第六章 交錯する記憶 七
あの時は、もう駄目だろうと思った。何故こんな事になるのかと、不幸ぶって嘆いてもいた。まさか彼らが来るなどとは、露ほども考えていなかったのだ。あまりにも、私は愚かだった。そんな自分を、深く恥じた。
同時に、嬉しかった。今まで友人も仲間も作らず一人で仕事をしてきた私にとって、誰かに助けられるなど、考えてもみない事だった。気恥ずかしくも有難くもあったが、一番に、彼らに感謝したかった。けれど私は、素直に礼を言うことが出来ない。そんな自分が、歯痒く思えた。
彼らには、とても大事なことを教わった気がする。彼らは私を許し、手を差し伸べ、友人と呼んでくれた。だから今、私は私に出来る事をしたい。礼を言えない代わりに、私に出来る限り、彼らの為に尽くしたい。
今度は必ず、私が助ける。
執事は、長い廊下の左右に並ぶ扉を一つ一つ開けて確認しながら進んでいた。渚はその様子を横目に見ながら、逸る気持ちを抑える。
二人は無事でいるだろうか。無事でいてくれなかったら、事務所はどうなってしまうだろうか。ばらばらになってしまうのだろうか。そんな悪い考えばかりが頭に浮かぶ。
「じいや、部屋の中になんて階段はありませんわ」
執事は渚を振り返り、申し訳なさそうに頭を下げた。もしかしたら、彼も慌てているのかも知れない。そう思うと、少しほっとする。不安なのは自分だけではないのだと考えると、少しは気が楽になった。
しかし、安心してのんびりしてもいられない。暗闇の向こうにぼんやりとした明かりを見付けて、渚は歩調を速めた。
「やっと突き当たりかしら」
執事が頷く。そのまま近付いてみると、呆気なく廊下の突き当たりに出た。壁の手前、左右に上りと下りの階段が設えられている。明かりは外からの光だったようで、渚は僅かに開いた窓を眩しそうに見てから、上り階段のある右側を向く。
渚は迷うことなく階段を上ったが、執事は下り階段を覗き込んで顔をしかめた。階段の途中で肩越しに振り返った主に気付くと、彼は下り階段を気にしながら渚の後を追う。
「何かありまして?」
執事は首を左右に振った。何かあったのだとしても彼には伝える事が出来ないから、どちらにせよ渚には分からなかっただろう。何より天井に吸い込まれて行ったのだから、下にいるはずはない。下に何があろうと、まずは彼らを助ける事が先決だ。
一歩足を踏み出す度に耳障りな音を立てる階段は、渚には恐ろしく長く感じられた。彼女は碌に階段を使った例がないので、どんなに短いものでも長く感じてしまう。元々体力もない。
それでも、ここで引き返すわけには行かなかった。藤堂もゆなも、渚にとって、なくてはならない人間だ。大事な、友人なのだ。彼らが危ないのだと思うと、とても立ち止まる気にはなれなかった。
運動など、最後にしたのはいつだったろう。子供の頃から、滅多に外へ出たりはしなかった。心臓の音が煩いほどに響き、足が鉛のように重たく感じられる。頭が熱くて膜がかかったようにぼんやりとするが、泣き言を言ってもいられない。
ようやく上階が見えてきた時、歩みの遅い渚の後ろをゆっくりとついて来ていた執事が、歩調を速めた。何か上にいたのだろうかと考えながらも、渚は確認する事も出来ずに疲れた息を吐く。あと少しの距離のはずが、永遠に辿り着かないように思えた。
主を追い越して行った執事は早々と階段を上りきり、正面を睨み付けていた。逞しい肩が怒り、二の腕の筋肉がはちきれんばかりに膨れ上がっている。
階段を上りきった先には、あの肉人がいた。執事はあれを睨んでいたのだろう。大きな両開きの扉を塞ぐように、霊は微動だにせず立ち尽くしている。
醜悪な霊だった。辛うじて人の形を残してはいるものの、丸い顔には目も鼻も口もない。たっぷりとした肉の塊が折り重なっているだけのようなその姿に、渚は思わず眉を顰めた。
「二人はどこにいるの?」
指のない手が顔をまさぐり、垂れ下がった肉を捲り上げた。そこには肉に埋もれてぽっかりと穴が空いており、微かに動いている。口なのだと認識して、渚は寒気を覚えた。
「ヌシんとこにおる」
奇妙な声だった。高いような低いような、くぐもった聞き取りにくい声だったが、辛うじて言葉の意味は分かった。きっとあの扉の向こうに、藤堂とゆなはいる。
「ヌシって、主の事かしら」
この屋敷の霊は全て、主と呼ばれる悪霊が統率している。四十年程前に日本一と謳われていた除霊屋が、主の手によって殺されてからは、全ての除霊屋がこの屋敷から手を引いていた。高屋敷家の人間も一度はここへ来たようだが、結局手も足も出ずに逃げ帰ってしまったのだと聞いている。
それでも、当時は屯す悪霊の数も少なかったのだという。街全体に影響を及ぼす程霊が集まり始めたのは、ごく最近の事だ。
今の除霊技術は、昔より遥かに進歩している。統計的には個々の霊感の強さも、かなり上がってきているようだ。だからこの少ない人数で、ここまで辿り着けたのだろう。
渚がテレビ局からの依頼を請けたことには、力を世間に認められた事が嬉しかった以外に、もう一つ理由があった。昔の除霊屋が戦った霊というものの力を、見てみたかった。そして今現在の除霊技術がどれだけ通じるのか、試してみたかったのだ。
「その向こうね。お退きなさい、邪魔よ」
「通せない」
執事が一歩、肉の塊に近付いた。俄かに空気が緊張する。渚は人差し指を霊へと向け、短く告げた。
「消しなさい」
執事が駆けた。相手との距離を一気に詰め、握り締めた拳を弛んだ腹に叩き込む。肉人はしかし、動かなかった。確実に当たったと思われた執事の拳は腹の肉に埋もれるだけで、何らダメージを与えたようにも見えない。執事は間髪容れずに肉塊を殴りつけたが、体が揺れる以外の反応はなかった。
肉が厚すぎて衝撃が届かないのかとも、渚は考えた。しかし、そんな筈はない。実体化していない霊は即ち霊魂だけの存在だから、余程強力な霊でもない限り、殴られれば確実にダメージを負う。体がないから、防御の術がない筈なのだ。それが何故、執事の拳を受けて立っていられるのだろうか。
執事は苦い顔をして肉人の顔面を蹴り飛ばした後、一旦距離を取った。これでは手も足も出ない。明なら刀がある分、どうにかなったかも知れないと渚は思う。
しかし、明にばかり頼っている訳にも行かない。二人が来るまでには、なんとか退かしてしまいたかった。下らないプライドだが、ここに来た以上、全て誰かに任せるのだけは嫌だった。
肉人が一歩も動かないのを見るや、執事は顔をしかめて再び飛び掛かっていった。指のない手が執事に向かって振り上げられるが、彼はそれを難なく跳ね除けて、再び胴を蹴り込む。腹は揺れたが、どっしりと構える霊はやはり、微動だにしなかった。
渚は胸ポケットから札を取り出し、じっと見詰めた。これが通じない事は分かっている。ゆなが易々と攫われてしまったということは、渚の札だけでなく、ヘルメットに貼られた全ての札が通用しないということなのだろう。
渚が気を取られている隙に、肉塊がようやく動いた。藤堂とゆなが攫われた時と同様、見た目からは想像も出来ない程の速さだ。
執事は全身を揺らしながら渚に迫る肉人の腰あたりを鷲掴み、扉へ向かって投げ飛ばした。質量がある為か、入れた力の割には飛ばず、扉の手前で落ちる。
渚は細い眉をひそめて、悩む。札が効かない霊など、本当にいるものだろうか。確かに耐性が出来るという事は有り得る話だが、その下に貼られていた札まで無効化出来るとは、到底思えない。
ゆっくりと起き上がる肉塊を目を細めて注視していた渚は、ふと気付く。あれは最初に渚が札を投げた時、避けたのではなかっただろうか。
「じいや、それを押さえておきなさい!」
執事は肩越しに渚を振り返って頷き、起き上がった肉人の背後から、腕ごと両手でしっかりと捕まえた。ぶよぶよとした塊がそこでようやく全身で抵抗を始めるが、執事は腕が当たろうと頭がぶつかろうと、眉ひとつ動かさない。代わりに肉塊を戒める腕へ更に力が込められ、浅黒い肌に血管が浮いた。
渚は注意深く塊の様子を観察しながら近付き、その腹部へ札を当てた。つんざくような絶叫が木霊し、腹の肉が脈動する。その気味の悪さに渚は思わず顔をしかめたが、すぐに首を振って表情を引き締めた。気味が悪いからといって、逃げてはならない。
燃え盛る炎に水を掛けたような音が、断続的に聞こえてくる。不快な悲鳴は更に続き、渚はそこでようやく理解した。これは一個の霊ではない。
腹の肉が、札が触れた箇所から徐々に減って行く。執事もその喧しい叫び声には、流石に顔をしかめていた。
これは融合霊だ。これほどの間消えずに耐えているところを見ると、かなりの数が取り込まれているのだろう。ゆなをヘルメットごと体内に取り込んでも平気そうに見えたのは、内側から破壊されていたから、分からなかっただけだったのだ。芹香の手刀ほどの破壊力があれば一度で抹消出来た筈だが、攻撃力に乏しい陰陽師の札は、こういった霊の退治には不向きだ。
胸をざわつかせる絶叫を耳へ入れないように気を逸らしながら、渚は眉を顰めて考える。一気に消すには、どうすればいいのだろう。流石にこの巨体を包み込めるほど、大量に札を持ってきてはいない。しかしこの調子では、全て消しきるまでに何時間かかるか分からない。
こんなところで時間をかけていては、二人がどうなるか分からない。今この瞬間だって、彼らは命の危険に晒されているかも知れないのだ。こんなところで、悠長に考え込んでいる暇はない。
「……そのまま押さえておきなさい」
渚は徐に札を離し、胸ポケットからペンを取り出した。本来は除霊用の札を書く為の、特殊なインクを使ったものだ。高屋敷家が独自に開発したもので、札自体と文字、書く者の念、そしてこのペンの相乗効果で、高屋敷家の陰陽師が書く札は、他に並ぶものがないほどの高い威力を誇る。
出来るかどうかは、分からない。このペン先が霊体に触れられるのかどうかさえ不明だが、これしか手がない。最早賭けに出るしか、渚に道はなかった。
暴れまわる肉人を押さえ込む執事の表情が、苦しげなものへと変わっている。先程からかなりの回数殴られ蹴られしているから、消耗しているのだろう。
最早一刻の猶予もない。渚は意を決してペン先を腹へ向け、筆を走らせる。絶叫が木霊した。
「書けた!」
肉の塊を重ねたような腹に、梵字が浮かび上がる。喜んでいる暇もなく、渚は手を動かす。文字が増えるにつれて痙攣が激しくなって行くが意に介さず、更に書き続けた。
最初より二周りほど小さくなった肉塊を押さえ込む執事の腕の力が徐々に弱くなり、同時に抵抗も弱まって行く。緊張の為か、ペンを持つ渚の手が汗ばんで滑る。それでも、手を止めるわけには行かなかった。
あと一息。全神経を集中させて、渚は指先に力を込める。
「えっ……」
力を入れた瞬間、ペンが汗でずるりと滑った。硬い音を立てて床へ落ちたペンを見て、渚の顔から血の気が引いた。動かないで、と祈るように思う。
しかし相手も、その隙を見逃す程愚かではなかった。疲れ切った執事の腕を全身を震わせてほどき、肉人は渚に向かって指のない手を振り上げる。渚の表情が凍り付いた。
「頭を潰せ!」
これまでか。諦めかけた瞬間、声が聞こえた。今まさに振り下ろされんとする腕の動きが止まり、肉塊の背後から憤怒の形相と、執事の大きな拳が覗く。渚には、暫く状況が把握出来なかった。
動きの止まった手が、小刻みに痙攣する。執事の拳は、肉人の顔から生えたように突き出ていた。肉の塊が大きく震え、執事の腕が頭部から抜かれる。
やや遅れて、何かが破裂したような音が響いた。融合霊が完全に消滅した後、渚は我に返る。同時に、執事が目の前に手を差し出しているのが見えた。いつの間にか座り込んでいた自分に気付き、彼女は慌てて立ち上がった。
「渚さん!」
血相を変えた明が駆け寄って来るのを見て、渚は心の底から安堵した。明の背後からは、芹香が歩み寄って来る。先ほど叫んだのは、彼女だったのだろう。
「大丈夫だった?」
スカートについた埃を払いながら、渚は鼻を鳴らした。
「当然ですわ」
気丈なその返答に、明は小さく笑った後、扉に向き直って表情を引き締めた。
「……よしっ、行こう」
明の手が、扉にかけられた。