第七章 過去の人 八
強い耳鳴りが、藤堂の思考を奪う。川重の両手両足に纏わりついた子供達は、一様に彼を鋭い目つきで睨んでいる。彼らは藤堂の感情に、呼応して動いているのだろう。霊の事など何も分からない藤堂にそう確信付かせるほど、彼自身深い憤りを感じていたし、守護霊達の表情も、険しいものだった。
川重の悲鳴が聞こえる。子供達の小さな手が、彼の体内へ潜り込む。人体をすり抜けられる彼らは、その奥にある魂を、引きずり出そうとしているのかも知れなかった。
魂を抜かれれば、人はすぐに心停止する。生霊となって抜け出た場合は別だが、無理に抜かれた魂を体に戻す事は出来ない。
渚の制止する声が、遠くに聞こえる。他の子供が川重に纏わりついたのに対して、ただ一人コウだけは、真っ直ぐに芹香の下へ向かった。二十人ほどいる守護霊達の内、彼だけには、何故だか自由意思があるのだ。
守護霊達が離れた瞬間、誰かの記憶が、荒れ狂う濁流のように藤堂の頭の中を駆け巡る。今戦っている霊達の内、誰かの記憶だろう。或いは全員の記憶が、奔流となって押し寄せているのか。
嫌だとは、思わなかった。見たくもないものだが、頭を冷やすのには、丁度良い。あんな男が一人死のうと死ぬまいと、今の藤堂にはどうでも良かった。
「藤堂さん、ダメ!」
明がこちらへ意識を逸らした瞬間、狼男が彼女の肩に食らいついた。明は目を見開いて、肩口に食い込んだ牙を見る。傷口から血が滲み出て、白いセーラー服を赤く染めた。
メイ、と叫んだ筈の声は、果たして届いていただろうか。己の口から声が出ていたのかどうかさえ、分からない。藤堂は頭痛を堪えきれずにその場へ膝を着き、瞼を落とす。
瞼の裏に、古びた狭い室内の光景が映る。七畳ほどの部屋は閑散としており、家具らしい家具は殆どなかった。部屋の隅では、薄っぺらい煎餅布団に横たわった女性が、苦しげに呻いている。見るからにやつれた姿の彼女は、しきりに何か謝っているようだった。乾ききってひび割れ、紙のように白くなった唇から、血が滲んでいる。目頭が熱くなり、涙が頬を伝い落ちて行く。現実に泣いているのか記憶の持ち主が泣いているのか、藤堂には判断出来なかった。頭の中で、少年の声がする。金さえあればと、悔しげで悲痛な声が聞こえる。金さえあれば、母さんは。
これは誰の記憶だ。
テレビのチャンネルを変えた時のように、瞬時に場面が切り替わった。薄暗い路地裏の風景が、早回しのように流れて行く。何も聞こえないが恐らくは、走っているのだろう。あまりの息苦しさに、こめかみが痛む。今回は痛覚もあるようだが、鼻が利かない。そう考えた矢先、道に散乱していたゴミ袋に足を取られて転んだ。地面に着いた両手の甲には、入れ墨が入っている。膝が痛むと同時に、顔が上を向いた。覗き込んでくる男が三人、視界に入る。その内の一人、青白い顔をした気の弱そうな男が、懐から出した手をこちらへ向けた。額には、冷たく硬質な感触。一気に血の気が引いていく。意識はそこで途切れた。
「小田原を浄化しろ!」
現実に戻ると同時、藤堂は腹の底から声を上げた。それまで頭を沸かしていた怒りが、嘘のようにすうと引いて行く。殺してはならないと、頭の中で声がした。少年の声のように聞こえたそれは、コウの言葉だったのだろうか。
獣の咆哮にも似た絶叫が、大気を震わせる。開けた視界へ真っ先に飛び込んで来たのは、肩に食らいついていた狼男の脇腹を刺し貫く、明の姿だった。明が逆手に持った刀を腹から抜くと、叫び声と共に、男は彼女から離れる。藤堂に気を逸らされていた為か、一度では抹消出来なかったようだ。
「メイさん、戻りなさい!」
後ろへ飛び退いて狼男と距離を取った明は、黙って首を左右に振った。深手を負ったにも関わらず、渚と代わる気はないようだ。渚は顔をしかめて、拳を握り締める。何も出来ない事に一番腹を立てているのは、渚かも知れなかった。
食い破られた皮膚に空いた穴が、遠目にもはっきりと見て取れた。抉れた傷口から流れ出す鮮血が、徐々に明の袖を染めて行く。しかし彼女は痛がる素振りも見せず、狼男を睨み付けていた。向こうより出血が少ないのは、傷が肩にあるせいだろうか。食らいつかれたのが心臓より上だった事が、不幸中の幸いだろう。
一方男の脇腹からも、どす黒い血が止めどなく流れ出していた。呼吸に合わせて、男の白いシャツが赤く濡れて行く。
小田原は執事に羽交い締めにされ、最早抵抗する気力もないようだった。抵抗しようにも、あれでは動けないだろう。そこで藤堂はようやく川重を思い出し、振り返る。
守護霊達は既に大半が戻って来ていたが、何人かは、未だ川重の手足にしがみついていた。下手に動かないようにしているのだろう。魂を無理矢理引きずり出されそうになった為か、川重は苦々しい表情で地面に膝をついている。
「彼は……」
ゆっくりと立ち上がった藤堂に、渚がおずおずと問い掛けた。藤堂は胸につかえた息を大きく吐き、渚を一瞥してから、川重へ視線を移す。
「霊だ。そいつに殺されたんだよ」
荒い息を吐く川重を顎で示すと、彼は藤堂を見上げて、目を細めた。何故分かるのかとでも言いたげな表情だったが、藤堂は無視した。捕まえてしまおうかとも思ったが、脅して霊を引っ込めさせようにも、向こうはこちらに人が殺せない事を分かっているから、無意味だろう。
つまりこのまま、あの霊達を抹消するまでは終わらない。
芹香の方へ飛んで行ったコウは、大男の首に後ろからしがみついていた。全身を押さえつけている訳でもないのに、不思議と男の動きが鈍っている。怪我とは、関係ないのだろう。今あの大男の動きを止めているのは、恐らく、コウの強い意思だ。
相手がもがいている間に、芹香は呼吸を整えていた。間合いに入らない程度の距離を取ったまま、彼女は深く呼吸を繰り返す。コウの表情も苦しげなものへ変わっているから、あまり長くはもたないだろう。
お互い傷を負った明と狼男は、離れた場所で睨み合っていた。未だ明の間合いの内ではあるが、あの速さでは、それにどれほどの意味があるだろう。
「じいやさん、こちらへ」
え、と渚が呟いた。ヘルメットを外したゆなは、執事に向かって手招きしている。
藤堂は、些か不安だった。確かにゆなは強力な霊媒体質だが、実体化した霊を憑かせる事が、出来るのだろうか。
亮輔の時は札を破って使役関係から解放していたし、屋敷の主の時は、明が実体化だけを解いた状態だった。川重に札を出せと脅しても、易々とは渡さないだろう。
「出来んのかよ」
「出来ない事はない筈ですわ。ただ、入りにくい可能性が……」
小田原の体を両手で持ち上げた執事を見て、言いかけた言葉を止め、渚が目を見開いた。藤堂も驚いて、両の眉を上げる。
彼は、やるつもりなのだ。渚の身以外は心配しないのかと、一瞬訝ったが、そうではない。執事ももう、この除霊屋の全員を、仲間として見ている。彼は、ゆなを信じているのだ。
ゆなは両手を広げ、迎え入れる体勢を取る。明が傷を負っている今、最早こうするしか、道はなかった。
不意に、芹香の呼吸が落ち着いた。明が血に染まった刀を、きつく握り直す。
ここで終わらせなければ。ここで終わらなければ、恐らく長引くだけ長引いて、戦況が不利になる。明は深手を負っているし、芹香は疲労の色が濃い。これ以上時間を掛ける訳には行かない。
「さあ、お入りなさい」
執事がゆなに向かって、小田原を放り投げた。ぶつけて無理矢理押し込むつもりなのかも知れない。いささか間抜けだが、他に方法もないだろう。
狼男が、地を蹴った。明は刀を体の前に構えて迎え撃つが、寸前で横へ回り込まれる。しかし相手の方も、傷を負って動きが鈍っているのか、明は易々と彼の眼前に刃を向けた。高い金属音が、静寂に響き渡る。
ゆなに向かって投げつけられた小田原は、彼女の体に吸い込まれるようにして消えた。否、吸い込まれたのだろう。霊体を体内に収めたゆなは、眉を顰めて苦しげに表情を歪める。屋敷の主の時もそうだったが、普通の霊を憑かせるのとは勝手が違うようだ。
小田原を投げた執事は、二三歩よろめいた。霊体とはいえ退治屋を相手にしたら、流石の彼も消耗するだろう。小田原の動きが鈍っていたのは、執事を相手にして、気力を消耗していたからなのかも知れない。
渚は明と執事を交互に見て、眉間に皺を寄せた。加勢させるか否か、迷っているのだろう。しかし、執事は明よりも遅い。更に彼自身が傷付いている今は、明の足を引っ張るだけの結果に終わるかも知れない。
藤堂は渚の肩に手を置いて、首を横に振った。渚は顔をしかめたまま藤堂を見上げ、執事に向き直って札を振る。執事はそのまま、札に戻った。渚は唇を噛み締め、俯く。
ゆっくりと深呼吸を繰り返すゆなを見下ろし、藤堂は彼女の背を撫でた。ゆなの肩にこもっていた力が、少しだけ抜ける。
「そいつ、貧乏暮らしが長かったみてえだな。母親、病気で亡くしてる。金がなくて治療出来なかったんだろうよ」
哀れみの気持ちが、霊を浄化する。確固たる意思があって初めて、浄霊は成り立つのだ。
「……なるほど」
ゆなは背中を丸めたまま顔だけを上げ、呟いた。しかしその目はすぐにきつく閉じられ、彼女は小さく呻く。渚がゆなの肩に両手を添え、小さな頭に頬を寄せた。
大丈夫。ゆなは必ず、浄霊出来る。
狼男の爪を受け止めた明は、即座に弾き返して刀を引き戻す。男は腹部が痛むのか、顔を歪めてその場に踏みとどまった。足に力が入るのに合わせ、腹の傷から再び血が溢れ出す。
藤堂は何故霊体が血を流すのかと、明に聞いた事がある。普通の霊は勿論血など流さないが、実体化した霊は、死んでからよほど長く時間が経った霊でない限り、傷付けば出血するのだそうだ。それは霊自身の記憶であり、傷付けば痛い、血が流れるという、当然の知識から来るもの。無論流れすぎても、失血するという事はない。
血は生の証。実体化した霊から血が流れるのは、確実に生きていたと、己自身に証明する為。だから手遅れになった霊は、消える寸前でもない限り血を流さない。だから霊食いも屋敷の主も、傷口から出血しなかった。
今やほぼ全ての人間が、霊を見る。そんな中で、人の命というものの定義があやふやになる理由は、藤堂にも分からなくはない。藤堂にも人の命について説明は出来ないし、成仏すれば幸せになれるというのなら、死は恐ろしくないのかも知れないと思う。
しかしそんな世界だからこそ、霊が見えない自分は、人の命がいかに大切なものかを理解していたいと思うのだ。死ぬのが恐ろしいと感じるのは、人間の根源的な感情であると思っている。生き物として当たり前の感情は、忘れないでいたかった。
だからあの時、藤堂は川重に対して明確な怒りを覚えた。人を人とも思わない言動に、死んだ人間をも私欲の為に利用せんとする、彼の態度に。
何より藤堂は、失いたくなかった。ようやく見つけた、たった一人を。彼女が何を考えていようと、戦う事が彼女の全てであろうと、己の気持ちだけは確固として変わらない。
芹香が口元に、かすかな笑みを浮かべた。俄かに空気が張り詰め、コウから逃れようと抵抗していた大男の動きが止まる。その目は、真っ直ぐに芹香を見下ろしていた。
「……コウ、離れろ」
藤堂の言葉に頷いたコウは、男の頭を離して彼の下へ戻ってきた。不安そうな表情を浮かべた少年は、未だ苦しむゆなと、狼男と打ち合う明を交互に見て、藤堂の顔を見上げる。せめてもと頷いて見せると、彼は藤堂の腰に両腕を回して、縋るように抱き付いた。
誰もが不安なのだ。それでも、やらなければならない。芹香の為に。川重を止める為に。これ以上、小田原のような犠牲を増やさない為に。
藤堂はゆなを振り返り、唇の端を上げて見せた。不安げな目が、こわごわ藤堂を見上げる。
「ゆな、お前なら大丈夫だ」
ゆなは目を丸くしたが、すぐに表情を引き締めた。大きく頷いた彼女の目には、最早迷いも苦しみもない。澄んだ色をした、真っ直ぐな目。
霊媒師としての、延いては、霊媒師としてのものではない。人を救おうとする、人の目だった。
「小田原さん」
語りかけるように呟いたゆなは、背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、空を指差した。
「お母さまが、待っておられます」
ゆなの体から、白い煙が抜け出した。川重が憎々しげにそれを睨むが、子供等に押さえつけられている為、身動きが取れない。藤堂には煙にしか見えなかったが、あれは確かに小田原だったのだろう。浄化された白煙は、夕暮れの空に消えた。
手を振って小田原を見送ったゆなは、藤堂と渚の顔を交互に見てから、芹香に視線を移した。
無言のまま対峙する二人の間には、他者を寄せ付けない張り詰めた空気が漂っていた。藤堂は芹香の表情を見て、胸を鷲掴みにされたような感覚を抱く。
「楽しいか?」
大男は、薄く笑った。問い掛けた芹香は小さく頷いて、姿勢を低くする。揃えた指先を真っ直ぐに伸ばし、彼女は大きく腕を引いた。白い手袋が発光する。
男の腕が、高く振り上げられた。握り締められた拳に、太い血管が浮く。
「私もだ」
二人は同時に動いた。空気を切り裂くような風切り音は、どちらが立てたものだったのだろうか。
一切の音が、遮断されてしまったように感じられた。振り下ろされた拳が、突き出された手刀とぶつかる。藤堂の目にはスロー再生のように見えたが、実際は一瞬の出来事だったのだろう。
芹香の手が、丸太のような腕に吸い込まれて行く。男は大きく目を見開き、凍り付いたように動かなくなった。巨大な拳は芹香の鼻先へ触れる寸前で、止まっている。今度は確実に、切り裂いた。藤堂はそう確信する。
これで、終わりか。藤堂は一瞬胸を撫で下ろしかけたが、芹香は表情を曇らせていた。
大男の腕が、音を立てて弾け飛んだ。肩から先だけが、消失している。藤堂は、我が目を疑った。あの手刀をまともに食らって消滅しなかった霊が、未だかつていただろうか。男は悲鳴を上げるように大きく口を開いたが、その喉から声が出る事はなかった。
男は肩を押さえて、苦悶の表情を浮かべる。苦々しく顔を歪めた芹香は、彼の間合いの外へ飛び退いた。藤堂は呼吸を忘れていた己に気付き、ゆっくりと、深く息を吐く。
あれを、倒せるのだろうか。傾いた日差しが肌を刺し、焼け付くように暑いのに、頭の芯は冷え切っていた。