第七章 過去の人 九
激しい攻防を繰り返していた明と狼男に、僅かな変化が見られた。変わらぬ速度で刃を繰り出す明に対し、男の動きがあきらかに鈍っている。己が流した血に濡れて、足下が滑るのだ。
銀色に輝く刃が、どちらのものともつかない血の色に染まっている。頭部を狙って突き出された切っ先を、男は首を横へ逸らして紙一重で避ける。彼は明の腕が伸ばされている隙に、屈んで懐へ入り込んだが、彼女は男が腕を振る前に、後ろへ飛び退く。男はすぐさま彼女を追い、顔目掛けて長い爪を振り下ろした。
明は顔面に襲い掛かった男の爪を弾き返し、柄を両手に持ち替えると同時に一歩踏み込んで、胴を狙って刀を振り抜く。男は足を揃えて飛び上がり、爪先が刀に触れるすれすれで避けたが、着地の際に足を滑らせてよろめいた。なんとか両足で踏みとどまって転倒だけは免れたが、明はその隙を突いて振り抜いた刀を手元へ戻し、男の頭部へ切っ先を繰り出す。
狼男は顔を突かれる寸前でその場に屈んだが、それが間違いだった。明は突き出したままの腕にもう片手を添え、屈み込んだ男の頭上へ、渾身の力を込めて刀を振り下ろす。男は逃げようと地面に手を着いたが、到底間に合わなかった。
獣じみた絶叫が木霊する。鋼の刃は正確に男の脳天をとらえ、その体を真っ二つに切り裂いた。
破裂音が夕暮れの空に響き渡り、男の姿が消え失せる。明は刀を振り下ろした姿勢のまま、アスファルトに膝を着いた。
「メイ!」
芹香が叫んで駆け寄ろうとしたが、足を踏み出した所で、弾かれたように大男を振り返る。腕を押さえて痛みを堪えていた大男の、目の色が変わった。腕を取られて、頭に血が上ったのかも知れない。川重が喉を鳴らして笑う。
刀を支えにして辛うじて立ち上がった明は、大男を見上げて苦々しく表情を歪めた。手負いの明が加勢しても、無意味だろう。渚が彼女に駆け寄り、その肩を抱く。
「メイ、戻れ」
芹香の声は硬かった。明は渚に支えられたまま、唇を引き結ぶ。芹香の言葉の意味を考えて、藤堂は眉間に皺を寄せたが、大男が動くのを見て息を呑んだ。
芹香の胴より太いのではないかと思われる程逞しい足が、アスファルトを踏み締める。爛々と目を光らせた男は、芹香に向かって拳を振り上げた。
「早く戻れ!」
明に向かって叫ぶと同時、芹香はその場から飛び退いた。大男の拳がアスファルトを直撃し、砂煙と共にコンクリート片を舞い上げる。凄まじい威力だった。
渚に肩を借りて藤堂とゆなの下へ戻ってきた明は、思い詰めたような表情で俯いていた。かなり出血したから当然だが、顔色が青白く変わっている。しかし相変わらず、彼女が痛そうな素振りを見せることはなかった。
両手を顔の前で交差させ、砂煙が目に入るのを防いだ芹香の眼前に、大きな拳が突き出される。彼女は両手でそれを受け止めながら横へ流して衝撃を軽くしたが、すぐさま下方から迫って来た膝に驚いて目を見開き、舌打ちを漏らした。咄嗟に突き出した足のヒールが、男の膝にめり込む。
芹香は男の膝を踏み台にして飛び上がり、男の頭上を舞った。宙返りしながら両手を伸ばし、男の顔を掴む。手袋が触れた箇所から白煙が立ち上り、逃れようともがく男の腕が振り回されたが、頭を鷲掴んだ手は離れない。
芹香は空中で体を反転させ、男の背後へ自由落下するに任せながら、掴んだ頭を下方へ押し込んだ。男の背が限界まで反るが、流石に首の筋肉だけでは芹香の力に敵わない。
男の膝が曲がり、巨体が後ろへ倒れて行く。背を反らしているせいで受け身を取る事も出来ず、男は芹香に押し付けられるまま、頭からアスファルトへ倒れ込んだ。
思わず耳を塞ぎたくなるような轟音が、静寂に響き渡る。それでも、男は消えなかった。芹香の表情に、焦りの色が見え始める。藤堂は巨大な山を相手取って戦っているような、錯覚を覚える。
「メイ、早くしろ! 消えたいのか!」
男が起き上がる前に怒鳴り声を上げた芹香は、倒れた彼から距離を取った。男の上半身が、むっくりと起き上がる。彼の頭は、手の形にただれていた。
唇を引き結んだ明は、刀を持った手を藤堂に突き付けた。藤堂は驚いて眉を上げる。
「ずっと黙ってて、ごめんなさい」
「は?」
更に突き出された刀を恐る恐る受け取ると、明は眉尻を下げて、微笑した。言葉の意味が分からず混乱する藤堂の目の前で、明の姿が煙のようにかき消える。
ゆなと渚が、目を見開く。声を上げることさえ忘れているようだった。ゆなの視線が忙しなく動くが、探してみても明は見えない。藤堂は絶句したまま、暫く身動きが取れなかった。
何故、消えたのか。その理由も、戻れという芹香の言葉の意味も、考えたくなかった。藤堂は拳を握り締め、歯噛みする。
分かっている。信じたくないだけだ。
ひゅ、と風切り音がした。藤堂は慌てて顔を上げ、芹香と大男の様子を確認する。
消えた明に驚いている暇はなかった。起き上がった大男が振り向きざま、芹香に向かって丸太のような腕を振る。彼女は背を反らして拳を避け、上体を横へ逸らしながら身を起こしつつ、目の前の腕を弾いた。バランスを崩した男が僅かによろめいた隙に飛び上がり、その顔めがけて拳を振るう。
男が口角を吊り上げた。芹香は目を見開く。拳は正確に男の眉間をとらえていたが、男の手もまた、芹香の首を掴んでいた。
藤堂の顔から、一気に血の気が引いた。隻腕の男は、ブロック塀に彼女の体を叩き付ける。芹香が呻き声を上げた。
「芹香!」
「おやめなさい藤堂!」
反射的に飛び出しかけた藤堂を、渚が慌てて羽交い締めにした。コウが藤堂と同じく、慌てた様子で大男に向かって行くが、渚に睨まれて動きを止める。
「あなた達が行ってどうなると言うの!」
そんな事など、頭では分かっていた。藤堂やコウが飛び出して行ったところで、あの手を引き剥がすことなど出来はしない。抵抗する術を持たない藤堂では、逆に殺されてしまうだろう。
それでも、体が勝手に動いた。何も出来ないと分かっているのに、歯痒くて堪らなかった。何も出来ないのが当たり前だと思っていたのに、今は何も出来ない事が、こんなにも口惜しい。
芹香の首を掴んだ手に、徐々に力がこもって行くのが、傍目からでも見て取れた。芹香は男の手を両手で掴み、引き剥がそうと試みる。力が拮抗している為か男の手が離れる気配はなく、またそれ以上、首に指が食い込むこともない。
歯を食いしばって耐えていた芹香の眉が歪み、酸素を求めるように唇が開かれる。白い顔が徐々に赤く変色して行く。
渚が札を取り出し、男に向かって投げた。背中に当たりはしたが、札の形に傷跡が残るばかりで、まるで意味を為さない。あれは一体何の霊なのだろうと、藤堂はまともな思考も出来ずに考える。
「正義漢ぶって反抗しているからそうなるんだ!」
川重の笑い声が、頭の中に響く。持てる術の殆どを失い、最早彼には、己を取り繕う余裕さえないようだった。
街を赤々と照らし出していた夕陽が完全に沈み、暗闇が世界を覆う。吹き抜けた生温い夜風に、藤堂は身震いした。
このまま、失うのか。何も出来ないまま、ただ見ているしかないのだろうか。今まで手にした何もかもを失ってしまったかのような、深い喪失感が、胸を浚う。
藤堂の体から、一気に力が抜けて行く。胸に風穴が空いたようだった。
「行きなさいポチ!」
癖のある高い声が聞こえると共に、真っ赤な縄が、大男の腕に巻き付いた。その腕が凄まじい力で芹香の首から引き剥がされ、男は驚愕に目を見開く。解放された芹香はその場に崩れ落ち、喉を押さえて激しく咳き込んだ。
その声にも赤い縄のようなものにも、見覚えがあった。藤堂はゆっくりと、声のした方を見る。大きく目を見開いた川重が、わなわなと唇を震わせる。
芹香から引き剥がされた大男の体中に、赤い触手が巻き付いて行く。一瞬の内に動きを封じられた男は、触手の伸びて来た先を、鋭い目つきで睨みつけていた。
「貴様……新藤祐子!」
川重が怒鳴りつけるように叫んだ。彼の視線の先には、悠々と歩いてくる祐子の姿がある。その傍らには、倒した筈の霊食いが控えていた。真っ黒な表皮も瓢箪型の胴体も、以前見た時となんら変わりがない。
「やーねえ、往来でフルネーム叫ばないで下さいよ専務。新藤課長って呼んでちょうだい」
祐子のあっけらかんとした口調も、普段と大差はなかった。渚が呆然と瓢箪を眺めている。
藤堂は暫く凍り付いたように動けなかったが、笑顔の祐子を見た瞬間我に返り、弾かれたように駆け出した。自分の意思で走ったのは、久しぶりだ。
藤堂は地面に膝を着いて呼吸を整える芹香の側へ屈み、その肩を抱く。芹香は視線を上げて藤堂を見ると、疲れた顔で微笑んだ。
小さく安堵の息を吐き、藤堂は肩を抱いた腕に力を込めた。細い肩が、かすかに震えている。
芹香の無事を確認した祐子は、霊食いの真っ黒な体を軽く叩く。大男を捕まえたまま伸ばした触手を引き戻し、霊食いは大きく口を開けた。男は抵抗する間もなく、その口腔へ吸い込まれる。あまりにも、呆気なかった。
「し、新藤さんあなた……どうして……」
渚が震える声で呟くと、祐子は彼女に向かってにっこりと笑みを浮かべて見せた。藤堂は芹香を支えて立たせながら、川重の表情を盗み見る。悔しげに歯噛みする彼にはもう、何の術も残されてはいないようだった。
「その内話すわよ……ゴメンね、遅くなっちゃって」
藤堂に向き直った祐子は、軽く肩を竦めて謝った。謝られても、謝られる意味が分からない。そもそも祐子が何故未だに霊食いを飼っているのかさえ分からないから、藤堂は混乱するばかりだった。
あの霊は、芹香が確かに抹消した筈だ。更に祐子は、退治屋を辞めたのではなかったか。課長と呼べとはどういう事なのか。未だに鳳にいるということなのだろうか。
誰一人として、何も言えなかった。凍り付いた場の空気をものともせず、祐子は川重に歩み寄って目の前に屈み込む。そこでようやく、残っていた守護霊達が川重から離れて、藤堂の下へ戻った。
「とうとう……動いたというのか、社長が」
川重が祐子を見上げ、掠れた声で呟く。芹香は僅かに眉を顰めたまま、祐子と川重を見つめていた。社長というのがどういった人物であるのか、藤堂はいよいよ分からなくなってくる。
芹香の話を聞く限りでは、悪人であるとは思えなかった。しかしゆなの一件で芹香が社長と口に出した時の小田原や、今の川重の表情を見る限りでは、恐ろしい人物なのではないかとも思える。その人となりが、全く見えてこない。
「ああ、違う違う。社長とは関係ないの」
「だったらお前は、何をしに来たんだ。中立派は永遠に不可侵である代わりに、どちらにも肩入れしないのが鉄則の筈だ」
「うるさいわねえ」
祐子は小さく溜息を吐いて、霊食いに向かって手招きした。
「だから関係ないって言ってんじゃない。ポチ、さっさとこいつふんじばって。食べちゃダメよ」
「どういう事なんだ、祐子」
芹香を見上げた祐子は、気まずそうに視線を落とした。しかしすぐに立ち上がって川重の首根っこを掴み、霊食いに向かって彼を押す。赤い舌が、川重の腹に巻き付いた。
祐子は両腕を組んで、悩ましげに眉根を寄せる。ちらりと芹香を横目で見ると、赤い唇で弧を描いた。
「あんた、キレイになったわね」
「は?」
「処女捨てたから?」
芹香の顔が、一気に赤く染まった。渚も目を丸くして頬を赤らめているが、ゆなは呆れた目をしていた。
誤魔化したのだ。藤堂はそう思ったが、敢えて言う事もしなかった。その内言うと言っていたから、今聞いても無駄だろう。
「それよりあんた達、さっさと迎えに行きなさい」
藤堂は、え、と呟いた。芹香は藤堂の手元の刀を見て、店を振り返る。
「居場所は?」
「藤堂君がよく知ってる所よ」
祐子に向き直った芹香は、目を細めて訝しげな顔をした。
本当は、藤堂は明が消えた時に気付いていた。彼女が何なのか、彼女がどこへ行ったのか。ただ、信じたくなかっただけだ。
藤堂は渚とゆなの視線を背中に受けながら、黙って店へ入った。床にぽつんと転がった、バットの形をした鞘に刀を納め、カウンターの上に置く。
明は結局、こうなるまで自分の事を話さなかった。恐らく彼女の口からは、彼女自身のことは聞けないだろう。それ自体は別に、構いはしない。悔いているのは、何も聞こうとしなかった自分自身だった。
藤堂はカウンターに両手を着いて、深く息を吐いた。真実を知るのが怖かった。彼女がなんであろうと、今まで通りでいられる自信はある。それでも。
それでも、後悔している。明はあんなに自分を案じてくれたというのに。彼女は余計なことを聞かなかったが、恐らく、藤堂の心中など見抜いていた。知る事も話す事も、怖いのだと。いつか訪れる離別の時を恐れるがあまり、深く関わりあうことを、厭うているのだと。
だから明は、自分のことを殆ど話さなかったのではないだろうか。だから付き合いが深くなるにつれて、言い出せなくなってしまったのではないか。そう考えると、哀れに思えてならなかった。
「匡」
カウンターに手を着いたまま振り返ると、すぐ後ろに芹香がいた。白い首に、赤い手形がくっきりとついている。右腕のひっかき傷が、やけに痛々しく見えた。
ゆっくりと振り返り、藤堂は芹香と向き合う。眉尻を下げた彼女は、ためらいがちに口を開く。
「メイは……」
言いかけた芹香に覆い被さるように、藤堂は彼女を抱き締めた。驚いて目を丸くした芹香は、暫く逡巡した後、おずおずと彼の背中に両手を添える。
「芹香、俺なんとなく、気付いてたんだよ」
芹香は黙ったまま、藤堂の背を撫でた。
「あいつ、冷たかった。怪我しても、次の日には傷跡さえ残ってなかった。なんか口に入れたとこ、見た事なかったしさ。なんであの細腕で重い刀振り回せるのか、疑問に思ってたけど言えなかった」
そうかと呟いて、芹香は藤堂の頭に掌を乗せた。体温の高い彼女の手が、頭をぼんやりとさせる。
「言い出せなかったんだよな、あいつ。悩んでたのにさ」
銀色に煌めく髪が、視界を遮る。こめかみが熱くてたまらなかった。
「匡、いいんだ」
静かな声が、胸につかえた。それだけで、許されたような気がした。藤堂は震える息を吐いてから、明がよくそう言うように、行こう、と呟いた。