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透明なひと  作者:
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第一章 指輪に憑いた想い 五

 藤堂は久々の爽快感に、幸せを噛みしめていた。不眠の原因となっていたあの忌まわしい指輪を、調べると言って明が持って行ってくれたお陰で、ゆっくりと眠る事が出来た。

 やはり睡眠は大事だ。よく眠れば、自分で作った味気ない飯でも美味く感じる。更に食後の一服は至福のひとときだ。何気ない日常とはこんなにも有難いものだったのだと、藤堂はのんびりと煙草を吹かしながら、改めて実感する。

 しかし彼のそんなささやかな幸せは、長くは続かなかった。

「藤堂さーん!」

 店の方から聞こえた少女の声に、藤堂は煙草の火を消して溜息を吐いた。もうそんな時間になってしまったのかと考えながら、のっそりと立ち上がる。時計を見てみれば、確かにもう約束の時間を差していた。時間の流れが早く感じるのは、歳のせいだろうか。

 手早く食器を片付けて、藤堂は家を出る。何故店を閉めてまで、一緒に行かなければならないのだろう。そんな疑問も残ってはいたが、素直に従ってしまうのが藤堂という男なのだ。長いものには巻かれろというのが彼の基本スタンスであり、座右の銘だった。明を長いものと言うには、些か弱いような気もするが。

 シャッターを開けると、真っ先に制服姿の明が視界に入った。白いセーラー服が日光を反射してやけに眩しく見え、藤堂は思わず目を細める。

「おはよう藤堂さん。よく眠れた?」

「まあ……」

 朝も早い時間だというのに、明は眠そうな素振り一つ見せなかった。無邪気に笑いかけて来る少女に曖昧な返事をして、藤堂は下を向いて欠伸を噛み殺す。俯いたまま目を開けた瞬間、彼女が手に持った物が視界に飛び込んで来て、思わず身を引く。

「……明ちゃん、何それ」

「これ?」

 明が目線の高さまで上げてみせたそれは、木製のバットだった。藤堂は顔を引きつらせて、バットと明を見比べる。明は藤堂の反応が不思議だとでも言わんばかりに、首を傾げた。不思議に思うべきなのは藤堂の方だ。

 異様な光景だった。セーラー服の美少女が、バットを持って質屋の前に立っている。しかもこれから行こうとしているのは病院だ。あまりにも、不釣り合いではないか。

「バットだけど」

 明は事も無げにそう言った。藤堂は更に頬を引きつらせる。そんな事を聞いている訳ではない。

「見りゃわかる。なんでそんなモン持ってんの」

「私、これで浄霊するの。使わなきゃいけないような事に、ならなきゃいいんだけど……行こう」

 そう言って背を向けた明は、呆気にとられる藤堂を尻目に、さっさと歩き出してしまう。腑に落ちない藤堂は眉間に皺を寄せたまま、その後を追った。

 明から説明を受けはしたが、藤堂には未だに理解出来ない。理解力に乏しい訳ではないが、霊感のない彼には分からないのだ。

 巷が幽霊で溢れ返ったこの時代、藤堂はそれらと何の関係もない世界で生きてきた。それが突然生霊の憑いた指輪を所持する羽目になり、訳が分からないまま殺されかけた。事実に憤りこそすれ、何故こんな事になっているのかは、結局分かっていない。

 指輪に憑いた生霊は生きているが、本人は死んでいる。だから生霊を体の元へ呼び戻し、浄化する。明の説明はそんなものだった筈だが、藤堂は未だに悩んでいる。

 生霊は生きているのに本人が死んでいるとは、どういう事なのか。死んでいるなら、体に生霊を返したらゾンビになるのではないのか。そもそも体が死んでいるなら、何故病院に行くのか。

 そこまで考えて、藤堂は諦めた。どんなに考えても、彼には分からない。全て終わってから、改めて明に聞けば良い。

 ついて行こうと思ったのも、何も分からないまま勝手に事が終わるのは、寝覚めが悪いと思ったからだ。事が終わってから改めて明に説明されたところで、その内容を理解出来るかどうかは、また別の問題だが。

「そこの病院だね」

 明の声に我に返った藤堂は、顔を上げて彼女が指した先を見た。大きな白い建物は一目で病院と判るものだったが、何故だか威圧感を覚える。

 退治屋だと言えば、入れてもらえるものなのだろうか。病院の職員に説明している時間は、果たしてあるのだろうか。藤堂の不安をよそに、明は臆面もなく敷地内へ足を踏み入れる。

 バットを持ったまま。

「……あのさ、そのバット、なんとかなんないの?」

 中庭を散歩していた患者達の視線が、全身に突き刺さる。藤堂は肩を竦めて情けない声を出したが、明は悠々と正面玄関までの道を歩いていた。存外、豪胆な娘のようだ。

「藤堂さん、走って」

「は? なん……」

 なんで、と聞こうとしたが、言い終わる前に明が走り出した。面食らった藤堂は、慌ててその後を追う。

 明は正面玄関の自動ドアを駆け抜け、待合室を通り過ぎる。受付に座っていた看護士が慌てた様子で何か言っていたが、彼女は振り返らなかった。大学を卒業して以来運動とは縁のない生活をしていた藤堂は、既に息を上げている。

「ちょっと!」

 エレベーターに乗ろうとした明の前に、大柄な医師が立ちはだかった。ぶつかりそうになった明は、慌てて立ち止まる。そしてその後、明が発した言葉に、藤堂は耳を疑った。

「通して下さい! お母さんが、お母さんが!」

 二人の少し後ろで上がった呼吸を整えていた藤堂は、はあ、と疲れた声を漏らした。この娘は何を言っているのか。そもそも受付をすっ飛ばして病室へ向かう人間がどこにいるのか。それよりも果たして、目的の病室がどこなのか分かっているのだろうか。

 狼狽する藤堂をよそに、医師は落ち着き払った声で明を諫めた。

「ちょっと落ち着きなさいよ君。そのバットは何?」

 明は芝居がかった仕草で、医師の胸元に掴みかかる。

「死んだ弟の形見なんです! 早く行かないと、お母さんが……ああ、もう時間がないわ! お兄ちゃん、早く!」

 もう滅茶苦茶だ。藤堂は女子高生にお兄ちゃんと呼ばれていいような年齢でもない。

 慌てた声でまくし立てる明の剣幕に気圧されたのか、初老の医師は僅かに怯んだ。明はその隙に、藤堂の腕を掴んで再び駆け出す。藤堂はつんのめりながらもなんとか堪え、明に引っ張られるまま、開いたエレベーターの中へ滑り込んだ。

 叫ぶ医師を横目に、明は階数ボタンを押す。慌てた医師が腕を伸ばすが、その手が辿り着く前に、扉は閉まった。

 無事動き出したエレベーターの中で、明は安堵したように脱力する。膝に手を付いて前傾姿勢になった藤堂は、荒い呼吸を繰り返しながら、明に恨めしげな視線を向けた。

「なんだよ、いきなり……あのね明ちゃん、おじさんを走らせるもんじゃないの」

 息も絶え絶えの藤堂に、明は呆れた視線を向けた。呆れたいのはこっちだと、藤堂はげんなりと肩を落とす。明が疲れた素振りも見せないのは、若いからだろうか。

 こんなに走ったのは、何年ぶりだったろう。日がな一日中カウンターに座って、ぼんやりするだけの生活に慣れていた藤堂の体は、所々で悲鳴を上げている。運動した後の爽快感など、微塵も感じない。煙草のせいもあるのだと、藤堂は心中言い訳をした。

「藤堂さん、おじさんてトシでもないでしょ」

「いや……そ、そうじゃなくて」

 未だに整わない息を無理矢理抑えて、藤堂は短く突っ込む。疲労感たっぷりの藤堂とは対照的に、明は涼しい顔で乱れた髪を梳いていた。否応なしに年齢を感じさせられ、藤堂は些か落ち込む。

 若いつもりはないが、現実を突きつけられると複雑な心境になる。年齢というのは、そういうものだ。

「……こっち」

 エレベーターから降りた明は、扉を押さえながら藤堂を振り返った。言われるがままについて行く藤堂は、もうどうにでもなれ、という気になっている。

 どうにでも、なってしまえばいいのだ。ここまで来てどうにもならなかったら、それはそれで困る。

 廊下に出た途端、病院特有の微かな薬品臭が鼻を突く。清潔感のある白で統一された廊下は静寂に包まれており、靴底が立てる足音さえ煩く感じられた。今の藤堂には医者を振り切って来てしまった罪悪感もあるから、余計にそれが響いて聞こえる。

 明は迷う事なく廊下の一番奥まで進むと、どん詰まりに位置する病室の戸を開けた。室内の光景に、藤堂は一瞬怯む。

「なあ、明ちゃん。こりゃ……」

 心電図が立てる電子音だけが響く狭い病室に、ベッドは一つしか置かれていなかった。開け放たれた窓から差し込む光が、真っ白な室内を眩しい程に照らし出している。窓から吹き抜ける春風は温かかったが、藤堂の腕には鳥肌が立っていた。

 どうしてか、寒気がする。季節は春だし、ここはきっちりと空調の整えられた室内だ。寒い筈がないのに、藤堂は半袖のシャツから伸びる腕を摩る。白で統一された部屋であるにも関わらず、空気が淀んでいるように感じられた。

「魂が生霊となって指輪に憑いていたから、心臓は動いているの。でも、もう脳は死んでしまってる。体も動かない」

 明は静かに言って、病室へと足を踏み入れる。続いて入室した藤堂の背後で、扉が閉まった。

 ベッドの上に横たわっていたのは、紙のように白い顔をした老婆だった。掛けられた布団の下から幾つもチューブが伸び、ベッドの傍らで電子音を立てる機械に繋がれている。枕にもベッド全体を覆う布団にも皺一つなく、老婆が自らの意思では動けないであろう事は明白だった。

 藤堂は生の匂いを感じさせない老婆を見下ろして、痛ましげに眉を顰めた。こうまでして生きていたくはないものだと藤堂は思うが、今こうして生きている事は、本人の意思とは無関係なのだろう。

丹沢冴子たんざわさえこさん。指輪をお返しします」

 明がポケットから指輪を取り出した瞬間、冷たい風が藤堂の横を通り過ぎた。足下から背筋を伝って、首元へと悪寒が這い上がる。聞こえ始めた微かな耳鳴りに、嫌な予感がした。

 表情を曇らせた明は、胸ポケットから黒縁の眼鏡を取り出した。ベッドに横たわる老婆を注視したまま、眼鏡を藤堂に押し付ける。

「ダメ、全部忘れてる。それ、掛けて。頑張って逃げてね」

「は?」

 藤堂は押し付けられるままに眼鏡を受け取って、怪訝な声を漏らした。険しい表情を浮かべた明は藤堂の胸を押し、その場から飛び退く。

 バランスを崩した藤堂が床に尻を着いた瞬間、その頭上を何かが掠める。何が触れたのか藤堂には全く分からなかったが、良くないものである事だけは感じ取れた。明が藤堂を押しのけたのは、彼の頭上を通り過ぎたものから逃がす為だったのだろう。

 明は胸ポケットに指輪を落とし、バットに手を掛ける。藤堂は木製バットの下から現れたものを見て、我が目を疑った。

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