第六章 交錯する記憶 五
鹿倉からの依頼を請けた翌日。被害が出始めているなら早い方がいいと明が急かすので、早々に幽霊屋敷へ行く事となった。藤堂はあまりの唐突さに閉口したが、渚と芹香は予想していたようだ。しっかり準備して来ていた辺りは流石と言えるが、明の発作的な行動に慣れるのも考えものだ。
元来出不精な藤堂は同行を嫌がったが、足として連れて行かれる事となった。今回は高屋敷から譲り受けた破魔銃があるからまだ気が楽だが、それでも店を空けるのはどうかと思う。単純に、暑い中外へ出るのも嫌だった。
前回同様、連れて行かなければ舌を噛んで死ぬと騒ぐので、渋々ゆなの同行も了承し、結局総出で現場へ向かう。渚はそちらも想定していたようで、事前に作って来た護符を、ゆなのヘルメットに貼っていた。至れり尽くせりだが、少しはゆなを止める方に頭を回して欲しいものだと、藤堂は呆れる。
藤堂の運転で現場に向かう一行は、一様にして表情を硬くしていた。それぞれ何を考えているのか藤堂には読めないが、単に緊張しているだけなのかも知れない。
緊張もするだろう。あの屋敷が尋常でない事は、霊感がない藤堂でさえも、前回訪れた時に理解した。仮にもプロの退治屋が十人がかりでもどうにか出来なかった場所にたった五人、執事を含めて六人だけで、立ち向かおうと言うのだ。実質二人は役に立たないから、甚だ無謀とも思える。
屋敷周辺には、相変わらず通行人はおろか、猫の子一匹見当たらない。朽ちかけて蔦が這った塀に寄り添うように車を停めると、真っ先に明が外へ出た。制服のプリーツスカートを風に靡かせ、屋敷を見上げる彼女の表情は、未だに硬い。抜き身の刀が、熱い太陽光を受けて尚冷たい光を放っていた。
「随分と喧しいな」
続いて車を降りた芹香が、明の横へ立つ。すらりとした長身を黒のライダースーツに包んだ彼女の横顔は、普段と変わらず凛々しかった。邪魔になるのを懸念して纏めたのだろう、高い位置で括られた銀髪は、燦々と輝く太陽の光を反射して、機械のように煌めいている。
「とりあえず、敷地内を見てみましょうか?」
既に札を取り出していた渚は、言いながら軽くそれを振った。筋骨隆々の執事が、札から窮屈そうに這い出してくる。渚は傍らに畏まった執事を一瞥し、尖った顎で屋敷を示した。繊細に煌めく金髪が、ふわりと揺れる。
「必要ない。どうせこの屋敷にいるのは、生前重ねた悪行によって悪霊化した、救いようのない霊ばかりだ」
凛とした声は、普段より少し硬かった。芹香でさえ緊張しているのだろうかと考えつつも、藤堂は横目で彼女の見事な肢体を盗み見る。切れ長の目が車の中を向いたので、慌てて視線を逸らした。
「……ゆなは、本当に大丈夫なのか?」
のそのそと車から出てきたゆなは、芹香を見上げて大きく頷いた。渚の札が追加されたヘルメットは、普段より一回りほど大きく見える。華奢な首は、大きなヘルメットを支えているだけで折れてしまいそうだ。
「ホントにそんなんしかいないの?」
藤堂は車をロックして、煙草に火を点けながら屋敷を見上げる。前回来た時同様気味の悪い空気が漂っているが、前のような不安感はない。仲間が多いせいなのか、自分自身に護身の術があるからなのか、自分でも分からなかった。
芹香は両手に黒の革手袋を嵌めながら、藤堂の問いに小さく頷く。革のライダースーツでは暑くないのだろうかと藤堂は思ったが、動き易い方を選んだのだろう。セーラー服で飛び回る明よりは、賢明なのかも知れない。何より目の保養になる。
「本業の方の事務所に、田舎のヤンキーが屯したりはしないだろう。引き寄せられているとは言っても、向こうもその辺りはちゃんと選んでいる」
「ああ、なるほど」
藤堂は妙に納得した。
「ただしその分、こちらは暴力的ね。侵入者には容赦しませんし、ほぼ確実に、好戦的に形が変わっておりますわ。何をしてくるか、見当もつきません」
「あの霊喰いと同じようなものですな」
渚とゆなが補足すると、ふうんと鼻を鳴らし、藤堂は煙草を弾いて灰を落とす。
「そりゃ危ねえな」
呑気な藤堂に、渚が溜息を吐いた。
屋敷を見つめたまま黙っていた明が、唐突に錆びた門扉を開け放った。鉄製の扉が軋む嫌な音がする。
「とにかく突撃!」
「あい」
表情を引き締めて宣言した明の言葉に反応したのは、相変わらずゆなだけだった。明を先頭に敷地内へ足を踏み入れると、重苦しい空気が全身に纏わりつく。
心なしか、足が重い。地面はからからに乾いているし、コウがしがみついている訳でもない。気持ちの問題なのだろうと思ったが、それでも一歩踏み出す度に、全身に鳥肌が立って行く。小さく舌打ちを漏らし、藤堂は吸いさしの煙草を携帯灰皿にねじ込んだ。
服の裾を握ったままついてくるゆなの表情は、流石に硬かった。渚と執事も緊張した面持ちだが、明と芹香には気後れした様子もない。来たからにはやらなければならないと腹を括っているのか、単に肝が据わっているだけなのか。しかし明も前回はかなり怯えていたから、仲間がいるという安心感があるのかも知れない。
「藤堂さん、いいんだよ。車で待ってても」
扉に手を掛けたところで、思い出したように藤堂を振り返った明が、不安そうな面持ちでそう言った。
「ああ、まあ、ここまで来たから」
眼鏡を掛けながら返答すると、明は一瞬、驚いたように目を丸くした。素直に従うと思われていたのだろう。
確かに、藤堂が中まで入る意味はない。何の役にも立たないし、下手をしたら、また霊の記憶を見てしまうかも知れない。
しかしこんな寂しい所に一人で待っているというのも、些か不安だった。何より黒江夫妻から娘を預かっているという責任感もあるので、一人で安全圏に留まっているのも憚られる。
「……そっか」
明が少し、笑ったように見えた。彼女は改めてドアノブに手を掛け、力を込めて握り締める。明の肩に力が入り、渚が身構えた。明は一つ息を吐いた後、両開きの扉を一気に開け放つ。
室内から流れ出した黴臭い空気をまともに吸い込んでしまったようで、渚がむせた。淀んだ空気を厭うてか、明も両の目を細めて僅かに身を引く。
目の前には、広々とした玄関ホールが広がっていた。蜘蛛の巣と埃に塗れた大きなシャンデリアが一つ、高い天井から下がっている。ホールの左右に扉が一つずつあり、正面には中二階へ上がる階段が設えられている。内装は高屋敷家とそう変わらないが、向こうより規模が小さい。
灯りのない室内は、割れた窓から入り込む光だけで、仄かに照らされている。明が一歩屋内へ足を踏み出すと、色褪せたカーペットから砂埃が舞った。
「カビ臭いですわ」
渚の口から、不満の声が漏れる。廃墟と化した室内には見る限り何もいないようだが、何かの気配だけは、藤堂でさえ肌で感じられる。饐えた臭いに顔をしかめて思わず顔を背けると、肩にコウがしがみついているのが見えた。
コウは小さな唇を引き結び、玄関ホールを睨みつけていた。季節は夏だというのに、外からの光があまり入らないせいか、空気が冷えている。寒気とも嫌悪感ともつかない感覚が背筋を這い上がり、藤堂の全身を震わせた。
「こっちに出てきたのです」
ゆなは、藤堂の腕を抱き締めていた。小さな手に力を込め、更に強く縋りつく。一番勘が鋭いのは、彼女なのかも知れない。
壁といわず天井といわず、至る所から半透明の霊がゆっくりと出てくる。体のパーツをバラバラに繋ぎ合わせたような姿のものもいれば、殆ど人間のままの姿を保っている者もいた。中二階の壁をすり抜けて出てきた巨大な髑髏の顔が、大きな口を開けて笑う。
「藤堂さんもゆなちゃんも、そこから動かないでね。思ってたより多いかも」
明は体の前に刀を構え、硬い声を背後の二人に掛ける。ゆなは無言のまま頷いたが、藤堂には動く気もなかった。
「個々の力は大した事ありませんわ。集合霊ではないだけ、マシかも知れませんわね」
渚の前に、執事が進み出た。鋭い双眸が、次々と現れる霊を威嚇するように細められる。彼は両手を組んで指を鳴らし、静かに拳を握った。筋肉質な腕に、太い血管が浮く。
真っ直ぐに前を見つめていた芹香が、手袋の端を摘んで嵌め直した。革の手袋が、僅かに光る。彼女の凛とした横顔が、藤堂の目には楽しそうに見えた。
「殲滅する」
短く呟いた芹香の声が合図だったかのように、渚以外の三人が一斉にホールの中央へ飛び出した。大きく口を開けた髑髏を、明が勢い良く刀を横へ振って一刀の下に斬り捨て、刃の向きを変える。そのまま柄を両手で持ち替えて頭上へ振り上げ、掴みかかろうとする黒い腕を鋼の刃で弾き返した。半透明の霊体は、銀色の燐光を放つ刃に触れた瞬間、霧散して消え失せる。
明の背後へ、赤茶色の煙のような霊が音もなく迫って行くのを、片端から霊体を殴り飛ばして抹消していた執事が見咎め、軽々とそちらへ向かって飛び上がる。緩慢な動きで明の背に触れようとした煙に猛然と突っ込み、上方から肘鉄を食らわせた。
着地した執事はすぐさま体の向きを変え、明と背中合わせになる。二人は肩越しに目配せして、迫り来る霊をそれぞれ跳ね除けながら再び駆け出して行く。祐子の一件で共闘して以来、彼らは時折妙に息の合った動きを見せるようになっていた。
大挙して押し寄せる半透明の異形の群れを、黒い手刀がまとめて薙ぎ払う。埃の舞う薄闇に、幾つもの破裂音が連続して響き渡った。姿勢を低くした芹香の死角に当たる床から、常人の倍はあろうかという体格の霊が飛び出して来る。彼女は身を起こすと同時、一瞥もくれないまま霊の顔面に裏拳を入れた。
相手が一瞬よろめいた隙に、左足のヒールを軸にして体を反転させながら右足を上げ、はちきれんばかりに太った腹を蹴り飛ばす。ぱん、と風船が割れるような音がした。
「まるで相手になりませんな」
ゆなが感心したように呟いた。
「当然ですわ」
感嘆の声に返した渚は、藤堂とゆなを護るように一歩前に出ていた。未だこちらに狙いを定める者はいないが、霊媒体質のゆなに気付かれるのも、時間の問題かも知れない。その時の為に、渚は留まっているのだろう。
「芹香さんとじいやは当然ですけれど、メイさんも、同業者の間ではそれなりに名の知れた浄霊屋ですもの。あれぐらいは、やってもらわなくっちゃ」
明の事は藤堂には初耳だったが、何も言わなかった。渚の言葉よりも、目の前で繰り広げられる戦闘に釘付けになる。殆どこちらが一方的に叩きのめしているような状況だが、如何せん、相手の数が多すぎる。
それでも最初よりは出てくる数が減ってきただろうかと考えている内に、床から出てきた一体が、こちらへつるりとした顔を向けた。藤堂は思わず身構えたが、明の反応の方が速かった。横から殴りかかろうと振り被った霊を袈裟懸けに斬り捨てると同時、藤堂等に狙いを定めた者に向かって駆け出す。
しかし床から出てきた顔のない霊は、明より速かった。ほぼ一瞬で距離を詰めた霊は渚をすり抜けて行こうとしたが、彼女の札はそれを許さない。体の前に掲げた左手の平には、梵字の書かれた札が握られていた。渚の目前まで迫ったところで動きを止められた霊は、懸命に前へ進もうとする。
「無駄と知りなさい」
冷ややかな声が、顔のない霊に掛けられた。右手に持った札が、目も鼻も口もない霊の顔の前に翳される。札が微かに光った瞬間霊の姿が薄くなり、空気に拡散して行った。
三人の無事を確認した明が、安堵の息を吐いたのも束の間。背後から迫る気配に気付いて反射的に振り返り、明は振り下ろされた巨大な刃物を横へ飛び退いて避けた。肘から先が鉈と化した霊はやけに大きな口を歪め、更に明に向かって腕を振る。
刀を寝かせて鉈を受け止めた明は横から迫る霊に気付き、体重をかけて鉈を押し返す。同時に、柄を軸に刃を反転させつつ、腕を伸ばしたまま得物を引き戻す。横から来た者の両腕が掴みかかるのを姿勢を低くして避けながら、胴を水平に斬った。斬られた霊はそのまま消滅したが、押し返された霊はすぐさま体勢を立て直し、空中へ飛び上がる。
明の反応が、一瞬遅れた。苦い表情を浮かべた彼女は刀の向きを変えて迎撃の姿勢を取ったが、頭上へ振り下ろされる鉈は、横から飛び込んで来た芹香の拳に叩き折られた。同時に本体も消える。
芹香は着地すると同時、天井から恐ろしいほどの速さで落ちてきた霊を見て口角を上げる。避ける素振りもない彼女が頭上へ拳を翳すと、勢い付いていた霊はそのままぶつかって弾け飛んだ。
その間に明が芹香から離れ、執事を囲んでいた霊の群れを纏めて斬り捨てる。執事は狼の如く鋭い双眸を周囲に巡らせ、太い腕を伸ばして大きく振り、明の取りこぼしを薙ぎ払った。
床からせり出した頭を無造作に踏み潰し、芹香は横から繰り出された巨大な拳を、背中を反らせて紙一重で避ける。風圧で靡いた髪が僅かに切れたが気に留めることもなく、拳を突き出したまま目の前を通り過ぎようとした霊の喉元に、手刀を叩き込む。破裂音と共に、霊が消滅した。
「減ってきたな」
両手側から迫ってきた霊の片方に弾丸を撃ち込みながら、藤堂は呟いた。もう片側を破魔札で抹消しながら、渚が頷く。
「ここに屯している霊が多いと言っても、無限じゃありませんもの。……あら?」
渚が何かに気付いたように、ふと背後の二人を振り返った。ゆなはつられて後ろの扉を見て、そこから出てきた霊を見て目を見開いた。
巨大な肉の塊のように見える霊は、指のない手を藤堂とゆなに向かって突き出す。藤堂が銃を構えたが、それより早く、霊の両腕が二人を捕らえた。渚が慌てて札を投げたが、二人を一緒くたにして腕の中に抱きこんだ霊は、見た目からは想像もつかないような素早さでそれを避ける。
「ちょ、何だよコレ……!」
動揺した藤堂が言い終わるより早く、その全身が肉の塊に包み込まれる。渚の悲鳴に振り返った芹香が、一気に青ざめた。
「藤堂! ゆな!」
ゆなは悲鳴を上げることも出来ないまま、肉の塊に呑まれた。異変に気付いた明が、即座に駆け寄る。しかし二人を体内に収めた肉人はその場で飛び上がり、天井へ吸い込まれるようにして消えた。