第六章 交錯する記憶 六
これは私の、悲願だった。かねてから、この屋敷だけは、なんとかしたいと思っていた。だから今ここに立つだけの力を持てた事、肩を並べられる仲間がいる事、それが誇らしい。
誰かの役に立ちたい。迷える霊を救ってやりたい。今を生きる人の為に、持てる力を使いたい。その気持ちだけが、今の私を動かしている。
誰かを救うということは、容易ではない。手を差し伸べたつもりでその実、更なる深みへ落としている事さえある。それが原因で、誰かが傷付くこともある。私は感情の赴くままに行動してしまうから、特にその傾向が顕著だ。
最初は深い虚を抱えたあの人を、助けてあげたいと思った。恐らく彼は、私の最初の望み通り立ち直ってくれた。けれど彼自身ではなく、周りの環境が変わりすぎてしまった。変わらなくとも、彼の心は真っ直ぐだったというのに。
私が悪い。何故止めなかったのか、それだけがただ、悔やまれる。身を引き裂かれるような衝撃だった。
あの人は、恐らく最初から気付いていた。彼の孤独にも、何ものにも染まらない心にも。だから、彼を想った。
私もそうだった。純粋だからこそ変わって行く彼を、近くで見ていてあげたいと思った。けれど私だけは、彼を想ってはいけない。何かに執着してはいけない。それは何よりも罪深い事で、結局自分自身が抱いた感情とは別物だからだ。
それでも、私は苦しい。
明は掴みかかろうとする霊を振り払い、中二階へ駆け上がる。執事がその後を追いかけようとするが、渚の怒声に止められた。
「軽挙妄動は慎みなさい!」
ぴしゃりと渚に叱咤され、明は階段を上ったところで立ち止まった。気ばかりが急いて、何も考えられない。頭の中が真っ白になっていた。
渚は札を胸に当てたまま、ゆっくりとホールを進む。除霊の札なのか、湧いた霊は誰一人として彼女に近付く事が出来ず、二の足を踏んでいた。その内何人かは結局、呆然と立ち尽くす芹香へ向かって行く。
芹香は動かなかった。微かに唇を戦慄かせ、拳を握り締めている。渚と執事が慌てて駆け寄ろうとしたが、到底間に合わない。凍り付いたような無表情を保つ横顔に、拳が迫る。
明が悲鳴を上げた。瞬間、芹香は色素の薄い瞳を肉迫した拳へ向け、頬に触れる寸前で、掌を顔の前に翳す。床を這って近付いてきた霊の頭を踏み潰し、掌に当たった拳を握り込む。冷めた視線を向けられた霊の動きが、止まった。
「失せろ」
握り締められた半透明の拳が、割れた。間髪容れずに手刀を叩き込まれた霊は、大きな音を立てて破裂する。
ああ、怒ったのだ。明は芹香の様子を見て、そう思う。
芹香は渚と執事が中二階へ上がるのを待って、追いすがる霊を階段下へ蹴落としてから、明に大丈夫かと声を掛ける。自分はひどい顔をしていたのだろうと、明は頷きながらそう思う。
「私の札は、効かなかったのかしら」
「耐性が出来ていたのかも知れんな。お前の札は、父親のものと書き方が一緒だろう」
中二階へ上って来ようとする霊を振り払いながら、芹香は左右に一つずつある扉を交互に見た。
「しかし、ここの構造が分からんと追い掛けようがないな……」
「二手に分かれましょう。じいや、行きますわよ」
渚は迷うことなく左側の扉を開き、執事を促した。彼は飛びかかってきた霊を振り切って、渚が開けた扉へ駆け込む。
二人が入った先を確認しないまま、明は反対側の扉を開いた。目の前に現れた霊に驚愕して一瞬動きを止めたが、慌てて右手の刀で刺し貫く。霊が消えたところで、明は肩越しに振り返って芹香を呼んだ。
「芹香さん!」
ホールにいる霊の数は、今や当初の半分にも満たない程まで減っている。生者と見れば見境なしの悪霊も、流石に抹消されるのは嫌なのか、ホールから悔しげに見上げる者も少なくはなかった。
中二階に残った最後の一人を手刀で抹消してから、芹香は扉の中へ入った。
扉の向こうには、更に廊下が続いていた。左右にずらりと扉が並んでいるものの、何かが出て来るような気配はない。不気味な程の静寂に、明は気後れしてその場に立ち竦む。
「メイ、大丈夫だ。藤堂もゆなも、そう簡単にくたばりはしない」
その言葉には、何の根拠もない。しかし明は、芹香の浮かべた微かな笑みを見て、幾分気が楽になった。この人が一緒なら大丈夫だと、この人が言うなら必ず二人は無事でいると、そう思う。
明が大きく頷くと、芹香は先立って廊下を歩き始めた。静寂に包まれた廊下に、ヒールの硬い音が響く。明にとっては、何が出るか分からないという恐怖より、焦燥感の方が強かった。早く行かなければ、彼らがどうなるか分からない。
それにしても何故、彼らを連れて行く必要があったのだろう。確かに無抵抗なのは藤堂とゆなだけだが、捕らえる必要があるとは、どうしても思えなかった。
「何が目的なんでしょう」
芹香は肩越しに振り返り、緩く首を左右に振った。
「さてな。この分では、向こうも同じ造りだろう。上で落ち合えればいいが」
その返答に、明は違和感を覚えた。ふと見ると、芹香の手がきつく拳を握っている。
心配なのだろう。あれほど明白な怒りを露わにした彼女は、今まで見たことがなかった。芹香は藤堂とゆなを攫った霊よりも、止められなかった自分自身に憤りを感じているのかも知れないと、明は考える。彼女はそういう人間だ。
芹香は今まで、あの会社でどのように過ごして来たのだろう。何を守ってきたのだろう。会社を辞めた理由を聞いた事はないが、おぼろげながら内情を知る明には、大体の想像がつく。
恐らくいつかは、鳳という大企業を相手取る事になる。芹香は黙して語らないが、明にはそんな気がしてならなかった。彼女が退社の理由について何の説明もしないということは、言えない訳があるということだろう。
芹香があれほど入社を渋ったのは、恐らくそれが理由であると、明は思っている。この小さな事務所の少ない人数で、鳳相手にまともに立ち回れるとは、確かに思えない。それでも、最終的に入社を決断してくれたのは、きっと、認めてくれたということなのだ。
いつまでも、芹香に助けられている訳には行かない。今は背中を追いかけるだけの立場だが、その時は。
その時には必ず、この孤独な人を、護りたい。
「主が上げるなと言っているんだよ」
考え事をしていた明は、突然聞こえた声に驚いて肩を竦めた。芹香が俄かに緊張した気配を見せる。
「よくものこのこと来れたもんだね、堤と知恩院の娘が」
廊下の突き当たりには割れた窓があり、左右には上りと下りの階段が設置されていた。窓から差し込む光が、薄暗い階段を照らし出している。
上り階段の手前に、声の主はいた。骨と皮ばかりになった痩せた体に、白いワンピースを纏った半透明の女は、長い前髪の隙間からぎょろりとした目を二人に向けている。その目に見られた瞬間、明は寒気を覚えて身を竦めた。
「あんた達の親はあんた達とおんなじように、ここへ来たよ」
芹香の表情が硬くなる。明はよもやこの女がとも思ったが、見る限り、そう長く現世にいるようにも感じられない。
除霊屋だった明の両親は、ここで死んだ。爆発的に霊の数が増えたのはごく最近の事とは言え、両親が存命だった頃から、ここには主と呼ばれる化け物じみた悪霊がいた。何人もの除霊屋がここを訪れ、死んだという。この屋敷の場所を知る除霊屋がとうとういなくなった頃、住人は諦めた。
その頃はまだ、鳳コーポレーションもそう大きな企業ではなかった。力のある退治屋といえば高屋敷家だったが、彼らも一度、ここの除霊を諦めていた筈だ。
「ああ、似てるねあんた。母親そっくりだよ……確か、暮羽と言ったかな?」
女は濁った暗い目で、じっと芹香を見ていた。どことなく不安感を煽られるその視線を受け止める切れ長の目が、徐々に驚愕に見開かれて行く。放たれた言葉に驚いたのかとも思ったが、その割にはゆっくりとした動きだった。
明は怪訝に芹香を見ていたが、ふと、穏やかならぬ噂を思い出した。改めて女を見て、その姿を確認する。濁った女の目から明らかに異質なものを感じ取って、懸念を確信に変えた。明は慌てて芹香の腕を掴み、体ごと揺さぶる。
「見ちゃダメ! 幻覚だよ、真実じゃない!」
聞いた事がある。目を見つめることで幻覚を見せ、対象が自失している隙に、ゆっくりと魂を引きずり出して食らう霊がいると。まさかこれがそうとは思いもしなかったが、青褪めて行く芹香の様子を見る内、そうとしか考えられなくなった。
しかし明に、止める術はなかった。気付くのが遅すぎたのだ。紙のように白い顔をした芹香は、目を見開いたまま微動もしない。明は悔しげに唇を噛む。
こうなったらもう、視界を塞いでも無駄だろう。自力で立ち直らせるか、幻覚を遮断するか、どちらかしか方法はない。
こういった霊を相手取るなら、技術に富んだ陰陽師である渚の方が適している。消してしまえばいいという話ではない。一度幻覚を見せられたが最後、それに囚われて、心神喪失状態から永遠に抜け出せなくなる可能性さえある。
芹香はよろめくように壁に凭れ、とうとう頭を抱えた。一つに結ばれた髪が背中に当たって広がり、肩を隠す。深く俯いているせいで表情は見えないが、明はその仕草を見て青くなる。女が嘲笑した。
「幻覚じゃないよ。真実だ」
明には、芹香が何を見ているのか分からない。止めなくてはいけない。そう思うのに、体が竦んで動けなかった。女から放たれる、寒気を覚えるほど強い怨みの念に、圧倒される。
この女の深い怨念は、一体何なのだろう。何をこうまで怨んでいるのだろう。霊の記憶が見える藤堂なら、分かったかも知れないのに。
しかし悩んでばかりもいられない。明が迷うと、この刃は通じない。迷えば斬れなくなってしまう。
「大人しくしていた方がいいんじゃないの? 私の目を見たら、あんたは永遠に囚われてしまうよ」
明は女の顔から視線を逸らして、下を向いた。意を決して刀を握ったが、視線を落とした所でふと気付く。
女の手首の内側に、傷があった。ミミズ腫れのような浅いものから深く抉れたものまで大小様々だったが、正常な肌が見えないほど、多くの傷跡が残っている。間違いなく、自傷した痕だろう。余程深い思い入れのあるものでない限り、霊体に傷は残らない。
女の深い怨念の理由が、分かった。具体的に何を怨んでいるのかは分からない。けれど自傷というのは概ね、追い詰められた末に生を実感する為の行為だといわれている。
悪霊の能力は、自身の怨みや執着の矛先によって変わる。幻覚を見せるという稀有な能力を併せて考えると、怨んでいるのは記憶の中の何かに違いない。
彼女は、傷ついたのだろう。そうするまでに至った経緯は分からないが、自殺で死んだのだとするなら、彼女は真実悪人ではなかったことになる。
幽世において、自殺は大きな罪であるとされている。自ら命を絶つのは摂理に反することであり、幽世への道すら開かれないまま、死んだ瞬間悪霊となる。自殺者の霊が浮かばれずに現世に囚われるのは、その為だ。
だからこれなら、浄化できる。救う事が出来る。
明は刀の切っ先を、女の目の前に突きつけた。視線を僅かに上げ、女の口元だけを見る。ひび割れた薄い唇は、弧を描いて笑みを浮かべていた。
「あんたに私が切れるの?」
「斬らない。あなたを浄化する」
女の含み笑いが聞こえた。それが怨嗟の声のようにも聞こえ、明は顔をしかめる。
「私を直視出来ないあんたに、そんな事が出来る?」
「……あなたは深い虚を抱えたまま死んだ」
女は切っ先を避けないまま、黙り込んだ。目を合わせる事が出来ないので表情は見えないが、何も言わない女に、明は改めて確信付く。そして更に、言葉を続ける。
「幻覚はあなた自身の心の闇。深く悲しい記憶。あなたは闇に侵されて死んだ。……自殺だったんだね」
言い終わるか終わらないかの内に、女の姿が突然消えた。明は慌てて振り返る。
「やめて!」
女は壁に縋るように凭れた芹香の、目の前にいた。肩で息をする彼女は、何の反応も示さない。
あの人を失いたくはない。女を抹消するのも嫌だ。けれど、迷ってはいられない。迷っていれば芹香は食われ、刃も通じなくなってしまう。明は悲痛に表情を歪め、女に刃を向ける。
女が大きく口を開いた、その瞬間。芹香が勢い良く顔を上げて彼女の腹へ腕を回し、しっかりと腰を掴んだ。硬直する女の体を明の方へ向かせ、芹香は短く告げる。
「メイ、やれ」
何故、という疑問は、その力強い声にかき消された。明は大きく頷き、女の額に切っ先を向ける。女は身動き一つ取れないまま、悪鬼の如き形相で明を睨んでいた。
「死後どんなに悪い事をしたんだとしても、あなたはもう救われていい。あなたが食べた魂も、一緒に送るから」
女の顔付きが変わった。戸惑うように視線を彷徨わせた後、深くうなだれて、緩く左右に首を振る。
救われたくない人はいない。明は女の額に切っ先を埋めながら、そう考える。どんな悪霊であろうと、必ずそうなった理由がある。人が性根から悪であると、信じたくなかった。
女の腕に走った傷跡が、徐々に消えて行く。芹香は目を伏せて、薄くなって行く女を見つめていた。
「生きてても死んでからもいい事なかったけど、生まれ変われるんなら、次に期待するよ」
「次はきっと、いい事があるよ」
女の口元が、かすかに笑う。その唇が更に動いたような気がしたが、声までは届かなかった。
明は女が消えた後も、暫く俯いたまま神妙な表情を浮かべていたが、唐突に顔を上げた。
「なんで平気だったんですか?」
明は芹香を見上げて眉根を寄せ、そう聞いた。芹香は困ったように顔をしかめる。
「母はここへは来ていない」
え、と呟くと、芹香は苦笑した。
「暮羽は私の伯母だ。私が産まれる前に、ここで死んでいる。顔も知らなかった。確かに少し、似ていたがな」
明は唖然とした。あれは演技だったというのだろうか。まんまと騙された。
「さあ、先を急ごう」
流石は鳳一の退治屋と言うべきか。何事もなかったかのように、芹香は階段を上って行く。明はしばらく一歩踏み出す度に揺れる彼女の銀髪を眺めていたが、ふと我に返り、慌ててその背を追いかけた。