第五章 救う人々 九
ゆっくりと、若い男が札から出て来た瞬間、場の空気が凍った。竜司は暗い笑みを口元に浮かべているが、目は笑っていない。
「え、ウソ、あれ……」
明が呆然と呟いた。青年は床に降り立って、緩慢な動作で顔を上げる。眉との間が近い切れ長の目は、虚ろに混濁していた。霊となって青ざめた暗い顔をしていてもかなりのものだから、生きていれば相当な二枚目であったろう。しかし。
「と、藤堂さん!」
悲鳴じみた声を上げて驚愕を表した明とは反対に、藤堂は困惑していた。確かにあれは、二十代の頃の自分に似ている。しかし藤堂に兄弟はいないし、そもそも若くして死んだような親族もいない。
戸惑ってでもいるのか、芹香は苦々しく表情を歪め、明に向かって緩く首を振った。
「違うぞメイ、髭がない」
相変わらずの無表情のまま、脱いだヘルメットを小脇に抱えたゆなが明を見た。
「目がしっかり開いているので、違うのです」
「お前らそんなんで俺のこと判別してんの?」
そもそも藤堂は死んでいない。死にかけた事はあるが、死んだ記憶はない。
呆然とする四人を、竜司が小馬鹿にするように笑った。
「これが亮輔ですよ。似ているでしょう、藤堂に」
仁科亮輔は僅かに俯いたまま、虚ろな目をあらぬ方向へ向けていた。何も見てはいないのだろう。
「僕は弟がね、誇らしかった。彼は本当に素晴らしい退治屋だったよ。僕が家長でなくなっても、仕方がないと思った。しかしどうだ。何の因果か弟は成長するにつれ、お前に似てきたんだよ藤堂」
全員、開いた口が塞がらなかった。つまりこの男は、藤堂をこそ恨んでいたということなのだろう。
しかし藤堂には、恨まれるような事をした覚えがなかった。他人に危害を加えるような子供ではなかったし、大きな喧嘩など、したこともない。精々冗談で、友人とどつき合う程度だった。そもそも竜司とは、碌に喋った記憶もない。
ふと顔を上げると、明が怪訝な面持ちで藤堂を見ていた。彼は慌てて首を振り、否定する。
「亮輔が強くなって行くにつれ、忘れていた恨みが蘇ってきた。亮輔が事故死してからも、恨みの念は募るばかりだったんだ。それでも、何もしないでいるつもりだったんだよ、渚がお前の所へ行くまではね」
藤堂には、何も言えなかった。自分が忘れているだけで、何か重大な事をしでかしたのではないかという不安さえ抱いた。しかし、全く思い出せない。
「渚だけなら、まだ許せた。だが課長までとなれば、僕も黙っているわけには行かなかったんだ」
「お前は何がしたいんだ」
厳しい口調で芹香が問うと、竜司は口角を上げた。
「あるべき場所へ戻って頂きたいだけですよ、課長。黙って戻って下されば、僕もこんな事をしなくて済む」
彼らには何らか因縁でもあるのだろうかと、藤堂は訝しく思う。鳳とは広い会社のようだから、知らない同僚がいても不思議ではない。しかし、芹香は竜司を知っていた。何もなくとも、近い部署にはいたのだろう。
「断る。力尽くで、と言うなら、相手になるまで」
「社長が悲しんでおられましたよ。僕もね」
芹香の表情が凍り付いた。手袋を嵌めた手が、掴んでいたパーカーの胸元を握りしめる。社長というのはそんなに恐ろしい人物なのだろうかと考えながら、藤堂は彼女の背に掌を添えた。
芹香はなんとも形容のし難い面持ちで藤堂を見上げてから、竜司へ向き直る。同時にその表情が一変し、両の眉が普段通りに凛々しくつり上がった。
「私が今居るべきは、こちらだ」
静かな返答を聞いた瞬間、竜司の目つきが鋭くなった。それに反応したかのように、亮輔の足が地を蹴る。
明の横をすり抜けて芹香の方へ行こうとする彼の行く手は、しかし長刀の刃によって遮られ、弾き返された。僅かに後ろへ飛ばされてよろけた亮輔が体勢を整えている内に、明は刀を振り被って彼の頭上へと振り下ろす。鋭い双眸が刃の軌道を追い、紙一重で避けた。
横へ退いた亮輔は大きく一歩踏み出して明との間合いを詰め、握り締めた拳を繰り出す。明は後ろへ飛び退きながら、体の前に刃を持って行くが一瞬遅れ、胸のスカーフを拳が掠める。赤い布地が裂け、宙を舞った。
「仁科亮輔か……私と似たような退治屋だったな。噂を聞かなくなったとは思っていたが、まさか亡くなっていたとは」
緊張した面持ちで呟いた芹香を見上げ、ゆなは頷く。藤堂はどこか上の空で、その声を聞いていた。
「ゆなも聞いた事があります。鳳の白銀に次ぐ退治屋だと」
「そんなすげえの?」
気のない藤堂の声に、ゆなと芹香は同時に頷いた。顔が似ているだけで、藤堂とはまるで違う類の人物のようだ。
しかし明と戦っている姿を見ると、どうにも複雑な気分になる。亮輔を相手取っている明も藤堂と同じ心境のようで、困惑したように顔をしかめていた。
「もう、なんか調子狂う……!」
明が苛立たしげに吐き捨てる。標的を捉え損ねた拳は、そのままの勢いで床へ向かって下ろされ、代わりに長い足が振り上げられた。身を屈めた姿勢からの蹴りに明は息を呑み、体の前へ持ってきていた刃の背に手を添えて、足を受け止める。
亮輔の体が刃に弾かれて僅かに後方へ滑るが、すぐさま足が戻された。半身を引いた勢いで刀の下を潜らせた拳が、明を襲う。防御が間に合わない。
明は蒼白になって目を見開く。ゆなが息を呑み、芹香が反射的に飛び出しかけた、その時だった。
「おやめなさい!」
怒鳴りつけるような声に、亮輔の拳が明の顎に触れる寸前で止まった。濁っていた目に、微かな光が宿る。
身を硬くしていた藤堂は、安堵して肩の力を抜いた。竜司は憎々しげに顔を歪め、扉から出て来た渚を睨み付ける。
「勝手に出て来るなと言っただろ」
「もう勝手になさい。こんな事をさせられるぐらいなら、消えた方がマシだと亮輔さんなら言いますわ」
逞しい執事を従えてホールへ出てきた渚は、凍り付いたまま微動だにしない明と亮輔へ、真っ直ぐに近付いて行く。
「だらしがない!」
渚は亮輔の目の前に立ちはだかり、一喝した。そして驚愕に目を見開く彼の双肩を両手で掴み、自分の方を向かせる。亮輔と真正面から向き合った渚は、一瞬辛そうに顔をしかめた。しかし次の瞬間には、大きく振り上げた右手で、力任せに彼の横面を張っていた。
ホール中に響き渡った甲高い音に、全員が痛そうに顔をしかめる。亮輔は両腕を下ろして弛緩したまま、呆けたような表情を浮かべていた。その目に、徐々に光が灯って行く。
「目が覚めまして? あなたほどの方が捕まって強請りのネタにされるなんて、情けないにも程がありますわ!」
亮輔はぽかんと開けたままの口を僅かに動かしたが、声は出せないようだった。切れ長の双眸は本来のものに戻ったのだろう、夏の空のように澄んだ色をしている。
渚は肩を怒らせたままつかつかと竜司に歩み寄り、気後れして一歩引いた彼の手から、札を取り上げた。
「話は全て聞きましたわ。消したいなら消してごらんなさい! 藤堂憎さにこんな事をしていたなんて、悩み損よ!」
渚の剣幕に唖然としていた明は、彼女の大声を聞いてようやく我に返った。ためらいがちに片手を挙げ、制止するような姿勢を取る。しかし頭に血が上った渚には、見えていないようだった。
「ま、待ってよ渚さん……なんなの? どうなってるの?」
勢い良く向き直った渚の厳しい表情を見て、明は僅かに身を引いた。そんな明の様子には構わず、渚は亮輔を含めた五人の方を向いたまま、竜司を指差す。渚の憤怒の形相に、彼は身動き一つ取れなくなっていた。
「この男はね、抵抗したら亮輔さんを消すと、私を脅してここまで連れてきたんですわ。理由も何も言わないままね」
「だから無抵抗だったのか」
未だ混乱から立ち直れないまま、藤堂はそう聞いた。渚は竜司を指差していた腕を下ろしながら、頷く。
「ええ、そうよ。私が結婚しないまま独立したから、反発するのは当然だと思いましたの。私のせいなら、亮輔さんにも申し訳ないと思った……」
そこで言葉を詰まらせた渚を、亮輔は悲しげな目で見つめていた。先ほどまでの亮輔の行動は一体何だったのだろうと、藤堂は疑問に思う。渚は目が覚めたかと聞いていたから、操られでもしていたのだろうか。
言い淀んだ渚は再び眉をつり上げ、藤堂を睨んだ。藤堂は思わず姿勢を正す。
「そうしたらなんなの、あなたのせいだと言うじゃない! 吐きなさい藤堂、竜司さんに何をしたの!」
藤堂は渋い顔をして、渚から目を逸らした。責められても、彼は何一つ覚えてはいない。顔をしかめたまま竜司を見ると、彼は咄嗟に下を向いた。
肩を落とした竜司を見た藤堂は、あ、と呟く。
「そうかお前アレだ、俺があの頃付き合ってた彼女に告白してフラれたんだ。お前だったろアレ」
固唾を呑んで藤堂の言葉を待っていた明が、は、と間の抜けた声を漏らした。渚は目を見開いたまま微動だにせず、芹香は頭痛を堪えるように額を押さえる。ゆなは何故か、真っ直ぐに亮輔を見つめていた。
指摘されて一気に真っ赤になった竜司は、目を白黒させて酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を動かした。肩を落とした芹香が、力なく溜息を吐く。
「考えないようにはしていたが……そんな事だろうと思った」
藤堂は首を捻り、疲れたように肩を落とした芹香に顔を向けた。
「分かってたんなら先に言えよ。つうか何かあったの?」
「……言いたくない。というか、どうしてあなたはそんな大事なことを覚えていなかったんだ」
「大事か? どうでもよくね?」
芹香は呆れた目で藤堂を一瞥した後、再び溜息を吐いて顔を逸らす。渚が奇妙な声を上げた。
「あっ……あなたそんな、そんな下らない事で……」
「く、下らないだと! 僕のプライドをズタズタにされたんだぞ、下らないとは何だ!」
俯いて黙り込んでいた明が徐に顔を上げ、激昂する竜司へゆっくりと歩み寄る。唖然としていた渚は近付いてきた明の表情を見て、思わず横へ避けた。明の左手が、すっと挙げられる。
小気味良い音が鳴り響いた。藤堂は痛そうに顔をしかめる。平手で打たれた竜司は、何が起きたのか分からないといった表情で、呆然としていた。
「甘えてんじゃないわよ藤堂さんと同い年のくせに! 藤堂さんなんか独身で彼女もいないし、好きな人もいないような朴念仁だけど、そんな風に駄々こねたりしないんだから!」
「メイちゃん、俺ちょっと今、心が痛い」
明の啖呵には、藤堂の方が傷ついた。怒鳴りつけられた竜司は、叩かれた頬を掌で押さえたまま微動だにしない。一瞬、室内に静寂が落ちた。
黙りこんでいた竜司の頬が、徐々に赤く染まっていく。藤堂はどことなく既視感を覚えるその光景に、嫌な顔をした。
「……いい」
竜司の呟きに、明の顔が青褪めた。
「君こそ僕の探していた方だ。結婚してくれ」
真剣な表情で告げる竜司とは反対に、明の全身に鳥肌が立った。彼女はよろけながら二三歩後退するが、竜司はそれを追ってゆっくりと一歩近付く。
「い、嫌よ! あなたと結婚するぐらいなら、ゴキブリと結婚した方がまだマシ!」
それもどうなのかと藤堂は思ったが、突っ込む気力もなかった。
「……ちょいと宜しいですか渚さん」
どこか感慨深げに明と竜司を見ていたゆなが、唐突に渚を呼んだ。言い合う二人を無視して、渚はゆなに歩み寄る。ゆなは渚の持った札を指差してから、何かを破るような仕草をした。渚は僅かに首を傾げる。
「破れと?」
「はい。破れば実体化が解けて、解放されますね」
首を捻ったまま思案していた渚は、おずおずと亮輔を見た。彼は精悍な顔に優しげな笑みを浮かべ、頷く。眉根を寄せて切なげに表情を歪めた渚を、藤堂は複雑な心境で見ていた。
札から解放された霊は、すぐに天へ昇る。元々無理矢理繋ぎ止めているから、それも当然なのだろう。
「さあ、びりーっとどうぞ。ゆなが一瞬の隙を突いて見せます」
渚と亮輔を交互に見ていた芹香は、目を伏せて俯く渚の肩に、そっと手を置いた。眉尻を下げたまま見上げて来る彼女に、芹香は大きく頷いて見せる。
渚は表情を引き締め、ゆっくりと札を両手で持ってから、大きく息を吐いた。藤堂は知らず汗をかいていた掌を、緩く握りこむ。
力の篭もった渚の手が札を破いた瞬間、ゆなが亮輔に向かって、両腕を伸ばした。掌を上に向けて、人差し指をちょいちょいと動かす。
「へい、カモーン」
気の抜けるような声と共に、亮輔の姿が霞んだ。ゆながきつく目を瞑る。渚は破いた札を握り締め、祈るように両手を組んだ。
「……入ったか?」
芹香の声に、ゆなはゆっくりと目を開けた。その表情が、穏やかな笑顔へと変わる。藤堂は、ほっと胸を撫で下ろした。
「きれいになったね、渚ちゃん」
それはゆなの声ではなかった。何かを懐かしむような若い男性の声は、優しく渚に語り掛ける。顔は恐ろしく似ていたが、声は似ないものなのだと、藤堂はぼんやりと考えた。
「ごめんね。……あなた方にも、兄がご迷惑をお掛けしました」
続いて亮輔は神妙な面持ちの藤堂と芹香に向き直り、深々と頭を下げた。無表情のまま固まっていた渚の顔が、徐々に泣き出しそうに歪んで行く。
顔を上げた亮輔は、渚の顔を見て、困ったように微笑を曇らせた。ゆっくりと手を伸ばし、彼女の頭を撫でる。
「泣かないで……じいやさん、済みません」
渚の傍らに佇んでいた執事は、小さく首を横に振った。こちらも神妙な面持ちだが、細い目が僅かに潤んでいる。彼にとっても、感慨深いものがあるのだろう。
亮輔はちらりと明を見てから、体ごと藤堂を向いた。真正面から顔を合わせるのは些か気が引けたが、未だ言い合う明と竜司を見る事も出来ず、藤堂は結局亮輔と向き合う。
「あの子にも、俺が謝っていたと伝えておいて頂けますか。それから兄に、じゃあな、と」
「はいよ」
短い返答だったが、亮輔は満足そうに頷いた。それから再び、渚に向き直る。
「渚ちゃん。君のこと、好きだった」
「わ、私だって……!」
反射的に顔を上げた渚の頬は、瞬く間に紅潮して行った。亮輔は少し笑って、慈しむような手つきで彼女の髪を撫でる。
芹香の手が、羽織ったパーカーをきつく握った。その仕草を横目で見た藤堂は、彼女は何を思うのだろうと、ぼんやりと考える。彼女は渚と亮輔の事は、何も知らなかった筈だ。同じ女だから、分かる事もあるのだろうか。
渚の頬を、涙が伝う。亮輔はそれを指先で拭い、頬を撫でてやった。
「幸せになってね」
寂しげな笑顔を浮かべた目が、閉じられた。渚の頬に伸びていた手が力なく下がり、体が崩れ落ちる。芹香が慌てて、それを抱きとめた。
藤堂以外の三人は、ゆなの頭上を見上げていた。きっとそこにはまだ、亮輔がいたのだろう。けれど実体化していない霊を、藤堂は肉眼で見る事が出来ない。
それでも彼は、空中を見上げた。当然のように何も見えなかったのだが、己と同じ顔をした全く違う男が、そこで笑ったような気がした。