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透明なひと  作者:
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第七章 過去の人 五

 三時間ほどで事務所に戻って来た明は、カウンターの上で眠る子猫を見るなり、訝しげな顔をした。一方ゆなは猫を見付けるなり駆け寄って、目を輝かせてその寝顔を覗き込んでいる。時折動く耳に合わせて、ゆなの視線も動く。

 藤堂はカウンターから距離を取ったまま首を捻る明を、怪訝な面持ちで眺めていた。ただいまと言ってから十分間、彼女は一言も口を利かない。芹香は丸くなった猫の背中を撫でながら、藤堂と同じく不思議そうに明を見ていた。

 猫が嫌いなのだろうか。最近は、四足歩行の動物は、臭いから嫌いだと言う子供が多いようだが、その類かも知れない。そういえば彼女は、タバコの煙も得意ではなさそうだ。

 甘えるような鳴き声が、芹香の手元から聞こえてくる。目を覚ましたのかと藤堂が考えるより先に、子猫はのっそりと起き上がって伸びをした。

「にゃー」

 猫につられたように、ゆなが呟いた。芹香が子猫とゆなを交互に見て、頬を仄かに染める。小さいものなら、なんでも可愛いのだろう。小さいと言うと、ゆなは不機嫌になるのだが。

 凝視するゆなに向かって小首を傾げた猫は、愛らしい声で鳴いた。ゆながそれに応える。芹香が噴き出した。

「お前人間じゃなかったの」

 ゆなが藤堂を見上げると、子猫も同じく彼に顔を向けた。

「そうかもしれませぬ。実はゆなは、夜になると猫になってしま」

「嘘つけ」

 言葉を遮って吐き捨てると、猫が鳴いた。くるくるとよく動くビー玉のような目は、しきりに辺りを見回している。愛くるしいその様子を、ただ一人明だけは、険しい表情で見つめていた。

「ねえ……その猫、どうしたの?」

 明の声は、少々硬かった。相変わらず猫と距離を取ったまま、動こうとしない。問い掛けに答えるのも忘れ、そんなに嫌いなのかと藤堂は考える。

「子供がな……飼って欲しいと」

 芹香は事実をそのまま言いかけたが、寸前でイントネーションを変えた。流石に買い取りを頼まれたとは、言い辛いだろう。正義感の塊のような明が、また怒り出すかも知れない。

 しかし明は、硬い表情を変えようとしなかった。顔をしかめたまま、居心地悪そうに身じろぐ猫を注視している。流石に怪訝に思ったのか、ゆなが首を傾げた。

「にゃんにゃんはお嫌いですか」

「そういうわけじゃ、ないんだけど……」

 明の表情が、不安そうなものへと変わって行く。藤堂はゆなと顔を見合わせたが、芹香は黙って明を見つめていた。明の様子に、彼女も何か、思うところがあるのかも知れない。

「私が連れて帰る。渚の家なら、執事を含めて三人いるから、問題ないだろう」

 暫く明の様子を見ていた芹香は、落ち着かせようとするかに、柔らかな声音でそう言った。ゆなが落胆の声を上げたが、明は頷く。渋い表情は変わらないが、不安げな色は消えている。

 明はあの猫に、何か感じたのだろうか。猫は元々霊的な力が強いから、それを何かと勘違いしたのかも知れない。こんな状況だから過敏になるのは当然だが、不安なら言って欲しいものだと思う。一度怒られたから、自分の事はもう、完全に棚上げしている。

 カウンターの上で居心地悪そうに身じろぐ猫を、芹香が抱き上げて腕の中に収めた。大人しくなった子猫は、芹香の胸にすり寄って丸くなる。

「……なんだコイツ、オスか?」

「何故です?」

 思わず言ったはいいが、説明するのも憚られる。藤堂は頭を掻いて、視線を逸らした。猫を注視する明が、視界に入る。

 何を気にしているのだろう。藤堂が触れたのだから、この猫が霊である可能性はない。こんな何の力も持たない子猫を実体化して使役したところで、何の役にも立たないだろう。まさか猫がこちらに害を為す訳でもあるまい。

 何より、芹香とゆなが気付かない事はない。見た目に騙されはするだろうが、何がしかは感じ取れる筈だ。霊体を透けないようにする術もあるそうだが、こんな子猫にわざわざそんな事をするような、奇特な霊飼いもいないだろう。

「そういえば、メイさん、一昨日のことなのですが……」

 ゆなが切り出しかけた時、外から騒がしい足音が聞こえた。自己主張するかのように大きな音を立てながら、近付いてくる。随分と慌てているようだ。

 さて急ぎの依頼かと考えながら顔を上げると、自動ドアが開くと同時に男が一人、飛び込んできた。がっしりした体格と、顎ひげをたくわえた熊のような顔を認めた瞬間、藤堂は眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をする。

「オイ匡! やべえ、やっちまった!」

 必死の形相で駆け込んできた鹿倉清澄は、カウンターに両手をついて、藤堂に顔を近付けた。途端に鼻を突く、汗と泥の混じったような臭いに、藤堂は思わず顔をしかめる。社長とはいえ、彼も現場仕事はするから、仕方がないといえばそうなのだが。

「何? とうとう幼女でも攫ってきた……」

「違えようちのバカがだよ!」

 鹿倉は一歩カウンターから離れてその場に膝を着き、深々と土下座した。これには藤堂も、驚いて目を見開く。全員、何も言えなかった。

 沈痛な面持ちで頭を上げた鹿倉は、すまん、と絞り出すように言った。藤堂を見上げる細い目が、心なしか涙ぐんでいる。

「幽霊屋敷を収めたのがお前らだって、言っちまったんだ。鳳の奴らに」

「なっ……」

 声を上げた藤堂は、反射的に明を見た。彼女は驚愕の表情で、子猫を見詰めている。

 呆然と目を見開いていた芹香が、ゆっくりと、腕の中の子猫へ視線を落とした。猫は甘えた声で鳴き、彼女の腕の中から飛び降りる。藤堂の胸を不安がよぎった。

 軽やかな身のこなしでカウンターへ降りた猫は、続いて床へと飛び移る。つぶらな瞳で見上げてくる猫を見て、鹿倉は不思議そうに首を捻った。

 子猫は更に、高い鳴き声を上げる。先ほどまでのものとは正反対の、不安を掻き立てられるような、不気味な声だった。ゆなが凍り付いたような表情で、凭れていたカウンターから身を起こした。

「猫本来のものと思っていた……抜かったな」

 立ち上がる芹香を見ても、藤堂には状況が飲み込めなかった。鹿倉も床に膝をついたまま、猫と芹香を交互に見ている。

 これが一体、何だというのだろうか。こんな小さな猫に、何が出来るというのだろう。藤堂の疑問とは裏腹、場を包む空気は俄かに緊張の色を見せ始めている。

「鹿倉さん、あなたはこのまま帰った方がいい。わざわざ伝えに来て下さった事、感謝します」

「ああ……ええと、どうしたんだ?」

 カウンターに立てかけてあったバットを取り、黙り込んでいた明が店を飛び出した。開いたドアから、子猫が後を追うように出て行く。甲高い鳴き声が耳にこびりついて、離れない。嫌な胸騒ぎがして、藤堂は掌で口元を覆う。

 芹香はワイシャツの胸ポケットから手袋を取り出しながら、カウンターを出た。厳しい表情を浮かべる芹香の腕を掴み、藤堂は彼女を引き止める。

「待てよ、あの猫なんだったんだ」

 芹香は椅子から立ち上がりかけた姿勢の藤堂を見下ろして、僅かに眉を顰めた。

「私が本当にここにいるかどうか、確かめに来たんだ。あの子供は、何も知らなかったのだろうが」

「確かめに来た? 猫が?」

「猫ではない。恐らくな」

 芹香はそれ以上、何も説明しようとしなかった。

 藤堂は立ち上がった鹿倉と顔を見合わせ、眉を顰めた。意味が分からなかった。あれが鳳のスパイだったとでも、言うのだろうか。どう見ても、ただの子猫だったのだが。

 ゆなは芹香の横をすり抜け、小走りで事務所を出て行く。藤堂は半信半疑のまま、浮かせかけていた腰を完全に上げて席を立った。芹香はそれを追って、落としていた視線を上げる。

「匡、今すぐ戻るよう、渚に連絡してくれ」

「それはいいけど……」

 外から悲鳴が聞こえた。明のものでもゆなのものでもないだろう。しかし芹香は叫び声を聞いた瞬間、血相を変えて飛び出して行く。

 鹿倉と共に残された藤堂は、呆然と立ち尽くす。まさかこんな早くに手が及ぶとは、思いもしなかった。白昼堂々、往来で乱闘を繰り広げられるのも困りものだが、悠長にそんなことを考えている場合ではないだろう。

「何があったか知らねえが……お前、どうするんだ」

 携帯電話を手に取った所で、鹿倉が心配そうに声を掛けてきた。彼は藤堂に守護霊がいる事を知らない。

「見守る」

「見守るって……大丈夫なのかよ」

 渚にメールを打ちながら、藤堂は鼻を鳴らした。大丈夫なのかと、そう言われても、今はこれが仕事だ。厳密に言えば、今の状況は仕事とは関係ないのだが、想定はしていた事だった。

 いつかは必ず、追っ手が来ていた。ただでさえ有名なあの幽霊屋敷で、あれだけ派手に立ち回れば、鹿倉の部下が何も言わなくとも、露見するのは時間の問題だったろう。

 今すぐ戻れと簡素なメールを送った後、藤堂はカウンターから出る。店の前で何が起きているか、見届けなければならない。一人だけ安全な場所で、のんびりしている訳には行かない。

 しかし身を案じてくれる鹿倉に何一つ説明しないでいるのも、申し訳ないような気がした。藤堂は鹿倉の正面に回ると、カウンターにもたれかかる。

「鳳がな、芹香を連れ戻そうとしてんだ」

 鹿倉は驚いたように目を見張った。よくよく考えてみれば芹香がこちらへ来た事についても、何も話していなかったように思う。鹿倉も何も聞かないし、藤堂も話さない。

 それでも別段構いはしないと、今まではそう思っていた。旧知の仲である鹿倉だからこそ、藤堂が何も言わない事を、責めたりはしない。しかし友人だからこそ、それでは駄目なのだ。甘えてばかりいてはいけないと、藤堂は彼女達に教わった。

「何でだか知らねえけどさ。でもやっぱ、連れ戻されちゃ、こっちは困るから」

 太い首を捻り、鹿倉はたっぷりと蓄えた顎ひげを撫でた。

「本人は、なんて言ってんだ」

 藤堂は煙草に火を点けながら、軽く肩を竦める。少し背筋を伸ばしてガラス戸の向こうを見ると、ゆながこちらと道路側を、交互に見ているのが視界に入る。少し焦った。

「戻りたくはないと思うよ」

 手を伸ばして灰皿の上で煙草を弾き、曖昧に返した。鹿倉も、そうか、と素っ気なく応える。

 鹿倉と真面目な話をするのは、何年ぶりだろう。果たして今まで真面目な話など、彼としたことがあっただろうか。気恥ずかしくもあるが、嬉しくもある。

 転校を余儀なくされてから、藤堂は鹿倉と会わなくなった。元の高校自体は別々だったが、お互い高校に慣れるまでは、中学時代の同級生とばかり遊んでいた。転校して忙しくなったせいで、会う機会がなくなったのだと記憶している。

 それでも、縁は続いていた。転校した先で、藤堂にも友人は出来ていたし、鹿倉にも高校で出来た友人はいただろう。数ヶ月に一度連絡を取り合う程度だったが、欠かした事はなかった。奇縁というべきか、腐れ縁と呼ぶべきか。

 大学に入ってから久しぶりに会った鹿倉は、藤堂を見て、少し驚いたような顔をしていた。あれは多分、藤堂の微妙な変化を感じ取っていたのだろう。あの頃の藤堂には、つるむ仲間こそいたものの、中学時代のように親友と呼べるような友人はいなかった。

 思えば、長い付き合いなのだ。藤堂の変化を一番近くで見守っていたのは、恐らく鹿倉だ。そして彼女達と出会うまで、一番彼の身を案じていたのも。

「付き合ってんだろ」

 熊のような顔が、笑っていた。藤堂は口元へ持って行きかけていた手を止め、鼻で笑い返す。

「ウン」

「そんじゃあ、向こうにゃ渡せねーな」

 藤堂が頷くと、鹿倉は意外そうに眉を上げた。当然だろう。何にも執着心を見せる事のなかった自分が、渡せないと明言したのだ。執着していなかった訳ではないが、肯定したのは、これが初めてだろう。

 呑気に歓談している場合ではない。外ではきっと、明も芹香も戦っている。それでも、こみ上げてくる笑みを、堪える事が出来なかった。そんな藤堂を見て、驚いた顔をしていた鹿倉が、どこか嬉しそうな笑みを浮かべる。

「お前も変わったな」

「まあね」

 一人ではなくなること。心の底から失くしたくないと思うものが、出来たこと。それが藤堂を変えた。心に大きな痛手を負ってからというもの、誰一人信用せずに来た彼を変えてくれたのは、間違いなく彼女達だった。

 今はそれを感謝したい。それでも藤堂には、彼女達を守る事が出来ない。手伝うことも出来なければ、何の助けにもなれない。だからこそ、信じようと思う。

 目を逸らさずに、真っ直ぐに見ること。それが何よりも大事なことなのだと、今はそう思える。

「お前帰れ」

 身を起こしながら、藤堂は携帯を確認した。渚から、どうしたのかと返信が来ている。急がせなければならない状況だが、向こうの仕事は終わったのだろうかと、今更ながら心配になる。切迫したこの状況で、そんなことを心配している自分が、おかしかった。

 鳳が来る。悩んだ末にそう返して、藤堂は携帯を閉じた。鹿倉は彼の肩に手を置き、軽く叩く。

「頑張れよ」

 のんびりしている暇はない。藤堂はその声に頷いて、店の奥を指差した。

「うちの玄関から出ろ。表危ないから」

 鹿倉は黙ったまま、カウンターの裏へ入った。藤堂は一つ息を吐き、大きく手招きするゆなに向かって頷いて見せる。

 自分があの場に立つ意味は、恐らくない。守護霊達は彼を守ろうと戦うだろうが、それも、藤堂があの場にいるからだ。居さえしなければ、小さな守護霊達は、無駄な労力を使う必要はない。

 それでも見届けなければならない。たとえ霊の記憶を見てしまうことになろうと、この手で霊を消す銃を撃つ羽目になろうと。誰一人欠けない事を、確認する為に。

 何があっても、目を逸らさない。そう心に決め、藤堂はゆっくりと、ドアへ近付いて行った。

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