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透明なひと  作者:
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第七章 過去の人 三

 黒江ゆなは、藤堂宅へ入ってくるなりむくれていた。昼食を食べ終わっても一言も口を利かず、白い頬を膨らませて藤堂を睨んでいる。明がばらしたのかも知れない。だから言うなと言ったのにと、藤堂は心中溜息をつく。

「ゆなさん、早く事務所に出なさい。メイさんが一人になってしまうじゃない」

「ゆなはストライキ中なのです」

 藤堂は背後の会話を、聞くでもなく耳に入れる。芹香は皿洗いをさせようにも、皿を割るから任せられないし、いつも後片付けをしているゆながこの状態だから、彼は仕方なく食器を洗っていた。

 申し訳ないような気分だった。悪いことをしたつもりはないが、ゆなが後片付けを放棄するほど怒るとは思っていなかった。色恋沙汰など所詮個人の自由なのだから、怒られる謂われもないのだが。

 渚は困り顔でゆなを宥めていたが、やがて溜息を吐いて立ち上がった。無駄だと判断したのだろう。

「芹香さん、そんな顔をしないで」

 食器を拭きながら肩越しに背後の様子を窺うと、ゆなは未だに藤堂へ恨めしげな視線を送っていた。その横で、渚が芹香の顔を覗き込んでいる。

「藤堂が悪いんですわ、藤堂が。出ましょう」

「いや、それは……」

 助けを求めるような目で見られたが、藤堂にはどうする事も出来なかった。悪いと言われたら、そうなのかも知れない、とも思う。だから敢えて言い訳はしないし、口を挟む気もなかった。悪い事をしたとは思っていないが、申し訳ないとは思う。

 渚は藤堂には何も言わず、芹香を引っ張って店へ出て行った。ゆなと二人にされると、尚更気まずい。

 果たして明は本当に、ゆなに告げ口したのだろうか。ゆなはまた渚のように、全く違う事で怒っているのではないだろうか。そうならまだいいと、藤堂は食器を片付けながら考える。

「何故に藤堂さんは、自分の口から話そうとしないのです」

 食器を全てしまい終えた藤堂に、ゆながようやく声をかけた。

「ゆなは藤堂さんが誰を好きでも、怒ったりはしませぬ」

 藤堂は体ごとゆなに向き直り、流し台に凭れた。見上げてくるゆなの表情は、未だに硬い。

「藤堂さんはいつもそうなのです。大事なことは全部抱え込んでしまいます。昔の事だって、話してくれませんでした」

「忘れてたんだよ、アレは」

「つい昨日の事は、忘れてはおりませんでしょうに」

 ゆなから目を逸らし、藤堂は頭を掻いた。結局のところ、彼女が怒っていたのは、藤堂が隠そうとしていたからなのだろう。良かれと思ってした事が、裏目に出てしまった。

 確かに藤堂は、自分からは何も語ったりしない。自分の事を話すのは得意ではないし、何より彼は口下手だ。どうせ上手くは伝えられないと、最初から諦めている部分もある。

「藤堂さんが気を遣ってくれているのは分かります。でも、ゆなは話して欲しいのです。皆さん、それを気にしておられました」

 思い返してみれば、自らについて何を話した事もなかった。わざわざ伝える事など、ないと思っていた。話したくなかったと言えば、そうだったのかも知れない。

 深い付き合いになるような友人は、ここ数年いなかった。そもそも旧知の仲である鹿倉ともあまり会わないから、自分のことを話すということ自体、考えが及ばなかった。話を聞くばかりで、話すことはない。しかし友達付き合いをする上で、それでは駄目なのだと、今更ながらに思う。

「霊の記憶を見る時、藤堂さんはとても辛そうにしておられます。少しでも、話して下さい。きっと楽になります」

 藤堂は少し眉根を寄せてから、曖昧に笑った。一人で抱え込むなと言いたいのだろう。

「ごめんな」

 ゆなは大きく頷いて、立ち上がった。

「分かって下されば、良いのです。明さんの事も、その内聞かなければなりませんね」

「そうだな」

 結局、助けられてばかりいる。散々気を遣われているのに気付かない自分が、あまりにも情けなく思えた。子供と思って見くびっていたが、子供だからこそ、分かるものもあるのだろう。

 何かあったら今度は話そうと、藤堂はそう思う。それで少しは、気も紛れるかも知れない。

 店へ出ると、渚は既にいなかった。携帯電話を耳に当てた明と芹香が、並んでカウンターに座っている。

「はい、今から行きます……あ、ゆなちゃん」

 電話を切った明は、出てきたゆなに気付くと、振り返りながら席を立った。

「依頼来たから、行こう。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 芹香が返すと、ゆなは明と一緒に手を振り、事務所を出て行った。どうにも忙しない。

 仕事が増えるのはいいが、ただでさえ人数が少ないのに、これ以上忙しくなったら、手が回らなくなってしまいそうだ。ゆなが浄霊に成功したとはいえ、彼女は厳密には従業員ではない。実質行動出来るのは三人だけだから、些か辛いものがある。

 定期的に休みを作ろうにも、これでは難しいかも知れない。夏なのだから、少しは休ませてやりたいのだが。

「メイに、怒られたよ」

 取り留めもなく考えを巡らせていた藤堂は、思わず間抜けな声を漏らした。芹香は藤堂を見て苦笑いを浮かべる。

「何故話さないのかとな。そこまで信用がないのかと、昨日渚にも責められた」

「ああ、俺もゆなに怒られた」

 煙草に火を点けながらぼやくと、芹香は喉を鳴らして笑った。怒られたと言う割に、随分と機嫌がいい。

 実際彼女は、嬉しいのかも知れなかった。何も言わない事を怒るほど、親身になって貰えることが。一人で過ごして来たというから、友人と呼べる間柄にある人間が出来たことが、嬉しいのだろう。

 叱られるのは嫌だなどと考えておきながら、藤堂自身、嬉しく感じている。怒られて嬉しいと言うと、どことなく気味が悪いが。

「馬鹿だったな。さっさと言ってしまえば良かったものを……追い出されてしまうのではないかと、不安だった」

「え、なんで?」

 藤堂は思わず問い返す。芹香は怪訝に眉を顰めて、僅かに首を捻った。

「……私達の事ではないぞ」

 しまった、と思った。当然だろう。芹香が怒られていたのは、一昨日の事に関してだ。昨日の事しか頭にないような自分が、恥ずかしく思えた。

「いい子だな、あの子達は」

 ああ、と返して、隣を盗み見た。整った横顔が、どこか嬉しそうに緩んでいる。

 最初と比べたら、芹香もよく笑うようになった。藤堂にはそれが嬉しくもあり、見る度に気恥ずかしくもなる。自分は間違いなく、彼女に惚れているのだろうとも思う。

 それでも疑念は拭えなかった。藤堂は鈍い性質の人間だが、気付かない程愚かではない。

 芹香は社長を気にしている。それがどんな人物で、具体的に何があったか、推し量る事は到底出来ない。それでも、嫌な勘というのは大抵当たってしまうものだ。

 無論、芹香を疑うわけではない。彼女が告げた気持ちに嘘偽りはないと信じているし、嘘を吐いたところで、得はない。疑っているのは、未だ未練があるのではないかという、そういった類の事だった。

「匡」

 思わずびくりとする。飛んでいた意識を戻して視界に映した芹香は、真顔だった。何を言われるのかと、その凛々しい美貌を見ながら内心はらはらする。

「私は、幸せかも知れない」

 藤堂は一瞬、固まった。唐突に何を言い出すものかと、怪訝に思う。

 しかしその言葉の意味を反芻して理解すると、思わず笑みが零れた。笑い出した藤堂を不思議そうに眺めていた芹香が、つられて噴き出す。肩を震わせて笑う彼女の頬に朱が上るのを見て、込み上げるものを感じた。

「何、いきなり」

「いや、分からん」

 幸せと言うなら、そうなのかも知れない。

 頬にかかった長い髪を避け、藤堂は子供のように破顔した恋人の顔を覗き込む。芹香は少し驚いたように眉を上げたが、逃げる事はしなかった。代わりに頬が更に紅潮する。

 瞼が落ちるのを待って触れた唇は、やけに熱かった。元々体温が高いのか顔に熱が籠もっているせいなのか、定かではない。ただ、疑念も何もかも、どうでもよくなった。

「……熱いな」

 熱いのはお前の顔だと言いたくなったが、やめた。藤堂は顔を離し、視線を入り口へ向ける。

 いつも通りの風景だった。のんびりと通り過ぎる老人の姿も、代わり映えしない町並みも、何故だか嬉しく感じられる。そんな自分の心境の変化が、藤堂には意外に思われた。

 ぼんやりと眺めていた自動ドアが、唐突に開いた。藤堂は驚いて目を丸くしたが、視線を落としてみると、段ボール箱を持った少女が立っている。珍しい依頼人だと思ったが、手元の大きな箱が揺れるのを見て、首を捻った。

「お嬢ちゃん、どうしたのそんなの持って」

 物珍しそうに店内を見回していた少女は、藤堂に問いかけられて、抱えていた箱を突き出した。藤堂は思わず身を引く。

「買ってほしいの」

 隣の芹香と顔を見合わせ、藤堂は再度首を傾げる。カウンターに置かれた段ボールは、蓋が閉じられているので、中が見えない。おもちゃか何かだろうか。

 未成年がものを売るには、両親の同意書が必要だ。そう説明しても、少女には分からないだろう。適当に理由をつけて、断った方が賢明だ。

 ううんと唸り、藤堂はカウンターの外側から見上げて来る少女に、視線を移す。

「開けるよ」

 少女が頷くのを待ってから、藤堂は箱を開けた。中身を確認して、思わず嫌な顔をする。

 箱の中で、子猫が鳴いた。綿毛のような白い毛並みと細い尾が、ゆらゆらと揺れている。藤堂と目が合うなり香箱を作っていた猫が立ち上がり、彼を見上げてまた鳴いた。芹香が頬を染める。

 暫く子猫を見ていた藤堂は、呆れた目を少女に向けた。

「……お嬢ちゃん。ウチはペットショップじゃないよ」

「なんでも買ってくれるんでしょ?」

「生き物はダメ。モノと一緒にしちゃダメ」

「ペットショップでは売ってるよ」

 藤堂は、ぐっと言葉に詰まった。助けを求めようと隣を見ると、芹香は子猫を見詰めたまま微動だにしない。役に立たない。

「質屋に売るのはね、モノなの。生き物じゃないの」

「モノってつくよ」

 ああ言えばこう言う。少し言葉を知り始めた歳の子供は、これだから困る。

「猫は生きてるだろ。そこのバッグは生きてないだろ」

「バッグは死んでるの?」

「死ぬ死なないじゃなくて……この猫どうしたの」

 埒があかないので、話を変えた。少女は首を傾げて不思議そうに藤堂を見る。

「もらったの。でもおウチにはいらないって、お母さんに言われたから」

 唖然とした。娘が娘なら親も親という事だろうか。

 質屋には、この手の人間が稀に訪れる。実家に居た頃にも、犬を押し付けられたと言って、父が嘆いていた事がある。

 こんな時代だからと、両親は諦めていた。死が今生の別れではなくなった今だから、命の重さが分からない人間が増えている。霊が見えない藤堂にとっては、死とは耐え難いほど重いものなのだが。

 日常的に霊を見るようになったら、そうは思えないのかも知れない。除霊屋達は霊と生者との違いをしっかりと認識しているから、誰かを亡くせば、当たり前に悲しむ。しかし霊感の強い一般人は、死というものを上手く認識出来ていない。

 命だなんだと言いながら、霊は存在するというのは、確かに矛盾している。死ぬ事で命が失われるというのなら、霊というのは一体何なのだろう。失うのは、体だけではないか。

 死んでも、盆にはまた会える。その安心感が、人々に命の重さを忘れさせた。目に見えない命の尊さを説くなど、元より難しい事ではあったのだ。

 殺人という犯罪は、減少傾向にあるという。代わりに、無闇に浮遊霊を抹消する退治屋や、人の死を悲しむ事の出来ない人間が増えている。嫌な世の中だと、藤堂は思う。そんなニュースを見たくないから、彼はテレビを観ない。

「……分かった。買い取れはしねえが、うちで預かる」

「いいよ。あげるね」

 少女は案外、素っ気なかった。食い下がられても困るが、結局どこに持って行っても同じ結果になったのではないかと、藤堂は思う。

 店を出て行く少女の背中を見送った後、藤堂は子猫の首根っこを摘んで箱から出した。愛らしい声で忙しなく鳴いてはいるが、暴れる様子はない。元々人に慣れているのかも知れない。

 芹香が両手を出したので、つまみ上げた猫を抱かせてやった。黙り込んだまま、彼女は表情を緩めた。

「猫好き?」

 白い指が、真っ白な喉を撫でる。ごろごろと鳴く猫を見つめたまま、芹香は頷いた。小さいものが好きなのかも知れない。彼女はゆなの頭も、よく撫でている。

「違いが、分からないのだろうな」

 胸に乗せられた小さな前足を指先で摘みながら、芹香は呟いた。藤堂は煙草に火を点けながら、ふうんと鼻を鳴らす。

「道徳的な問題だよね」

「何が大事なのか、分からない時代だから」

 その先は、芹香の口からは出なかった。

 世間一般的に大事なものなど、藤堂には分からない。生命を売買することは良くないとは思うが、何がどういけないのかは、結局上手く説明できない。

 しかし個人として大事なものを、今の藤堂は持っている。御転婆な友人達も、猫と戯れるこの女も、今では等しく大事に思う。誰が欠けても嫌だ。命を狙われる彼女を守ることは出来ないが、せめて彼女に何かしてやれればいいと思う。

 随分と、変わってしまったものだ。藤堂はそんな自分を可笑しく思う。変えてくれたのは、間違いなく彼女達なのだろう。

 無性に礼が言いたくなって、藤堂は唇だけで、ありがとうと呟いた。

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