第六章 交錯する記憶 三
「渚さん、落ち着いてください」
慌てた様子で電話してきた渚に急かされて店を出たのが、つい十分ほど前。藤堂が車を運転するので電話を代わったゆなは、ずっと渚を諫めていた。渚は藤堂が電話に出た時点で既に喚いていたのだが、まだ騒いでいるのだろうか。
渚の就職祝いに彼女の両親から貰ったこの車は、結局藤堂しか運転していない。明とゆなは勿論、芹香も高級車の運転は嫌だと言って、触ろうともしない。
渚は渚で、免許は持っているものの、自分で運転するのが面倒なのだそうだ。駅まで歩く方が面倒なようにも思えるが、今までずっと運転手に送り迎えされていたのなら、それも仕方ないのだろう。彼女なりに、体力をつけようとしているのかも知れないが。
国道を走りながら、藤堂はバックミラー越しにゆなを見た。元々への字に曲がった眉が、更に下がっている。流石のゆなも困り果てているようだが、憤る渚より、普段の彼女の発言の方が数倍迷惑なように思える。
「……今行きますので、待っていて下さい」
ゆなは少し語調を強めてそう言ってから、電話を切った。藤堂の携帯を持ったまま首を捻り、ふうむ、と唸る。
「どうしたの」
気のない声で問うと、ゆなは首を傾げたままバックミラーに映る藤堂の目を見た。ヘルメットが僅かに傾く。
「目が一つしかない霊が出たそうです」
藤堂は片眉を顰めて、訝しげに表情を歪めた。それだけであの渚が応援を要請するだろうかと思うが、彼女の事だから、気味が悪いから見たくないなどという、くだらない理由かも知れない。
「妖怪じゃなくて?」
「そんなものは存在しませぬ」
冗談のつもりだったのだが、ゆなの返答はシビアなものだった。
ゆなの真面目な顔を見るのは、久々な気がした。彼女は大抵無表情でいるから普段と大差はないのだが、纏う空気が緊張しているのでそれと分かる。
変容しているという事は、悪霊なのだろうか。しかし依頼人からは、具体的な被害報告もなかった。子供が怖いと泣くぐらいで悪霊と決め付けるのは良くないのだろうが、形が変わっているなら、話は別だ。
「渚さんは悪霊と仰っておりましたが、妙ですな。勘違いのような気がします」
何故そう思うのか、藤堂は聞かなかった。説明されたところで、どうせ理解出来ない。
バックミラーから視線を外して前を向き、国道から住宅街へと入って行く。カーナビによれば、もうすぐの筈なのだが。そう考えながら軽く辺りを見回すと、こちらへ向かって手を振る人影が見えた。その慌てた仕草から、渚だろうと判断する。
藤堂はそこまで車を走らせて、家の脇にぴったりと着けた。ゆなが車のドアを開けた瞬間、渚が怒鳴り声を上げる。
「何を遊んでらしたの!」
時間はそう経っていない筈だが、渚は限界まで眉をつり上げて憤慨していた。怒られる謂れはない。ゆなは車を降りながら、渚を見て小首を傾げる。
「普通に参りました。ホシはどんな状態ですか?」
「犯人じゃねえよ」
「どうもこうもありませんわ! 気味が悪い……あれでは子供が泣くのも当然だわ」
口振りから察するに、渚が事務所にいた二人をここへ呼んだ理由は、藤堂の予想通りなのだろう。女性らしいのはいい事なのだろうが、その度に呼ばれては堪ったものではない。
ゆなはどこか渋い表情を浮かべ、小振りな一軒家へ入って行く渚の後に続く。藤堂は車をロックしてから、敷地内に入った。
きっちり後ろへ撫でつけた白髪頭と、逞しい肉体を持った異様な風体の執事が、玄関扉を押さえたまま藤堂に向かって会釈する。厳つい容貌に似合わず丁寧な仕草だったが、彼の表情は困惑したようなものだった。渚を諌めるのも彼の仕事の内だが、霊である彼は口が利けないから、中々難しい事ではあるだろう。
玄関扉を背にして左側に廊下が続いているが、突き当たりで更に折れている為、問題の台所は見えない。お邪魔しますと声を掛けると、不安そうに眉を下げた男が廊下の奥から顔を出した。微かに子供の泣き声が聞こえる。
「こちらがご主人の桐沢泰昭さん。桐沢さん、あれが所長の藤堂です。それが黒江」
桐沢は渚に紹介されてようやく、藤堂とゆなに向かって頭を下げた。藤堂はつられて会釈したが、ゆなは廊下の端へ寄って、家主の向こう、廊下を曲がった先を注視している。
「康平から話は聞いてます。すいません、わざわざ所長さんにまでご足労頂いてしまって……」
「いや、構いません。俺じゃなくて、そいつがやるんで」
ゆなの背中を指差すと、桐沢は不思議そうな顔をした。当然だろう。高屋敷の娘の手に余るものが、こんな小娘の手に負えるなどと普通は思わない。
そもそも、渚が何を思って藤堂等に来いと言ったのか分からない。見たくないなら、執事に任せればいいだけの話だろう。藤堂とゆなが現場に駆けつけた所で、出来る事はないのだ。まさか執事まで、霊の異形に気圧されたとでもいうのだろうか。流石にそれはなさそうだが。
桐沢は中へどうぞと三人を促したが、渚は廊下から動こうとしなかった。執事が困ったような表情のまま、渚の傍らに立つ。
「高屋敷、どうしたのお前。そんなひどいの?」
振り向いた渚は、見るからに怯えた表情を浮かべていた。執事はそっと、彼女の肩に手を置く。彼を見上げた渚は少し落ち着いたようで、小さく息を吐いた。
「じいやが、出来ないと言うの。私もあれを直視するのは……ちょ、ちょっとゆなさん、先にご挨拶なさい!」
躊躇いがちに言いながら部屋を見た渚は、慌てて室内へ入って行った。藤堂は困り果てて、眼鏡を掛けながら廊下を進む。執事が申し訳なさそうな顔をしていた。
廊下を曲がると、子供の泣き声がはっきりと聞こえて来る。突き当たりのリビングでは、若い女性が赤ん坊をあやしていた。リビングの手前ではゆなが立ち尽くしており、無表情のまま、あらぬ方向を見つめている。視線の先は、恐らく台所なのだろう。
渚はリビングで子供をあやす母親に、何やら話しかけていた。泰昭はその傍らで、所在なげに佇んでいる。
「あれが藤堂です。藤堂、こちら奥様の結衣さん」
廊下から出て来た藤堂を示し、渚が簡潔に紹介した。結衣は火がついたように泣き喚く赤ん坊を抱いたまま、頭を下げる。
「ごめんなさい、うるさくって。お仕事に障ってしまうかしら」
「ああ、耳に入ってないみたいなんで多分問題ないかと……ゆな、どうなのそっち」
聞きながら台所を見た藤堂の目に、渚が言った通りの霊の姿が飛び込んできた。藤堂は思わず顔をしかめる。
それはバスタオルにくるまれた赤ん坊のようだったが、確かに目が一つしかない。鼻もあるべき位置には存在せず、額に親指大の管のようなものが生えていた。耳と口だけは本来の位置に収まっているものの、見れば見るほど気味が悪い。
確かにこれでは、渚が怯えるのも分かる。何の反応も示さないゆながおかしいのだと思うが、しかし霊の姿には違和感を覚えた。赤ん坊なら、例え捨て子や生まれる前に死んだ子供であろうと、必ず誰かが哀れみ、成仏を祈る筈だ。
現世に溢れる邪気によって、本来ならば何の害もない浮遊霊が悪霊化するのは、霊が体内にそれらの感情を溜め込む為だ。だから彼らは人を憎み、世を憂い、現世に害を及ぼす。しかし未発達な赤ん坊は変質する以前に、感情を溜め込むことさえ出来ない。
ゆなは今し方気付いたかのように藤堂を見上げ、左右に首を振った。
「あの子は霊ではありませぬ」
藤堂は首を捻って渚を見た。ゆなの発言に虚を突かれて目を丸くしていた渚は、藤堂の視線を受けて我に返る。眉をつり上げてつかつかとゆなに歩み寄り、宙に浮かんだ赤ん坊を指差した。
「あれのどこをどう見たら霊ではないと言うの! 気配だってありますわ!」
退治屋として、高屋敷家の跡取りとしての、自尊心を傷つけられたのだろう。渚は激昂してゆなに詰め寄ったが、ゆなは小さな唇を尖らせるばかりだった。
「ちゃんと見てあげて欲しいのです。あれは悪霊でなければ、浮遊霊でもありませぬ」
「でも、形が……」
尚も食い下がる渚に、ゆなは僅かに眉を顰めた。そして徐にヘルメットを外し、両手で抱える。
唐突なゆなの行動に、渚が息を呑んだ。藤堂も思わず目を見張る。霊避けのヘルメットがなければ、悪霊は彼女に取り憑き放題だ。憑いて下さいと言わんばかりに、ゆなは異形の嬰児を見上げる。渚が慌ててゆなの肩を掴んだが、彼女は首を横に振った。
ゆなの身には、何事もなかった。悪霊ならば総じて肉体を欲して取り憑こうとする筈なのだが、赤ん坊の霊は動かない。藤堂はゆなと霊を交互に見た後、片眉を寄せる。
「あれは記憶です。この家に縛られた霊、地縛霊の記憶が現れたもの。この記憶に捕らわれているのでかなり薄いですが、そこにいらっしゃいます」
ゆなは台所の入り口から少し避け、床を指差した。薄すぎて藤堂にはよく見えなかったが、渚は凍り付いたようにゆなの指差した先を見つめている。赤ん坊の霊に気を取られて、気付かなかったのだろう。
ゆなはゆっくりと、台所へ入って行く。一番奥まで進んだところで立ち止まり、彼女はその場に屈んだ。
しゃがみこんだゆなの正面に、殆ど消えかかった女が、うずくまって膝を抱えているのが見える。痩せこけて疲れた顔をした女は、驚いたようにゆなを見つめていた。彼女の目には当然の事ながら生気がなく、抱えた足は痛々しいほど細い。
「ゆなの声が聞こえますか」
女は目を丸くしたまま、黙って頷いた。たまたま霊力の強い土地や家で死んで、そこに縛られた霊を地縛霊と呼ぶが、大抵は周囲に漂う邪気に晒されて悪霊になってしまう。
強い想いを抱いて死んだ人間は、それがどんな念であれ、現世に囚われる。俗に言う、浮かばれないという現象だ。それが現世や他人に対しての悪意であれば四十九日を過ぎた時点で悪霊となり、害を為すようになる。一方悲哀や悔恨、遺された者への愛情であれば、すぐには悪霊にならず、地縛霊や浮遊霊となる。しかし現世の邪気に晒され続ければ、彼らも結局悪霊化する。
この女がどれほど長くここにいたのか藤堂には見当もつかないが、完全に人間の形を保っている上、まともに意識があるということは、悪霊ではないのだろう。桐沢夫婦は中古でこの家を買ったというから、彼らが越してくるまで、人の出入りがほとんどなかったのかも知れない。
「あなたは何を悔いておられるのです」
ゆなの問い掛けに、女は不意に顔を上げ、宙に浮いた一つ目の赤ん坊を見て泣き出しそうに表情を歪めた。現世に囚われていたのは、確かにあれが原因なのだろう。痛々しい彼女の姿に、渚の手が拳を握る。
魂だけの存在となった霊は、現世や他人に与える影響が大きい。強く想ったものや生前の記憶が、ああして具現化することはままあるようだ。それも結局は霊の仕業である為、霊感のある者にしか見えないのだが。
「あの子は既に成仏しております。あれはあなたの記憶なのです。もっとしっかりご覧なさい」
戸惑う女に、ゆなは人差し指を天井へ向けてみせた。
「あなたはもう、ご存知のはずなのです。あちらへの道を」
女はゆなが指差した先を見て大きく何度も瞬きした後、不意にゆなへ向き直り、枯れ枝のような両腕を伸ばしてゆなを抱きしめる。縋りつくような仕草に、彼女は不思議そうに首を傾げた。しかし次の瞬間、ゆなは凍りついたように動かなくなる。
藤堂の位置からは、女の口が僅かに動くところしか見えなかった。何も聞こえてはこない。浮遊霊や地縛霊の殆どが直接的には語れないというが、ゆなには何か聞こえていたのだろうか。
「あら」
青い顔をして赤ん坊を見つめていた渚が、唐突に声を上げた。ゆなと霊を見ていた藤堂は、顔を上げて視線を移す。確かにそこに浮かんでいた筈の嬰児は、既にいなくなっていた。女があれを記憶だと認識したことで、消えたのだろう。
女は暫くゆなに語りかけた後、微かに笑みを浮かべ、忽然と消え失せた。きっとあれで、成仏したのだろう。
ゆなは天井を見上げて両手を合わせてから、しゃがんだまま頭を下げる。祈るような仕草だった。渚はそんな彼女を見つめたまま、何も言わない。
子供は真っ直ぐに道を示してやれるのだと、芹香は言っていた。まさしくその通りなのだろう。ゆなは真っ直ぐに、迷う人に道を示して見せた。霊媒師として危ない道を歩むよりも、ああして語り掛けて浮遊霊を成仏させてやる方が、どんなに安全だろう。しかしそれでは、ゆなは納得しないのかも知れない。
暫く手を合わせていたゆなは徐にすっくと立ち上がり、リビングへ入って行く。藤堂は、あの記憶はなんだったのだろうと、ぼんやりと考えていた。
「終わりました」
渚が慌ててゆなの後を追い、怪訝な面持ちの桐沢夫婦に頭を下げた。こちらの子供はいつの間にか泣き止んでおり、母親の腕の中で小さな寝息を立てている。
「この家には地縛霊がおりましたの。この子がきちんと導いて差し上げましたから、もう大丈夫」
渚が説明すると、夫妻は顔を見合わせた後、我が子を見た。霊が見えないと言うから、俄かには信じ難いだろう。藤堂とて眼鏡がなければ何も見えないから、やっぱり信じられなかったかも知れない。
しかし夫妻は、乳児の安らかな寝顔を見て、納得したのだろう。二人揃って、安堵の息を吐く。それから桐沢がゆなと渚に頭を下げ、結衣もそれに倣った。
「ありがとうございます。買って早々、家を手放してしまうところでした」
「除霊さえすれば、どんな幽霊だらけのおうちでも、ちゃんと住めるのです」
ゆなは胸を張って、夫妻にそう言った。桐沢は微笑ましげに彼女を見ている。
「お子さんは、地縛霊の悲しみに反応していたのかも知れませんわね」
結衣がはっとして、口元に手を当てた。
「ああ、台所に入るとなんとなく悲しくなるのは、そのせいだったのかしら」
「そうでしょうね。でももう、悲しくなることはありませんわ」
そして渚は、ゆっくりと笑顔を浮かべる。安心させようとするかのような、優しい表情だった。
「この家には、幸せな人しかいないのだから」
渚の言葉に、夫妻は顔を見合わせて小さく頷いた。
ゆなが結衣の腕の中で眠る赤ん坊の、ふっくらとした頬をつつく。ふにゃふにゃと頼りなく口を動かした我が子を見て、桐沢夫妻は幸せそうに笑った。