第八章 生を知る 一
藤堂匡は、カウンターに座ってぼんやりと煙草を吹かしていた。目と眉の間が近い精悍な顔つきだが、奥二重の瞼が半ばまで落ちており、常に眠たげな表情を浮かべているように見える。冷房の効いた室内にいても暑いのか、うちわでしきりに風を送っていた。
だらしなくカウンターに頬杖をついた藤堂は、店外の風景を見るでもなく眺めていた。気だるげに重そうな足を引きずる人々は、目新しくもなんともない。繁華街から逸れたこんな路地を通るのは、地元住民ぐらいのものだ。
やがて外を眺めるのにも飽きて、藤堂はカウンターに置かれた札に視線を落とす。かなり古い札のようで、所々破れている上、文字も掠れて殆ど読めなくなっている。新しいものであったとしても、藤堂にはどうせ読めない。これだけ古いと封印が緩むらしく、中に居る霊は、自由に出入り出来てしまうのだと聞いている。
つい昨日の事が、一年も前の出来事のように思える。それほど色々あったし、疲労を今日に持ち越してしまうほど、大変だった。無事に終わって良かったといえばそうなのだが、お陰で目の下にくっきりと浮かんだ隈が、昼を過ぎても消えない。
取り留めのない思考を巡らせていると、音もなく自動ドアが開いた。藤堂は頬杖をついたまま視線だけを上げて、近付いて来る人物を見上げる。
「おはよう、匡」
長身の、目が覚めるような美人だった。白い細面に、切れ長の目と高い鼻。形の良い唇は、かすかに笑みを浮かべている。見事な銀髪が、蛍光灯の光を反射して輝く。
おう、と短く返して、藤堂は煙草を灰皿に押し付けた。外は暑かっただろうに、涼しげな顔を崩さない堤芹香は、カウンターに乗せられた札へ視線を落として目を細める。
「お前、背中は?」
短く問い掛けると、芹香は苦笑いを浮かべた。昨日かなりの勢いで塀にぶつかっていたから、念の為に医者に診てもらえと言っていたのだ。
カウンターの中に入って、藤堂の横へ座る芹香の白い腕には、昨日の傷が残っていた。浅い怪我でもなかったから、そう簡単に治るものでもないだろう。藤堂の視線に気付くと、彼女は隠すように腕を掴んだ。
「問題ない。異常はなかった」
「どんだけ頑丈な体してんの」
些か呆れたが、反面、安堵した。大きな怪我がないに越した事はない。残ったのはひっかき傷程度、すぐに治るだろう。出来る限りは、怪我などして欲しくないのだが。
何にせよ、店への被害がなくて本当に良かったと、藤堂は思う。穴だらけになった道路は、どこから話が行ったのか、夜の内に修復されていた。聞けば、鳳から警察を通じて避難勧告が出されることは、よくあるそうだ。公共物の破損も、想定の範囲内にあるのかも知れない。
「お前、いつから気付いてたの」
芹香は藤堂の手元でくすぶる煙草を眺めながら、僅かに唇を引き結ぶ。言い辛いのかも知れない。
「初めて会った時には」
「抱きつかれてたもんな」
芹香は頷き、指を組んでカウンターに乗せた。彼女の爪は、常にどこかしら欠けている。すらりとして色の白いきれいな手だが、所々に痣があった。
これは昨日出来たものだろうか。残ってしまったものでなければいいのだが。そう考えながら、藤堂は彼女の手に指先で触れる。白い指が小さく震え、色素の薄い瞳が藤堂を見上げた。
「確信を持ったのは、祐子が霊喰いを使っていたからだが」
動揺したのか、芹香は早口にそう言った。藤堂も確かに、あの時は違和感を覚えた。
「人間相手じゃ、一呑みってワケ行かないもんね。魂引っ張り出して食うんだっけ」
言いながら指先を滑らせるように掌へ触れると、芹香はおずおずと、組んだ指をほどく。掌を合わせて指を絡め、藤堂は彼女の顔を覗き込む。長い睫毛が伏せられ、朱が上った頬に淡い影を落とした。
「ヒトの目の前でいちゃつくの、やめてくれない?」
二人同時に顔を上げ、反射的に手を離した。そしてカウンターの外側にいた少女を見て、藤堂は呆気に取られる。
今時珍しいおかっぱの黒髪が、肩口でさらさらと揺れている。下がり気味の目とばら色の頬が、彼女を年齢より幼く見せた。夏だというのに長袖のセーラー服を着た少女は、怒ったように眉をつり上げている。
「め……メイ……」
知恩院明は身を引いた藤堂に限界まで顔を近付け、黙り込んだまま彼を見つめる。藤堂は何故いつもこう顔を近付けてくるのかと、混乱した頭で考えていた。隣の芹香は、耳まで顔を赤くしている。言い訳も出来ない。
不意に、明の口元が緩む。目尻が更に下がり、幼子のような顔になった。藤堂は大きく瞬きをする。
明は丸めていた背を伸ばし、唖然とする藤堂と目を丸くする芹香を、交互に見た。
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべた明は、ゆっくりと、そう言った。何に対しての礼なのか、藤堂には分からない。
「藤堂さん、悩んでたでしょ」
「え、なに?」
問い返すと、子供のように朗らかに笑って、明は人差し指でカウンター上の札をつついた。
「私に何も聞かなかったこと。分かるんだよ、何考えてるか。藤堂さんの霊力もらったから」
藤堂はぽかんと口を開けたまま、まじまじと明を見ていた。霊感のない自分に、彼女に分けられるような力があった事が、驚きだった。論点はそこではない事も、分かっていたのだが。
「……そうなの?」
「ちょっとだけなら、分かるよ。そんなの、私が言わなかったのが悪いのに」
明の笑顔が曇った。
藤堂には分かっている。一番不安だったのは、彼女だ。隠していた事を伝えるということ、それがどんなに言い出しづらいことか、藤堂もよく分かっている。
更に結局自分の口から言い出せず、身内とはいえ第三者づてに伝えることになれば、それは辛いだろう。真面目な彼女の事だから、自分から言いたかったに違いない。それでも過ぎた時間は、元には戻せない。
「ごめんね」
消え入りそうな声で呟いた明は、唇をわずかに噛んで下を向いた。藤堂はカウンターから身を乗り出して腕を伸ばし、俯いた彼女の額を、宥めるように軽く叩く。
「あやま……」
「気にする必要などありませぬ」
藤堂の言葉を遮るように、抑揚のない特徴的な声がそう言った。まだ子供らしさの残る高い声だが、感情が聞き取れない。明は弾かれたように振り返り、大きく瞬きをする。
「メイさんは何も悪くないのです」
大きな鞄を抱えた小柄な少女は、自信に満ちた声でそう言った。暑さの為か、普段なら青白いはずの顔が紅潮している。小さな鼻と口、ふっくらとした頬が、子供の面影を残す。大きな目からかなり離れた位置にある眉は、への字に曲がっていた。
テストが始まった為、いつもより一時間ほど遅れて事務所に来た黒江ゆなは、真っ直ぐ明に歩み寄って彼女を見上げ、かすかな笑みを口元に浮かべた。安心させようとしているのだろうが、その表情はどこかぎこちない。外が暑かったのだろう。
「ゆなも皆さんも、気にしてはおりませぬ」
「そんなことで怒るほど、狭量ではありませんもの」
背後から聞こえた声に目を丸くして、藤堂は肩越しに振り返った。きついウェーブのかかった金髪を揺らし、高屋敷渚が藤堂宅へ続く扉から出てくる。昼食の後片付けを終えたのだろう。
きつい顔立ちだが、彼女の笑顔には品があった。つり上がった目を縁取る長い睫毛は揃って上を向き、フランス人形を思わせる。艶やかに光る唇が、緩やかな弧を描いていた。
「言えない秘密ぐらい、誰にだってありますわ」
穏やかな声を聞いてようやく、明は安心したようだった。小さく頷き、目を細めて笑う。
「ありがとう」
いつもと変わらない、明るい表情だった。藤堂は胸につかえていたものが取れたような感覚に、安堵の息を吐く。
頬を緩めていた渚が、不意に芹香を見て表情を引き締めた。微笑ましげに明を見ていた芹香は、視線に気付いて首を傾ける。長い銀髪が、肩口から滑り落ちた。
「鳳さんのことを、お父様に聞いて参りましたの」
今更何を言い出すものかと、藤堂は思わず眉根を寄せた。過激派に関しては、昨日決着がついたはずだ。それとはまた別に、何か聞いていたのだろうか。
「社長の事か」
藤堂はようやく、あの屋敷で鳳の社長が何かしているのではないかと、勘繰っていたことを思い出す。ついこの間、芹香とそれについて話をしたばかりなのに、すっかり忘れていた。あまり社長について、考えたくなかったのだが。
明の表情が、険しいものへと変わった。彼女も何かしら、異変には気付いていたのだろう。
「というよりは……中立派が怪しいと、お父様は言っておられましたわ」
藤堂は思わず首を捻った。一度芹香から聞いただけなのでうろ覚えだが、中立派といえば、芹香の逃走の手助けをしてくれていたという部長がそうだった筈だ。
「世話になったから、あまり考えたくなかったが……高屋敷氏は、流石に訝っておられたか」
「過激派があれだけ暴れているのに何もしないのは、流石におかしいですもの」
「え、だって中立派は不可侵だって昨日……」
全員の視線が向いたので、藤堂は驚いて口を噤んだ。明とゆなは怪訝な面持ちだが、後の二人は厳しい表情を浮かべている。何だと言うのだろう。
「中立派の殆どが、役員のポストに就いている」
芹香の言葉に顔をしかめた明は、思案するように視線を宙へ流す。
「あの川重って人は、専務だったんですよね? そんな偉い人がいたから、ヘタに手を出せなかったんじゃないですか?」
「あれだけやったら、流石に解雇出来ますわ」
藤堂は胡散臭そうに鼻を鳴らして、片眉を寄せた。
「でも確か、一度は小田原を解雇してたよな。社長がどうのって言ってなかった?」
藤堂の視線に目で応え、芹香は困ったように眉根を寄せる。思えば最初に社長の名前を聞いたのは、芹香の口からだった。あの時も確か、どんな人物なのかと訝ったような気がする。
「あれはハッタリだ。経理部からの告発を受けて、私が人事部長に掛け合ったんだ。法外な依頼料の殆どを、懐に入れていたようだからな」
「人事部長は、穏健派でしたものね」
渚は納得したように呟いたが、明は小鼻を膨らませた。また怒鳴り始めそうだったので、これ以上話がややこしくなるのを危惧した藤堂は、彼女の口を掌で塞ぐ。思い切り睨まれたが、藤堂は見ない振りをした。
「じゃあ、実際社長は噛んでなかったんだな」
明から隣の芹香へ視線を移すと、彼女は頷いた。
「忙しいからな。社長は滅多に会社に顔を出さないし、連絡もなかなかつかない。だから大体の事は、社長を通したりはしない……あの人は中立派だ、その時点で何かに気付くべきだったんだが」
「仮にも組織の長ですもの、見てみぬ振りをする必要なんてありませんわ。不穏分子があれば、早めに叩き出して然るべきだと……あら?」
渚はそこまで言って首を捻り、芹香を見た。
「何故、『中立』なんですの?」
その通りだと、藤堂も思う。中立でいる必要はない。過激派連中が会社の信用を落としているなら、それこそ中立派にも所属せずに、過激派を粛清すべきではなかったのだろうか。それが中立派として、見てみぬ振りをしていたのであれば。
そもそも社長に会社を守る気など、更々なかったという事か。
「鳳は、慢性的な人手不足に悩まされていた。社長自身が中立でいることで、過激派と穏健派のどちらからも、会社への不満が出ないようにしているのだと、私は考えていたんだが……こうなった以上、そうとも思えんな」
「これ以上人員が不足しないように、ということですか。それにしても、くさいですな」
ゆなはお下げに結った髪を掴んで揺らしながら、ううむと唸った。藤堂の手を力任せに引き剥がした明が、それに同意する。藤堂は離された腕をカウンターに乗せ、再び頬杖をつく。
「会社が内部崩壊を起こしたのに出てこないのもそうだけど、こうなるまで放っておいたのも、怪しいよ」
藤堂は頬杖をついたまま、目を眇めて頬を撫でた。最近は毎朝髭を剃るようになったので、手触りが物足りない。
「知らないってことは……ねえか」
「退社した社員の話は、人事から行っているようだが……何にせよ、放って置かれているな」
「その割に、芹香さんに戻れって言いますよね」
芹香は僅かに眉を顰めた。見てはいけないような気がして、藤堂は目を逸らす。彼女の一挙手一投足が気になって仕方がないから、見ないようにするしかなかった。この期に及んで自分はまだ、疑っている。
「社長さんが社に対してどういった考えをお持ちだったかは、この際関係ありませんわ」
指先で絹糸のような輝きを放つ金髪を巻いていた渚は、その手を離して全員の顔を見回した。
「問題は、あの屋敷で社長さんが何をなさっているのかではありませんこと?」
芹香は頷いたが、明は目を丸くした。ゆなは何を悩んでいるものか、腕を組んで唇を尖らせている。
「あの屋敷に、利用価値があるの?」
明の疑問はもっともだ。霊が溜まる屋敷で何をしようとしていたのか、皆目見当もつかない。しかしあの屋敷の主が社長の飼っていた霊だった事も、また事実なのだ。
あの主に、何をさせていたのだろう。仮に屋敷を守らせていたのであれば、何か理由があった筈だ。
「屋敷に霊を集めてたのが、社長とか」
藤堂が言うと、渚は顎に指先を添えて、考え込むような表情を見せた。芹香は眉間に皺を寄せて俯く。どこか辛そうにも見えた。そう見えてしまうのも、無意味に懸念しているせいかも知れないが。
「あの火の鳥は完璧になりたいと言っていたのだもの、社長さんが霊を集めて、希有な能力を吸い取らせていたのだとしたら……」
「だとしたら、どうするのです」
抑揚に乏しいゆなの声に、藤堂の頭が一気に冷えた。
「社長さんが何かしようとしていたのだとしても、ゆな達には関係のないことです。考えてどうするというのです。それにもう、あの子はおりませぬ」
明と渚は、揃って下を向いた。確かに、関係はない。ここで議論していても仕方のないことだ。
「あの会社から解放された芹香さんを、これ以上悩ませてどうするのです」
心臓を鷲掴みにされた気分だった。
その通りなのだ。具体的に、何かが起きている訳ではない。ここで勝手に議論して、どうなる訳でもない。何か企んでいそうだからといって、まさか大企業の社長を糾弾する訳にも行かない。
芹香は顔をしかめたまま、何も言わなかった。握り締められた白い手が痛々しく見えて、藤堂は目を細める。
無言の間が続いた。藤堂はちらりと外を確認する。客らしき人影もなかった。
「ちょっと、休むか」
明が怪訝な顔をした。
「盆休み。一週間ぐらい休んだ方がいいんじゃねえの、俺も実家帰りてえし」
「唐突だね。まだお盆じゃないし」
「思い立ったが吉日」
にやりと笑うと、明と渚が顔を見合わせて、ようやく顔を綻ばせた。




