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透明なひと  作者:
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第五章 救う人々 六

 その日、明が事務所に顔を出したのは、昼食を食べ終わった後だった。明は店に出てきた面子の中に、渚の顔がないのを確認するなり憤慨し、眠たげな藤堂の顔を見て、行こうといつものように言い出した。おう、と意欲を示したのはゆなだけで、藤堂と芹香は顔を見合わせて呆れた。

 流石にアポイントなしで押しかけるのは気が引けたのか、芹香は道中、高屋敷家に電話を掛けていた。これこそが普通の人間の対応だと、藤堂は内心感動さえ覚える。感情に任せて突然怒鳴り込む明や、放っておくととんでもない事を口走るゆなとは、雲泥の差がある。今まで女性陣に振り回されるだけ振り回されてきた藤堂は、芹香が入ってくれて良かったと、心の底から思った。

 事務所の最寄り駅から三十分ほど離れた静かな駅の裏手に、渚の実家はあった。広大な敷地内に植えられた木々の緑が、燦々と照る太陽の中、色鮮やかに煌めいている。デコラティブながら堅固な門から母屋までの距離は、一体どれほどあるのかと疑問に思うほど遠い。この距離を、歩けと言うのだろうか。

 外国の別荘地にでも迷い込んだのではないかと不安になる程の豪邸に、藤堂はすっかり気圧されていた。渚が家事は女の仕事などと古い事を言っていたから、てっきり日本家屋が出てくるものとばかり思っていた。単なる偏見に過ぎないが。

「……お前ホントにここに乗り込んだの?」

「そうだけど?」

 事も無げに答える明に、藤堂は呆れた溜息を吐いた。物怖じしないのはいい事だが、明の行動は軽率に過ぎる。更に、バットを持ったままうろつくのはやめて欲しい。

「ゆなもこんなお家に住んでみたいものです。毎日ウニやイクラを踊り食いしたいのです」

 大きな目を輝かせて敷地内を覗き込むゆなは、無感情にそう言った。目の前の豪邸に圧倒されたまま、藤堂は力なく頷く。

「ああ、いいねえ軍艦巻。ウニなんかここ三四年は食ってねえわ」

 その最後の記憶も、実家に帰った時、姉の愚痴を聞いたお礼に食わせて貰ったものだった。藤堂にとって高級食材は、自分の金で食べるものではない。

「現実から目を背けちゃダメだよ。これが所得格差ってものなんだから」

「メイ、そういう問題じゃない」

 短く突っ込んだ芹香は、徐に門の横に取り付けられたインターホンを鳴らした。こちらも物怖じしない性格のようだが、元々大企業の課長という立場であった分、明の無鉄砲とは明らかな差がある。電話番号を知っていたし、高屋敷と鳳とは提携関係にあるようだから、主と顔を合わせた事ぐらいはあるのかも知れないと、藤堂は思う。そう思いたかった。

 ややあって、スピーカーから返答の声が聞こえた。やけに事務的な声に、藤堂は無意味に緊張する。彼は権力に弱い。

「お嬢さんが勤務中に忽然と消えてしまった事につい……っ」

「さ、先ほど連絡した堤です」

 あらぬことを口走ったゆなを慌てて押さえ込み、芹香はどもりながら告げた。また少々の間があって、スピーカーから動揺したような声が聞こえて来る。芹香が有名なせいなのか、ゆなの発言に対してなのか、藤堂には判断がつかなかった。出来れば前者であって欲しいと思う。

 無意味に視線を巡らせてようやく、藤堂は門柱に取り付けられたカメラに気付いた。別段珍しいものでもないが、見られていると思うと、余計に緊張する。

 スピーカーから、どうぞと声が聞こえた。音もなく門が開くとほぼ同時、明が躊躇なく敷地内へ足を踏み入れる。少しは遠慮して欲しいものだ。

 既に疲れた表情の芹香に続いて、ゆなと共に一歩踏み出し、藤堂は後ろへつんのめった。慌てて足下を確認すると、地面がゆっくりと動いている。

「なにコレ、家ん中に動く歩道?」

「ほう、これは素晴らしい。歩かなくて済むのです」

 ゆなは周囲を忙しなく見回しながら、感嘆の声を漏らした。彼女は藤堂と同じく、動き回るのは苦手なのだ。

「お金持ちは違うよね」

 明が風にはためくセーラー服の裾を押さえながら、皮肉めいた台詞を吐いた。藤堂は心の底から同意する。

 歩道の左右に広がる広大な庭は、森林公園のような様相を呈していた。木々の隙間から差し込む木漏れ日が煌めいて、四人の顔へ斑に影を落とす。穏やかな表情で庭を眺める芹香の髪が眩しい程に輝き、藤堂の目を細くさせた。梅雨が明けたばかりで未だ蒸し暑くはあるが、その分頬を撫でる青い風は心地良い。

「遠いのです」

 長い髪を二つにまとめて掴んだまま、ゆなは早くも不満の声を上げた。コットンワンピースの裾がはためき、時折華奢な膝が覗く。貧乏ゆすりでもするように、ハーフブーツの踵が規則的に地面を叩いていた。

 徐々に近付く邸宅の巨大さに、藤堂は呆然とした。真っ白な壁に、淡いグレーの屋根。等間隔に並んだ大きな窓には、全てにレースのカーテンが掛けられており、中の様子は覗えない。これでは渚の金銭感覚が狂っている理由も分かる。

 あの幽霊屋敷もかなり大きく感じたが、こちらとは比較対象にもならない。ごく普通の家で生まれ育った藤堂には、何坪あるのか想像もつかなかった。

「あの家、何人住んでんの?」

「渚が家を出たから、今は高屋敷さんのご夫婦だけだ。使用人の寮は、あの裏にある」

 芹香の返答に、藤堂は顔をひきつらせた。藤堂の家など、この中の一部屋に収まってしまうのではないかという気さえする。そもそも使用人が住む寮が同じ敷地内にあることが不思議だ。

「ワケわかんねえ」

 ぼやく藤堂を振り返り、芹香は含み笑いを漏らした。

「渚の家も凄いぞ」

「二人しかいないのに?」

「二人しかいないのに」

 藤堂の台詞を反芻して、芹香は楽しそうに笑った。藤堂が喉を鳴らして笑うと、ゆなが彼の手を握る。この娘でも緊張する事があるのかと訝って見下ろすと、彼女は何故か、渋い表情を浮かべていた。

 屋敷の手前まで辿り着くと、見事な装飾の施された両開きの扉が、自動的に開いた。獅子が輪を銜えた形のドアノブは、ただの飾りなのだろう。

「……ひっ」

 広い玄関ホールに敷かれた赤いカーペットの左右、ずらりと並んだ使用人と思しき人々を見て、藤堂は思わず声を上げる。ホールの奥、左右には短い階段が設えられており、扉から見て正面に白い大理石の彫像が置かれている。天井から下がる巨大なシャンデリアに付けられたボールクリスタルが、電球の光を乱反射させ、ホール全体を煌かせていた。

 使用人達は機械のような正確さで揃って頭を下げ、お待ちしておりました、と静かに言った。声までもが見事に揃っている。その様子に気圧され、藤堂は身を引いた。

「どうぞ、こちらへ」

 この威圧感には流石の明も圧倒されたのか、バットを抱き締めたまま、進み出たメイドが促すのに反応出来ずにいた。以前来たとは言っていたが怒鳴り込んだそうだから、こんな風に歓迎はされなかったのだろう。どんな様子であったのか詳しく聞いた訳ではないが、よくぞ追い返されなかったものだ。

 こんな事ならスーツでも着てくれば良かったと、藤堂は後悔した。正装したところで圧倒されることには変わりなかっただろうが、私服姿の彼は、この家にあまりにも似つかわしくない。

 うろたえる三人を尻目に、真っ先に進み出たのはやはり芹香だった。背筋を伸ばしてホールを進む彼女につられ、明も後について行く。藤堂は最後まで動揺していたが、ゆなに手を引かれるようにして歩き出した。

 一歩踏み出す度に、硬い靴底越しにも、柔らかなカーペットが深く沈む感触が伝わってくる。足を取られて転びそうだ。恐々歩く藤堂と対照的に、女性陣の足取りは普段と変わりなかった。心強く思ったが、己の小心ぶりが情けなくも感じられる。

 ひっつめ髪のメイドに通されたのは、広々とした応接室だった。中央に置かれたガラステーブルを囲むように、黒い革張りのソファが置かれている。レースカーテンの引かれた大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、壁際の飾り棚に整然と並べられたコレクショングラスを輝かせている。部屋の隅に置かれたコーナーキャビネットも、ガラス戸に光が反射して中身こそ見えないが、繊細な象眼細工が施されている為、それ自体が部屋を彩っている。

 全く以って場違いだ。藤堂は今すぐにでも踵を返してしまいたかったが、ゆなにがっちりと手を握られているので、そうもいかない。ここまで来て、逃げ帰るわけにもいかなかった。

「お掛けになって、少々お待ちください」

 言われるがままソファへ腰を下ろすと、ここまで案内してきたメイドと入れ替わりに、銀のトレーを持ったメイドが入ってきた。静かにテーブルへグラスを並べる彼女は若かったが、その手つきはいやに慣れている。若いのに使用人とは大変だと、藤堂は出されたグラスに手を伸ばしながら思う。

 蒸し暑い中を歩いて火照った体に、よく冷えた紅茶が染み渡る。この紅茶葉もまた高いのだろうと、藤堂はどうでもいい事を考える。グラスの中で、氷が涼やかな音を立てて転がった。

 ようやく落ち着いてふと足下を見ると、ガラステーブルの真鍮製の猫足が、白熊の毛皮を踏みつけているのが目に入った。また尻の座りが悪くなる。

「あれは幾らぐらいするのです?」

 深く一礼したメイドが出て行くのを横目で見届けてから、ゆなは藤堂を見上げて聞いた。藤堂はぐるりと室内を見回して、グラスをテーブルに置く。

「どれの話? あのグラス? このソファ?」

「もうどれでもいいです」

「ソファなら、全部合わせて三、四百万てとこじゃねえの。家具は扱わないからよく知らねえけど」

 ようやく室内のものが高級品であると認識したようで、背もたれに背中を預けていた明が、慌てて浅く座り直した。ゆなは気にする風もなく足をふらふらと揺らしながら、壁際の飾り棚を指差す。

「あっちのグラスはいかほど?」

「ヴェネチアンかね。ユーロ下がってっから、今なら四五万?」

 明が信じられないとでも言いたげに表情を引きつらせ、身を乗り出して芹香の向こうの藤堂を見た。

「……あれ全部で?」

「なワケねえだろ。一つが万単位」

「それもねえ、渚が大分壊してしまったんだ」

 感慨深げな声を聞いた瞬間、芹香が反射的に立ち上がった。彼女以外は三人共、一様に目を丸くして硬直する。室内は適度に空調が効いて涼しい筈なのに、藤堂の背中に汗が滲んだ。

 己の行動を、心の底から後悔した。あろうことか、人様の家に飾られているものを値踏みしている所を、見られてしまった。更に口振りから察するに、聞いていたのは主人だろう。

 しかし芹香は動じる事なく、ガラステーブルを挟んで向かい側へ移動した家主へ、掌を差し出した。

「お久しぶりです、高屋敷さん。お元気そうで」

「堤君も、元気そうで何よりだ。大変だったね」

 両手で芹香の手を握り返してのんびりとした口調で答えながら、高屋敷家の主はふっくらとした幸せそうな顔に、柔和な笑みを浮かべた。着ているものは高級そうだが、薄くなった頭頂部とふくよかな体格のせいか、優しい校長先生といった風体だ。

 苦い笑みを浮かべた芹香から、凍り付いた表情の藤堂に向き直った瞬間、家主は目を丸くして硬直した。藤堂は思わず背筋を伸ばす。

「そちらが藤堂です。これが知恩院。一番端が黒江と言います」

 芹香に説明されると、高屋敷はびくりと肩を震わせて我に返った。そしてまじまじと藤堂を見た後、にっこりと笑みを浮かべる。その表情に、藤堂の肩の力が抜けた。先ほどの表情は何だったのかと訝るより先に、怒られなくて良かったと思う。

「ああ……君が藤堂君か。うちの娘が済まないね」

「はあ、いや……」

 なんと答えていいのか分からず、藤堂は中途半端に腰を浮かして差し出された手を握り返しながら、曖昧に言葉を濁した。手を離した高屋敷は、緩慢な動作でソファへ腰を下ろす。

「娘が喜んでいたよ。あのバッグを随分と欲しがっていてね」

「はあ……」

 そういえば本人もそう言っていたと考えながら、藤堂はソファに座り直した。どう反応をしたらいいやら、迷っていた。そもそも自分は何故ここにいるのだろうと、根本的な事に対して疑問を覚える。

 高屋敷は懐かしそうに目を細め、飾り棚へ視線を移した。藤堂もつられてそちらを見る。

「あの子は料理しか出来なくてね。家事は好きなんだが、料理以外はからっきしなんだ。グラスもいくつ壊されたか」

「そ、そりゃ……」

 料理が出来るだけマシな気もしたが、そんなことは言えなかった。それよりも藤堂は、壊されたグラスとやらの金額を計算している自分が嫌になる。質屋の性だろうか。

 反応に困って横目で芹香を見ると、彼女は俯いたまま気まずそうな顔をしていた。芹香は料理が全く出来ない。

「あの子が荒れていた頃は、あなた方にも随分と迷惑をかけたようだね」

 明と芹香を交互に見て、高屋敷は穏やかな顔に苦笑いを浮かべた。渚が荒れていた事は明から聞いていたが、大企業である鳳にまで何かしでかしたのだろうかと、藤堂は呆れる。

「そ、そんなこと……」

 明は慌てて顔の前で両手を振ったが、一度ここへ怒鳴り込みに来たのだから、否定するのも妙だと思ったのだろう。困ったように眉根を寄せて、視線を膝に落とした。

 主人は全く気にしていない風だが、藤堂は気まずい。俯く明の頭を横目で見ながら、心中彼女の浅はかさを呪った。

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