第六章 交錯する記憶 九
舞い上がった水蒸気が、視界を遮る。文字通り飛び掛かってきた少女の体を護るように覆う炎の羽を止めたのは、明の刀だった。銀色の刃に燃え盛る炎が映り込み、ちかちかと瞬いて見える。
「その刀、知ってる」
炎に護られる少女は、楽しそうに笑った。明が眉を顰めて憎らしげな表情を浮かべる。漆黒の瞳にも、炎が映り込んでいた。
これに明以外が、手を出す事が出来るのだろうか。芹香の手袋は勿論、渚の札だって所詮は紙なのだ。燃えてしまうに決まっている。上手く隙間を縫うにしても、あまりにも的が小さい。
「あなたが殺したんだね」
「うん」
明の眉間に皺が寄り、双眸が細められる。今まで見た事もないような、憎悪を剥き出しにした表情だった。藤堂は何故か、親を殺されたのだと、そう直感する。
炎を食い止めていた明の腕に力が籠もり、少女の体を押し返した。よろめいた隙に渚の札が投げられるが、羽に当たって一瞬にして燃え尽きた。炎の勢いが僅かに弱まる。
「効きましたわね」
渚が口元に笑みを浮かべて呟いた。藤堂にはその意味が分からなかったが、火の勢いが弱くなった事を言っているのだろうか。
刀の切っ先が、少女目掛けて繰り出される。羽を突き抜けて刺さったと思われた刃はしかし、少女の体には届いていなかった。それでも憎悪に表情を歪めた明の追撃は止まず、ただただ、炎ばかりを斬る。
これでは、他の三人が全く手を出せない。闇雲に斬りつける明を止めようと身を乗り出した藤堂の肩を、芹香が掴んだ。振り返ると、彼女は眉間に皺を寄せて厳しい表情を浮かべている。
「止めるな。その内隙が出来る、その時まで待て」
つまり、黙って見ていろということだろうか。何もするなと言われれば、何も出来ない藤堂は引き下がるしかないが、あんな明を見ていたくはない。あれほどまで真剣に激昂する明は、初めて見た。
藤堂は複雑な心境で、視線を落とす。ゆながいつの間にか、すっきりした顔で立っていた。渚が何かしたのだろう。
「所詮、融合しただけなのです。別の霊です」
ゆなの言葉に、藤堂は首を捻った。
明が羽ばたく炎を斬る度に、火の粉が舞う。足下を掬う炎を飛び上がって避け、明は更に羽を刺し貫く。防戦一方の少女は、表情を曇らせていた。
ひたすらに斬りつける明から逃げ回るのは流石に疲れたのか、少女が背中を向けて逃げる姿勢を取った。炎が明の制服の袖を舐める。生地は一瞬にして燃えたが、落ちたのは袖だけだった。
明の刀が閃いた。逃げる少女の背に追いすがり、羽に対して垂直に下段から斬り上げる。かすかに鳥の鳴き声が聞こえた。
炎の羽が、少女の体から離れた。一際大きく燃え盛った炎は、少女の体から完全に離れた瞬間、小さな破裂音と共に消え失せる。
大きな目を更に丸くして、少女は背後を振り返る。そこにはもう、羽があった痕跡さえ残されていなかった。
明が一旦息を吐いたのも束の間、少女は恐ろしい速さで彼女の目の前へと迫り、目を見開いたまま小首を傾げた。仕草だけは少女のままだが、光のない茶色い瞳は、明に陰鬱な視線を送っている。
「うそつきのくせに」
地の底から響いて来るような声だった。その言葉の意味も分からないまま、藤堂は思わず肌を粟立たせ、身震いする。
明が険しい表情で一歩下がると、芹香が飛び出した。流石に見た目だけなら子供である霊を殴りつけるのは憚られたのか、捕らえようと腕を伸ばす。少女は空中に浮かんだまま伸ばされた手を避け、芹香の背後へ回った。
「あなたはパパを裏切った」
芹香は視線だけを背後へ向け、冷たく言い放つ。
「裏切ったのはそちらだ」
肩越しに振り返った芹香を見て少女の目が細められた瞬間、古びた机が音を立てて動いた。俗に言うポルターガイスト現象だが、これを起こせる霊は限られているのだという。少女と融合した霊の内、一人の能力だろう。
腐った机の破片が、勢いよく芹香に向かって飛んで行く。尖った先端を彼女の前へ出た明が刀を振って弾き返したが、幾つか捕らえ損ねて制服が破れ、足に血が滲む。
「パパはあなたを、右腕にしてあげると言ってたのに」
破片で切られた頬の傷口から流れる血を手の甲で拭いながら、芹香は少女を睨んだ。
「あの人は、私が離れた理由を知っているのか?」
少女は首を傾げた。何を言っているのか分からないといった仕草だ。
少女の言うパパとは、鳳の社長の事なのだろう。その社長が、社を離れた芹香に戻れと言っている。つまりはそういう事なのだろうが、藤堂は社長をあの人と言う彼女に、違和感を覚えた。
不意に、芹香がその場へ屈み込む。明はその背後にいた少女を睨んだまま、刀の切っ先を繰り出す。少女は飛び上がって避けようとしたが間に合わず、足に先端が突き刺さった。しかし少女の姿は消えない。
少女のものではない甲高い絶叫が木霊した瞬間、机が激しく揺れ動いた。強い力で引っ張られたように、音を立てて天板が剥がれ、明に向かって飛んで行く。
立ち上がった芹香が慌てて腕を出したが、執事が飛び出す方が速かった。執事は大きな拳を板切れ目掛けて突き出し、叩き割る。ささくれ立った断面や飛び散った破片が刺さり、拳から血の雫が落ちた。
「裏切り者!」
今度は少女の声が叫ぶ。ガラス窓がびりびりと音を立て、激しく震えた。藤堂は目を見開いて凍り付く。あれを飛ばされたら、避ける術がない。
「芹香さん!」
声を上げると同時に、渚が芹香に向かって札を投げた。芹香が受け取った分厚い札は、三枚貼り合わせてある。窓ガラスに徐々にひびが入って行き、大きな音を立てて割れた。
明と執事が左右に立ったのを確認し、芹香は札を体の前に翳す。割れた窓ガラスの破片が次々と彼らへ襲いかかって行くが、当たる寸前で床へ落ちた。ガラスの破片は霊の能力によって飛んでいるから、除霊の札で防げるのだろう。
傷ついた足を抱えて憎々しげに顔を歪ませた少女が、扉付近で成り行きを見守る三人を見た。更にガラスの割れる音が響き渡り、破片が舞い上がる。
顔をしかめた渚が、札を取り出しながら藤堂を振り返った。
「撃ち落としなさい藤堂!」
居丈高に怒鳴られ、藤堂は一瞬たじろぐ。舞い上がったガラスの破片は、少数であるとは到底言えない。
「あれは流石にちょっと……」
しかし、そうも言っていられない。防御に徹していた三人が慌てて振り返ったその横を通り過ぎ、ガラスの破片が向かって来る。藤堂は半ば自棄になって構えた銃でその内幾つかを撃ち落とすが、到底間に合わない。煌めく破片が、もう目前まで迫っている。
藤堂は思わず目を瞑ったが、痛みは襲って来なかった。恐る恐る目を開けると、渚の背中がすぐ側にある。彼女の手には札が握られており、床にはガラスの破片が散らばっていた。最初からそうすれば良かっただろうにと思ったが、また怒られても嫌なので何も言わなかった。
「藤堂、今の内に撃て!」
安堵する間もなく、藤堂は芹香に急かされて再び銃を構えた。血の一滴も滲まない傷口を押さえる少女の眉間に、銃口を向ける。少女は藤堂を睨んだまま、避ける素振りも見せなかった。その憎悪の篭もった視線に一瞬身震いしたが、藤堂はそれを振り払うように表情を引き締め、トリガーを引く。
エアガンの、安い発砲音が響いた。白い額にぽつりと穴が空くと同時、少女の体が燃え上がる。何が起きたのか、藤堂には一瞬理解出来なかった。
「な……なんで……」
渚が呆然と呟く。赤々と燃える炎に包まれた少女は、ゆっくりと唇の端をつり上げた。額に空いた穴からは、やっぱり出血しない。撃った張本人である自分を睨んでいるようでその実、何も見ていないかのような虚ろな瞳に、藤堂は身震いした。
炎に包まれた少女が動く前に、明が刀を構えて突進する。飛び散る火の粉が僅かに髪を焼き、頬の産毛を舐めて行く。姿勢を低くして繰り出した刃は寸前で飛び上がった少女には届かず、明は彼女を見上げて怒鳴った。
「絶対許さない!」
乾いた声だった。泣くのを堪えているような、籠められた憎しみを抑えきれないような、悲痛な叫び。藤堂はその声に、身動きが取れなくなる。明の憎悪が直接伝わって来るような、奇妙な感覚だった。
少女の纏う炎が明の指先を焼き、袖口に移ったがすぐに消えた。下方から斬り上げる刀を避けて高度を下げた少女の肩に、すぐさま向きを変えた刃が迫るが、彼女は陽炎のように揺らめいて消えた。明は目を見開いて辺りを見回すが、少女の姿はない。
「どこ行ったのよ!」
明は苛立たしげに怒鳴った。あの破魔刀の一撃を受けても消えなかった霊が、今更逃げる筈もないだろう。
「かがめ!」
芹香の怒鳴り声に、明は弾かれたようにその場にしゃがみ込む。明の背後から現れた炎の塊を黒い手刀が切り裂いたが、その中に少女はおらず、火が消える気配もない。芹香が驚いたように目を丸くした。先ほどは確かに渚の札で炎の勢いが弱まった筈だが、今度は全く変わりなかった。
炎が揺らぎ、その中から指先が這い出す。出てきたものを確認しようともせずに、芹香は反射的にその場から飛び退いた。明も立ち上がり、数歩ばかり離れる。
炎から這い出してきた少女は、逃げた芹香を追おうとしたかに見えたが、突然方向転換した。炎が向かうその先には、ゆながいる。
「まずい……逃げろ!」
芹香が叫んだが、ゆなは目を見開いて硬直していた。動けない彼女に、火の玉となった霊が迫る。
その時ゆなの傍らでしゃがみこんでいたコウがふわりと浮き上がり、藤堂を振り返った。彼が何をしようとしているのか察して、藤堂は息を呑む。
「ば……燃えちまうぞ!」
身を乗り出して叫んだ藤堂に、コウは気の抜けた笑顔を見せた。その表情に、藤堂の全身の力が抜けて行く。
不思議な感覚だった。コウが笑うだけで、状況が好転した訳でもないのに、安堵してしまう。守護霊と守護される人間というのは、どこかで繋がっていると言うが、その通りなのだろう。
藤堂の背後から、小さな守護霊達が一斉に飛び出した。瞬間、覚えのある強い目眩が藤堂を襲う。他人の記憶など、見たくはない。頭痛を堪えてきつく目を閉じ、藤堂はその場に膝を着いた。
「コウ君!」
行く手を遮るように立ち塞がった子供達に、火の玉が衝突する。明が悲鳴じみた叫び声を上げたが、彼らに火が移る事はなかった。炎を纏った少女が、驚いたように目を見開く。
異臭が、藤堂の鼻を突く。
視界が突然開け、コンクリート打ちっ放しの狭い部屋に、全身ずぶ濡れになった女が立ち尽くしているのが見える。足下の水溜りは虹色に見えたから、溜まっているのはただの水ではないのだろう。女は唇を動かして何か言ったが、そう離れてはいないのに、声が聞こえてこない。嗅覚はあるが、聴覚は塞がれているようだ。女は徐に片手を胸の前まで上げ、こちらをじっと見つめた。ライターを持った彼女の手は、小刻みに震えている。女は震えの止まない手で何度もライターの火を点けようとしたが、なかなか上手く行かなかった。とうとう左手を挙げ、自分の手首を掴む。ライターの火は大きく揺れた後瞬く間に女の全身に燃え広がり、蛋白質の焦げる嫌な臭いを漂わせた。しとどに濡れた全身が炎に包まれ、赤々と燃え上がる。苦しみ悶える女は、それでもよろめきながら近付いて来る。火の粉が跳ねて、鼻先を掠める。
嫌だ。
「藤堂!」
渚の怒鳴り声で、藤堂は我に返った。目を開けると真っ先に、左右から覗き込むゆなと渚の顔が見える。ゆっくりと瞬きしてから周りを見回すと、座り込んだままうなだれた少女が見えた。その頭を、コウが撫でている。
少女の周囲を覆っていた炎は、目を離している間に消えていた。コウに火が移ったような様子はないが、執事が手を出せなかったのだから、霊体が燃えないというわけではないのだろう。
あれは恐らく、実際の炎ではなかったのだ。少女の記憶を見た藤堂は、そう確信する。
「見た目で判断してはなりませぬ」
ゆなが徐に立ち上がり、そう言った。うなだれた少女を複雑な面持ちで見つめていた明が、弾かれたように顔を上げる。雷に打たれでもしたかのように、驚いた表情だった。
「本体はその子なのです。炎は、その子の記憶です」
渚は眉根を寄せたまま、首を捻る。
「でも、記憶は実体化しませんわ」
ゆなは渚を見上げ、左右に首を振った。
「思い込みなのです。鷲の霊が実体化していたので、今度の炎も燃えるものだと思い込んでしまったのです。霊は周囲に与える影響が大きいですから、こちらの思い込みで燃えたのですね」
「だからこいつらは燃えなかったのか」
藤堂は呟きながら、背後を見た。体の透けた子供達が、彼に頷いて見せる。子供達は気付いていたのだろう。あれが、少女の記憶であると。無理心中を図られ、焼死した少女の、忌まわしい記憶だったのだと。
少女は座り込んで俯いたまま、微動だにしない。先ほどまでの暴れ方が嘘のようだった。コウ達が何か言ったのかも知れない。
ゆなは藤堂の服の端を摘み、軽く引いた。
「あの子の記憶は、浄化するに値するものでしたか?」
藤堂は、返答を躊躇った。あの少女は、母親と共に死んだのだろう。しかし安易に首を縦に振る事も憚られる。
明は、あの少女に誰を殺されたのだろうか。藤堂は親だと直感したが、そうとは限らない。肉親か、はたまた恋人か。彼には分からないが、あれほどまで怒っていたのだから、近しい人間ではあるのだろう。
明は果たして、浄化出来るのだろうか。そう易々行くとは思えない。あの刀は、迷えば斬れなくなる。斬るという、浄化するという強い意思がなければ、あの刀は正常に作用しない。祐子の一件が落ち着いた後、本人からそう聞いた。
「今のメイでは、浄化出来んぞ。それにこれは……」
「私がやる」
黙り込んでいた明が、少女の前に進み出た。藤堂は思わず、え、と呟く。
「この子は、誰かに使役されてたんでしょ? それなら、この子が悪いんじゃないよ」
明の憎悪は、少女ではなく術者に向けられていたのかも知れない。藤堂は、今更になってそう思う。少女が斬られても消えなかったのは、単純に力が足りなかった為ではなく、明に抹消しようという意思がなかったからなのだろう。
「だがなメイ、これは……」
「手遅れなんて、絶対にない」
芹香の言葉を遮り、明は刀の切っ先を少女の頭に向けた。彼女には常に、絶対に浄化するという強い信念がある。人を救いたいという深い想いがある。それを持ち得るからこそ、明には浄霊が出来る。
明が迷う事はない。藤堂は、そう信じている。
「大丈夫だから」
刀の切っ先が額に触れた瞬間、少女は華奢な肩を大きく震わせた。大きな目が明を見上げ、僅かに揺れる。怯えたような表情だった。
明は少女にやさしく微笑みかけ、ゆっくりと切っ先を進めた。刃が埋まるにつれ、足の傷が消えて行く。浄化されて悪霊でなくなった為に使役関係が解消され、実体化が解けたのだろう。
しかし、少女の表情は変わらない。それどころか、体の震えが酷くなって行くばかりだった。藤堂は怪訝に首を捻る。
「刀を抜け、その子は浄霊出来ない!」
芹香が慌てて声を上げる。明は眉を曇らせて刀を引き抜いたが、少女の震えは止まらない。事の成り行きを見守っていた執事が、痛ましげに顔をしかめて俯いた。
小刻みに震える少女は、緩く左右に首を振る。両手で頭を抱え、小さく呻いた。
「わたし、わたし……」
少女は目いっぱいに涙を溜め、掠れた声で呟いた。
「わたし、こんなことしたくなかったのに……」
彼女は確かに、正気に戻ったのだろう。しかし震えながら涙を零すその姿は、いっそ正気に戻さないでおいてやった方が良かったのではないかと思うほど、痛ましく見えた。
浄化出来ないのなら、消してしまった方が彼女の為なのだろうか。それもあまりに不憫に思える。
「おいたわしや」
ぼろぼろと涙を零す少女を黙り込んだまま見つめていたゆなが、ゆっくりとヘルメットを外した。