第一章 指輪に憑いた想い 六
「藤堂さん、霊視眼鏡掛けて。見えなきゃ逃げられないよ」
明が持っていたものは、バットではなかった。持ち手部分を二十センチほど残して外された白木の下から出て来たのは、うっすらと燐光を放つ見事な刀身。藤堂は時代劇の中でしか見た事がなかったが、それは紛れもなく、日本刀の刃だった。
藤堂は冷たい床に情けなく尻を着いたまま、呆然と明を見詰めていた。あんなものを持ち歩いているのがばれたら、間違いなく銃刀法違反で捕まるだろうと、全く場違いな事を考えながら。
それも、現実逃避でしかないのだろう。目の前の光景を、現実と認めなくなかった。
「早く!」
明の怒鳴り声に我に返った藤堂は、慌てて押し付けられた眼鏡を掛けた。言われたからそうした訳ではないし、霊視眼鏡とやらがどういった効力を発揮するのかも分からない。けれどそうするしかなかったので、反射的にそうした。そして藤堂は、絶句する。
レンズ越しに見えたものは、藤堂の幽霊に対する想像を遥かに超える異形だった。何もない空中に浮かんだ、窶れて青ざめた女の顔。頬はげっそりと痩け、唇は乾いてひび割れ、肌は紙のように白い。落ち窪んで生気の感じられない目には光がなく、どこを見ているのかさえ分からない。
その頭部、本来なら耳のある位置から直接伸びる、骨と皮だけになった異様に長い腕。そこにはぬらぬらと光る、長い黒髪が絡み付いている。なまじ半端に人間の形を残しているだけ、余計に気味が悪い。
それよりも藤堂を恐怖させたのは、赤ん坊ほどもある巨大な手。枯れ枝のように節くれ立っている以外、形自体は殆ど人間の手と変わりなかったが、左手の薬指だけが、際立って長かった。
「なん……何、これ」
呆然と呟く藤堂には、立ち上がる気力もなかった。立ち上がろうにも情けない事に、体が竦んで動かない。何かに対してこれほどまでに嫌悪感を覚えたのは、生まれて初めてのことだった。
「生霊っていうのは普通悪霊化しないんだけど、魂が体から離れてる時間が長すぎたんだよ」
藤堂はそんな事を聞いた訳ではなかったのだが、訂正して改めて問う気力もなかった。説明されても理解出来ないであろうほど、混乱している。
「長い間指輪の事だけを考えていたせいで、それしか考えられなくなって、悪霊化したの。自分が何だったのかも忘れてる。こうなったらもう、体には戻せない」
早口にそう言い切った明は、異形に向かって駆け出した。女の顔が明の方を向き、巨大な腕を振る。その大きさからは想像も出来ないほど、素早い動きだった。
明は反射的に飛び上がり、足を狙って地面すれすれに迫って来る腕を避けたが、着地の際、足元に這っていたコードを踏みそうになる。慌ててベッドの端に手を着くと、パイプ製のベッドが軋む音がした。
明に避けられた腕は、そのまま失速する事なく壁に激突した。藤堂の目にはかなりの衝撃があったように見えたが、壁はびくともせず、当たったような音もしなかった。明が避けたという事は人間には当たるのだろうが、無機物には触れないのだろうか。
銀色の光を放つ日本刀が、壁に当たった腕に迫る。繰り出された刃はしかし、開かれた大きな掌の、指の間をすり抜けた。明は小さく舌打ちを漏らし、刃を反転させて中指から小指までを切り落とす。床に落ちた指は、跡形もなく消え失せた。
自身を構成する一部を失っても、異形の悪霊はその動きを止めなかった。浮かんだままの女の顔の眉ひとつ動かないし、腕は更に逃げる明を追う。幽体は痛みを感じないのだろうか。
長い指の爪先が、明の頬を掠めた。黒髪が僅かに切れて床に落ち、桃色の頬に赤い筋が付く。明は頬を伝い落ちる血を横目で見て僅かに眉を顰めたが、呻き声ひとつ上げなかった。
――返せ。
また、恨めしげな声が藤堂の耳に届く。頭の中へ直接響いているのか、耳に届いているのか、最早定かではない。地獄の底から響いて来るような声に身震いした藤堂は、思わず尻をついたまま後退りする。
藤堂が僅かに動いた瞬間、その眼前に、不気味な女の顔が恐ろしいスピードで迫った。突如として視界一杯に広がったその顔に、藤堂は眼球が零れ落ちんばかりに目を見開く。人間本当に恐怖すると悲鳴すら出ないのだと、藤堂はどこか他人ごとのように思う。
「藤堂さん!」
慌てた明の声が、遠くに聞こえた。乾いて所々が切れた女の唇から、血が滲んでいる。その口唇が、スロー再生のようにゆっくりと、弧を描いた。
金縛りにあったように体が動かなかったが、実際これは金縛りなのかも知れない。不気味な笑みを浮かべた女の顔を見て、藤堂は死を覚悟する。
――やめて。
それは昨日も聞いた、あの声だった。あどけない子供の、切実に願う声。藤堂はその声を聞いて、何故か安堵した。
視界一杯に広がっていた女の顔が、苦しそうに歪んだ。そして迫った時と同じ速さで、藤堂から遠ざかって行く。離れた事で全体が見えるようになった異形の体には、半透明の子供達が纏わりついていた。
空中に浮かんでいた顔が徐々に高度を下げて行き、大きな手が床に落ちる。しがみついていた子供等が、それ以上動かすまいとするかに、巨大な腕を床に押し付けた。
「守護霊ちゃん、ナイス!」
異形の動きを止めた小さな守護霊達の内、一番年長と思われる額にほくろのある子供が、明を見て微笑んだ。明はそれを見て僅かに頷き、目線の高さに浮かんだままの女の顔と向き合う。
「あなたがした事はあの世でもこの世でも、罪に問われます。でも、私があなたの魂も罪も、ちゃんと綺麗にします。だから、心配しないで」
明は片手に持った日本刀をゆっくりと持ち上げて逆手に持ち替えると、女の額にそっと突き刺した。その刃が深く食い込むにつれて女の顔が歪んで行き、悲痛な表情に変わる。
「どうか、安らかに」
静かな明の声が響くと同時、女の瞼が閉じて行った。頭が消え、鼻が消え、腕が消え、最後に長い薬指が消えた頃には、藤堂の守護霊達も消えていた。
心電図が立てていた電子音が、規則的なものから死亡を示す長いものへ変わる。明は刀身をバットの形をした鞘に納め、胸ポケットから指輪を取り出した。そしてふと、何かに気付いたようにベッドを見る。
「それは、差し上げます」
静かな老婆の声だった。藤堂が声のした方へ視線を移すと、寝間着姿の老婆が痩せた顔に穏やかな笑みを浮かべ、ベッドの上に立っているのがレンズ越しに見えた。その体は半分透けており、向こう側の壁がうっすらと見えている。
霊が見えるのは、明から渡された眼鏡のお陰だろうか。ようやく落ち着きを取り戻し始めた藤堂は、ぼんやりとそう考える。
「こんな事になるのなら、あんな指輪など、早く諦めてしまえば良かったわ。旦那に先立たれて尚、目を覚ませなかった自分が恥ずかしい」
穏やかな声は、かすかに震えていた。
「あなた方には、ご迷惑をお掛けしました。ですからそれは、せめてものお詫びの印です」
応えない明を一瞥してから、藤堂はゆっくりと立ち上がり、老婆の霊を見上げた。この期に及んで吹っ切れたような心境になる自分を、可笑しいとも感じる。
「元々は、あんたの持ち物だろ。あんたが持ってた方がいいんじゃねえの。大事なものなんだろ」
丹沢冴子はゆっくりと左右に首を振り、藤堂を真っ直ぐに見詰めた。あの異形とは似ても似つかぬ、穏やかで、優しげな老婦人の顔だった。
「あなたの元に売られたのですから、今はあなたの持ち物です。私は、あなたを殺そうとさえしてしまった。そんなものでその罪が拭えるとは思っておりませんが、どうかお受け取り下さい。それに……」
冴子は天井を見上げ、深く息を吐いた。
「あなたの可愛らしい守護霊達に、教わりました。そんな指輪には代え難いものが、向こうで待っているって」
藤堂は怪訝に片眉を寄せたが、明は満足そうに微笑んだ。
「向こうで、お幸せに」
冴子は明の笑顔に応えるように、皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべて見せた。
「ありがとう、お嬢さん」
藤堂に向き直った冴子は、しばらく彼を見つめた後、深く頷いた。口元には未だ、淡い笑みが窺える。
「あなた、そのイニシャルの方と出会ったら、その縁を大事にしてくださいね」
「へ?」
藤堂は怪訝に問い返したが、冴子はそれ以上何も言わなかった。言えなかったのかも知れない。
冴子の足が、徐々に消えて行く。半透明だった体が更に透けて行き、彼女が深々と頭を下げた後には、完全に見えなくなった。