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透明なひと  作者:
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第六章 交錯する記憶 十

 震える少女を見つめたまま、ゆなが両手を広げた。渚が慌ててそれを止め、左右に首を振る。ゆなは大きな目で渚を真っ直ぐに見上げ、少女を指差した。

「放っておけと仰るのですか」

 最後まで霊を想うのは、必ずゆなだった。憑かれて困るならいっそ、憑かれても救うことが出来るようになりたいと、彼女はそう考えている。どこへ行くにも師と仰ぐ明について行って、どんなに危ない状況でも、弱音は吐かない。今何も出来なくとも、出来るようになる為に学び、救いたいと願う。そんなゆなのひたむきさが、藤堂には眩しく感じられる。

「そうは言っておりませんわ」

 困ったように眉根を寄せ、渚は一歩後ずさりした。真剣なゆなの表情に、気圧されたのかも知れない。

 仲間を守ろうとするのは、必ず渚だ。たとえ本懐は遂げられなくとも、各々の安全を第一に考え、適切な意見を述べる。視野が狭いとも取れるが、無鉄砲だったという昔の彼女から考えると、仲間、延いては人を大事にするようになった、という事だろう。

 そしてそんな渚に守られることが、藤堂には歯痒く思える。

「ああなったら、もう消すしかありませんのよ」

 現世に留まり過ぎた悪霊は、例え罪を浄化しても道が絶たれているから、幽世へ送る事は出来ない。幽世への道を示す術がなくなれば、抹消するか強制的に幽世へ送るか、二つに一つ。明は手遅れなどないと言ったが、そうではないと信じたかったのだろう。

 どんなに辛くとも、消すしか道はない。渚の言葉は尤もだ。

「だがしかし、このまま消してしまうのは哀れです」

 ゆなは渚から顔を逸らし、少女を見た。小さな手で頭を抱える彼女の姿は、あまりにも痛々しい。

「だからあなたがやると仰るの?」

 渚の声は、責めるようなものだった。

「強制的にあちらへ送る事が出来るのは、霊媒師だけなのです」

 藤堂には初耳だった。浄霊の術とは、明に伝えられた限りなのだとばかり思っていた。

 しかし霊媒師ならあの世へ送れると言っても、ゆなは未だ、浄霊に成功したことがない。そんな彼女にこの場を任せるのは、あまりにも酷に思えた。

 渚は決然と言い切るゆなに、戸惑ったように明を見た。ゆなも、つられて明を見上げる。その視線を受け、明はしっかりと頷いてみせた。

「ゆなちゃんなら、出来るよ」

 いつでも真っ先に行動を起こそうとする明は、必ずしも無謀である訳ではない。彼女が先立って行くことで、救われる人がいる。激情を抑えられない明は時に周囲を振り回すが、間違ったことは絶対にしない。間違いを正し、歩むべき道を明示する。誰よりも先に悲しみ、怒り、笑う。明は、藤堂には恐ろしいほど輝いて思える。

 師からお墨付きを貰ったゆなは微かに笑みを浮かべ、少女へ向き直った。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。どこか悲しげに少女を見下ろしていた執事が、渚の傍らへ戻った。彼には何か、思うところがあったのかも知れない。

 芹香は眉根を寄せて俯いていたが、不意に顔を上げてゆなに歩み寄る。華奢な肩に後ろから両手を置き、見上げたゆなに微笑みかけた。

「助けてやってくれ。危なかったら、私が引っ張り出すから」

 芹香は誰かが間違えば必ず叱咤し、時には制裁を加える事さえある。けれど彼女自身が間違いを犯すことは、一度たりともなかった。己の信念を貫き、正しい道を歩む。選択が正しければそっと背中を押してやり、力が及ぶ限り守り抜く。たとえ孤独に襲われようと、それによって悩むことになろうと、彼女は信念を曲げない。

 いつしか藤堂は、真っ直ぐな芹香から目を逸らすことが出来なくなっていた。

「それは心強い」

 ゆなは再び、少女に向かって両手を伸ばした。今度は誰も止めない。誰一人として口を利かず、固唾を呑んで見守っている。

「さあ、おいでなさい」

 少女の体が霞んだ。ノイズが走ったように全身がぶれ、一瞬にして消え失せる。

 身を固くしたゆなが、きつく目を閉じた。彼女は霊の意思とは無関係に自分に憑かせることが出来るから、恐らくもう、入ったのだろう。

 明は両手で刀を握り締め、祈るように胸の前へ持ち上げた。ゆなが小さく呻く。苦しげにしかめられた顔を見て芹香が動きかけたが、ゆなは止めるなとばかりに、勢いよく首を振った。

 自分には、何が出来るだろう。

 ゆなのようなひたむきさもなければ、渚のように誰かを守ることも出来ない。明のように先導することも出来ないし、芹香にあるような信念もない。

 ゆなの手から、ヘルメットが滑り落ちる。両手が自分の体を抱き締めるように二の腕を掴み、背中が丸まった。ゆなは何度も大きく呼吸を繰り返し、体を震わせる。藤堂は苦しそうな彼女を見ていたくなかったが、目を逸らすわけには行かなかった。

 目を逸らしてはいけない。折角ゆなが一人前になろうとしているのに、苦しんでいる姿が可哀相だからと、自分だけ見ない振りで通すわけには行かない。見届けなくてはならない。

 出来る限りを、してやりたい。けれど、藤堂には何も出来ない。誰に何があろうと、見守る事しか出来ない。

「ゆな」

 藤堂の声に、ゆなは眉を顰めたまま顔を上げた。

「お前なら、助けられる」

 何も出来ないから、せめてと、藤堂はそう思った。何も出来ないなら、信じて見守っていよう、と。上手い言葉は掛けてやれないが、ゆなはきっと、分かってくれる。

 ゆなは唇を引き結び、大きく頷いた。瞬間、彼女の全身の力が一気に抜ける。

 芹香が咄嗟に肩を掴んで抱き寄せると、ゆなは笑った。どこかぎこちない、いつもの笑顔だった。

 そしてその細い腕が、ゆっくりと持ち上がる。同時に彼女の体から白い煙が抜け出して、天井へ向かって行く。

 小さな人差し指が差した先で、煙は消えた。


 屋敷から出ると、外は既に日が暮れていた。それほど長い時間ここにいたのかと思うと、藤堂はどっと疲労感に襲われる。車を運転するのも嫌だったが、他の四人は彼より遥かに疲れているだろう。

 全員、明らかに疲労困憊していた。各々ゆなを労った後は、一言も口を利かないでいる。喋る気力もないのだろう。

 屋敷の扉に厳重に封をしてから、渚は執事に自分を担いで行けと命じた。執事は疲れたふうもなく、素直にそれに従う。ゆなは藤堂にしがみついたまま、引きずられるようにして歩いている。明など片袖が焼け落ちている上制服の所々に焦げ跡があり、足にも傷が残っていた。

 しかし芹香だけは相変わらず、しっかりとした足取りだった。体力の問題なのだろうが、藤堂は何もしていないのに疲れている自分を情けなく思う。

「明日は休みにすっか」

「賛成……疲れちゃった」

 明は今にも死にそうな声で言って、深い溜息を吐いた。車のロックを解除すると同時に、執事の腕から降りた渚が、彼を札に戻しながら真っ先に車へ乗り込む。その動きも、どこかぎこちなかった。彼女は藤堂よりも体力がない。

 藤堂はゆなを助手席に押し込んでから、運転席へ回った。ドアを開けてふと顔を上げると、屋敷を見詰める芹香が視界に入る。

「どうかした?」

 芹香は緩く左右に首を振り、車に乗り込んだ。藤堂には時折、彼女が分からなくなる。何を考えているのか分からないのは、全員そうなのだが。

 芹香には、聞きたい事が山ほどある。それは単なる好奇心ではなく、聞いておかなければならない事のように思われた。今日の事も、彼女が会社を辞めた理由も、あの常務の事も。

 それだけではない。もう、自分でも気がついていた。彼女をまともに見られなかった理由も、今更目を逸らせなくなった理由も。自覚するのが怖かっただけだ。

 藤堂は全員家まで送り届けてしまおうと車を走らせていたが、明の家を知らない事に気が付いた。とりあえずは真っ先に、ゆなの家へ向かうべきだろう。あまり遅くなると、ゆなの両親は気が狂わんばかりに心配し始める。

「……言っておかなければならない事があるんだ」

 片手で煙草に火を点けながら、藤堂は横目で後部座席の芹香を一瞥した。膝に視線を落とした彼女の表情は硬い。眠そうに舟を漕いでいたゆなが、目を開けて座席から身を乗り出した。

 藤堂は視線を正面に戻し、灰皿を引っ張り出した。ようやく話す気になったのかと、安堵感すら覚える。

 彼女はずっと、藤堂等に何らか隠しているような節があった。個人的な事情であれ世間的な問題であれ、いずれは聞かなければならない事であるように思われていた。自分から話してくれるのであれば、それに越したことはない。

「私は鳳に追われている」

 全員が一様に目を見開いた。え、と渚が呟く。藤堂はハンドルを握ったまま、前方から意識を逸らさないようにするのが精一杯だった。まさかそう来るとは、考えてもみなかった。

 何も今話さなくとも時間は幾らでもあっただろうと思うが、最近では、事務所に全員が揃うことも少ない。芹香は全員が居る場で話したかったのかも知れないが、藤堂からしてみれば、しっかりと腰を落ち着けて聞きたかった。運転しながらでは、話は聞きづらい。斜め聞きしていいような話とも思えなかった。

「過激派の反乱があってな。穏健派に属していた社員は、殆どが退職に追いやられている。私も会社にいられなくなった」

「反乱って……」

 渚が呆然と呟いたが、芹香は俯いたまま首を左右に振る。憂えているような仕草だった。

「中立派の上司に後のことを任せてあったから、今までは問題なかったが、ここを収めた以上、関係者に口止めしても噂が流れるだろう。見付かるのは時間の問題だ」

 もし仮に鳳の人間に見つかったら、その時は、どうするのだろう。素直に彼女を渡すわけにも行くまい。あの大企業を相手取って、戦おうとでもいうのだろうか。

 だから芹香は、こちらへ来るのを渋ったのだ。彼女は、迷惑は掛けられないと確かに言っていた。詳しく聞かなかったこちらの落ち度ではある。

「……黙っていて、済まない。お前達には、迷惑をかけるが」

「何を仰いますやら」

 ゆなは芹香に向かって、片手を伸ばした。不思議そうな顔をして、芹香はその手を軽く握る。条件反射だろうか。

 神妙な面持ちで話を聞いていた明が、苦笑いを浮かべた。

「元々は、私が何も聞かずにしつこく誘っちゃったからいけないんです。謝らないで下さい」

 気がつけば、ゆなの家の近所まで来ていた。藤堂は周囲を走る車がないことを確認して、速度を落とす。

「心配しなくとも、私達は鳳の方々に対抗出来ない程、弱くはありませんわ」

 芹香は目を丸くして、二人を見ていた。握った手を、ゆなが軽く振る。

「迷惑なことなどありませぬ。芹香さんはゆなのお友達です。お友達が大変な時には、出来る限り力になります」

 ゆなの言葉が、藤堂の胸に沁みた。同時に、少しでも不安を抱いた自分を恥じる。

 何も怖がることはない。ここを収めたのだから、追っ手を恐れる必要などない。今は誰が欠けても、全員が困る。だから今日ゆなを信じたように、何があっても信じなくてはならない。

 藤堂は緩く口角を上げ、バックミラーに映る芹香に向かって、笑みを浮かべて見せた。

「お前がいなくなったら、全員困る。そんときゃそん時だ」

 バックミラー越しに見えた芹香の笑顔は、普段となんら変わりなく、ただ綺麗だった。

 自宅の前に着くと、ゆなは車内に手を振りながら車を降りた。家が近いという明も、一緒に降りて行く。お疲れさん、と声を掛け、藤堂は二人を見送る。

 車を再び発進させながら、藤堂は考える。深く聞かないのが、優しさというものなのかも知れない。彼自身、そう思っていた。しかし聞かないでいられるほど、藤堂は優しくはなれない。

 芹香は何故、一人追われる身となったのか。以前明から聞いた内部抗争の件が理由ではあるのだろうが、彼女の味方には常務がいたはずだ。結局聞けず仕舞いだったから詳しくは分からないが、芹香と堤常務は血縁関係にあると見て、まず間違いないだろう。

 何故、彼は動かないのか。彼は未だ、社内に残っているのだろうか。それなら何故、芹香を護ってやらないのか。芹香は何故、一人になってしまったのか。

 本人がそれを話そうとしないから、この場で聞くのは躊躇われた。言いたくないのか、言う必要がないと思っているのか。定かではないが、今日のことも併せて聞かなければならないだろう。

 否、聞きたかっただけだ。単純に知りたかっただけで、そこに必然性はない。

 渚の家の前に着くと、後部座席の二人は反対のドアから別々に降りた。二人で暮らすには大きすぎる家に、藤堂は何度見ても圧倒される。

「お疲れさん」

「お疲れさま」

 渚は素っ気なく返して、門を開けて中へ入って行った。車の前を通って、芹香が渚の後を追う。

「堤、ちょっと」

 車の窓から身を乗り出した藤堂を、芹香は体ごと振り返った。

「明日話せる?」

 続けて問うと、芹香は目を丸くして大きく瞬きした。門柱に取り付けられた灯りが、彼女の髪を照らし出している。

「……行けばいいか?」

「ああ……ウン」

 深く考えていなかった。藤堂は軽くなった頭を掻いて、頷く。芹香は小さく笑った。

「分かった、また連絡する」

「ああ、お疲れさん」

「お疲れ様。あなたもゆっくり休んだ方がいい」

 曖昧に笑い返し、藤堂は芹香が門の中へ入るのを見送る。背中で揺れる銀髪が初めて見るもののように思えて、どこか気恥ずかしくなった。

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