第七章 過去の人 一
二日酔いにも似た頭痛を覚えて目を覚ました藤堂匡は、寝ぼけ眼を擦りながら携帯を確認して、一気に青ざめた。時間は十七時十五分。眠りに就いたのが午前四時頃だったから、半日以上は寝ていた計算になる。これでは頭も痛くなる筈だ。
一通だけ来ていたメールには、買い物に付き合わされているから、夕方頃に行くと書かれていた。
そういえば、と、藤堂はメールを打ちながら考える。彼にとっては休みなどないのが当然だから気にしていなかったが、休日を設けてやるべきではないだろうか。日曜日は来ても来なくてもいいと言っていたが、休日の方が依頼は多いから、結局全員が毎日出勤して来ているような状態だった。
盆の時期は比較的安全だそうだから、一度休みを作ってやろう。実家に帰って、墓参りもしなければならない。
タンスに置いた携帯電話が震えたので、着替えながら画面を覗き込んだ。今から行くとだけ書かれてある。彼女が来る前に、自分の腹を満たしたい。
蒸し暑いダイニングへ入って、卓袱台に置いたままのリモコンを拾う。もう夕方だというのに室温が三十度を超えており、藤堂はうんざりしながら冷房をつけた。
冷蔵庫を開けると、中には色鮮やかなゼリーが積まれていた。一昨日もらった礼の品だろう。真夏日が続くこの時期だから有り難くは思うが、残念ながらゼリーで腹は膨れない。色とりどりのカップを避けて奥の方を探ると、昨日の昼食の残りが出て来たので、皿を引っ張り出して冷蔵庫のドアを閉めた。
呼んだはいいが、どう切り出せばいいのだろう。老婆心からの行動だったが、細かくこう聞こうと考えていた訳ではない。どんなに上手く聞いたところで、彼女が答えてくれるとは限らない。
味気ない食事を終えて煙草に火を点けたところで、チャイムが鳴った。滅多に使わないこの家の玄関は、流し台の真正面にある。狭い1DKだから仕方ないのだが、入って真っ先に台所があるというのはいかがなものかと、藤堂は常々思う。
玄関の戸を開けると、堤芹香は珍しく片手に鞄を持って立っていた。細身のジーンズのせいか、いつもより更に足が長く見える。薄手のキャミソールの上に半袖の長いカーディガンを羽織っているが、それが余計に白い胸元を強調させている。凝視しないように目を逸らしながら、藤堂は上がってとだけ言った。
「お邪魔します」
開けた扉から入った芹香が横を通り過ぎる間際、かすかな芳香が鼻先を擽る。コンコルドで無造作に上げられた髪と、抜けるように白いうなじが眩しく見えた。
藤堂は、無意味に緊張していた。考えがまとまっていない事もある。それよりも、休みの日に会う同僚というのが主因のように思えた。私服というだけで全くの別人のように見えてしまうから、不思議なものだ。
「渚に散々連れ回されたよ」
クッションを引き寄せながら、芹香は卓袱台に着いた。その渚が、床へ直に座りたくないと言って持ってきたものだ。洗いそびれていた皿を流しへ置いて、藤堂はふうんと鼻を鳴らす。
「電車?」
「ああ。執事が荷物持ちでな」
単語しか喋らないのによく意図が酌めるものだと感心したが、毎日のように話していれば、そうなるかも知れない。現に明などは、藤堂が何も言わなくとも、彼が何を考えているのか理解しているような節がある。藤堂は滅多に口を出さない分、顔に出るのだ。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎながら、藤堂はまだ、悩んでいた。そもそもどう聞けばいいのかも、よく分からない。こういう時だけは、口下手な自分が歯痒く思える。
「何時頃から?」
「一時だったな……ああ、ありがとう」
コップを受け取ると、芹香は一気に半分ほど飲み干した。そんな素振りなど全く見せないから忘れかけていたが、やっぱり外は暑かったのだろう。
「そっからずっと買い物か。高屋敷も飽きねえな」
「執事が大変そうだったよ。最後には、顔が見えなくなるほど買い物袋を持たされてな」
想像して、少し笑った。そしてふと気付く。
渚と執事の話をしようと思って、芹香を呼んだ訳ではない。しかしどう切り出すべきか、迷っていた。あの時のように、寂しそうな顔をさせることがなければいい。口から産まれていれば、幾分楽だったろうに。
「あのさあ」
煙草に火を点けながら、藤堂は唸るように切り出した。
「あの子、お前んとこの社長が飼ってた霊?」
「そうだが」
あっさりと肯定され、拍子抜けした。目を丸くする藤堂に、芹香は苦笑する。
「あの屋敷の主があれとは思わなかったがな」
「事情は知らねえのか」
「残念ながら……だが社長の飼い霊が主だったということは、そういう事なんだろう」
「あそこは鳳が幽霊屋敷にしたってこと?」
末端の社員が近隣住民から金を毟り取ろうと画策しているかと思えば、社長が暗躍しているような節もある。つくづく鳳というのは、胡散臭い企業だ。
「あそこが幽霊屋敷と呼ばれるようになったのは、鳳コーポレーションが設立される前だと聞いている。あの屋敷を利用しようとしていると考えた方が、賢明だろう」
「どっちにしろ、ロクなこっちゃねえな」
芹香は暗い表情で頷いた。案外簡単に口を割ってくれたが、考え込むような表情に、藤堂は不安を煽られる。
「社長が何を考えているのか、私には分からん。それどころか、社員の誰一人として知らない可能性がある」
「なんで?」
「一度、屋敷を封印しただろう。結果的には剥がされたが、あれにはどこからも反対意見が出なかったんだ」
ふうんと鼻を鳴らし、藤堂は灰皿を引き寄せて煙草の火を消す。
「逆にさ、あそこで何かやってっから、封印した方が都合良かったって可能性はないの? 上は知ってたとか」
煙草に火を点けながら顔を上げると、芹香は顎に手を当てて考え込んでいた。会社を辞めたのにまだ悩まされるとは、彼女も大変だと他人事のように考える。
「有り得るかも知れんな。札を剥がしたのが過激派の守銭奴共だとすれば、社長が私に戻れと言ったのも頷ける」
「随分お前にこだわってんね」
芹香は一瞬、悲しそうに眉を顰めた。口下手な代わりに、観察力ばかり身に付いてしまっていけない。
藤堂はそこで、芹香は鳳の社長と何かあったのではないかと勘繰る。そう考えれば仁科がちらりと言った言葉も説明がつくし、拘る理由も分かる。疑問なのは、それを快く思わない己自身だった。
「……いや。関係ない」
返答の意味はよく分からなかったが、彼女が何を考えているのかぐらいは、鈍い藤堂にもおおよその見当はつく。何かあったのだろう。これ以上、彼女の口から社長の話を聞きたくなかった。
「お前、なんで追われてんの」
芹香は僅かに切れ長の目を細めた。
「昨日も言ったが」
「じゃなくて。なんで一人で追われてんの。その……」
社長は、と言おうとして、やめた。あまり余計な事を考えたくない。全く関係のない事ばかり気にしてしまう。
芹香はようやく言葉の意味を理解したようで、ああ、と呟く。
「誰も知らないからだ。社長も私が社を離れた事は知っているようだが、過激派の動きまで把握しているかどうかは分からん」
結局、社長の話になってしまった。藤堂は一人気まずくなって、皿を洗おうと立ち上がる。芹香は、そんな彼に何も言わなかった。
何故嫌なのか、分からなかった。芹香は滅多に感情を吐露しない。だが彼女が浮かべる表情から、少なくとも慕っているのであろう事は分かる。それが恋情であるのかどうかは別として。
藤堂は顔をしかめて、スポンジを握り締める。
それがなんだと言うのだ。彼女が誰に惚れていようと、藤堂には関係のない事だ。それでも、小骨が刺さったように何かが喉につかえていた。
「……社長はな、何かと私を気にかけてくれた。何かあれば、私を助けてくれた」
そう、と呟いて、藤堂は皿を水切りの上へ置く。
「尊敬していたよ。あの人がいたから、会社を離れる事も躊躇った」
肩越しに盗み見た芹香の横顔はいつも通りに凛々しかったが、どこか寂しげにも見えた。懐古するような彼女の話しぶりに、胸が痛む。
「あの日、もう駄目かと思った時、あの人が来てはくれまいかとさえ思った」
藤堂は口を挟まなかった。相槌を打つ事さえ憚られ、何も言えない。あの日というのはいつの事なのかと思ったが、聞くことも出来なかった。聞きたくもない。
「甘えていただけなんだ。たかが『白銀』を必要とする人に縋ってしまうほど、心細くて堪らなかった」
え、と呟いた。芹香は視線を床に落としたまま、苦笑いを浮かべる。
「あの人も同僚も、私を見てはくれなかった。彼らにとっては、私が会社を辞めて白銀でなくなれば、価値などないも同然なんだ」
少なくとも。相手がどうであれ、彼女は気にしている。しかしそちらは今、関係のないことだ。
「そりゃ……ねえだろ」
長い睫毛が伏せられ、色素の薄い瞳を隠している。藤堂は流し台を背にして、呆然と芹香を見下ろしていた。
「私にあったのは、名だけだ。私自身には、何もなかった。あなた達に会うまでは、友人と呼べる者もいなかった」
孤独だったと、言うのだろうか。あれほど有名だった白銀が。否、そうではないだろう。
孤独なのは、芹香だった。必要とされていたのはつまり、白銀という名前と力だけだったのかも知れない。膨らんでそれだけが一人歩きする通り名を、彼女はどう思っていただろう。そう呼ばれる事さえ、快くは思っていなかったのかも知れない。
「私を私として見てくれたのは、常務だけだった……察しの通り、堤久礼太は私の父だ」
「……じゃあ、親父さんは」
芹香は膝の上で、拳をきつく握り締めた。手の甲に、痛々しいほどくっきりと筋が浮く。
「死んだよ、殺された。かつての部下にな」
藤堂は、背中に冷や水を浴びせられたような錯覚に陥った。
かけてやる言葉が見つからない。下手な慰めなど言っても、彼女は喜ばないだろう。
「でもな、泣けなかった。薄情な娘だろう」
愕然とする藤堂に気を遣ったのか、芹香は顔を上げて微かに笑みを見せた。無理に作っているような表情が、痛々しい。
藤堂はつくづく、気を遣わせてしまう自分を情けなく思う。こんな時、気の利いたことでも言ってやれればいいのに、それが出来ないから彼は自分に呆れる。
寂しかったのだろうか。少なくとも、彼女の内に孤独感があった事は、藤堂の思い過ごしではないだろう。頼れる人もいなかったのなら、泣いている暇などなかった筈だ。
「……泣かなかっただけじゃないの」
芹香は目を丸くして、驚いたように藤堂を見上げた。
「我慢してたんだろ」
「いや……」
藤堂は戸惑ったように視線を外す芹香の目の前に屈み、その頭に掌を置く。子供にするような手つきで軽く撫でてやると、彼女は何とも形容のし難い、気の抜けた表情を浮かべた。その目が僅かに揺れ、徐々に涙が浮かんで行く。
祐子は、芹香に自分の境遇を重ねたのかも知れない。父親を亡くし、一人になった彼女に。だから芹香が止めに来るであろう事も分かっていながら、追われる彼女を匿ったのではないだろうか。或いは、止めて欲しかったのだろう。
頭を撫でてやりながら、藤堂は口元に笑みを浮かべて見せた。
「泣いていいよ」
睫毛が濡れていた。芹香は藤堂の胸へ倒れ込み、頬を伝って零れ落ちた涙を隠そうとするように、顔を埋める。白い指先がおずおずとシャツを握るのを見て、藤堂は胸が詰まるような感覚を抱いた。
泣きたい時は、泣けばいい。我慢しなければならない状況であったとしても、泣かなければ胸に溜まったものは流れて行かない。
「目の前で死んで行く父を置いて、逃げてしまった」
懺悔でもするかのように、芹香は掠れた声で呟いた。床に座り直しながら、藤堂は彼女の背中を宥めるような手つきで撫でる。意外に思えるほど薄い背は、微かに震えていた。
「結局私は父に、何もしてやれなかった。怖かった」
ほとんど涙声で聞き取りにくかったが、その分彼女の想いは伝わった。頼りない肩の骨張った感触がただ、痛々しい。
「怖かったんだ……」
芹香はもう一度、消え入りそうな声で呟いた。彼女のような人間にとって、弱い部分を吐露する事は容易ではなかったろう。それを吐き出して貰えたのが他ならぬ自分であった事が、藤堂には嬉しかった。
何故そう思うのか、もう気付いていた。気付かないようにしていたのか、本当に気付かなかったのか、己でも判らない。けれど確かに、祐子の言った事は正しかった。
「そりゃ、誰でも怖い。お前が逃げたのが悪いんじゃないよ」
恋と自覚する事を恐れていた理由も、もう思い出した。そもそも誰かに依存する事自体を恐れ、ずっと避けてきた。他人に深く関わる事も、思い入れる事もなく、全てから逃げていた。
逃げない事で、救われる人がいる。真っ直ぐに向き合えば、少なくとも、寂しい思いをさせる事はない。
額が触れた胸が、やけに熱い。泣いて彼女の体温が上がったのか、自分の体が熱いのか、藤堂には分からなかった。ただこんな場面で妙な気分になる自分が、恨めしい。
芹香はそのまま暫くの間、肩を震わせて泣いていた。藤堂は蛍光灯の白い光を反射して柔らかに輝く銀髪を、見るでもなく眺める。冷房が効いている筈なのに、胸が熱くて堪らなかった。
「……あの」
藤堂は躊躇いがちに声を掛ける。肩の震えが止まっても、芹香は顔を上げなかった。
「ゴメン、あの」
「あなたは」
藤堂は思わずどきりとした。掠れた声が、やけに甘く聞こえる。普段の彼女の声からは、想像もつかないような響きだった。それも自分の考え過ぎなのではないかと、そんな懸念を抱く。
白い耳が赤く染まっているのを見た瞬間、彼女の体が恐ろしく華奢に感じられた。背中に添えた掌が、自然と汗ばむ。
「私のような女は、嫌いか」
シャツを握る指に、力が籠められた。藤堂は何も言わずに、彼女の髪を纏めていたコンコルドを外す。滑らかな髪がするりと解けて背中へ落ち、芹香は弾かれたように顔を上げた。
白い細面に朱が上り、目元まで赤く染まっている。頬に残った涙の痕を親指の腹で拭い、藤堂は背中に添えた手を肩へ回した。
「嫌いじゃないけど」
彼女の言葉の意味が分からないほど幼くもないが、藤堂は曖昧に返す。額を寄せると、芹香は視線を外したまま、困ったように眉尻を下げた。その表情にまた、息が詰まる。
最後に誰かを好きになったと自覚したのは、いつだっただろうか。もう暫く、こんな風に浮ついた気持ちになることはなかった。
「それは……」
「ゴメン。好き」
背中へ回した腕で上半身を抱き寄せると、息を呑む音が聞こえた。ようやく藤堂を見た色素の薄い目は、羞恥の為かまた別の理由でか、泣き出しそうに潤んでいる。その目に笑いかけると、芹香は微かに笑みを浮かべて見せた。綺麗な顔だと、そう思う。
小鳥のように速い鼓動が、触れ合った胸から伝わる。顔を覗き込むようにして唇を重ね、そのまま向こう側へ体重をかけたが、芹香が胸を押し返したので止めた。
「あ、ゴメン。つい」
「いや、その、そうではなくて」
耳まで赤くして、芹香は言い淀む。反応が妙にぎこちない。
「……ここでは、嫌だ」
藤堂は目を丸くした後、小さく笑って頷いた。