第六章 交錯する記憶 八
にこにこと愛らしい笑みを浮かべる少女を眺めながら、藤堂は呆然としていた。肉の塊に捕まってもう駄目かと思ったら、天井をすり抜けてだだっ広い部屋まで連れて来られ、混乱している内に呆気なく解放された。部屋にいたのは、一人の少女。
入り口の正面には、巨大な窓を背にして金髪の少女が立っており、傍らには朽ちかけた木製のデスクが置かれている。恐らくここは、屋敷の持ち主の部屋だったのだろう。
ゆなは藤堂の足下でうずくまり、青い顔をして口を押さえていた。連れてこられる際に酔ったものと思われるが、こんな状態なのに車酔いはしないのが不思議だ。
「ねえ、おにーさん」
ビスクドールのような少女は、見た目に違わぬ愛らしい声を掛けながら藤堂を見上げた。コウと同じ位の歳だろうかと、藤堂はぼんやりと考える。彼より少し、幼いかも知れない。
しかし愛らしいのは容姿ばかりで、少女はなんとも言えない嫌な空気を纏っていた。何より透けているから、生きている人間でもない。ここに生きた少女が一人でいたら、それはそれで問題だが。
「どうして二人だけここに来てもらったか、わかる?」
多少舌足らずだが、その口振りは少女のものとは到底思えなかった。返答に困って足下のゆなを見ると、彼女は未だに青い顔をしている。吐いてしまった方が楽だろうにと考えながら、藤堂は少女に向かって首を横に振った。
作りもののような少女は、鈴を転がすように笑った。可愛らしい仕草である筈なのに、藤堂にはその笑い声が恐ろしく感じられる。
珍しく出てこないコウは、どうしているのだろう。藤堂の背後には確実にいるはずなのだが、この状況で姿が見えないと心配になる。彼なら、何かしら行動を起こしていてもおかしくはない。
逆に言えば、出てこないということは危険ではないのだとも取れる。しかし藤堂にはとても、そうは思えなかった。もしかしたら守護霊達は、藤堂が影響を受けないようにするのが、精一杯なのかも知れない。
霊感がなくとも、肌で感じる。少女からは、ひしひしと底知れない悪意が伝わってくる。これは今まで見た中で一番、恐ろしいものだ。
「わたしの事、助けて欲しいの」
助けて欲しいのはこちらだと、藤堂は思う。この状況を打開する手だてはない。破魔銃はあるが、この霊相手に効くかどうかも分からない。
とにかく話を聞いている間は、何もされないだろうと判断した。せめてあの三人がここへ来るまでは、話を長引かせなければならない。しかし藤堂は初対面の霊と長話が出来るほど、器用な男ではない。ゆなの復活を切に願う。
「それは、手助けしろってこと?」
「そう!」
少女はさも嬉しそうに、はにかんだ。見る者の目を奪うほど華やかな笑顔だったが、藤堂は薄ら寒いものを感じて一歩後退りする。何が恐ろしいのか、自分でも分からなかった。
「わたし、カンペキになりたいの。なんでも出来るようになりたいの」
「そりゃ随分、大それたこって」
藤堂はちらりと、足下のゆなを見る。大きな目が、縋るように藤堂を見上げていた。小さな手は、しっかりとヘルメットを押さえている。乗り物酔いではないのかも知れない。
明が言うには、ゆなは異常に感受性が強いのだそうだ。霊媒体質である点を考えても、霊から受ける影響が強すぎる。彼女はもしかしたら、既にこの目の前の霊に、影響を受け始めているのかも知れない。
だとしたら、この霊は一体、なんなのだろう。完璧になりたいと言うが、既に強大な力を持っているように思える。
「あなたたちは、わたしにないものを持ってる」
とてつもなく、嫌な予感がした。藤堂はゆなを隠すように、横へ移動する。ゆなは縋りつくように藤堂の足を掴み、ふくらはぎに額を当てた。真下に居るから顔は見えないが、その仕草だけで、彼女の辛さが充分伝わってくる。
そんなゆなの様子など気に留めるふうもなく、少女は小さな人差し指を藤堂に向けて、無邪気に笑った。
「あなたのその、記憶を見る力が欲しい」
「これだけ持ってってもらえんなら、こっちは願ったり叶ったりだけどな」
藤堂は自分の頭を人差し指で叩いて、そう返した。
こんな能力はいらない。これがあるせいで、コウは藤堂を護らなければならない。藤堂自身、霊の記憶を見たところで苦しむだけだ。あったところで、何の得もない。
あんな悪夢は、二度と見たくない。この嫌な能力を持って行ってもらえるなら、それは有難いことだ。
しかし本当に、力を奪われるだけで済むのだろうか。それだけで終わるとは、到底思えない。
「物欲がない人ね」
少女は少し鼻白んで肩を竦めてから、更にゆなを指差した。言われなくとも、彼女がゆなの何を欲しているのか、藤堂には分かった。誰もいない今、自分が護ってやらなければと思うのに、藤堂には何も出来ない。
びくりと肩を震わせたゆなの背後に、コウが現れる。心配そうにゆなの顔を覗き込む少年の表情は、怯えているようにも見えた。己の非力さが、藤堂には悔しくてならない。
「その子の体が欲しいの。くれる?」
「ダメ」
間髪容れずに答えると、少女は頬を膨らませて藤堂を睨んだ。睨まれたところで、それだけは許諾出来ない。
「なんで体が欲しいの」
少女は不思議そうに首を捻った。不思議なのはこちらだ。
常々思っていた。何故、霊は体を欲するのか。自分の体を取り戻すならともかく、何故他人の体を欲しがるのか。体があっていい事は、果たしてあるのだろうか。
霊体と肉体の違いは、脆弱性と触れられるものの違いにあるという。霊体は無機物に触れないから、物理的な痛みを感じる事はないが、その分心が弱い。あらゆるものに影響され、形が変わってしまう。生きている人間でも影響を受けやすい人はいるが、それとはまた違うようだ。形が変わるのと心が変わるのとでは、確かに違うのだろう。
心の脆弱性という弱点こそあれど、彼らが再び肉体を手に入れる必要など、ないように思われる。土地に縛られた地縛霊でもない限りどこへでも行けるし、何にも触れないから、物理的に傷付く心配もない。肉体を持っているより、遥かに便利ではないのだろうか。
「なくしちゃったから」
あっけらかんとした返答に、藤堂は怪訝に眉を顰めた。
「なくしちゃったから、取り戻したいの」
ああそうか、と、藤堂は納得した。
意味はないのだ。具体的な理由はないし、手に入れて何をする訳でもないのだろう。かと言って、手に入れたらそれで満足して成仏する訳でもなさそうだ。体を手に入れたがるのは、悪霊の習性と呼ぶべきものなのかも知れない。
この少女は永遠にあらゆるものを欲しながら、このままの姿で、この場に留まり続けるのだろう。本人が満足することはなく、無論全てを手に入れることなど出来はしない。どんなに悪い霊でも救いたいという明の真意が、分かったような気がした。
「なんで完璧になりたいの」
藤堂は敢えて、そう聞いた。少しは違った反応を見せるかも知れないと踏んだのだが、しかし当ては見事に外れた。少女は満面の笑みを浮かべ、その問いに答える。
「パパに消されちゃうから」
思いもよらない答えだった。藤堂は一瞬硬直し、その意味を考えて鳥肌を立てる。
パパとは果たして何なのだろう。本当に父親の事だろうか。仮にそうだとしても、完璧にならなければいけない理由にはならないように思う。意味が分からない。分からないから、尚更恐ろしかった。藤堂は粟立った肌をさすりながら、顔をしかめる。
「ねえ、ちょうだい」
少女は藤堂を見上げて、にっこりと笑った。藤堂は更に渋面を作り、心持ち身を引く。足を抱き締めるゆなの腕に、力が篭もった。
「いや、待ってもうちょっ……」
どこかから、叫び声が聞こえた。藤堂は驚いて背後の扉を振り返ったが、この隙に何か行動を起こされても困ると、すぐに少女へ向き直る。しかし彼女は、驚いたように目を丸くしていた。
「しんじゃった」
「は?」
怪訝な声を漏らした瞬間、扉が勢いよく開いて藤堂の背へ強かにぶつかった。一瞬呼吸が止まり、藤堂は激しく咳き込みながら前のめりになる。つんのめった拍子に、ゆなの手が離れた。
「あ、藤堂さん!」
恨みがましい目を背後へ向けると、嬉しそうな顔をした明が立っていた。その向こうで渚が呆けたような表情を浮かべ、執事が少女を睨んでいる。明のすぐ後ろに立った芹香は、藤堂の顔を見て安堵の息を吐いた。
開けていた扉を離して室内へ入った瞬間、明の表情が一変した。藤堂の足下でうずくまるゆなに渚が駆け寄り、コウの反対側から顔を覗き込む。ゆなは苦しそうに眉を顰めたまま、渚を見上げた。
「お前が主か」
明の横へ立った芹香が、剣呑な声で少女に聞いた。藤堂は彼女らの切り替えの早さについて行けない。
「あ、あなたが堤さんだね」
「……だったら何だ」
芹香は少女の朗らかな様子に出鼻を挫かれたようで、僅かに眉を顰めた。明が芹香の横で顔をしかめている。
「わたしは嫌なんだけどね、パパがね、戻ってきてくれって言ってたよ」
この少女は、何を言っているのだろうか。藤堂は訝ったが、芹香は目を見開いて凍り付いた。
芹香は今回、初めてここまで来たはずだ。少女が芹香を知っているのも不思議だが、彼女の反応も妙だと、藤堂は思う。
何を知っているのだろう。思えば藤堂は、誰の事も深くは知らない。明の家族構成も未だに知らないし、具体的に芹香に何があったのかも、知らなかった。
「お前まさか、火の鳥か」
ゆなの背を撫でていた渚が、弾かれたように顔を上げた。彼女の傍らに立っていた執事は、少女から主人を護るように立ち位置を変える。
室内の空気が変わった。ひしひしと肌に伝わる緊張感が、藤堂に畏怖にも似た感情を抱かせる。置いて行かれているような疎外感すら覚えたが、今この状況に対して抱いた感情ではないのかも知れない。何も知らない、何も出来ない自分が、歯痒かった。
何も知らなくても、いいと思っていた。何も出来ないのは、仕方のない事なのだと思っていた。それが今はこんなにも、藤堂を揺さぶる。誰かの為ではなく、彼女達に何か出来ればいいのにと、そう思う。
それでも藤堂に、為す術はないのだ。
「火の鳥?」
渚が顔を上げ、呟いた藤堂を見た。表情が硬い。
「鳳の社名の由来ですわ。鳳コーポレーションの社長が使役する、霊の通称」
どくり、と心臓が大きな音を立てた。
鳳の社長が使役する霊がここの主であったのだとしたら、鳳とは一体、何なのだろうか。戻ってきて欲しいと芹香に言う少女の台詞は、社長の言葉なのだろうか。そうだとしたら、社長という人物は、芹香に何が起きたのか、知っているのだろうか。
藤堂は、彼女の身に何があったのか知らない。ずっと気になってはいるものの、結局聞けず仕舞いだった。他の事には興味も示さないのに、それだけは気にしている自分が不思議だったが、今はそんな事を考えている場合ではない。
この屋敷で一体、鳳は何をしようとしているのだろうか。
「戻るの?」
「断ったらどうする」
「どっちでもいいや。わたし、パパが好きなひとは嫌いだから」
少女は満面の笑みでそう言うと、両手を大きく広げた。途端、その背中から火柱が二つ飛び出す。体の左右で燃える炎は、翼のように見えた。これは確かに、火の鳥と呼ばれて然るべきだろう。
オレンジ色に輝く炎を見た明の、顔付きが変わった。怯えたようなその表情に、藤堂は違和感を覚える。彼女は今まで、臆す事はあれど顔に出すことはなかった。
「あれ、何? 燃えるの?」
恐る恐る藤堂が聞くと、炎の羽を生やした少女を見つめたまま、芹香が答える。
「実体化しているから、燃えるさ。炎で呪った鷲と融合している。あれは融合霊だ。子供の姿をしているが、本体がどの霊なのか私にも分からない」
どの霊か、と言ったということは、既に複数の霊と融合しているのだろう。藤堂は炎から守るように、顔の前に掌を翳す。
「呪う?」
「詳しくは知らん。ああいう霊がいるという事だけ聞いていた」
離れた場所に居ても、炎の熱気が伝わって来る。静まり返った室内に、火が弾ける音だけが断続的に響いた。
誰一人として動こうとしないところを見ると、芹香が言うように、あれはまやかしではないのだろう。しかし実体化しているという事は、どこかに術者がいる筈ではないのだろうか。それ以前に、果たしてあんなものを、どうにか出来るのだろうか。あの火に呑まれたら、ひとたまりもないだろう。
「おにーさんとその子をくれたら、何もしないであげるよ」
要求が微妙に変わっている。藤堂は顔をしかめながら顎を撫で、小さく唸った。
「記憶見るならあげるけど。俺だけじゃダメ?」
少女以外の全員が、目を見開いて一斉に藤堂を見た。藤堂は更に一歩下がろうとしたが、既に背中が扉についている。何故こんな目で見られなければならないのか、彼には分からない。
芹香の表情が厳しいものへと変わった。その横で、明が藤堂を睨んでいる。
「死にたいのか、藤堂」
「力を奪うってことは、魂を奪うってことだよ」
そんなことは知らなかった。霊の記憶など見たくもないが、死にたくもない。
渚が大きな溜息を吐いて、立ち上がった。細い眉がつり上がっている。ついさっきまではしかめっ面をしていたから、腹を括ったのだろう。
「よろしくてよ。私達があなたに負けたら、藤堂は差し上げますわ」
藤堂は我が耳を疑った。藤堂にとっては、全くよろしくない決断だ。勝てるという自信があるのはいいが、取引に命を使われては困る。
「よし!」
何がどう良し、なのか藤堂には分からなかったが、明の緊張も解けたようだった。明は刀を両手に持ち直し、体の前に構える。彼女のその姿を見て、藤堂も心持ち姿勢を正した。
少女は目を丸くして二三度瞬きし、首を傾げる。
「燃えちゃうよ、いいの?」
「易々燃やされてやるほど、私達もか弱くはないさ。彼を持って行かれると、こちらも困る」
芹香は手袋の端を摘み、指先を詰め直した。少女の目が、僅かに細められる。
「あなたやっぱり、嫌い」
火の鳥が、飛んだ。