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透明なひと  作者:
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第七章 過去の人 七

 藤堂は唖然としていた。明に向かって札を投げた男にも、その後ろからやってきた男にも、確かに見覚えがある。明もゆなも、凍り付いたように動かなかった。

 札を投げた、あの男。あれは確か、解雇されたのではなかったか。その後ろから来た細身の男は、幽霊屋敷を初めて訪れた時、あの場にいた者ではなかったか。

 藤堂は冷たい汗が背中を伝う感覚に、身震いした。まさか、あんなに前から。あれほど前から、内部崩壊の兆しはあったのだろうか。それなら。

 それなら鳳の社長は、一体どこで何をしているのだ。

「お久しぶりです元課長。お元気そうで何よりです」

「白々しい挨拶はいい。貴様が穏健派の中枢をあの屋敷で無駄死にさせたこと、私が知らなかったとでも思うのか」

 青白い顔をした男は、柔和に笑みを浮かべて小さく頷いた。

「ご存知でしたでしょうね。数少ないあなたの味方が、殆ど亡くなったのですから」

 川重かわしげは不気味なまでに穏やかな笑顔のまま、そう言った。藤堂は彼のその佇まいに、寒気さえ覚える。

 この男が殺したというのだろうか。死者が何人いたか、詳しいニュースの内容まで藤堂は覚えていない。しかし決して、少なくない人数ではあった。

「お前は何がしたいんだ。社長がいないのをいいことに社を乗っ取り、何をしようとしている」

「知れた事」

 懐から札を取り出した川重は、更に笑みを深くした。しかしどう見ても、目は笑っていない。底知れぬ恐ろしさを感じて、藤堂は思わず一歩後退する。

 こんな所で、戦おうと言うのだろうか。幸い人は通らないが、道幅が広い訳ではない。家屋を壊してしまう恐れもある。

「お戻りに?」

「戻らん。だがここは人の目がある、やり合うなら……」

「避難勧告を出しております。これ以上、会社の評判を下げたくはありませんので」

「用意周到なことだな」

 吐き捨てた芹香は、スーツの二人の背後へ視線を向けた。小田原が怪訝に眉根を寄せ、振り返ったところで目を見開く。間に合ってくれたかと、藤堂は安堵した。

「あなた方、私を待たないつもりでしたの?」

 屈強な執事を従えて歩み寄って来たのは、渚だった。小田原が俄かに動揺の色を見せる。流石に高屋敷家の一人娘の顔ぐらいは、知っているのだろう。

 しかし川重は渚を見ても、表情を曇らせることさえなかった。それどころか、益々浮かべた笑みを深くする。

「高屋敷さんのお嬢様ですか。お久しぶりです」

「あなたが過激派の頭目でいらしたのね」

 親しげな川重の声とは反対に、渚の言葉には険があった。小ばかにしたように鼻を鳴らした彼女は、執事と共に藤堂達の方へ近付いてくる。

「大企業の専務ともあろう方が、お金に目が眩むなんて」

「温室育ちのお嬢様には、分かりますまい」

 川重が、手にした札を軽く振った。その札から、丸太のような腕が伸びてくる。続いてつるりとした頭と、太い首が出た。更に這い出して来る、太い筋肉の束だけで構成されたかのような、逞しい体。

 藤堂はその巨体を目の当たりにして、絶句した。二メートルはあろうかという大男に、渚が顔をしかめる。執事が小さく見える程の霊だったが、あの少女のような、底知れぬ恐ろしさは感じない。感覚が麻痺しているのかも知れなかった。

 あれと、戦うのか。そう考えただけで、目眩がした。藤堂とゆなを守るように、彼らに背中を向けて立ちはだかった渚は、執事を顎で促す。破れた袖から伸びる腕には既に力が入っているようで、浮き出た血管がはっきりと見て取れた。こちらも頼もしいものだが、あの大男とは、一回り以上体格差がある。不安ばかりが、藤堂の胸をよぎった。

 川重は、更に懐から取り出した札を振る。這い出して来たのは、狼のように鋭い目つきの、やはり体格のいい青年だった。こちらは執事より一回りほど小さく、殆ど人間の形を残してはいるものの、唇が左右に大きく裂けている。微かに唸り声を上げているところを見ると、犬との融合霊だろうか。

「誠に残念ですが、あなた方には死んで頂きます」

 その声はしかし、どこか楽しそうに聞こえた。川重が一歩下がったのが合図であったかのように、距離の隔たった三人へ、小田原と霊達がそれぞれ迫る。

 執事へ向くかと思われた小田原の拳は、しかし明に向かって振り下ろされた。執事が飛びかかった狼男の牙を拳で受け止め、弾き返してから、明に駆け寄る。藤堂は怪訝に眉を顰めたが、響き渡った衝突音に驚いて、目を見張った。

「なんて事……」

 渚は呆然と呟いて、緩く首を左右に振った。丸太のような腕が、アスファルトに突き刺さっている。筋肉達磨と対峙する芹香は、怯む事なく舞い上がった粉塵を避けて、巨体の懐へ飛び込む。振り被った拳は巨大な掌に止められたが、じゅう、と嫌な音が聞こえた。

 標的を明から執事に変えた小田原は、姿勢を低くして彼の懐に入り込む。年齢を感じさせない動きだったが、一方執事も速かった。

 執事は握り締めた両の拳を、小田原の頭上へ振り下ろす。すんでのところで横へ避けた小田原は、執事の脇腹へ手刀を叩き込もうと腕を振った。しかしその腕は執事の手にしっかりと掴まれ、服に触れる寸前で止まったまま、それ以上進まない。

 狼男の爪を刃で受け止めた明は、逃げようとする体をそのまま押し返して、アスファルトに叩き付けた。尻を着いた男に向かって刀を振り下ろすが、男はすぐさまその場から飛びのく。空中で体勢を整えて塀を蹴り、狼男は大きく口を開けたまま、明の喉笛目掛けて飛び込んで行く。

 振り下ろした刀を引き戻し、明は突っ込んでくる男に向かって、切っ先を向ける。勢いよく飛んできた男は一瞬驚いて目を見開いたが、片手で刀を弾いた。その手から白煙が立ち上り、男の視界を奪った隙に、明はしゃがみ込む。彼女の頭上すれすれを通り過ぎた男は、空中で体を捻って向きを変えながら着地した。

「流石にタフだな」

 形の良い唇が緩やかな弧を描き、笑みの形を作った。芹香は次々繰り出される拳を避けながら、さも愉快そうに呟く。藤堂はその表情を見て、言い知れない不安を覚えた。祐子の一件で感じたものと、同じ感覚だ。

 芹香は、楽しんでいるのではないだろうか。抹消する事それ自体ではなく、戦う事を楽しんでいるように見える。何が彼女を駆り立てるのか、藤堂には分からない。出来るなら救いたいと言った彼女のその言葉に、嘘偽りはないと信じている。

 元々、住む世界が違いすぎていた。彼女には、仕事しかなかった。それとはつまり霊を抹消する事であり、戦うこと。娯楽も自由な時間もなく、それしかなかったのだとしたら。

 だとしたら彼女には、それが全てだったのだろう。楽しんでいるのは事実かも知れない。それでも、幸せだと漏らした時のあの表情に、嘘はなかった。そう信じているし、疑う余地もない。

「じいや!」

 渚が大声を上げた。小田原の手が執事の腕を掴み、白煙を上げさせている。執事はすぐさま小田原の手を振りほどいたが、腕にはしっかりと跡が残っていた。執事の目がつり上がり、浅黒い腕が小田原の首を狙う。

 喉元へ執事の腕が入り込む寸前でその場に屈んだ小田原は、再び彼の腕を捕らえようと、手を伸ばす。小田原は、先に腕を落としてしまおうとしているらしかった。しかし執事も、易々と何度も捕まってしまうほど鈍くはない。

「組み合わせが悪すぎますわね」

 激しい攻防を繰り返す三組を見つめながら、渚が呟いた。ゆなが頷いて、その独り言に応える。

「メイさんより芹香さんの方が速いですから、本当なら、オオカミの人は芹香さんに任せた方が良いですね」

 藤堂はつられて明の方を見る。お互いに小さな怪我こそしているものの、どちらが劣性であるとも言えない。

 しかし確かに明が追えば向こうはひらりと逃げ、向こうが襲い掛かれば、明は逃げる間もなく防御の姿勢を取っている。受け止めているだけ流石と言えるだろうが、これでは防戦一方だ。犬の足に追い付くだけの速さを明は持っていないから、このまま行くと体力の消耗が懸念される。

「逆に芹香さんには、打撃しか術がないでしょう。確かにダメージは受けているようですけれど、あちらは恐らく、メイさんが斬ってしまった方が早いわ」

「向こうの思い通りになってしまいましたな」

 ゆなの口調は淡々としたものだったが、唸るような声から、彼女の苦い感情は聞き知れる。

 芹香の方は腕のひっかき傷以外に、怪我らしい怪我がなかった。しかし幾ら拳を当てても巨体に傷跡がつくだけで、消える気配もない。

 体格差が開きすぎて動きを止める事も出来ない上、向こうも愚かではないようで、彼女が引いた隙を狙って拳を打ち込んで来る。破壊力なら身内で一番であろう、手刀の構えを取るだけの時間が取れない。腕を引く間もないのだ。これではいくら芹香が速くとも、時間ばかり掛かってしまうだろう。

 渚とゆなはそれ以上言わなかったが、執事の方も退治屋を相手にしているから、少しでも状況が変われば、抹消されてしまう恐れがある。但しこちらは体力に限界のない霊体と生身の人間だから、圧倒的に執事が有利だろう。しかし。

「あの小田原は……どうすりゃいいんだ」

 殺人は違法だ。ただの悪霊が罪を犯したなら抹消で済むが、霊飼いの使役する霊が殺人を犯せば、術者が咎められる。執事が小田原を間違って殺してしまえば、糾弾されるのは渚だ。それだけはなんとしても、避けなければならない。

 呟いた藤堂を肩越しに一瞥し、渚は力なく首を振った。どうしたらいいか、分からないのだろう。

 あまりにも、歯痒かった。しかし藤堂は手を出す事が出来ない。ここから一歩でも動いたら、全員の邪魔になってしまう。たかが護身用の破魔銃では、何の役にも立たないだろう。

「お前、なんとか出来ないの?」

「私があの男を相手にする訳には行きませんし、下手に横から手を出したら、こちらに矛先が向くかも知れませんわ。ゆなさんの安全を最優先で考えないと」

 藤堂は視線を落としてゆなを見た。感情の読み取れない無表情だが、唇を噛んでいる。藤堂よりも、彼女の方が遥かに悔しいだろう。

 激しい攻防を繰り広げていた執事と小田原に、僅かな変化が見られた。動きの衰えない執事に対して、小田原の防御が間に合わなくなって来ている。ここまで保ったのが奇跡と言えるだろう。

「お父様に、鳳の事を聞いて参りましたの」

 執事と小田原を目で追う渚が、険しい表情で言った。藤堂は片眉を顰めて、彼女の背に視線を移す。

「詳しい事は後でお話ししますけれど、彼らは人を殺す事に、なんの抵抗もありませんわ」

「あちらさんの話聞いてりゃ分かるよ。アイツら、何しようとしてんだ」

 渚は札を握り締めたまま、振り向かなかった。

「芹香さんを、使役しようとしています」

 藤堂とゆなは、同時に目を見開いた。一瞬耳を疑ったが、肩越しに見える渚の横顔から、ただの推測ではないのだと知れる。

 芹香を力ずくで連れ戻したところで、彼女が過激派に荷担するとは到底思えない。少し考えれば分かる事だったのだ。殺そうとしているのかと思えば、戻れと川重は言った。

 向こうはこちらを殺しにかかっている。だからといって、立ち向かうと決めた以上、引き下がる訳には行かない。ここで退けば、芹香がどうなってしまうか分からない。

「ご存知でしたか」

 思いの外近くから聞こえた声に驚いて顔を上げると、すぐ横に川重が立っていた。渚は眉をつり上げて、藤堂の横に立った彼を睨み付ける。

「どうしようもない愚か者ですわね。人の命をなんだと思っていらっしゃるの?」

「人の命は大事ですよ。ただし、この世にはもっと大事なものがある。あなたは愚かと言いましたが、それも、生まれた時から満たされていた人間の、浅薄な意見に過ぎません」

 結局、この男は金儲けの事しか考えていないのだ。それだけの為に社を乗っ取り、挙句の果てには人を殺めようとさえしている。藤堂など、金などなくともなんとかなると、最初から諦めているのに。

「ご覧なさい」

 川重は真っ直ぐに、芹香を指差した。戦況が変わる気配はないが、大男の体には確実に傷が増えている。

「楽しそうでしょう、彼女は」

 突き出された拳を軽々避けた芹香は、伸びた腕を踏み台にして飛び上がる。男は片腕を上げて頭を庇おうとしたが、長い足が顔面を捉える方が早かった。衝撃音と共に男の頭があらぬ方を向いたが、彼は即座に手で頭の位置を戻す。

 足で薙ぎ払うかのように男の頭を蹴り飛ばした芹香は、間合いを取って着地したが、地に足を着けた瞬間、目前に拳が迫る。避けようにも間に合わず、彼女は顔の前で握った両手を重ね、手の甲で受け止めた。かなりの衝撃があったように見受けられたが、芹香は眉一つ動かさない。それどころか――

――微笑っていた。

「彼女は昔からそうでした。戦う事しか知らず、それだけを楽しんでおりました。それが今更……」

 川重は嘲笑した。彼女が今楽しんでいるという事実は、藤堂には否定出来ない。しかし、それとこれとは全くの別問題だ。

「理性が邪魔をして戦えないと言うのなら、こちらが戦力として迎えるまで。彼女の為だと、思われませんか」

 藤堂の胸に、暗い影が落ちる。一体この男は、人をなんだと思っているのだろう。

 芹香は、何も知らなかった。余暇を潰す方法も知らず、友人との接し方も、知らなかった。だから何も話せなかった。生まれてすぐ母親を亡くした彼女は、幼少の頃から、殆どの時間をあの会社で過ごしてきた。友人を作る事もままならず、ただ、退治屋になる為だけに育てられていた。

 忙しい父親の為だったのだと、本人は言っていた。退治屋である父を尊敬していたから、苦痛ではなかったのだと、それでも寂しそうに、彼女は言った。彼女の心の支えは、父親だったのだろう。

 けれどその父親さえも、奪われた。他でもない、目の前で嗤笑する、この男に。

「思わねえよ」

 底冷えする程、冷たい声だった。腹の内から込み上げる感情は、確かに熱を持って全身に行き渡って行くのに、頭だけは、妙に冷たく冴えている。今まで覚えた事もない程の、深い怒りだった。

 分かっていた。何も出来ない自分への憤りが、余計にそれを増長させるのだと。

「あいつは退治屋の事以外、何も知らなかった。あんたらに働かされるだけ働かされて、存在理由がそれしかなかった。戦う事に縋って生きてただけなんじゃねえのか」

「付き合いの浅いあなたに、何が分かると仰るのですか?」

 冷たい手で撫でられたような感覚が、背中を走った。

 彼女が零した涙が、涙で焼けた声が、脳裏に蘇る。胸の内に蟠った孤独を零し、震える手でぎこちなくこの背に縋った、あれが本当の、芹香だったのに。表面上でさえまともに向き合っていなかったこの男に、何が分かると言うのだろう。

「知ったような口利いてんじゃねえ」

 止められない。最早、後には引けない。

 渚が目を見開き、ゆなが悲鳴を上げた。小さな霊達が、一斉に川重を取り囲むのが、狭まった視界に入る。藤堂はもう何も考えられず、襲い来る耳鳴りに、顔をしかめた。

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