第七章 過去の人 二
昨夜は散々だった。連絡するのを忘れていたせいで、気がついた時には渚からの着信履歴がとんでもない数になっていた。芹香は慌てて祐子の家に泊まると連絡を入れたが、こっぴどく叱られたようだ。根回しをしようと電話をした藤堂も、祐子にしこたま怒られた。結局何故怒られたのかよく分からなかったが、この歳になって怒られている自分は一体なんなのだろうと思う。
翌朝目覚めた藤堂は、隣で眠る芹香を見て心臓が止まりそうになった。寝ぼけた頭で、何があったのか反芻する。怒られた事ばかり浮かんできたので、思い出さない方が良かったかも知れない。
欠伸を漏らしながら起き上がり、藤堂は携帯を確認する。時間はいつもより少し早い。祐子からメールが入っていたが、着替えを持って行くという以外はろくでもない内容だったので、返信しなかった。祐子からのメールには、大抵どうでもいい事しか書いていない。
芹香を起こさないようにそっと起き上がり、藤堂は洗面所へ入る。窓を閉め切っているせいか、恐ろしく蒸し暑かった。足に張り付くジーンズの生地が鬱陶しい上に、肩から背中にかけて痛かったが、不思議と不快ではない。気持ちの問題なのだろう。
歯磨きを終えた所でチャイムが鳴ったので、慌てて干してあったシャツを外して頭から被った。玄関の扉を開けると、紙袋を手にした新藤祐子がにやついている。藤堂は思わず嫌な顔をした。
「すっきりね藤堂君」
祐子はにやついたまま紙袋を差し出した。今日はフォーマルな服装だが、相変わらずシャツの胸元は大きく開いている。少し日に焼けたように見えたが、言ったら怒られそうなので何も言わなかった。
「こないだあんたが来た時には、髪切ってあったけど」
「やあねぇトボけちゃって、このスケベ」
「どっちが?」
袋を受け取りながら、藤堂は顎を掻いた。床屋に剃られた髭が生えきっていないので、手触りが少々寂しい。
「で、どう?」
「どうもこうもねえよ、言ったろ。あいつ握力どんだけなん……ちょ、痛っ」
聞かれたから答えただけのつもりだったが、藤堂は頭を叩かれた。祐子はまだにやけた笑みを浮かべている。何がそんなに楽しいのだろう。
楽しむのは勝手だが、叩くのはやめて欲しかった。頭をさすりながら、藤堂は肩を竦める。
「泊まっといて何もなかったら不能かホモよ。おねーさん心配してたのよ、あの子ネンネでしょ」
「あんたもつくづく死語使いだな」
「お黙り」
祐子が再び片手を振り上げたので、藤堂は慌てて身を引いた。機嫌がいいのか悪いのか、さっぱり分からない。
「しっかしあんた手早いわねえ。淡白だと思ってたけど」
「俺もそう思ってたけど」
「やだ、やめてよちょっと。純情ぶったノロケ聞く気なんかないわよ」
何故そう思ったのか藤堂にはよく分からなかったが、祐子は嫌そうに顔をしかめて顔を背けた。藤堂は困惑して首を捻る。
開けた扉に凭れ、祐子は小さく溜息を吐いた。どことなく険しいその表情に、藤堂は思わず身構える。帰ろうとしないところを見ると、説教の一つでもしたいのかも知れない。
「お父さんのお墓参り、行ったのかな」
些か拍子抜けして、藤堂は眉を顰める。
「行ったんじゃないの? 聞いてない」
「あの子泣いた?」
「泣いてた」
そう、と呟いて、祐子は少し俯いた。今度は何事か、考え込むような表情を浮かべている。祐子の考えることは、藤堂には分からない。
「じゃあ、大丈夫かな」
「何?」
小さく首を振り、祐子はドアを押さえて身を起こした。
「なんでもない。じゃーね」
藤堂の返答を待たず、祐子はドアを閉めた。残された藤堂は首を捻り、少し悩んだ後、扉に鍵を掛けて寝室へ向かう。
芹香はまだ、眠っていた。起こすのも忍びないので、タンスの上に紙袋を置いて再びダイニングへ入る。気付けば時間は十時を回っており、藤堂は心中祐子を恨む。この分だと、朝食はゼリーだけになりそうだ。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎながら、ふと、祐子は何か懸念していたのではないかと考える。芹香の父親の事は昨夜詳しく聞いたが、供養がされていないということはなさそうだ。ならば一体、何を心配していたのだろうか。
流し台の上の窓を開け、藤堂は煙草に火を点ける。
浮かばれないかも知れない。殺された上、娘の命まで狙われては、おちおちあの世へ行ってもいられないだろう。しかし、もしそうなら真っ先に、娘に会いに来るのではないだろうか。
「匡」
名前を呼ばれたことに驚いて振り返ると、いつの間に着替えたのか、芹香が寝室の扉を背にして立っていた。長袖の開襟シャツを折って着ているところを見ると、夏に入る前、祐子の家へ置いて行ったものなのだろう。
顔が赤い上、視線があらぬ方を向いている。寝乱れた髪を手櫛で整えながら、彼女はおずおずと発声した。
「洗面所を借りる」
「……ああ、うん」
思い出さないようにしていた記憶が蘇ってきたが、気にしない事にした。芹香は結局藤堂を見ないまま、洗面所へ入って行く。
濡れたシンクに煙草を押し付けて火を消し、換気扇の下に放置されたゴミ袋へ吸い殻を捨てた。そろそろ捨てに行かなければ、いい加減臭ってきそうだ。いつでもゴミが出せるのは便利でいいが、安心感があるせいか、度々捨てに行くのを忘れてしまう。
こんな事になるとは、思ってもみなかった。呼び出した時には下心など微塵もなく、話を聞こうと考えていただけだというのに。後悔はしていないし結果的には嬉しい事だが、他の女性陣にばれてしまったらと思うと、憂鬱だった。明には特に黙っていたい。
冷蔵庫を開けて貰い物のゼリーを取り出したところで、芹香がダイニングに入って来た。まだ顔が赤い。
「なに照れてんの」
黙ったまま左右に首を振り、芹香は俯いた。しかしゼリーのカップを目の前に差し出すと、素直に受け取る。少し可笑しかった。
「もう高屋敷来るから。多分」
洗濯機の音が、微かに聞こえる。窓から吹き込む青臭い風が、髪を揺らした。あれほど冷たく見えていた銀髪が、急に色づいて見える。うん、と呟いた芹香の頭に掌を乗せ、軽く叩くように撫でた。
嬉しいような、困ったような表情を浮かべた顔をようやく上げ、芹香は眉を顰めた。その顔さえも、藤堂には可笑しく思える。胸につかえていたものが取れたかのように、気分が軽い。
「藤堂さーん!」
芹香の顔が一気に青褪め、藤堂から距離を置いた。藤堂は凍りついたまま、恐る恐る廊下を見る。瞬間、店へと続くドアが開いて、顔を強張らせた知恩院明が顔を出した。
何故明が、こんな時間に。そう思ったところで、渚が連絡したのだと気がついた。さっさと渚に連絡をしていれば、こんなことにはならなかっただろうに。
「どうしてもう来てらっしゃるんですの」
高屋敷渚は厳しい表情を浮かべて、明の後ろから室内へ入って来た。藤堂は思わずたじろぐ。渚が近付いて来るのを見て、芹香の顔が引きつった。
「ゆ、祐子の家は、ここから近いだろう」
「関係ありませんわ」
渚に詰め寄られ、芹香はゼリーを片手に持ったまま身を引いた。子供ではないのだから、外泊ぐらいでそんなに怒る必要はないだろうと藤堂は思う。
ちらりと横を見れば、明が鬼のような形相で睨んでいた。藤堂は半ば自棄になって、誰と何をしようがこちらの勝手だ、と思ったが、思っただけだった。わざわざ自分から火に油を注ぐような真似をするほど、彼は愚かではない。
渚は唐突に藤堂を振り返り、片手を差し出した。藤堂は目を丸くして、え、と呟く。
「さあ、大人しくそれを渡しなさい」
一瞬、何のことか藤堂には分からなかった。は、と更に呟いて、渚の顔と差し出された手を交互に見る。
「黙って食べようとしてたんでしょう!」
「え、なにを?」
渚の手が、藤堂の手からゼリーをひったくった。何を怒られているのか、藤堂には全く分からない。
恐る恐る明を見ると、彼女もきょとんとしていた。恐らく怒っている理由が、それぞれ違っていたのだろう。まさか渚は、このゼリーが欲しかっただけなのだろうか。渚なら、それも有り得ない事ではない。
唖然とする三人のことなど、渚の視界には入っていないようだった。彼女は藤堂から取り上げたゼリーのパッケージを見て、目を輝かせる。
「やっぱり線引屋のゼリーじゃない!」
「あの、高屋敷さん、なんの話……」
渚は藤堂の問いかけを無視した。流しの下の引き出しから勝手にスプーンを取り出し、卓袱台に着く。鼻歌でも歌いだしそうなほど、嬉しそうな顔をしていた。
藤堂は芹香と顔を見合わせ、首を捻った。明が呆れた目で渚を見ている。貰った時点で、紙袋から中身を判断したのだろうか。しかしあれは、百貨店の袋だったはずだ。否そんなことよりも、渚はただ単にゼリーが食べたかっただけなのだろうか。
怯えていたことが馬鹿馬鹿しく思えて、藤堂は力なく笑った。明は頭痛を堪えるように額を押さえ、左右に首を振る。
「芹香、高屋敷に全部食われるぞ。メイも」
「いや、私は……」
「私はいらない。渚さんにあげて」
渚は上機嫌にゼリーを口へ運んでいる。明の方は、何を怒っていたのか結局分からなかった。渚のお陰で明に睨まれずに済んだと思えば、ゼリーに感謝すべきだろう。
「芹香さんが泊まりに行ってるって言うから、何かと思った」
芹香にスプーンを差し出しながら、藤堂は低く呻いた。
「だから祐子さんのとこだって。ウチじゃなくて」
「そんなこと一言も言ってないけど」
明はどこか冷めた目で、藤堂を見ていた。芹香はさっさと渚の方へ逃げてしまう。あちらとしても、明の質問責めにあうのは御免だろう。
逃げ出したくてたまらなかった。明の視線は痛いし、どことなく気まずい。
「お前はなんでこんな早いんだよ。いつも昼過ぎだろ」
「渚さんが、大変だって言うから」
「何も聞いてなかったのか」
頷いて、明は迷惑そうに渚を睨んだ。しかし睨まれた本人は気にする事なくゼリーを口に運び、代わりに隣にいた芹香が怯えたように肩を竦めた。
「芹香さんに何かあったのかと思ったんだよ。そしたら、ここにいるし」
「ああ……」
それなら表情が硬かったのも納得出来る。しかし渚が真っ先にここへ来た事に、何故疑問を持たなかったのだろうか。
案外明は、あまり深く考えて行動出来ないのかも知れない。元々そういった嫌いはあったが、普段は落ち着いているから、感情に流されているだけなのだと思っていた。藤堂の他人に流される性質がうつったのだろうか。
「……そういえばさ、もう個人行動しない方がいいんじゃねえの」
冷蔵庫を開けてゼリーを取り出しながら、藤堂は肩越しに明を見た。店番をしようとしたのか、廊下へ出て行きかけていた明は、藤堂を振り返って首を捻る。
「そうだね……渚さんは執事さんと一緒だからいいけど、私達は誰かと離れない方がいいかも」
明はダイニングに戻って、渚の隣へ腰を下ろした。卓袱台を囲む形で、藤堂も床に胡座をかく。彼がゼリーの蓋を開けた頃には、渚も芹香も既に食べ終わっていた。
「メイは、ゆなと一緒の方がいいだろうな」
明は芹香に頷いて見せ、ちらりと掛け時計を見た。ゆなが来るまでには、まだ時間がある。
早々とゼリーを平らげ、藤堂は煙草に火を点けた。味が濃すぎて口に合わなかったが、渚はあれが好きなのだろうかと全く関係のない事を考える。誰が誰と行動しようが、彼にはどうでもいいことだ。
「そうですね。まだ教える事あるし……」
三人分のゴミとスプーンを纏めていた渚が、眉を顰めて首を捻った。
「でも、それだと芹香さんが一人になってしまいますわ」
「匡がいるだろう。コウもいる」
「匡?」
明が怪訝な声を上げた。芹香の顔が一気に青ざめる。
「今匡って言いました?」
顔を引きつらせた明に、芹香は慌てて左右に首を振って見せた。藤堂はもう、どうでもよくなってしまった。
「い、言ってない、気のせいだ。眼科に行け」
「眼科行ってどうすんだよ、耳鼻科だろ」
大きな溜め息を吐いて、渚が立ち上がった。不毛な会話に入るのが嫌なのだろう。
明の鋭い視線が、顔に刺さる。藤堂は台所に立つ渚の背中を眺めながら、何故こんなにも怯えなくてはならないのだろうと思う。何も後ろめたい事はない。ただ偶然惚れてしまっただけだ。
明には、確かに悪いと思う。彼女からしてみれば、憧れの人を取られたような心境だろう。それも、こんなだらしない男に。
「……ゆなには黙っといて」
視界の端で、芹香が目を丸くするのが見えた。明の表情は確認出来ない。見るのが怖かった。
渚は三人に背を向けたまま、何も言わなかった。会話は聞こえていただろうに、ただ黙々と昼食の支度をしている。
「良かったね」
藤堂は怪訝に片眉を寄せて、ようやく明の顔を見た。浮かべられた表情は、どこか嬉しそうにも見える。
「だから言ったじゃない。いつかいい人が出来るって」
「あ? ああ……そうだな」
そういえば、そんな事を言われたような気もする。怒鳴られるものとばかり思っていたから、拍子抜けしてしまった。怒られたかったわけでもないが。
明はそれきり何も言わず、立ち上がって出て行った。女心は分からない。
藤堂は芹香と顔を見合わせ、首を捻った。渚が何も言わないから、どことなく気まずい。ゆなが早く来てくれる事を祈るばかりだった。