第八章 生を知る 二
藤堂は夏休みと定めた日数の内、二日は実家に帰っていたが、残りは鹿倉一家に誘われて沖縄へ行っていた。迷惑をかけた詫びに旅費は持つというから、藤堂もあっさりついて行ったのだ。
しかし実際のところは、子供のお守りとして連れて行かれたに過ぎない。一緒に行った芹香は楽しそうだったが、体力のない藤堂は、早々にだらけていた。それでも夜には元気になってしまうから、人間というのは不思議なものだ。
短い夏休みが明けた日。一番に事務所へ顔を出したのは、ゆなだった。テスト期間が終わって、夏休みに入ったのだろう。
ゆなは挨拶もそこそこに、カウンターへ腰を下ろした藤堂を見るなり、駆け出した。日焼けした腕にまともにぶつかって来られて、藤堂は思わず悲鳴を上げる。
「痛っ、ちょ、離せお前!」
素直に手を離したゆなは、頭の天辺から爪先まで藤堂を見て、にやりと笑った。
「黒くなりましたね藤堂さん。黒くて硬くて大きくて素晴らしいのです」
「何が硬いの、お前の頭?」
言いながら、藤堂はゆなのヘルメットを拳の裏で叩いた。ゆなは不満げに唇を尖らせる。何が気に食わなかったのか、藤堂には分からなかった。逐一ゆなに付き合っていては、こちらが疲れてしまう。
藤堂の横へぴったりとくっ付いたゆなは、店内を見回して首を捻った。
「皆さんまだなのですか?」
曖昧に返事をして、藤堂は肩越しに背後の扉を見る。溜まった洗濯物を干していたから、まだ時間が掛かるだろう。ゆなに視線を戻すと、彼女は恨みがましい半目で藤堂を見ていた。
「そんなに熱い夜を過ごしたのですか」
「ちげえよ、洗濯物」
「新婚さん気分ですか。藤堂さんにはゆなという伴侶が」
「ないから」
藤堂は既に疲れていた。明は渚に預けているから、渚が来るまで一人でゆなの相手をしなければならない。手際の悪い芹香に任せず、洗濯ぐらい自分ですれば良かったと後悔した。
呑気なものだ。暑さは変わらないが、休み前より幾分疲れが取れている為か、気分は良かった。このまま依頼が来なければいいのに、とさえ思う。
背後の扉が開く音がした。ゆなは首を巡らせて、真後ろの扉を振り返る。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
芹香の肌は、相変わらず白いままだった。赤くなるだけで焼けないそうだが、それもまた痛々しい。
芹香は携帯電話を片手に持ったまま、店側へ下りてきた。体に張り付いたTシャツを押し上げる豊かな胸に視線が行きかけたが、藤堂はさり気なく目を逸らす。隣でゆなが、両手を合わせて拝んでいた。
「今、メイから連絡が入ってな。随分慌てて……」
芹香が言いかけたところで、自動ドアが開いた。セーラー服を来た少女が飛び込んで来るのを見て、藤堂は片眉を寄せる。明が慌てている時は、碌な事がないのだ。彼女は片手に、丸めた紙を持っていた。
「と、藤堂さん!」
慌てた様子で駆け込んで来たのは、明だけだった。藤堂は渚の姿がない事を訝しく思ったが、彼女は体力がないから、明に置いて来られたのだろう。幽霊は炎天下をどんなに走っても疲れないから、楽でいい。
真っ直ぐカウンターに駆け寄って、明は藤堂の肩を掴んだ。日焼けした肌に圧力がかかり、焼けるような痛みが走る。藤堂は再び悲鳴を上げた。
「いてえよお前ら、嫌がらせか!」
「呑気に日焼けしてる場合じゃないの! 見てこれ!」
明は筒状に丸めた紙を広げ、カウンターの上に叩き付けた。衝撃で机が揺れ、上に乗っていた灰皿がかたかたと音を立てる。灰が零れるのを気にして、藤堂は片手でそれを押さえた。
三人は顔を見合わせてから、明が持ってきた紙を覗き込んだ。パソコンから出力した地図のようだが、所々に赤いペンで、丸印と日付が書かれている。
藤堂はゆなと揃って首を捻ったが、芹香は眉を曇らせた。
「メイ、これは……」
「ここ数日で、突然悪霊が大量発生した家の位置です。他の業者に聞いた所は、正確な場所を教えてもらえなかったりしたので、曖昧に丸がついてますけど」
藤堂は早々に地図から視線を外し、煙草に火を点けた。手持ち無沙汰になると、落ち着かなくなる。
「そんなの、どうやって聞いたの」
「渚さんが聞いて……どうでもいいでしょそんなこと!」
答えたはいいが憤る明に軽く肩を竦め、藤堂は再び地図を確認する。所々に書き込まれた日付を見る限り、夏休み中まで仕事をしていたようだが、問題はそこではないのだろう。
赤い丸印は、遠目で見るといびつな円を描いているように思えた。これが何を意味するのか藤堂には分からなかったが、横目で見た芹香の表情は硬かった。
「何かあるな」
明は真剣な表情で、大きく頷いた。勝手に納得されても、藤堂には理解出来ない。ゆなを見ると、彼女もヘルメットを押さえたまま、未だに頭を傾けていた。
怪訝な面持ちの藤堂とゆなを見て、明は円の中心を指差した。その辺りの地名には、聞き覚えがある。
「ここが、幽霊屋敷」
暫くの無言のあと藤堂は、え、と聞き返した。ゆなは目を丸くして、顔を近付けてまじまじと地図を覗き込む。理解力に乏しい藤堂に、明は呆れた溜息を吐いた。
「つ、ま、り!」
突然聞こえた声に、藤堂は驚いて入り口を見た。白いレースの日傘を畳みながら、渚が事務所内へ入って来る。随分と疲れた顔をしているのは、途中まで明に走らされていた為だろう。
渚はカウンターに近付いて明の横へ立つと、人差し指で地図を叩いた。細い眉が急角度を描いている。
「屋敷で何か起こっているのよ! いくらなんでも、こんな偶然はありえませんわ!」
ふうんと鼻を鳴らして、藤堂はカウンターに頬杖をつく。大方休みの間に、二人で盛り上がってしまったのだろう。二人とも怒りっぽい性分だが、渚は明より理性的な筈だ。その彼女まで憤っているということは、大変な状況ではあるのだろう。
しかしいかに大変だろうと、依頼がない限りは、藤堂達には関係のないことだ。勝手に怒るのはいいが、休み前にゆなが言ったことを忘れられては困る。
「具体的に、どうなってんの?」
渚は首を竦めて口ごもった。カウンター上の地図を叩き、明が藤堂に顔を近付ける。猪突猛進型に思えるのは、幽霊だからなのだろう。彼女は実体化しているから理性は一応あるが、普通の霊と同じように、感情に流されやすい。
「全然関係ない人たちの家に、悪霊が湧き出すようになっちゃったんだよ!」
「なんで?」
「知らないよそんなの、それを調べに行くんじゃない!」
渚を黙らせるのは案外容易だが、一度頭に血が上った明を落ち着かせるには、並大抵の努力では済まない。このままでは押し問答になりそうだ。
藤堂は明の説得を早々に諦め、横目で芹香を盗み見る。眉間に皺を寄せて俯く彼女は、何事か考え込んでいるようだった。
また彼女は、一人で悩むのだ。今まで相談する相手も碌にいなかったのなら、それも仕方のない事だとは思う。それでも、藤堂は寂しく思う。何も相談しない自分に対してゆなが怒ったのと、同じような感情なのかも知れない。
「いいよ、藤堂さんが行かないなら私が……」
「ちょっと待ちなさいよ」
煙を吐き出しながら制止する藤堂の声に、明は口をつぐんだ。
「だから、どうすんの?」
ゆなは唇を引き結んだ明を見上げて、藤堂の言葉に同意するように頷く。渚は顔をしかめて俯いていた。
「行ったところで、何が起きているのかはきっと分かりませぬ。幽霊屋敷で誰かが何かしているのだとしたら、それは確かに鳳の社長さんなのでしょう」
目を細めた芹香は、口を挟もうともしなかった。明と渚を止める気も、屋敷へ行く気もないのかも知れない。或いは、そのどちらも違うのか。
「他の誰かだったら、行けばいいかも知れませぬ。でも、相手は社長さんです。誰も何も知りませぬ。渚さんのお父上様だって何も知らなかったのなら、ゆな達が行って何が出来るというのです」
諭すようなゆなの声を黙りこんだまま聞いていた明は、とうとう肩を落として俯いた。やっと落ち着いたのだろうが、悔しげな表情を浮かべる彼女に、藤堂は同意も出来る。
あまりにも、無力だ。除霊屋は警察ではない。依頼がなければ動く大義名分がないし、嫌疑が掛かっているだけで動く訳には行かない。下手に動けば、こちらが潰される可能性もある。
ならば、どうすればいいのだろうか。そう考える前に、答えは出ている。何があったとしても、黙って見ているしかないのだ。為す術はない。高屋敷が何も知らないというのだから、調べて分かる事でもない。
「俺らに出来るのは、依頼があった時、その人を助けに行く事だけだろ。社長相手じゃ、何も出来ねえよ」
渚が小さく頷いた。明は釈然としない様子だったが、広げられていた地図を取って、元通り丸める。
芹香はそれでも、顔を上げなかった。何を考えているものか、藤堂には分からない。休みの間に彼女と少し話はしたが、社長が何を企んでいるかは、知らないようだった。
藤堂は胸の痛みを覚えて、眉を顰める。今の芹香はあまりにも、辛そうだった。かと思えばついこの間、昔はよく無茶をして、社長に止められたのだと語っていた彼女は、楽しそうに見えた。つまり、そういうことなのかも知れない。
快くは思わない。不愉快だと言った方が正しいだろう。それでも、聞けなかった。臆病なのだ。
「……ん?」
地響きのような音が、微かに聞こえる。藤堂はさては地震かと訝って店内を見回したが、何も揺れてはいなかった。
「匡!」
気のせいだろうか。そう思った矢先、真っ黒に焼けた熊のような男が店内へ飛び込んできた。真っ直ぐカウンターへ向かって来た鹿倉清澄は、細い目を限界まで見開き、太い眉をつり上げている。先ほどの地響きは、彼の足音だったのだろう。
明と渚が慌てて道を開けると、鹿倉はカウンターにぶつかる寸前で手を付き、立ち止まった。上半身をカウンターの上に乗り出しているせいで、藤堂との顔の距離が近い。
「た、たた、大変だ!」
「大変なのはお前の黒さだよ」
暑苦しい顔を近付けてくる鹿倉から逃げるように背を反らし、藤堂は顔をしかめた。虫でも払うように手を振るが、鹿倉は動じない。何故この男はこうも来る度に慌てているのかと、藤堂はうんざりする。
ひどく慌てた様子の鹿倉に、明が眉を顰めた。藤堂も、いやな予感はする。大きく息を吸って飲み込んだ、鹿倉の口から出る言葉を、聞くのが嫌だった。
「また、出た」
明と渚の表情が、凍りついた。ゆなは表情を変えないまま、両手で口元を覆う。Tシャツの袖で額の汗を拭った鹿倉は、少しだけカウンターから体を離した。第一声を発して、落ち着いたのかも知れない。
「札はまだ、ギリギリ保ってる。今朝、近所の拝み屋が来てな。浮遊霊共が悪霊化するペースが、異常に早まってるらしいんだ」
関係ないと、悠長な事を言っている場合ではなかったようだ。悪霊化が早まったということは、何がしかの影響を強く受けているということだ。あの場所でそれほど影響力の強いものといえば、あの屋敷しか思いつかない。
どうすればいいのだろう。炎天下を走ってきた為か、上がったままの息を整える鹿倉を見つめながら、藤堂は焦りにも似た感覚を抱く。体中が熱を持ったようだった。
「このままじゃまた、こないだまでと同じような事になっちまう」
何も出来ないのだと言って、先ほど明と渚を諌めたばかりだ。そのすぐ後で、分かった、と言う訳にも行かない。それでも確実に、被害は出ている。
黙りこんで俯いていた芹香が、漸く顔を上げた。凛々しい横顔には、最早一点の曇りもない。
「依頼しますか」
え、と鹿倉が呟いた。渚が目を丸くして、芹香を見る。
「せ、芹香さん?」
「依頼があれば、行く理由が出来るだろう。向こうがしている事は、恐らく退治屋の仕事の内には入らない。こちらの業務遂行の邪魔をするなら、業務執行妨害で通せばなんとかなる」
芹香は鹿倉を見上げたまま、渚にそう返した。彼女はずっと、そんなことを考えていたのだろうか。そうだと思いたい。
こんな時まで、何を気にしているのだろう。藤堂は心中、自嘲する。依頼があれは、行動を起こすだけの根拠が立つ。理由さえあれば、乗り込むことも出来るだろう。今はそれだけ考えていればいい。余計なことを気にしてはいけない。
鹿倉は不安げな面持ちで、悩む藤堂の様子を窺っていた。藤堂は彼に向かって、曖昧に笑って見せる。暫くの間の後、鹿倉は全員の顔を見て、頭を下げた。
「依頼する。させてくれ」
藤堂が頷くと、明は顔を綻ばせた。しかしさすがに不謹慎だと思ったのか、すぐに掌で口元を隠す。
「準備が必要ですから、明日伺います。メイ、それでいいな?」
芹香に聞かれると、明は黙って首を縦に振った。今日の今日では、藤堂の心の準備も出来ない。渚も札を用意する必要があるだろう。
今度こそは、あの屋敷で何が起きるか分からない。それでも、依頼を請けた以上は行かなくてはいけない。藤堂は初めて心の底から、行きたくないと思っていた。
「これ、鍵な。頼んだぜ」
よれたニッカポッカのポケットから鍵を取り出し、鹿倉はカウンターの上に置いた。前回は開いていたが、鹿倉が開けておいたのかも知れない。やけに新しいから、最近になって取り付けたのだろう。鍵が放つ無機質な光に、藤堂は寒気を覚えて腕を擦る。
出て行く鹿倉の背中を見送ってから、藤堂はふと隣を見る。目のすぐ上で切り揃えられた前髪に隠れて、芹香の表情は窺えなかった。休みの間にもう少し話し合えば良かったと、藤堂は後悔する。
「ゆなちゃん、今回は……」
「行きます」
渋面を作った明は、肩を落として溜息を吐いた。ゆなは藤堂の服の袖を握り、鹿倉が置いていった鍵を見つめている。
行かなければいけない。それでも。
「ユーウツ」
ぼやいた藤堂の顔をまじまじと見た明は、黙って拳を握った。