る」
「そういう問題じゃないと思う」
言いながら藤堂は、これでは立場が逆だと自分を情けなく思う。芹香は頼りがいがありすぎる。自分が女だったら、間違いなく惚れていただろうとも思う。そうでなくとも惚れてはいるが。
ふと視線を落とすと、コウがこちらを睨んでいた。藤堂は思わず顔をしかめる。文句があるなら言えばいいだろうにと思うのだが、そういう訳にも行かないのかも知れない。守護霊に関しての制約は、藤堂には分からない。
ふてくされたように唇を尖らせたコウは、渋々といった様子で、藤堂から少し離れた。ようやく足を動かせるようになった藤堂は、扉を押さえながら玄関ホールへ入って行く。入った瞬間再び寒気に襲われたが、一人で鳥肌を立てている訳にも行かない。
芹香が扉から背を離したので、藤堂は後ろ手で閉めた。カビと埃の臭いが、呼吸をする度に鼻を突く。
前回吸い込まれた天井を見上げると、相変わらず薄汚れたシャンデリアがぶら下がっている。既に随分と老朽化しているあれが頭上に落ちてきたら、ひとたまりもないだろう。霊が無機物に触れないことを、これ程までに有難いと思う事も、他にない。
「何もいませんわね」
ハンカチで口元を押さえた渚が、くぐもった声でそう言った。確かに、見る限りでは何もいない。注意深く周囲を見回していた執事が、渚の声に頷いた。確かに霊の姿はないようだ。しかしそれが逆に、恐ろしく感じられる。
「でもなんか、嫌なかんじ」
長袖を着た腕をさすりながら、明がぼやいた。
「とにかく、行くか」
「どこに?」
出鼻をくじかれて、芹香は渋い表情を浮かべた。藤堂を振り返った彼女は一つ咳払いをした後、既に何度も確認した室内へ視線を巡らせる。ホールの左右に扉があるが、まさかここで手分けして探す訳にも行くまい。
そもそも、探したところで誰かがいるのかどうかさえ分からない。ここで社長が何かしている、というのもただの憶測であり、確証などありはしないのだ。
それでも、確実に何かが起きている。ここへ来るまでの町の様子から考えてもそれは明らかだったし、前回来た時よりも、遥かに空気が淀んでいる。依頼自体は、再び悪霊が溜まり始めた原因を突き止め、解決して欲しいというものだから、原因さえ分かればなんとかなるだろう。
「全員で行くのも非効率的だが……探すしかないな」
言いながら、芹香は扉へ歩み寄っておもむろに開いた。藤堂は一瞬身構えたが、何かが飛び出して来る訳でもなく、ただ広い部屋があるだけだった。破れた大きなソファーが置いてあるから、応接間だったのだろう。
室内を覗き込んで暫く見てから、芹香は振り返って首を左右に振った。何もなかったのだろう。この調子で探していては、時間がいくらあっても足りないような気がする。
「手分けするのも、危ないかも知れませんわね。何があるのか、全く分からないのですから」
「社長さんが善意で何かやっているのならば、簡単に済みそうなのですが」
ゆなが呟くと、芹香が静かな声で答える。
「そうとも限らんからな」
明が驚いたように芹香を見上げたが、藤堂の位置から彼女の表情は窺えない。何かを諦めているような、怒りを押し殺しているかのような、冷たい声だった。
芹香が開けた方とは反対側の扉へ近付き、執事はゆっくりとドアを開いた。僅かに開けた隙間から頭を突き出すような形で室内を覗き込み、肩越しに振り返って首を左右に振る。こちらにも、何もないようだった。
「中に扉とかは、ないんですか?」
明が問いかけると、執事は更に首を振る。大きな洋館だが、面積が広いだけで、部屋数は少ないのかも知れない。
「そういえば、廊下の突き当たりに下り階段あったよね」
明の言葉に頷いたのは、今度も執事だった。ショートカットで主の部屋まで行ってしまった藤堂は、前回道中で何があったのか知らない。
「じいやは気にしておりましたわね」
「そちらも同じ構造だったなら、どちらへ行っても同じか」
言いながら、芹香が中二階に繋がる正面の階段に向かったので、明が慌てて後を追った。六人の一番後ろを歩きながら、藤堂は怪訝に眉根を寄せる。
芹香は何か、焦っているように思われる。何か知っているのか、知らないから焦っているのか。どちらにせよ彼女の性格上、知っているのだとしたら全員連れては来ないだろう。
もしも来るなと、言われていたら。それはそれで、藤堂は尚のこと訝っていただろう。出来る事ならついて来たくは無いと思っていたが、来るなと言われたところで、きっと引き下がりはしなかった。矛盾している上に不純な動機だが、些かほっとした。
行きたくないと思ったのは、何故だったろう。大企業の社長を相手取って戦いたくなかったから、だろうか。そうと決まった訳ではない。渚が言ったように、向こうは悪事を働いているのではないかも知れない。
コウが引き止めたからだろうか。行くべきではないと、彼が判断したからだろうか。そうだとしたら、未だに他人に流されているのだろうと、藤堂は心中溜息を吐く。少しは変われたと、思っていたのだが。
「何もいないね」
中二階の階段を上って左側の扉を開けた明は、落胆とも取れるような気の抜けた声を漏らした。
「私一番後ろに行くから、芹香さん先に行ってください」
ああ、と呟いた芹香は、一度肩越しに振り返る。藤堂と目が合ったが、何も言わずに正面へ向き直った。彼女のその態度に、藤堂は何故か不安を煽られる。
声を掛けられなかったことが、嫌だった訳ではない。そこまで子供ではないし、話す事もない。
ただ、彼女の髪が翻るのを見て、胸が痛んだ。このまま芹香が、いなくなってしまうような気がした。それすらもただの懸念に過ぎないし、嫉妬心から来るものであることも、重々承知している。
嫉妬、なのだろうか。
藤堂は自問したが、納得の行く答えは出そうになかった。それとは少し、違うように思われる。
彼女は誰に何を言われても、社長の下へは戻らなかった。戻れば誰も傷つきはしなかったし、彼女自身悩むこともなかっただろう。もしかしたら、過激派の手からも守ってくれたかも知れない。それでも、彼女はこちら側を選んだ。
そんな事を気にしている訳ではないのだ。今自分が気にしているのは、そんな事ではない。もっと単純で、下らないこと。
「藤堂さん?」
背後から聞こえた声に、藤堂は肩を震わせた。横を向くと、顔を覗き込む明の不安げな目と目が合う。
「どうしたの?」
答えられなかった。藤堂は曖昧に笑って、正面へ向き直る。こんな時に馬鹿な事を考えるなと、怒られるに違いない。それとも、説得されるだろうか。
諦めたのか、明はそれ以上、何も聞かなかった。いや、聞けなかったのだろう。
足元が、大きく揺れた。