第五章 救う人々 七
「……そういえば、用件は何だったかね?」
居心地悪そうに俯いたまま渋い顔をしていた芹香が、ようやく本来の目的を思い出したようで、慌てて顔を上げた。無駄話をしている場合ではなかったと反省しつつ、藤堂も姿勢を正す。
「大変申し上げ難いのですが……お嬢さんが」
「ああ、知っているよ」
え、と明が呟いた。藤堂も怪訝な面持ちで、高屋敷をまじまじと見る。もしやこの父親がと邪推するが、そうだとしたらこんな風に、にこやかな対応はしないだろう。
「さっき言っていただろう。黒江さんだったかな」
「会話の円滑な進行に貢献出来てこれ幸いです」
藤堂には、ゆなの言葉に突っ込む気力もなかった。しかし芹香が言うように、娘を無理矢理連れ戻す程、分別のない人物とも思えない。口振りから察するに、ゆなに言われて知ったということだろう。
インターホン越しにゆなの台詞を聞いていたなら、もっと慌てていて然るべきだろうと藤堂は思う。のんびりと雑談している場合ではなかったのではないだろうか。娘が失踪したと言われて、何故こうも平静でいられるのか。
「あの……もしかして、どこにいるかご存知なんですか?」
藤堂と同じ疑問を持ったのだろう、明は恐る恐るそう聞いた。持った疑問は同じだったが、明の方が遥かに頭の回転が速そうだと、藤堂は自分を情けなくも思う。
「それがね、今調べさせているんだが……ああ、待っていたのかい。済まないね」
明がぽかんと口を開けた。呆れたような表情だったが、気持ちは藤堂にも分かる。行方も知らないのに何の心配もせず雑談していたとなると、親としての神経を疑う。
会話が途切れるのを待っていたのだろう、音もなく入室してきたメイドは全員に向かって一礼してから、主に携帯電話を差し出した。見事なプラチナブロンドの、西洋人めいた女だった。彫りの深い顔立ちから察するに、実際日本人ではないのかも知れない。
高屋敷は差し出された携帯を受け取って画面を見た途端、険しい表情を浮かべた。藤堂は芹香と顔を見合わせ、ゆなが首を傾げる。両親が連れ戻したと散々主張していた筈の明は、緊張した面持ちで高屋敷を見ていた。
高屋敷は暫く画面を眺めた後、ふむ、と顎を撫でる。彼の硬い表情は変わらなかったが、その声に反応して、明が膝に両手をついて身を乗り出した。
「どうなんですか!」
感情に流されるまま声を荒らげる明を、高屋敷は片手を挙げて制した。やけに冷静な仕草だったが、その表情は緊張しきっている。
「親戚の家にいるようだ。有沙、すぐ仁科君に連絡を」
何故に突然親戚の家へ行く必要があったのかと藤堂は疑問に思ったが、それならば誘拐ではないのだろう。そもそも誘拐というのも、あの屈強な執事がいるから無理な話ではある。しかし高屋敷の険しい表情には、違和感を覚えた。
明が複雑な表情を浮かべて、ソファに座り直す。親戚の家ならばと、安心したのかも知れない。
しかし芹香は腑に落ちないような困惑したような面持ちで、眉間に皺を寄せていた。彼女は高屋敷と提携関係にある会社にいた分、藤堂達よりは渚の事情を知っている。
「婚約者の家ですか」
明が目を丸くした。藤堂も思わず、は、と間抜けな声を漏らす。婚約者がいたことさえ知らなかったが、今はそれどころではない。何故、今行く必要があったのだろうか。
「そうなんだが……いや、今は違うんだ」
「どういう事です」
短い問いに、高屋敷は小さく唸った。返答に窮しているような表情だ。
「うむ……いや、本人の意思なら、私も何も言えないんだが……」
高屋敷は口ごもり、懐からハンカチを取り出して額を拭った。明の眉がつり上がる。藤堂は慌てて明を止めようとしたが、芹香が掌を翳してそれを制した。
「たとえ渚さんが自分の意思で行ったんだとしても、彼女は私達に何も言わず行方を眩ますような人じゃありません」
決然と言い切った明に、高屋敷は驚いたように目を見張った。
「渚さんの事情は知りません。でも何かあったと思うのが、普通ではないんですか?」
高屋敷は打ちのめされたように口を噤み、肩を落とした。明の勢いに圧倒されて流されるままここへ来たが、藤堂は露ほども渚の身を案じていなかった自分に気付く。それが、深く恥ずべきことのように感じられた。
何を考えていたのだろう。ただ居なくなっただけと安易に考え、下らない事ばかり気にして、振り回されるに任せていた。これでは意思がないと罵られて当然だと、彼は心中自嘲する。明の真っ直ぐな言葉が、胸に突き刺さるようだった。
高屋敷は俯いたまま、膝の上に置いた拳をきつく握りしめた。彼も藤堂と同じように、悔いているのかも知れない。
「何事もないのだとしても、勤務中に事務所からいなくなったことは問題です」
明はゆっくりと告げた後、立ち上がって藤堂を見下ろした。
「行こう、藤堂さん」
嫌な気はしなかった。またか、とも思わず、親がすぐに動かないのならこちらが行くべきであると、そう考えた。
親戚の家にいるなら、危険ではないのだろう。しかし高屋敷の表情を見る限り、あまりいい事ではないように思える。もしかしたら高屋敷自身、何が起きているのか分からないのかもしれない。
「君達が……行くと言うのかね」
明を見上げて呆然と呟いた高屋敷に、芹香が頷いて見せた。スーツのポケットから携帯を取り出し、芹香はパネルを操作する。
「GPS情報を、送って頂けますか」
「あ、ああ……」
慌てているのか、高屋敷が覚束ない手つきで携帯を操作する間、ゆなはグラスに残っていた紅茶を飲み干して立ち上がった。高屋敷は驚いてゆなを見上げる。
「君も行くのかね」
ゆなはヘルメットが落ちないよう両手で押さえながら、大きく頷いた。
「渚さんはお友達なのです。何があったのか存じませんが、お友達に危険が迫っている可能性があるのなら、ゆなも行かねばなりませぬ」
抑揚のない口調で言い切ると、ゆなは藤堂に向かって小さな手を差し伸べた。大きな目が促すので、彼は億劫そうに重い腰を上げる。何があったかも分からないのに行く、というのは些か理性的でないような気もしたが、そんな考えさえ馬鹿馬鹿しく思えた。
ゆなの言うとおりだ。友達が危ないかも知れないのなら、何も出来なくとも、迎えに行くべきなのだ。
芹香は三人がソファを離れてから立ち上がり、高屋敷に向かって深々と頭を下げた。
「お邪魔致しました」
高屋敷は答えなかった。携帯を握りしめたまま俯き、苦しげに眉根を寄せている。代わりに傍らに畏まっていたメイドが、四人に向かって頭を下げた。
厳しい表情で高屋敷を見詰めていた明が、黙り込んだまま部屋を出た。三人もそれに続く。玄関ホールには既に誰もいなくなっていたが、大きな扉は、近付くと勝手に開いた。何のために取っ手がついているのだろうと、藤堂はぼんやりと考える。
「渚さん、どうしちゃったんだろ」
ゆっくりと動く歩道に乗って、明は首を捻った。
「ただの職務放棄ならいいんだがな」
「良かねえよ」
真顔で呆ける芹香に短く突っ込み、藤堂は欠伸を漏らした。緊張が解けたら、一気に疲れてきてしまった。それでもやっぱり、このまま行くのだろう。
職務放棄でなかったとしたら、渚は無理矢理連れて行かれた事になる。それなら何故、騒がなかったのだろう。黙って連行されるような女ではないはずだし、彼女にはあの執事がいる。万が一本人が黙っていたとしても、なんとかしてくれた筈だ。
もしも親戚が、渚を誘拐したのだとしたら。そう思うと、すぐそこにいたにも関わらず、異変に気付けなかった自分の不甲斐なさに呆れる。後悔しても時間は元には戻らない事も分かっているが、罪悪感は拭えなかった。
「仁科さんて言ったっけ。どういう人なんですか?」
明の問いに、芹香は顎に手を当てて視線を落とした。知ってはいるようだが、血縁は勿論、婚姻関係にある家やその縁者を含め、全てをまとめて高屋敷家と呼ぶから、簡単には思い出せないだろう。
説明されても藤堂にはよく分からなかったのだが、高屋敷家というのがブランド名だとすると、本家というのが本店で、血縁関係にある家が支店。そして婚姻関係にある家はフランチャイズなのだという事で、明に無理矢理納得させられた。
悩む芹香の表情は、この件について発言する事自体を迷っているかのようだった。障りでもあるのかと訝ったが、確かに主が口を噤んだのに、第三者が第三者へ伝えるというのも妙な話ではある。
「仁科家は、渚の伯父の家なんだ。つまり婚約者は従兄弟に当たる」
「いとこと結婚するのですか」
ゆなは首を傾げて芹香を見上げた。藤堂は黙って会話を聞く。従兄弟は四親等に当たるから、法律上、婚姻は可能なはずだ。
「そうだ。あそこは早くして家長とその奥方を亡くし、今は兄弟が二人で暮らしているんだが……婚約者は確か、弟の方だな」
「弟? 普通長男じゃないんですか?」
「実力の差だな。一族中で一番力があったのが、仁科の弟の方だったんだろう」
芹香が課長という役職に就いていたから鳳もそうだったようだが、世間は実力至上主義という事らしい。会社での昇級など年齢で決まるものとばかり思っていた藤堂には、意外に感じられた。今時、年功序列など流行らないのだろう。
「しかし高屋敷氏は、今は違うと言っていたな……婚約者が長兄でない事に、批判でも出たんだろうか」
「どんな人なのです?」
歩道から飛び降りながら、ゆなが聞いた。
屋敷から出てよくよく見てみれば、周囲に建ち並ぶ家もかなりの大きさがある。連れて来られただけなので気付かなかったが、この辺りは、都内でも有数の高級住宅街だった。そんな中でも、高屋敷の豪邸は際立って見えるから恐ろしい。
「いい退治屋だとは聞いているが、私も詳しくは知らんな。名前も知らん」
「会ったことないんですか?」
「残念ながら。しかし兄の方は、あまりいい噂は聞かない」
悪い噂の方が何倍も早く広まるのが、世間というものだ。無理もないと藤堂は思ったが、明は不思議そうに首を捻った。
「高屋敷本家の婚約者なら、もっと噂が広まってておかしくないと思うんだけど……」
「お前も知らなかったんだろう?」
「婚約者がいる事も知りませんでした」
静かな駅前まで辿り着くと、後ろから車の走行音が聞こえてきた。道の脇へ避けながら藤堂が振り返ると同時、黒塗りの高級車が急停車する。
「待ってくれ!」
慌てた声で叫びながら開いた扉から出て来たのは、高屋敷だった。四人が驚いて目を丸くしていると、彼は懐から小銃と小さな箱を取り出す。ゆながびくりと肩を竦めて、藤堂の後ろへ隠れた。
「高屋敷さん、それは……」
「鳳さんのところで開発された破魔銃だ、持って行ってくれ。護身用程度の威力しかないが、きっと必要になる」
押し付けるように銃と箱を芹香に渡すと、高屋敷は一歩下がって四人に頭を下げた。
「申し訳ないが、私にはこの件に口出しは出来ない。……娘を、頼みます」
縋るような高屋敷の目を、藤堂は呆然と見つめていた。ゆなが不思議そうに首を捻り、明と芹香は顔を見合わせる。
暫しの沈黙の後、明が高屋敷に微笑みかける。見る者を心の底から安堵させるような、優しい表情だった。
「何があったか知りませんが、お任せ下さい。必ず、連れ戻しますから」
明の返答を聞いた高屋敷はゆっくりと表情を緩め、再び深々と礼をした。