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透明なひと  作者:
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第六章 交錯する記憶 一

 その日は、茹だるように暑かった。時刻は午後十二時半。気の弱そうな線の細い青年が、薄汚れたビルの一階にある質屋を外から覗き込んでいる。何度も店内の様子を覗っては店の前を行ったり来たりする彼の手には、百貨店のロゴが入った紙袋が提げられていた。

「あのう……」

 背後からの声に驚き、青年は情けない叫び声を上げて振り返った。彼の肩を叩いた少女は、困ったように眉根を寄せている。

 この暑い時期にも関わらず長袖のセーラー服を着込んだ少女は、青年の目には日本人形のように見えた。大きな垂れ目は夏の日差しを受けて輝き、幼いラインを残した頬が、ばら色に染まっている。肩口で切り揃えられた黒髪が、湿気を帯びた風に靡いて揺れた。

「ご依頼ですか?」

「へ?」

 気の抜けた声を出した青年を、少女は訝しげにまじまじと見た。青年は困ったように首の後ろを掻く。なんと答えるべきか、迷っているようだった。

 二人の間に気まずい空気が流れ始めた時、店の自動ドアが開いて金髪の女が顔を出した。外の熱気に当たった為か、細い眉が鬱陶しそうに歪められる。彼女は少女と青年を交互に見て、呆れたような溜息を吐いた。

 くっきりとした二重瞼と、上を向いた濃い睫毛。そしてつり上がった目と細い眉が、彼女の目元を強く印象付ける。背中まで伸ばされた金髪はきつめに巻かれており、風に吹かれても乱れることなく優美な曲線を描いていた。フレアスカートの裾から覗く足は、すらりと細く美しい。

「何してらっしゃるの。お客様なら、早く入れて差し上げればいいじゃない。暑いのだから」

「あ、うん」

 青年を見上げた少女は、どうぞ、と言って彼を店内へ促した。青年は軽く頭を下げ、店の中へ入る。店内にはクーラーが効いてはいたが、設定温度が高いのか、あまり冷えていなかった。

 カウンターは、もぬけの殻だった。青年は困り顔で金髪の女を見て、あの、と問い掛ける。

「今日は、藤堂さんは……」

「あら、藤堂に御用なんですの? 珍しい」

 大きく目を瞬かせて、女は驚いた顔をした。そしてカウンター裏の扉を開け、声を掛ける。ややあって、気の抜けた返答が聞こえた。

 返答を聞くと、フランス人形のような女は開けた扉を押さえたまま青年を振り返って、すまなそうに眉尻を下げた。

「ごめんなさいね。丁度お昼休みでしたの」

「そうなんですか! すいません」

 青年が頭を下げて謝ると同時に、女が開けた扉から、カップを片手に持った人物がのっそりと出て来た。おかっぱの少女が、彼におはようと告げる。

「ああ……三代君か。あんた先週、振り込んでくれてたろ」

 出て来て早々怪訝そうに顔をしかめたのは、三十前後と思しき長身の男だった。目と眉の間が近い精悍な顔付きだが、常に眠たげに瞼が落ちている為、どこか間が抜けて見える。しかし普段ならまばらに生えている筈の無精髭は綺麗に剃られ、伸びかけのまま放置されていた髪も、満足にとは言い難いが以前よりは整えられていた。

 三代康平みしろこうへいは一旦顔を上げて、再び店主に向かって頭を下げた。質屋兼除霊屋の店主、藤堂匡は未だ訝しげに眉を顰めている。

「お礼にと思って。藤堂さんには、あの後何もお礼出来ませんでしたから……これ、お中元です」

 言いながら紙袋をカウンターに置いた三代を、藤堂はまじまじと見る。彼は中元など贈られた例がない。

「別にいいのに。律儀だねアンタ」

 藤堂は手に持ったカップをカウンターに置きながら椅子を引き、腰を下ろした。立てて置かれた紙袋を寝かせながら、若いのに結構な事だと感心する。

「藤堂さん、何かしたの?」

 艶やかな黒髪を揺らしてカウンターに近付き、知恩院明は不思議そうに首を傾げた。彼女は入り口側の椅子を引き、三代に勧める。藤堂は煙草に火を点けながら、明の問いに首を横に振った。

「俺じゃなくて、堤とコウ」

「ああ、コウ君が浄霊したって時の」

「浄霊? その子が?」

 高屋敷渚は驚いて目を丸くし、藤堂の背後を指差した。明が頷くと、彼女は困惑した面持ちで首を捻った。浄霊修行中の渚からしてみれば、複雑な心境だろう。

 明が引いた椅子に腰を下ろした三代は、ハンカチを取り出して額に浮かんだ汗を拭っていた。外は相当暑かっただろう。藤堂はもう少し冷房を強くしたかったが、寒いと渚が怒るので、これ以上設定温度を下げられない。

「堤呼ぶ?」

 藤堂が聞くと、三代は慌てて首を振った。

「いえ、いいんです。お昼休みなら、かえって申し訳ないですから」

「そう?」

 聞きはしたが、藤堂に再び立ち上がる気はなかった。浅く椅子に腰掛けたまま、のんびりと煙草を吹かしている。

「それでその、また依頼をしたいんですが……」

 携帯電話を取り出しながら、三代は申し訳なさそうに首を竦めた。片眉を上げ、藤堂は怪訝な表情を浮かべる。紙に書いてもらおうかとも思ったが、今更なのでやめた。

「今日は俺じゃなくて、従兄夫婦の依頼なんです」

 言いながら、三代は何やら携帯を操作していた。自分の事ではないなら、逐一覚えてもいないだろう。

「従兄は最近、中古で家を買ったんです。でも台所に子供を連れて行くと、怖がって泣くって言うんですよ。不動産屋に聞いたそうなんですけど、最近買い上げたばかりでよく分からないって話で」

「両親は、何か見えないの?」

「従兄も奥さんも、霊感がないんです。俺も忙しくて、見に行ってやれなくて」

 ふうん、と呟いて、藤堂は顎を掻いた。流石にこの証言だけでは判断出来ないのか、明も首を捻っている。

 夫婦揃って霊感がないというのも、珍しい話だ。少なくとも藤堂は、自分以外に霊感を持たない人間を見た事がない。もっとも、逆上がりが出来ないのと同じように恥ずかしい事だから、隠しているだけかも知れないが。

「一度見に行かないと分かりませんね。お宅はどちらです?」

 明が聞くと、三代は携帯の画面を彼女に見せた。開かれたメモ帳には住所が書かれていたが、背中を丸めて覗き込んだ明には、場所が分からなかったようだ。反対側に首を捻って、上目遣いに三代を見上げる。

「ここから電車で、三十分ぐらいでしょうか……うちと同じように、駅から遠いんですけど」

 明の視線を受けて、三代は軽く説明した。藤堂は彼が前回来た時も思ったが、律儀な青年だ。

「お日にちは?」

 どことなく不安そうだった三代の表情が、安堵したようなものへ変わった。彼は携帯を手元へ戻し、パネルを操作する。

「連絡させます。今日は請けて貰えるかだけ、聞きに来たので」

 その場で手早くメールを打ってから、三代は立ち上がった。時期的にはそろそろ夏休みに入っている頃だが、大学生は忙しいのだろう。それにしてもわざわざ出向いて来るとは、几帳面な青年だ。

 カウンターから一歩離れて、よろしくお願いしますと言いながら頭を下げ、三代は店を出て行った。

 三代の姿がガラス越しにも見えなくなってから、明は空いた椅子に腰を下ろして藤堂の顔を覗き込んだ。藤堂は煙草をもみ消しながら、身を引いて近付いた顔と距離を取る。何故年頃の娘がこうも躊躇いなく顔を近付けて来るのかと、藤堂は些か呆れた。

「藤堂さん、さっぱりしたね」

「暑かったから」

「若く見えるよ」

 そう、と呟いて、藤堂は前髪の毛先を摘んだ。床屋で切ったので些か重いが、確かに伸ばしっぱなしよりはマシだろう。暑苦しいのでいっそ坊主にでもしてしまいたかったのだが、頭の形が悪いのでやめた。

 渚は複雑な面持ちで、藤堂の頭を見下ろしていた。彼女は来るなり藤堂の顔を見て、若作りだと悪態を吐いた。恐らく髭がないせいだろうが、こちらは本意ではない。寝ていたら、床屋が勝手に剃っただけだ。藤堂の髭はなかなか伸びない。

「芹香さんとゆなちゃんは?」

 体を戻して頭を傾けながら、明は藤堂の背後の扉を覗いた。言われてふと時計を確認すると、時刻は一時を回っている。

「ゆなが期末テスト近いんだと」

「あれ、もうそんな時期なんだ」

 藤堂は頷いて、明の驚いた声に同意する。実際藤堂も、もう夏なのかとうんざりした。藤堂は店番ばかりしているので、日中はあまり外に出ないから、気候の変化もそう感じない。近頃、一年が過ぎるのが異常に早く感じる。

「でもあの子、あれ以上勉強する必要なんてありませんわ」

 ガラスのキャビネットに凭れた渚は、指先で毛先を玩びながら溜息混じりに言った。へえ、と明が意外そうな声を上げる。

「ゆなちゃん頭いいんだ」

「頭いいも何も、あいつ東大の入試問題解いてたぞ」

 明が顔を引きつらせた。当然の反応だろう。

 勉強を見てくれと言われた時は、藤堂もやる気だった。藤堂は賢い方ではなかったが、中学生のテスト問題ぐらいなら解るだろうと、高を括っていた。

 しかしゆなが取り出した問題集を見た途端、大人三人は一様に凍りついた。絶句した挙げ句、不思議そうな顔をするゆなを置いて渚は店へ出て、藤堂は食器を洗い始めたのだ。哀れなのは残りの一人だったが、未だに出てこないところを見る限り、適当にあしらってはいるのだろう。

 背後のドアが開く音に振り返ると、黒江ゆなが顔を出していた。年齢の割に小柄で、やけに青白い顔をしている。小さな顔から零れ落ちんばかりに大きな目は、何かを訴えるように藤堂を見ていたが、への字に下がった眉は普段通りの無表情を保っている。くすんだ水色に染められた長い髪は、シフォン地の白いシュシュで一つに纏められていた。顔には出さないが、彼女も暑いのだろう。

 小さな唇を尖らせたゆなの表情は、藤堂の目には不満そうに見えた。何を言い出すものかと、藤堂は思わず顔をしかめる。

「藤堂さん、何故にゆなの勉強を見てくれないのです」

「堤が見てんだろ」

「芹香さんはエスケープ致しました」

 は、と呟くと、ゆなの後ろから疲れた顔が覗いた。白い細面と同じく色素の薄い切れ長の目が、僅かに細められている。無造作にコンコルドで上げられた銀色の髪は、蛍光灯の光を受けて無機質に輝く。常ならば凛々しくつり上がっている筈の眉は、情けなく下がっていた。

「おはようございます」

「メイ、もう午後だ」

 堤芹香は明の挨拶に力なく突っ込みながらドアの縁に片手を掛け、溜息を吐いた。ゆなが長身の彼女の顔を見上げ、店の方へ下りる。続いて出てきた芹香は藤堂の横の椅子を引き、倒れ込むように腰を下ろした。

 渚に暑苦しいと怒られたという彼女は、珍しく半袖のワイシャツを着ている。事務所が暑いのは、冷房の温度を下げさせてくれない渚のせいだというのに。

「ああ、目が痛い……」

「お疲れさん」

 掌を瞼の上に置いて天井を仰いだ芹香を労うと、彼女は掌を僅かに持ち上げて、視線だけを藤堂に向けた。どことなく恨めしげなその目に、藤堂は軽く肩を竦める。

 あのテキストに書かれた文字の羅列を見れば、芹香でなくとも疲れるだろう。藤堂など、一目見ただけで目眩がしたほどだ。

「あなたでも駄目だったんですの?」

「私より、お前の方が頭の出来はいいだろう。私は大学には行ってないんだぞ、こっちが教えられてしまった」

 黒のスラックスに包まれた長い足が、カウンターの下に投げ出されている。珍しく疲れきった様子の芹香は、長い睫毛を伏せたまま再び溜息を漏らした。何を問われているのかさえ分からない問題集よりも、薄着で更に目立つようになった起伏の激しい体のラインを見る方が、藤堂の目には毒だった。

 煙草に火を点けて、藤堂はカウンターの下からノートパソコンを取り出す。本来なら毎日行うべきなのだが、いつも忘れてしまうので、こうして思い出した時にだけ帳簿をつける。

 とりあえず当面の家賃は払えそうだが、車の維持費がかなりの痛手となっている。元々渚の持ち物だから、彼女が半分負担してくれてはいるものの、電気代は藤堂持ちなので辛いものがある。収入が増えた分、支出も倍に増えてしまったような気がする。しかし全員の取り分を、少しずつ減らすというわけにも行かない。

「ゆなちゃん、どうしてそんな問題やってるの?」

 藤堂の横に張り付いたゆなは、明の問いに首を傾げて見せた。不思議そうな面持ちだが、不思議なのはこちらだと、藤堂は呆れる。

「予習です」

 ゆな以外の全員が脱力した。つまり、テスト勉強とは何の関係もないのだろう。有名な私立中学へ行っているようだから、勉強は出来るのだろうと思ってはいたが、よもやここまでとは考えてもみなかった。

 頭がいいのと勉強が出来るのとは違うとよく言うが、全くその通りなのだと、藤堂は実感する。渚が頭痛を堪えるように額に指先を添え、力なく首を横に振った。

「先を行き過ぎですわ」

「先取りすぎて悪い事はありませぬ。さあ藤堂さん」

「意味わかんねえよ、さあって何? つうか暑いからどけ」

 ゆなは頭が良すぎて突き抜けてしまっているのだと、藤堂はそう解釈した。それもまた、傍迷惑な話ではあるが。

 藤堂はパソコンの液晶画面に映し出された出納帳を見ながら、溜息を吐く。収入と支出が、殆ど同じ額だった。先月分も、ギリギリの黒字だ。見ているのも嫌になって、帳簿はいじらないままパソコンを閉じる。

 それにしても客が来ない。業務連絡用に使っている明の携帯には依頼が入ってくるが、わざわざ来店する客は、梅雨が明けてからめっきり少なくなった。メールでも依頼を受け付けているのに、この暑さの中、店にまで来る稀有な依頼人もそうそういないだろう。

 藤堂は、そろそろ限界だった。これが家の中なら上半身裸になるところだが、この女だらけの中でそれは流石に憚られる。

「……高屋敷、冷房強くして」

「ダメです」

「上着貸してやっから」

 渚は一瞬黙り込んだ。明の横でカウンターに寄りかかった彼女は、藤堂と目が合うと顔を赤くして視線を逸らす。

「け、結構です」

「仕舞いにゃ脱ぐぞ」

「おやめなさいっ」

 明が溜息を吐いて立ち上がった。ゆなは期待に満ちた目で藤堂を見つめていたが、彼は無視する。将来は祐子のようになってしまうかも知れないと、藤堂はどうでもいい心配をしていた。

 壁に取り付けられたパネルのカバーを開け、明は冷房の設定温度を下げた。涼しい風が一気に天井から吹き込み、藤堂はようやく安堵の息を吐いた。

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