第五章 救う人々 八
彼と初めて会ったのは、十五歳の誕生日だった。三つ年上の彼は、その時既に退治屋として独立しており、まだ十代だというのに、やけに大人びて見えた。婚約者として紹介された事を抜きにして考えてみても、彼には強く惹かれた。あれはきっと、一目惚れだったのだろう。
それからひと月に一度、食事に誘われるようになった。どんなことを話していたか、今となっては思い出せない。食事に行った帰りも、会話している間さえ、何を話しているのか分からなかった。緊張していたのだろうと思う。ただ彼の澄んだ瞳だけが、今でも脳裏に焼き付いている。
彼が死んだのは、それから二年後。十七になった年の秋だった。涙が涸れるほど泣いた後、無性に腹が立って、両親や執事に散々八つ当たりした。腫れ物に触るように接する両親の姿に余計に腹を立て、ひどく荒れた。同業者達に迷惑ばかりかけ、何度注意されたか分からない。あの頃のことは、あまり思い出したくない。
幼い頃から面倒を見てくれていた執事が死んだのは、そんな時だった。どんなに無茶な依頼を請けても嫌な顔一つせず、ついて来てくれた彼。何をしても咎める事なく、忙しい両親の代わりにただ傍にいてくれた、たった一人。今となっては恥ずかしい事だが、その時になってようやく、目が覚めた。
大人しくあの世へ行くことを拒んだ執事は、自ら使役される道を選んだ。しかし真っ直ぐに成仏して欲しかった彼女は、深く悔いた。自分が半人前だから、死んで尚、執事が心配してしまうのだと。
結果、それまでのように同業者に迷惑をかけるような事はしなくなったが、今度はがむしゃらに働くようになった。両親が心配するほど、連日仕事に明け暮れた。こなした依頼の数に比例するように彼女自身の知名度も上がり、とうとうあの幽霊屋敷を任された。
有頂天だった。これでやっと世間に認められたと、そう思った。やっと執事を解放してやれると思ったのに、そこは渚の想像を遙かに越える場所だった。一目見た瞬間、自分の力では無理だと悟った。しかし、引き下がるわけにも行かなかった。
そこで彼女は、明に止められた。無理だという事ぐらい分かりきっていたし、荒れていた頃、明にも迷惑をかけた事があった。大人しく引いた方がいいと理性では分かっていたのに、罪悪感と虚栄心が入り混じり、結局頭に血が上ってしまった。自棄になって戦う事となったが、あれがなければ、今のこの生活はなかっただろう。
更に藤堂という男は、彼女に懐かしさすら覚えるような感情を抱かせた。ひどく、動揺した。態度も表情も全く違っていたが、その真っ直ぐな目だけは、恐ろしいほど似ていた。それは憧憬であったのかも知れない。それでも高揚する感情を、抑えることが出来なかった。
浄霊屋に入ってから、毎日楽しかった。まだ浄霊は出来ないが、それでも携わることが出来るだけで嬉しかった。それなのに、何故突然。
「……なに?」
階下から聞こえた乾いた音に、渚は弾かれたように飛び起きた。何の音なのか、よく分からない。聞き覚えのない音だったが、何故か不安を煽られた。同時に、誰かが来たのだろうかと考える。
まさか、彼らが。
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、渚は大声で執事を呼んだ。
仁科家はそれなりに大きかったが、高屋敷の豪邸を見た後では、ごく普通の家のように感じられた。親戚とはいうが、本家以外はこんなものなのだろう。
仁科と書かれた表札を確認してから、明が開いたままの門から入って、インターホンを鳴らす。藤堂は片眉を寄せた。
「誘拐しといて出る奴はいねえだろ」
「誘拐じゃないかも知れないじゃない」
藤堂の見越した通り、暫く経っても応答はなかった。藤堂と明は顔を見合わせ、肩を竦める。ふうむ、とゆなが呟き、徐にドアノブを掴んだ。
「……あ」
芹香が呟く。普通の家のものより一回りほど大きい扉は、何の抵抗もなく開いた。藤堂は呆れる。
「もしやゆなには、触れるだけで鍵を開けてしまうピッキングの才能が……」
「そりゃ才能じゃねえよ超能力だよ。元から開いてただけだろ」
目を輝かせて藤堂を見上げるゆなの横から手を伸ばし、明は扉に手をかけてそろそろと開いた。
開いた扉の向こうには、本家と同じくシャンデリアの吊された玄関ホールが広がっている。向こうより小振りなものではあったが、それでもこんな家に鍵を掛けないとはどういう了見なのだろうと、藤堂は訝った。
「ひっ」
シャンデリアの灯りだけが照らし出すホールを覗き込んだ明が、小さく悲鳴を上げた。途端、薄暗い室内に無機質な明かりが灯る。
「いらっしゃいませ、浄霊屋の皆さん」
くぐもった暗い声を聞いた瞬間、芹香がドアを開け放って玄関ホールへ飛び込んだ。明が慌ててそれに続き、藤堂もゆなに引っ張られて中へ入る。
ホールの隅、扉を背にして立っていたのは、黒髪を後ろへ撫でつけた陰気そうな男だった。藤堂は彼の魚類を思わせる顔に既視感を覚え、眉をひそめる。
「お前……高屋敷の親族だったのか」
芹香は呆然と呟いた。口振りから察するに、彼は鳳の社員なのだろう。
「これは元白銀課長、ご存知ありませんでしたか。まあ無理もない……お前も気付かなかったのかい、藤堂匡」
三人が一斉に、藤堂へ疑惑の視線を向ける。仁科は喉の奥で笑った。笑い声が癇に障る。
「僕だよ藤堂。仁科竜司だ」
竜司が浮かべた陰気な笑みを見た瞬間、藤堂の脳裏に過去の記憶が蘇った。既視感どころではない。彼のこの暗い笑顔は、確実に見た事がある。
十六の頃であっただろうか。藤堂は霊が見えない事を学校側から糾弾され、全く唐突に退学処分を受けた。何故それが悪いのか藤堂には皆目分からなかったのだが、他の子供に影響を与えるだのなんだのと、御託を並べられて納得させられた。
そう言われても、どうにもならないのが霊感というものだ。押し問答の末、両親も結局、引き下がるしかなかった。よくよく調べてみれば、その時裏で学校を操っていたのが、この竜司だったのだ。
藤堂が無気力になったのは、あれが原因であったように思う。謂われのない迫害を受け、学校はおろか、それまでの友人達さえ失った。そしてたった一人の権力者の言葉で動く世間というものを、深く呪った。
何が悪かったのかは、終ぞ不明なままだった。竜司に対して、何かしたような記憶もない。ただその時から藤堂は、他者との関わり合いを厭うようになった。下手に深く関われば、当然霊感がないことも露見する。そうすればまた、あの時のようになるのではないかと、そう考えて怯えていた。
時が経つにつれ、嫌な記憶は頭の片隅に追いやられて行ったが、思春期に構成された人格は、結局矯正されないままだった。何故自分がこうであるのかも分からないままに、藤堂は孤独に甘んじた。
全ての原因となったこの男を、今の今まで忘れていた。思い出そうとしたことさえなかった。否、思い出したくなかったのかも知れない。
「……藤堂さん?」
凍り付いたように動かない藤堂に、明は不安げに声をかけた。顔を覗き込むようにして見上げてくるゆなの表情も、普段と大差はないが、どこか曇っている。そんなにひどい顔をしていただろうかと、藤堂は困惑気味に眉根を寄せた。
「あれだけしてやったのに、まだ懲りてないんだね藤堂」
藤堂には、彼の言葉の意味が分からなかった。懲りるとは、何の事なのだろうか。彼に何かをした記憶もない。
「無駄話はいい。渚はここにいるんだな」
痺れを切らしたのか様子のおかしい藤堂を慮ってか、芹香は唐突に話をすり替えた。竜司は更に笑みを深くする。
「いますよ。なんせ渚は、僕の婚約者ですから」
「婚約者は亮輔の方だろう」
「その亮輔が死んだのだから、僕になる筈でしょう」
芹香の表情が、厳しいものになった。明が驚愕に目を見開く。
しかし藤堂は、納得した。これは昔から、こういう男だった。自己中心的で、常に自分が特別視されていなければ気が済まず、家長であるが故に横暴を働き放題だったのだ。
「死んだって……どういう」
問い返しかけた明を遮り、芹香は竜司を睨んだ。
「お前が渚の婚約者であろうと、不当に拘束する理由にはならん」
「課長、そんなに眉をつり上げては綺麗な顔が台無しですよ」
竜司の言葉に、芹香は反応しなかった。噛み合わない会話を続けていても無駄と判断したのか、黙ったまま胸ポケットから手袋を取り出し、両手に嵌める。竜司はスーツの懐から細かな文字の書かれた札を二枚抜き取り、嫌な笑みを浮かべた。明がそれを見て、慌てて刀を抜く。
ゆなが三人から離れようと、藤堂の腕を引いた。藤堂は表情を曇らせたまま、それに従う。
「課長。あなたと僕は、恐らく相性が悪い」
芹香が怪訝に眉根を寄せると同時に、竜司が手にした札から、青い炎がゆっくりと出てきた。大人の拳ほどの大きさのそれは、次々と札から出てきては、竜司の周囲を浮遊する。藤堂は目を細めて、飛び回る炎を注視した。
「なにあれ、人魂?」
「そう、鬼火だよ。狐の霊が見せる、まやかしの炎って言われてるけど……あれ……」
明は言い淀んで、隣に立つ芹香を見上げた。凛とした横顔が、憎々しげにしかめられている。
「高屋敷の十八番だ。実体化している」
そんなものまで実体化してしまうのかと、藤堂は驚いた。渚の自慢話を聞く限り、普通の霊飼いは悪霊以外を使役する事が出来ないそうだから、確かに高屋敷というのは凄い家なのだろう。
明は表情を曇らせて、鬼火へ向き直った。
「……燃えちゃいますよね」
「ああ。確かに間合いを取れない私とは、相性が悪そうだ。あの中のどれかが、本体の狐だとは思うんだが……っ」
竜司の周囲を漂っていた鬼火が、何の前触れもなく恐ろしい速さで芹香の目前へと迫る。既の所で後ろへ飛び退いた彼女の反射神経もさる事ながら、明の反応も速かった。
明は逆手に持ち替えた刀を地面に対して平行に保ち、先端を炎に突き立てる。鬼火は水を掛けられたような、じゅう、という音と共に消えたが、それが合図だったかのように、揺らめいていた炎が一斉に飛びかかって来た。芹香は高屋敷から譲り受けた銃を取り出し、迫り来る鬼火を避けながら舌打ちを漏らす。
「必要だという意味は分かったが、これでは素人が撃っても当たらんぞ」
顔めがけて飛び込んできた炎を避け、芹香は呟く。横をすり抜けて行く際僅かに髪を焼いたようで、蛋白質の焦げる嫌な臭いが一瞬漂った。
「ゆなちゃん!」
次々と鬼火を差し貫いていた明が、慌てた声を上げた。しかし正面から向かって来る炎を見てもゆなは表情を変えず、無言でヘルメットを脱いで目の前に突き出した。勢い付いていた鬼火の動きは止まらず、ヘルメットに衝突する。
途端にじゅう、と音がして、炎が消えた。幾重にも札が貼られたヘルメットの防御力は、並大抵のものではないらしい。
ゆなの無事にほっと息を吐いたのも束の間、動きを止めようと目論んだのか足目掛けて飛んでくる炎を、明は身を翻して避けた。しかし一回転した拍子に靡いたスカートの裾に火が点き、明は慌ててそれを掌で叩く。
下を向いて消火を図る明の頭上を、芹香の撃った弾が飛んで行った。藤堂は一瞬ひやりとする。撃っても無駄と判断したのか、芹香は銃を下ろしてその場から退こうと一歩踏み出した。その胸元に、炎が飛び込む。
鬼火を次々と切り払っていた明が、反射的に上体を反らした芹香の目の前へ切っ先を突き出す。刀に貫かれて炎は消えたが、ワイシャツの襟は焦げていた。露わになった胸元を気にしている間もなく、芹香はゆなの下へ駆け寄る。
「もう、きりがない!」
苛立たしげに叫びながら、明は纏まって迫る炎を一刀の下に斬り捨てた。いくら消しても、鬼火は後から湧いて出て来る。
藤堂は着ていたパーカーを脱ぎ、前線から退いた芹香の肩に掛けた。目を丸くした彼女の胸元を見ないように気をつけながら、掌を出す。無論、白い下着など見ていない。
「ソレ貸して。どれが本体か分かる?」
パーカーの胸元を掻き寄せながら、芹香は片眉を寄せた。差し出された掌の上に高屋敷から譲り受けた銃を乗せ、彼女は竜司へ視線を移す。
「まだ分からん」
「見てれば分かる?」
「多分な……あなたが撃つのか?」
手にした銃を眺めながら、藤堂は僅かに頷く。見た目より遥かに軽いから、実銃ではなく電動のエアガンだろう。一緒に渡された箱の中身はBB弾なのだろうと、藤堂はそう推測した。
「分かったら教えて」
ゆなの頭上から、ハンドガンを持った腕が伸びた。不思議そうに見上げる彼女の視線の先で藤堂の目が眇められ、顔付きが一変する。珍しく真面目な彼の表情を見たゆなの青白い頬が、仄かに赤く染まった。
背後から狙う藤堂に気付いて、明が身を屈めた。軽い発砲音が立て続けに鳴り響き、彼女の周囲を飛び回っていた炎が消える。更に仁科の持つ札から鬼火が這い出して来るが、藤堂はその殆どを撃ち落とした。取りこぼしを明が斬り捨てる。
「……藤堂さんにこんな特技があるとは存じませんでした」
「大学ん時、クレー射撃やってたから」
熱い視線を向けるゆなを嫌そうに一瞥して、藤堂は更に続けて撃ち込む。感覚などすっかり忘れているものと思っていたが、体は覚えているようだ。
「銃の形が全く違うと思うんだが」
突っ込みながらも芹香は、切れ長の目を細めて注意深く鬼火の動きを観察していた。そして徐に、人差し指を突き出す。
「あれだ。今撃ったものの横。あれだけ、ずっと逃げ回っている」
「あいよ」
竜司の表情が強張る。慌てて札を目の前に翳すが、藤堂が撃つ方が一瞬、速かった。
「クソッ」
短く吐き捨てた竜司の声は、しかし響き渡った獣じみた悲鳴に掻き消された。同時に、彼が持っていた札の内一枚が、一瞬の内に燃え尽きる。室内に漂っていた鬼火が、煙のように消え失せた。
所々制服を焦がされた明が、ようやく安堵の息を吐いた。竜司は残った札を目の前に翳し、口角を上げる。
「あれぐらいで、いい気になるなよ」
銃を下ろした藤堂は、竜司が手にした札から出てきた霊を見て、息を呑んだ。