表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明なひと  作者:
44/75

第五章 救う人々 十

 亮輔が成仏した後、四人は竜司にしつこく迫られていた明を回収して、逃げるようにその場を後にした。明と芹香が服を焼かれたせいで妙な格好になっていたので、帰りの電車では、いつも以上に好奇の目で見られた。一昨日の大学生ではないが、車が必要だと、藤堂は心の底から切実にそう思う。

 翌日、疲れ果てて寝込んだ渚以外は、再び高屋敷家を訪問していた。事の次第を報告する為と、借りた銃を返す為だ。出来れば二度とは高屋敷家を訪れたくなかった藤堂も、所長なのだからという理由で、明に無理矢理引っ張って来られてしまった。

 昨日より遥かに大層な出迎えを受けて狼狽していた四人は、応接間で待ち構えていた高屋敷に、深々と頭を下げられて更に戸惑った。

「本当に、済まなかった」

 高屋敷はガラステーブルに額を擦りつけんばかりに平身低頭して、何度も謝罪の言葉を述べた。困ったように眉根を寄せた芹香が止めたが、高屋敷はそれでも気が収まらないらしく、更に三回ほど重ねて頭を下げてから、ようやく顔を上げる。

「妻にも散々怒られたよ。どうも私は、過敏になりすぎていたようだ」

「あの……どういう」

 おずおずと問い掛けた明に、高屋敷は困ったように顎を撫でた。そして傍らに立っていた金髪のメイドと顔を見合わせ、苦笑する。

「お恥ずかしながら、私は渚が荒れていた頃の事をね、まだ引きずっているんだ」

 ああ、と納得したように呟いた後、明は慌てて口を塞いだ。その仕草を見て、高屋敷は更に苦い顔をする。

「あの子がどんなに悲しんでいたか、知っていたつもりだった。だが駄目だね、男親は。何も分かっていない」

 高屋敷はそう言って、力なく首を横に振った。寂しそうにさえ見えるその表情に、藤堂は親心を想う。

 子供は知らない内に大きくなるものだと黒江夫妻は言っていたし、藤堂自身、家を出る際に両親からそう言われた。当時はその言葉を軽く取っていたが、今では時折、その意味を考える。そういった類の台詞を吐く時に親が浮かべる、寂しさと嬉しさの入り混じった、複雑な表情の意味も。

 考えなくとも、今なら分かる。子供を持った訳ではないし、同じような気持ちになる訳でもないが、藤堂自身大人になったという事なのだろう。今でも従業員である女性陣から学ぶ事の方が多いのだから、子供のまま大人になってしまったようにも思える。

 子供の頃の嫌な記憶を封じ込めて、思い出そうともしないまま、大人になってしまった。その実、それに人格形成の一端を担われてさえいた。愚かというべきか、臆病というべきか。藤堂は心中自嘲する。

 彼を怨むつもりは毛頭無い。藤堂は元々そう活発な子供でもなかったし、好きな人を取られたという彼の気持ちも、分からなくはなかった。しかし、つい昨日まで共に笑っていた友人達に後ろ指を差されて、追われるように学校を去った記憶も、消そうと思って消えるものではない。

 あれから藤堂は暫く人間不信になり、結果、何にも反抗せず誰にも興味を示さない、つまらない人間になってしまった。それはしかし、彼のせいではない。怨むべきは竜司の横暴を許した学校、ひいては世間であると、彼はそう考えている。

「渚がもし、自ら竜司君のところへ行ったのだとしたら、と思うとね……何も出来なかった」

「私は違うと申しましたのに」

 マネキン人形のようなメイドが、端正な顔に困ったような笑みを浮かべて言った。この女は一体なんなのだろうと、藤堂は訝る。丁寧な物腰ではあるが、主に対する使用人の態度とは、少し違う。

 メイドは怪訝な面持ちの四人に向き直ると、優美な仕草で頭を下げた。藤堂は思わず芹香を見るが、彼女は首を横に振る。顔を上げた女は、ただの使用人では持ち得ないような空気を纏っていた。

「私からも、お礼を言わせて下さい」

「ええと……あなたは」

 明はためらいがちに聞いた。女は彫りの深い西洋人めいた顔に華やかな笑みを浮かべ、掌を自分の方へ向ける。

高屋敷有沙たかやしきありさと申します」

「……お、奥様ですか!」

 一瞬の間の後、芹香が慌てて立ち上がりかけたのを、有沙はそっと片手で制した。芹香はソファへ座り直しながら、整った眉を困ったように歪めて、彼女を見上げる。

「お気になさらないで。私は高屋敷に輿入れしましたが、元はただの使用人ですから」

 言いながら有沙は、夫と顔を見合わせて上品に笑った。つまり高屋敷が、メイドと結婚したという事なのだろう。藤堂には、渚の料理上手の理由がようやく分かったような気がした。

「だから渚にも、家の決まりなど気にして欲しくなかったんだが……私の勘違いだったようだね」

 そこで高屋敷は、再び頭を下げた。慌てて制した芹香以外は、未だ呆気に取られている。

「顔を上げてください。私共が勝手にした事ですから」

 僅かに視線を上げた高屋敷は、困り顔の芹香を見ると、眉根を寄せて表情を曇らせた。

「しかしこうなったのも、私が何もしなかったせいだろう。君達には、お礼をしなければと思っているんだが」

「ゆなは言いました。お友達が危ないなら、助けに行くのが当然だと」

 高屋敷夫妻を不思議そうに見ていたゆなが、唐突に抑揚のない声で告げる。高屋敷は少し驚いたような顔をして、大きく瞬きをした。

「だからゆな達は、当然のことをしたのです。お礼をされたら、それは当然のことではなくなってしまうのです」

 真っ直ぐに視線を合わせたままきっぱりと言い切ったゆなを、高屋敷は目を丸くして、まじまじと見つめていた。明と芹香は、ゆなへ好ましげな視線を送っている。

 ゆなは純粋だと、藤堂は心からそう思う。あの母親に育てられただけの事はあるがしかし、普段の行動とはどう考えても結び付かない。性根は真っ直ぐなのだろうが、真っ直ぐすぎて突き抜けてしまったのかも知れない。

 穏やかな笑顔でゆなを見つめていた有沙は、ゆっくりと藤堂に向き直った。二十歳の娘がいる割に、そう歳が行っているようにも見えない。華やかなその美貌に、藤堂は一瞬目を奪われる。

「遅くなってしまいましたが、娘の就職祝いに贈り物をしたいと、用意しておいたものが御座いますの。皆様、少々ご足労頂けますか」

 遠回しに、こちらへ礼をしたいと言っているのだろう。藤堂はゆなと顔を見合わせてから、頷いて立ち上がる。ここで断るのは、礼儀に反するような気がした。

 高屋敷夫妻に先導されて外へ出ると、玄関扉のすぐ前に、黒塗りの高級車が停まっていた。もしやと思って高屋敷を見ると、彼はにこやかな表情で頷く。藤堂は唖然として何も言えなくなった。

 車には傷はおろか塵一つ付いておらず、見事に黒光りしている。どう見ても新車だろう。しかし問題は、そんな事ではない。新車だろうが中古だろうが、そんな事はどうでもいいのだ。

「あの……これまさか」

「お受け取り下さい。ああ、娘の代わりにね」

 問い掛けた明を含め、全員が絶句した。

 まさかこんなものを贈られるとは、思ってもみなかった。車が必要だと藤堂は確かに考えていたが、こんな大層な車を礼に貰う羽目になるなどと、誰が予想していただろう。こんなものを運転する勇気は、少なくとも藤堂にはなかった。

 藤堂はちらりと、芹香を横目で見る。彼女は藤堂の視線に気付くと、慌てて首を横に振った。大型バイクに乗っていたから免許は持っているのだろうが、流石の彼女も、これを運転するのは怖いだろう。

 有沙はロングスカートのポケットから小さなリモコンを取り出し、藤堂の手に握らせた。突っ返す事も出来ず、藤堂はそれを押しいただく。

「なんと言ったらいいやら……」

「渚の代わりに、お持ち帰り頂けますか」

 娘への就職祝いだと言うから、有沙の言葉に対して礼を言うのも妙な気がした。困り果てる藤堂を見かねて、ゆながヘルメットを両手で押さえながら頭を下げる。

「渚さんには、ちゃんと伝えておきます」

「そうしてくれると助かるよ。……本当に、ありがとう」

 高屋敷夫妻は再度腰を折り、並んで頭を下げた後、家の中へ戻って行った。後に残された四人はそれぞれ顔を見合わせ、顔を引きつらせる。

「……どうするのこれ」

「運転して帰るしかありませぬ」

「私は軽かバイクしか運転した事がないぞ」

 女性陣の視線が、一斉に藤堂に向いた。藤堂は言葉に詰まって、後退りする。

 こんな車を運転するのは嫌だ。恐ろしくてエンブレムは確認出来ないが、車自体が貧乏人を寄せ付けない威圧感を放っている。更にこれは新車だ。実家にある、薄汚いワゴン車とは違う。しかしこのまま置いて行く訳にも行かない。

 手の中のリモコンを見下ろし、藤堂は溜息を吐きながら車のドアを開けた。新車特有の匂いが、更に彼を緊張させる。肩越しに背後を見ると、全員視線を逸らしていた。

「……もういーよ、俺が運転すりゃいいんだろ。乗れ」

 肩を落としたまま運転席に乗り込む藤堂を見て、三人は揃って小さく笑った。


「ねえ、渚さんのとこ、お見舞いに行こうよ」

 吹っ切れて煙草を吹かしながら片手で運転する藤堂の顔を、明は後部座席から覗き込む。どこか楽しそうな声だった。ああ、と曖昧に返答し、藤堂はカーナビのパネルを操作する。カーナビの主流は音声認識型なのだが、彼にとっては手を動かすより喋る方が面倒なので、タッチパネル式に切り替えたのだ。

 車を運転するのも何ヶ月ぶりだろうと、藤堂は考える。最後に運転したのは、去年の夏に鹿倉一家と海へ行った時だったように思う。あちらの車は借り物だったが、どうせ鹿倉の持ち物だからと、今のように緊張したりはしなかった。

「前の駐車場、空いてっかな」

「あそこいつもガラガラじゃない。駐車代高かったっけ」

「覚えてない」

 店の斜向かいに駐車場がある事だけが、救いかも知れない。藤堂は車の維持費や家賃の事を考え、憂鬱な気分になる。保険の手続きも面倒だし、余計な金ばかりかかる。かといって、知らぬ振りをして渚に車の管理を任せるのも、気が引けた。

 何の気なしにダッシュボードを開けると、何故か充電器が入っていた。そこでやっと、藤堂は銃を返しそびれた事を思い出す。譲ってくれるということなのだろうか。やはり車も、こちらへの礼の品なのだろう。あまりの格差に、自分が情けなく思えた。金持ちの感覚は、貧乏人には理解し難い。

 渚は何を思って自分と向き合っていたのだろうと、藤堂は灰皿を引っ張り出して煙草の火を消しながら考える。渚は藤堂を気にしていたのではなく、彼に婚約者の姿を重ねていたのかも知れない。あの不自然な態度も、そう考えれば説明がつく。中身はまるで違ったが、確かに顔だけは似ていた。

 亮輔と決別した以上、渚の藤堂への態度も、変わって来るのかも知れない。渚を我が儘な妹のように思っていた藤堂は、少し寂しくも感じる。

 けれどきっと、それでいいのだろう。そうして何かと決別することで成長出来るのなら、その方がいいに決まっている。

 藤堂自身の心に溜まっていた澱も、今になって思い出すことで、極少量ながら掬われた。不安が少し解消されたからといって、今すぐにこの捻じ曲がった性格が矯正されるとは思えない。しかし忘れていた嫌な思い出と決別し、少しでも変わる事が出来ればいいと、藤堂は思う。

 そうして態度を改め、彼女達と同じように、真っ直ぐに物事を見られるようになったら。純粋な彼女等や守護霊達と、真っ直ぐに向き合えるようになったなら。

 きっと、もう少し器用に生きられるだろう。そう心中独りごちて、藤堂は真っ直ぐに、前を向いた。フロントガラス越しに見える空は、あの青年の瞳のように澄んでいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ