第六章 交錯する記憶 四
桐沢家を出た三人は、そのまま車で帰路を急いでいた。事務所に誰もいなかったら、また明に怒られる。
「あの子供、なんだったの?」
藤堂が正面を向いたまま聞くと、ゆなは首を捻った。返答に窮しているわけではなく、癖なのかも知れない。
「サイクロピア、単眼症という奇形です。脳の形成不全が原因で、発育途中で目が分裂せず、ああなるようです。目だけでなく、鼻の穴も額に一つしかありませぬ」
「子供が奇形だったから、悔いていたの?」
渚の言葉に、ゆなは僅かに眉を顰めた。彼女の発言は、些か安易に過ぎるようにも思われる。奇形児として産んでしまったことを悔いていたなら、あの姿を記憶に留めてはおけないだろう。何より、そんな事で成仏出来ない程後悔するとは、藤堂には思えない。
「あの方は妊娠が発覚する前からもその後も、日常的に恋人から暴力を振るわれており、遂には殺されてしまったそうです。恋人の方は既に捕まっておりますが、あの方は子供を死なせてしまったことを、深く悔いておられました」
「聞いたの?」
ゆなの声は、些か不機嫌そうなものだった。霊から直接話を聞いたならば、渚の言葉には不快感を覚えてしまうだろう。
「はい。死なせたといってもお子さんは、生まれてすぐに息を引き取ったそうです。単眼症の原因としては、ビタミンA不足や抗癌剤の副作用などが挙げられますが、DVによるストレスも、その一因と考えられているようです。全て恋人のせいなのです」
黙り込んだ渚は、思い詰めたような表情で俯いていた。己の発言を恥じているのかも知れない。しかしゆなの全て恋人のせいという発言も、藤堂には軽率に思われた。
一概に、全てが父親のせいとは言えない。奇形児として産まれたのは父親のせいかも知れないが、あの母親が現世に縛られた原因は、子供への愛情なのだと、藤堂には思える。
親の愛とは、子供が思うより遥かに深いものだ。どんな子供であってもいとおしいと思うだろうし、自分のせいではないといえ、それを死なせてしまったとあっては、浮かばれないだろう。
腹を痛めて子供を産んだ母親と違い、父親は本当にこれが自分の子供なのかと、疑い続ける事があるという。近年増加傾向にある家庭内暴力も、それを一因とする父親側の愛情の欠如が原因とも言われている。子供どころか配偶者すら持たない藤堂には到底分かり得ないが、実際、男性側の立場としては、疑ってしまう気持ちも分からなくはない。
しかしそこで妊婦に暴力を振るうかどうかは、また別の話だ。延命治療も、死にたくないという、人の根元的な感情さえ失われつつある時代だ。不義の子供だろうと奇形児であろうと、新しい命は何よりも大事な宝である筈だ。それを蔑ろにする人間に憤りを感じこそすれ、しかし藤堂にはどうすることも出来ない。
「渚さん、人を見かけで判断してはなりませぬ。執事さんはきっと分かっておられました。穿った見方をせず、真っ直ぐに相手を見て、正しい判断を下すべきなのです」
渚は俯いたまま、はい、と呟いた。しおらしい渚と叱るゆなとはなかなか珍しい光景だと、藤堂は呑気に考える。
彼女にしても、悪気があって発言した訳ではなかっただろう。その分、ゆなの言葉が重く感じられたのかも知れない。
一方藤堂も、些かどきりとした。ゆなは時折どこか達観したような、大人より大人びた面を見せる。それが嬉しくはあるが、己を省みて恥ずかしくも思う。
「次、間違いがないようにすれば良いのです。いくらでも次はあります。助けてくれる人もいます。ゆなも、藤堂さんとメイさんに助けられました」
迷った時に助けられることがどれほど有り難い事か、ゆなは知っている。霊媒体質の彼女は、今までずっと除霊屋に助けられてきた。差し伸べられる手が近くにある事がどれほど幸せなことか、渚もよく分かっているだろう。
渚は顔を上げて真剣な表情でゆなを真っ直ぐに見つめ、大きく頷いた。ゆなは微かに笑う。
後部座席でのやり取りを微笑ましく思いながら駐車場に車を停め、藤堂はドアを開けた。ガラスに日光が反射して、斜向かいにある店内の様子は覗えない。ゆなと渚は車を降りて、真っ直ぐに事務所へ向かう。
「メイさんと芹香さんは、もう帰っていらっしゃるかしら」
藤堂以外の誰かが先に帰社しても、合鍵の隠し場所を教えてあるから困る事はない。しかし従業員が増えた今、明は事務所を空けると怒るので、藤堂は出来る限り事務所を離れないようにしていた。ただ単に、外に出るのが億劫というのもあるが。
「芹香さんは仕事が早いので、帰っていると思われます。メイさんが帰っていたら、怖いのです」
他愛ない雑談をしながら事務所へ向かう二人の後をのんびり追って行くと、店内に人影が三つ見えた。芹香どころか明も帰っている上に、依頼人まで来ているようだ。明が怒っていそうだと、藤堂はうんざりする。
ゆなが首を傾げながら藤堂を見上げ、自動ドアの前に立つ。開いたドアの向こうに、眉をつり上げた明が見えた。
「藤堂さん何してたの!」
明の怒鳴り声に出迎えられ、三人一斉に肩を竦めた。明の隣に座った芹香は疲れた顔をしており、哀れむような目を三人に向ける。
カウンターの手前に腰を下ろしたずんぐりした体型の男は、椅子の背もたれから身を乗り出して振り返り、食い入るようにゆなを見つめている。髭を生やした熊のような男を見て、藤堂と渚が嫌な顔をした。
「高屋敷に呼び出されたんだよ……つうか何してんだタヌキ」
鹿倉清澄はゆなを凝視したまま、藤堂に向かって軽く片手を挙げた。よく日に焼けた腕ははちきれんばかりに太く、腹も少々目立つ。細い目は温和に垂れ下がっているが、ゆなを見詰める熱い視線は恐ろしかった。
ゆなは鹿倉の視線にも動じる事なく事務所の奥へ進み、カウンターの中へ入った。藤堂の椅子に座っていた明が立ち上がるが、ゆなが腰を下ろす様子はない。案外先の先まで読んでいるのかも知れないと考えながら、藤堂は定位置に着いた。
対面に座った藤堂を見て、鹿倉は顔をしかめる。
「何って、依頼に来たんだよ」
「え、依頼だったんですか?」
明の驚いた声に、またぞろ鹿倉が下らない事ばかり言っていたのだろうと、藤堂は呆れる。灰皿を引き寄せながらふとカウンターを見ると、コップが全てなくなっていた。明が片付けたのだろうか。
渚は注意深く鹿倉を見ながらカウンターの脇へ移動し、壁に背を着いた。セクハラじみた発言をされるのが嫌なのだろう。
「そうだよ、そうじゃなきゃこんな暑い中来ねえって……それよかオイ、匡」
煙草に火を点けながら、藤堂は鹿倉の剣呑な声に視線だけを上げて眉を顰める。鹿倉は恨めしげに彼を睨んでいた。恨まれるようなことをした覚えはない。
藤堂は横目で芹香を見る。彼女は視線を落としたまま、作り置きしてあった麦茶を飲んでいた。涼しげな横顔は、やはり少し疲れているようにも見える。依頼人に絡まれた挙げ句、帰ってきてみたら明にも纏わりつかれた、といったところだろうか。
「また一人増えてんじゃねえか。また女。しかもお前好み。しかも有名人」
鹿倉の低い声は、しかし悲しげにも聞こえた。酔ってでもいるのではないかと、藤堂は訝る。
「なんでお前ばっかりそうなんだよ!」
怒鳴り声を上げながらカウンターを拳で叩く鹿倉に、芹香が渋い表情で藤堂を見た。ずっとこんな愚痴を聞かされていたのかも知れない。それはそれで哀れだ。
「お前どうせ、十九歳以上はカミさんしか興味ねえだろ。どうでもいいからさっさと本題入れば」
ううむ、と鹿倉が唸った。今度は困ったような表情を浮かべている。どんなに言いにくい事でも軽く口から出す鹿倉には珍しいことだから、藤堂は嫌な顔をする。
彼が言いよどむ時は、碌な事がない。よっぽど嫌な事でない限り、彼は言葉に詰まったりしないのだ。
「それがなあ……」
鹿倉は芹香にちらりと視線を向け、坊主頭を掻いた。言いにくそうな様子だが、何故芹香を見るのだろうか。さて彼らの間に直接的な面識はあっただろうかと考えたところで、藤堂はふと気付く。
彼らは幽霊屋敷での一件が終わった後、一度顔を合わせていたのではなかっただろうか。
「お前、まさかアレ……」
鹿倉は黙り込んだまま頷く。厳しい表情を浮かべていた芹香が、更に顔をしかめた。
「あの屋敷ですか」
「ああ、まあ言いにくいんだが……とにかく最初から話すよ」
鹿倉は椅子に座り直して姿勢を正し、真剣な表情を浮かべた。藤堂の腕に抱きついていたゆなが、彼から離れて真っ直ぐに立つ。明は唇を引き結んで聞く姿勢を取り、渚は表情を険しいものへと変えた。それぞれに明白な緊張の色が窺える。
どことなく、空気が重い。藤堂は、知らず緊張している自分に気付く。心持ち居住まいを正しながら、灰皿の上で煙草を弾いた。
「あれからあの屋敷、結構報道されるようになっただろ。幽霊屋敷の実態を探れ! とか」
鹿倉の問い掛けには、芹香が頷いた。
「鳳を辞める前、私の方にも見てくれと依頼がありました。流石に断りましたが」
「やめとけって言ったんだけどなあ。それからテレビ効果で、観光客が増えてな」
藤堂はテレビをあまり見ないが、渚がその件に関してぼやいていたように思う。報道するのはいいが、折角静まっている霊を刺激するようなことは、しないで欲しいものだと。
「いいことじゃねえか」
「そうそう、うちの商店街も土産物出したりして売り上げが倍増……て、そうじゃねーよ」
鹿倉に突っ込まれ、藤堂は軽く肩を竦めた。手元で燻っていた煙草の火を消し、新しいものを取る。何か言えばすぐに乗ってしまう辺りが、鹿倉らしい。お陰で藤堂の緊張は解けた。
ああいった場所が報道されるのは、悪い事ではないようだ。地域住民のみならず、近隣地域に住む人々への警告にもなる。観光客等も馬鹿ではないから、そういった有名心霊スポットへ行く時は、きちんと陰陽師から札を買って行くようだ。単純に、地域の活性化にも繋がる。
ただ渚がぼやいていた通り、悪霊が大勢居る場所に連日人が押しかけると、霊達が騒ぎ始める。あの屋敷には元々悪霊ばかり集まっていたから、霊の力が強くなりすぎて、封印が緩んでしまう事もあるようだ。彼女は、それを懸念していた。
一つ咳払いして、鹿倉はカウンターに身を乗り出す。藤堂は近付いた熊のような顔を避けて身を引いたが、明は身構えた。こちらも渚と同じく、真剣な表情を浮かべている。
「あのな、どうも誰かが剥がしちまったらしいんだ。札を」
芹香が大きく目を見開いた。しかし彼女が何か言う前に、渚が両手でカウンターを叩く。その勢いと店中響き渡った音に、鹿倉が驚いて肩を震わせた。
「有り得ませんわ!」
細い眉をつり上げて金切り声を上げた渚を横目で見てから、芹香は頷いて同意を示す。藤堂には、芹香はともかく渚が憤る理由が分からなかった。
「鳳の陰陽師が使う札は全て、高屋敷家から譲り受けたものです。社内で作成したものを使う事もありますが、あの屋敷には高屋敷本家から頂いた特別強力な札を使った上、簡単には剥がれないよう守をかけてあります」
「鳳に委託する札を書くのは、お父様よ! あの護符が、たかが観光客に剥がせる筈がありませんわ!」
俯いたまま顔をしかめていたゆなが、首を捻った。藤堂も怪訝に眉根を寄せる。
「くさいですね」
渚の剣幕に気圧されていた鹿倉がゆなに向き直り、大きく頷いて見せた。
「そう、仮にもプロがやった事だろ。一介の観光客に剥がせるワケがねえと、町内会でも疑問の声が出たんだよ。でも実際、札は剥がされてる。霊障が出始めてんだ」
渚は唇を引き結んで、俯いた。実際のところ彼女が父親をどう思っているのか、藤堂は知らない。しかし先程の様子を見る限り、少なからず尊敬してはいるのだろう。それなら、動揺しても無理はない。
渚にしても芹香にしても、耳が痛い話ではあるだろう。彼女達のせいではないにしろ、お互いの元の所属先が行った事を、否定されたのだ。黙り込んだまま口を開かない明も、彼女らの心情を察しているのかも知れない。
「だからな、こう考えた。鳳の中の誰かが、剥がしたんじゃねえかと」
芹香が更に表情を硬くした。何も言わない所を見ると、否定出来ない根拠はあるのかも知れない。
彼女が会社を辞めた理由を、藤堂は知らない。聞いたが結局濁されてしまったので、聞けず仕舞いだった。
しかし藤堂は邪推する。芹香のこの反応が、辞めた理由に繋がっているのだとしたら。鳳内部で何かが起きていたからこそ、彼女が退社する道を選んだのだとしたら。
鳳は一体、何をしようとしているのだろうか。
「札を剥がせば幾らでも、また依頼が来る。自作自演で幾らだって稼げんだろ。……あんまりこういう邪推すんのは好きじゃねえんだが、そうとしか考えらんねんだよ」
鹿倉は、きつく拳を握っていた。被害を受けている身からすれば、耐え難い事だろう。子供の頃ならまだしも、大人になって丸くなった彼が、猜疑心を持ってしまうほどに。
「そんな事……そんなにお金が欲しいの? 馬鹿げてますわ」
「人間てなそういうモンだよ。幾らだって金が欲しいのさ」
それが真実であるのかどうかなど、今この場にいる誰にも分からない。会社から離れた芹香にも、判断は出来ないだろう。
しかし藤堂は、無性に腹が立った。安っぽい正義感から来る感情ではなく、友人が横暴による被害を受けている事に対して、言い得ぬ苛立ちを覚えた。
そんな自分を、客観的に見ている部分もある。苛立ちを覚える事で、自己満足に浸っているのではないかとさえ思う。少しでも変わることが出来たと、勝手に思い込んでいるだけではないのだろうか。
それでも困っている鹿倉の助けになってやりたいと思うのは、事実だった。
「そんで、うちに来たワケか」
鹿倉は躊躇いがちに頷いて、亀のように首を竦めた。断られると思ったのかも知れない。受けてやりたいのは山々だが、不安ではあった。
藤堂は隣の芹香に目を遣る。彼女は視線を受けて、しかめていた表情を真顔に変えた。
「鳳にいた頃は、上の者の都合が付かず手を出せなかった。だが、今ならこれだけ実力のある者がいる。なんとかなるだろう」
芹香はそこで言葉を止めて、明と渚を見た。二人は藤堂へ期待に満ちた眼差しを向けている。
結局、最終的な判断は藤堂に任されるのだ。判断を任せられた所で、どうせ藤堂は何もしないのだが。
「……お前ら、やれる?」
渚が大きく頷いた。明は満面の笑みを浮かべて見せ、同じく首を縦に振る。
「勿論!」
「ゆなも行きます」
藤堂は鹿倉に向き直り、唇の端を上げた。
「請ける」
心底安堵した表情を浮かべ、鹿倉はカウンターに両手をついて深々と頭を下げた。