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透明なひと  作者:
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第七章 過去の人 六

 反射的に事務所を飛び出した明は、同じく駆けてきた子猫と対峙していた。否、あれは猫ではない。明は両手で刀を構えたまま、真っ白な子猫を睨み付ける。

 一目見た瞬間、あれは霊だと気付いた。猫とは元々霊力が強い生き物だが、明には霊との微妙な差異が分かる。ただ、芹香とゆなが何の疑いもなく接していたから、言い出し辛かったのだ。そもそも猫の姿で何をしに来たのか、分からない部分もあった。真っ先に襲ってくると思っていたのだが、案外向こうも慎重だったようだ。

 確かに猫の気配は、霊のそれと判別し難い。どんなに強い霊感を持った者でも、間違える事がある。退治屋が霊の気配を感じて行ってみたら、猫だった、というような事も、ままある。

 それでも、明には分かる。しかしその理由を友人達に告げる勇気は、彼女にはまだなかった。

「あなた融合霊でしょ。本体は人間だね」

 猫は更に鳴いた。あの声で、居場所を告げているのかも知れない。動物との融合霊は総じて妙な能力を持っているから、迂闊に手を出すことも出来なかった。それが尚の事、明を苛立たせる。

 対峙する明と猫を物珍しそうに眺めながら、中年の女性がゆっくりとした足取りで、横を通り過ぎて行く。遅れて出て来たゆなは、両手を拳の形に握り締めていた。

 猫の姿が、陽炎のように揺らぐ。徐々に人の形へ変わって行く霊を目の当たりにした通行人が、悲鳴を上げた。

「大丈夫ですおばさま。あれは幽霊です」

 逃げるように駆け出した女性には、ゆなの声は聞こえていなかっただろう。完全に人の形を取った霊を見て、明は憎々しげに顔をしかめる。悲鳴を聞きつけて飛び出して来た芹香は、明と向かい合う霊を見て、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 明は腹の底から沸々と、怒りが込み上げて来るのを感じた。意識しなくとも自然と眉がつり上がり、頭が燃えるように熱くなる。刀の柄を握り締め、糸のように細い目をした男を、更に睨み付けた。

「あなた触ったでしょう!」

 猫背の霊は、明の怒鳴り声に僅かに肩を竦めた。芹香が目を丸くして、は、と呟く。

「あなた芹香さんの胸触ったでしょう! 信じらんない! ヘンタイ!」

 霊の細い目からは、感情の片鱗さえ窺い知ることが出来なかった。しかし僅かに肩を竦める仕草から、困っているのであろうことは辛うじて分かる。明はその様子を見て、更に苛立つ。

 芹香は何も言えなくなっていた。何を言っているのだとでも言いたげな表情で、呆然と立ち尽くしている。ゆなは呆れ返るばかりで、表情さえ変えられない。元々無表情だが。

「……だって、猫だし。悪い?」

「悪いに決まってるでしょヘンタイ! 触っていいのは私と藤堂さんだけなんだから!」

 一応僅かに残った理性で藤堂への譲歩はしたが、明は腹が立って仕方がなかった。己の感情をコントロールする事が出来ないから、こうして周囲を困らせる羽目になる。落ち着いてから心苦しくは思うものの、一度憤慨してしまうと、自分でもなかなか収めることが出来ない。

 男はふうんと鼻を鳴らして、芹香に顔を向けた。明の相手をする事を諦めたようだ。

「戻ってくれません?」

「嫌だ」

 芹香の即答を聞いて、明は少しだけ落ち着いた。男は首を捻ってううんと唸り、頬を掻く。

「あなた達が芹香さんを追い出したんじゃない! 今更戻れなんて、どういうこと?」

 少しは落ち着いたが、明の怒りは収まらなかった。憤慨する明に、男は更に困ったような顔をする。人を食ったようなその態度が、更に明の神経を逆撫でした。

 鳳が何を考えているのか、明には分からない。そもそも追われているとは芹香から聞いたが、連れ戻そうとしているのか殺そうとしているのか、詳しい事は知らない。何故そうなったのかも、結局聞けず仕舞いだった。

 それでも。

 明は考えながら、憤る己を制する。それでも、あの人を守りたい。何も伝えて貰えなくても良い。明自身、仲間達に言っていない事が山ほどある。隠し事は絆が強くなればなるほど、言い出せなくなるものだということは、明が一番よく知っている。

 だからこそ、何も聞かない。彼女には彼女の事情があるし、明には明の事情がある。それでいい。

 きっと藤堂は、彼女の事情を知っている。だから彼は今、事務所から出て来ないのだ。だから旧知の仲である鹿倉と、未だに話をしている。

 藤堂は変わった。しかし明は変われない。周りの感情に押され、流されているだけだ。贖罪のつもりではないにしろ、だから何が何でも、彼の大事な人を護りたい。

 そう考える事自体が罪であると、分かってはいるのに。

「こっちも、少し事情が変わったの。即戦力が欲しいんだ」

「私がそちらに肩入れするとでも思うのか」

 凛とした声に、明は背筋が伸びるような感覚を抱いた。

 彼女は強い。一人で居たからこそ、彼女は強かった。だからこそ、一人ではないのだと証明したい。

「じゃあ、皆来るまで待っていて。僕、戦闘には向かないの」

 拍子抜けした。待っていろと言われて素直に待っていたくはないのだが、事務所を特定された以上は、向こうが来るまで待って迎え撃つしかない。しかしそれでは、明の腹の虫が収まらないのだ。

 明は刀を片手に持ち替え、体の前に構えた。猫との融合霊は、困ったように眉根を寄せる。

「浄霊屋が、抹消する気?」

 明は浄霊屋ではないと言いたくなったが、やめた。

「セクハラは犯罪だよ。現世で犯罪行為をした霊は、たとえ誰かが使役している霊でも、抹消するのが決まりでしょ」

「メイ、少し無理があると思うんだが……」

 芹香の呆れた声は最早、明の耳には入っていなかった。

 男はぐるりと首を回して、舌舐めずりでもするように唇を舐めた。明は眉をつり上げて、彼の動向を注視する。

「まあいいや、もうすぐ来るから。どうせ僕も戦わされるし」

 両腕を下げたまま掌を開いた男の指から、尖った長い爪が伸びる。猫と同じ構造に変異しているのかも知れない。

 明が身構えたのとほぼ同時、男は高く飛び上がった。慌てて刀を頭上に掲げ、防御の姿勢を取った明の頬を、鋭い爪が掠めて行く。ばら色の頬に赤い筋が三本走ったが、明は痛がる素振りも見せず、やや後方へ着地した男を振り返りながら、水平に刀を振った。煌めく刃が首筋を正確に狙って迫るが、それが辿り着く寸前で地面に屈んだ男は、大きく身を反らして避ける。流石に猫と融合しているだけの事はあると言うべきか、異常なまでの柔軟さだった。

 小さく舌打ちを漏らした明は振り切った刀の向きを変え、男に向かって打ち下ろす。男は瞬時に体勢を変え、四つん這いになってその場から逃げた。鋼の刃は、虚しく空を切る。明は男を追って地を蹴ったが、その時にはもう、彼は間合いの外にいた。

 伊達に猫と融合してはいないという事か。明は悔しげに歯噛みして、刀を引っ込める。

 諦めた訳ではない。無駄に消耗する事を恐れただけだ。

「あれ、もうやめる?」

 男の声は聞かない振りをして、明はちらりと芹香を見た。明より彼女の方が速いのだが、果たして猫に追い付けるかどうか。

 芹香は僅かに首を横に振り、事務所の中を見詰めたまま微動だにしないゆなへ、視線を落とした。渚がいない今、ゆなに目標を定められたら、ひとたまりもない。

 接戦は、避けた方がいいように思われる。しかしこの男は、あちらに加勢が来る前になんとかしておきたい。

「あなたどうして死んだの?」

 男は僅かに表情を硬くした。聞かれたくない事だったのだろう。浄霊するという道も捨てきれていないのだが、死んだ理由を聞かなければ、とてもそういう気にはなれない。

「教えない」

 短く返答して、男は明に飛びかかった。明は振り被った長い爪から身を翻して逃げたが、男は着地した瞬間、彼女の背中へ向かって片腕を振る。それとほぼ同時に振り返った明は刀を縦に構えて両手で柄を握り、爪を弾き返した。金属同士がぶつかり合ったような、高い音が響く。

 耳障りな甲高い音が木霊した瞬間、男はあからさまに顔をしかめてその場から飛び退いた。耳のいい獣であるが故か、大きな音に弱いようだ。怯んだ男に気付いたのか、芹香がようやく動く。

 細かな文字が書かれた白い手袋が、僅かに光る。芹香は男が退いた先に飛び込み、その首の後ろを掴んだ。反応の遅れた男は、目を見開いて悲鳴を上げる。肉体のある人間は何も感じないが、霊があの手袋に触れると、術者に害意がありさえすれば、掠めるだけでも激痛が走る筈だ。

「お前達は、私をどうするつもりだった?」

 男の首から、白煙が立ち上る。断末魔にも似た絶叫が、大きく開かれた口から継続的に迸る。暴れる男は芹香の腕をがむしゃらに掻いたが、戒めが解かれる事はなかった。

 鋭い爪が肌を掠める度、白い腕に幾つもの赤い線が走る。痛みを感じないのではないかと疑うほどの無表情を保ったまま、芹香は男を見下ろしていた。

 男の苦痛に歪んだ表情に、明は胸の痛みを覚える。無論、芹香に悪気がある訳ではない。退治屋の彼女には、こういったやり方しか出来ない事ぐらい、明も重々承知している。しかしこれではあまりにも、残酷に思えた。

「首が落ちる前に吐け。お前達は何をしようとしている?」

「言えるか!」

 そうかと呟き、芹香は存外あっさりと男の首を離した。よろめいて倒れこむようにその場に膝をついた男は、真っ赤に爛れた首を押さえて呻く。

 実体化した霊は、少しの傷なら時間が経てば治る。しかしあそこまで傷つけられてしまったら、札に戻って術者に頼るしか、治癒の方法がない。その術者も、現れる気配がなかった。

 明は眉根を寄せ、苦しげに呻く男から視線を逸らす。あまりにも、痛々しかった。ついさっきまで、抹消してやろうと思っていたはずなのに、今は哀れにしか思えない。

「あんた、こんな事ばっかりしてるんだ。嫌われるよ」

 男の声は、掠れていた。最早逃げる気力もないのだろう、芹香に向かって皮肉ぶった笑みを浮かべたまま、その場から動かない。彼女は何も答えなかった。

 彼が何故死んだのか、本人の口から聞かない限りは、藤堂でなければ分からないだろう。生前の悪行が祟ってしまったのか、それとも時間経過と共に悪霊化したのか。それすら定かではないが、どちらにせよ、哀れには思う。

 今彼が傷ついているのは、鳳の霊飼いのせいだ。霊飼いに捕まりさえしなければ、もしかしたら、彼は誰かに浄化してもらえていたかも知れない。

 芹香は俯く明を見て、視線で男を示した。意味が分からず、明は怪訝に表情を歪める。

「浄化しろ。今なら出来るだろう」

 明は思わず目を丸くした。男は面食らった様子で眉を上げる。

 芹香は最初から、その為にこの男を傷付けたのだろうか。哀れむ心がなければ、救うという確かな意思がなければ浄霊出来ない事を、彼女は知っていたのだ。そして明の心が、ただの説得では動かないことも。

 明はそこで気がついた。芹香は恐らく知っている。明の事も、恐らく両親の事も。祐子には気付かれていたようだが、まさか、芹香までとは。

 否、彼女が勘付かない筈はないだろう。芹香は明が知る限り、一番の退治屋だ。液晶テレビの向こう側で、出来る事なら霊を救いたいと漏らした、ただ一人の退治屋。一緒に働くようになった今も尚尊敬の念を抱く、たった一人の強いひと。

 気付いていても、彼女は明と普通に接してくれた。何も伝えない事を、怒らずにいてくれた。

 明は芹香に向かって、大きく頷いた。

「楽になりたい?」

 明は首を押さえたままうずくまる男の目の前に立って、そう聞いた。男は眉間に皺を寄せ、返答をためらう。

「あなた悪霊になって、日が浅いんでしょ。破壊衝動より、まだ理性の方が勝ってる」

 男は黙り込んだまま、明から視線を逸らして下を向いた。うなだれた男の首が深く抉れているのを見て、明は僅かに眉をひそめる。痛いだろう。痛いはずだ。

 刀を持った手をゆっくりと持ち上げ、明は切っ先を男の額に向けた。彼は何も言わないし、逃げる気配もない。悪霊が説得で改心する事はないが、まだ人としての理性が残っているから、浄化されたくない筈もないだろう。

 銀色に輝く切っ先が、男の額に吸い込まれて行く。きつく閉じられた男の目尻から、涙が一粒零れ落ちた。うずくまった体が、透明度を増して行く。

「メイ、避けろ!」

 突如として叫んだ芹香の声に反射的に顔を上げ、明はその場から飛び退いた。背後から飛んできた札が、男の体に当たる。明の顔が一気に青ざめ、男の叫び声が木霊した。何かが弾けたような音と共に、男の姿が消え失せる。

 明は混乱して真っ白になった頭で、思う。

 消されて、しまった。

 呆然と立ち尽くす明の視界に、店から出て来た藤堂の姿が入った。明はゆっくりと振り返り、凍り付いたような表情の、藤堂の視線が向いた先を見る。

「残念、避けてしまいましたか」

 芹香が憎々しげに表情を歪め、声を発した男を睨んだ。明は男の姿を目にした瞬間、思わず呟く。

「あなた、あの時の……」

 黒いスーツの袖口から覗く、呪文の彫り込まれた手は、確実に見た事がある。白髪混じりの髪と、酷薄な笑みを浮かべた唇も。そして、胸で金色に輝く、鳳凰を象った徽章も。

 見間違う筈もない。あれは間違いなく、黒江家から金を絞り取ろうと画策し、失敗した元鳳社員。しかし彼は、解雇された筈ではなかっただろうか。

 混乱する明を尻目に、芹香は怒りも露わに小田原を睨み付けた。

「小田原、貴様……」

 一歩近付いた芹香を制するように、小田原は片手を挙げた。以前とは、まるで態度が違う。

「おっと元課長。今日は私だけではありませんよ」

 小田原はゆっくりと道の端へ避けた。その後ろからひょろりとした男が一人、悠然と近付いてくる。芹香が目を見張った。

「川重専務!」

 腫れぼったい目をした男は、細い目を更に細めて、にっこりと微笑んだ。

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