第一章 指輪に憑いた想い 四
退治屋の娘に指輪の件を任せてから、早三日。未だに音沙汰はなく、藤堂の寝不足は続く。欠伸は止まらず、消費する煙草の本数も日を追う毎に増えて行く。既に店を開けるのも億劫になっていたが、それでも閉めておく事は出来ない。休めば休んだだけ、稼ぎが減る。商品が売れない限りは稼ぎなどないのだが、休んでいる内に客が来たらと思うと、おちおち寝込んでもいられない。
藤堂は吸いさしの煙草を灰皿に押し付けて、カウンターに突っ伏した。毎晩、布団に入った瞬間に、声が聞こえるのだ。ろくに眠れもしない。しかし昼間に寝てもいられない。ここ二日間は、カウンターで転寝をする回数が増えていた。
辛い。眠いのに眠れないというのは、こんなにも辛いものだったのだろうか。藤堂はあの指輪が店に来るまで毎日快眠だったから、余計に寝不足が辛かった。出来ることなら、今すぐ布団に入って眠ってしまいたい。だがそんな事をしたら、店を閉めなければいけなくなる。最早シャッターを閉める事さえ、億劫になっていた。
とうとう舟を漕ぎ始めた時、自動ドアが開いた。藤堂は弾かれたように顔を上げたが、入店してきた人物を見るなり、落胆して肩を落とした。
「久しぶり、藤堂君」
髪を赤みがかった茶色に染めた女は、能天気なまでに明るい調子で藤堂に声を掛けた。癖のある高い声が、寝不足の頭に響く。思わず額を押さえてから、藤堂は小さく溜息を吐いた。
「祐子さんさ、ムダ話しに来るのやめてくんねえか」
新藤祐子は不思議そうに目を丸くして、まじまじと藤堂を見た。目と目の間が少々近く、彫りの深い顔立ちからは年齢の判断がつかない。活発なショートヘアと地黒であるらしい肌の為か、スーツを着ている割に若々しく見えた。
「キミ、いつもそんな事言わないじゃん。どうしたの、今日は。機嫌悪いの?」
祐子は真っ直ぐカウンターへ近付いて、再び突っ伏した藤堂の頭を見下ろした。
常にスーツ姿で現れる彼女は、この店の常連客だ。しかし年中訪ねて来ては世間話をして行くだけで、一度も商品を買ったことはない。何をしに来ているのかと問えば、目の保養と言う。藤堂には、その為に一週間に一度は店に通う祐子の気が知れない。
店主である自分に会いに来ているのかと、思っていたこともある。実際、そう聞いた。しかし彼女は盛大に笑って、そんなわけないと答えた。彼氏がいるから、あんたにかまけている暇なんてないよ、と。それならこんな寂れた質屋に顔を出さず、その彼氏の所へ行けばいいだろうに。
「眠いんだよ。ほっといてくれ」
「どうしたの、眠れないの? 珍しい」
祐子は子供にするような手つきで藤堂の頭を撫でた後、カウンターに肘をついて身を乗り出した。腹の辺りで腕を組んでいる為、自然と豊満な胸が強調される。
顔を上げた藤堂は目の前に迫ったそれを見て、思わず姿勢を正した。大きく開けられたシャツの胸元から、寄せられた胸の谷間がくっきりと見える。視線が釘付けになった藤堂の顔を覗き込み、祐子は可笑しそうに笑った。
「元気出た?」
「一部だけ……じゃなくてさ、今日はカンベンして。会話する気しねえから」
「何言ってんの、いつもじゃない」
目前に広がる楽園から視線を逸らして、藤堂は渋い顔をした。
確かに口下手で話すのが得意ではない藤堂は、祐子に対して年中同じような事を言っている。しかし今日ばかりは、口下手が理由ではないのだ。
祐子は訝しそうに藤堂の顔を眺めて、困ったように眉根を寄せた。藤堂の顔に表れた疲労感を見て取ったのだろう。
「疲れてるわね。そんなに景気悪い?」
「悪い」
短く肯定すると、祐子は苦笑いした。
「ま、しょうがないわね。ここだけじゃないわ、どの会社も不景気よ。幽霊関係以外は」
言いながら体を起こし、祐子はカウンターに凭れかかった。藤堂はちらりと祐子を見て、先ほどの光景をもっとよく目に焼き付けておけば良かったと後悔する。
不景気である事は、藤堂もよく分かっている。というより、藤堂が一番よく理解している。嗜好品も高級品も、今の時代は売れない。そこに金を注ぎ込む代わりに、死後の為に貯めておく人間が増えたからだ。坊主丸儲けとはこのことだろうかと、藤堂は考える。霊媒師や退治屋は坊主ではないが。
「アタシもさ、申し訳ないと思ってんのよ。貧乏な藤堂君の為に、バッグ一つ買ってあげらんないし」
「そう思うなら買ってよ」
「無茶言わないでよ、見るだけでじゅーぶん。女の一人暮らしはね、何かとお金かかるの」
男だろうが女だろうが、金がかかるのは変わらないだろうと藤堂は思ったが、何も言わなかった。代わりに大きな欠伸を漏らす。眠気覚ましにと淹れたコーヒーは、もう飲み干してしまっている。新たに淹れる気も起きない。
祐子は藤堂の疲れきった溜息を聞いて、驚いた声を漏らした。
「やだ、そんなに疲れてんの? クマ出来てるわよ」
「さっきからそう言ってんだろ」
祐子は軽く肩を竦めて、店内をぐるりと見渡した。キャビネットの隅にぽつんと置かれた指輪に視線を止め、首を傾げる。
「……あれ、新しいの?」
物珍しそうに呟いて、祐子はそちらへ近付いて行く。あの指輪だと藤堂は思ったが、どうせ鍵の掛けられたキャビネットから出さなければ、商品には触れない。見るだけなら、問題はないだろう。
「ついこないだ買い取った。新しくはねえよ」
「分かってるわよ」
ガラスに鼻先がつくほど顔を近づけて、祐子は値踏みするように指輪を覗き込む。藤堂はストッキングに包まれた肉感的な足を、ぼんやりと見ていた。藤堂より年上だという割に、年齢を微塵も感じさせない見事な体つきだ。
祐子は暫く指輪を眺めた後、不思議そうに首を捻って藤堂を振り返った。不躾な視線を送っていた藤堂は、慌てて目を逸らす。余計に怪しまれそうだと後悔したが、祐子は気付かなかったようで、藤堂に向かって手招きしながらショーケースを指差した。
「これ、なんか書いてあるわよ」
は、と怪訝な声を漏らして立ち上がり、藤堂は祐子に近付く。曲げた指の関節でガラスを叩く祐子の視線の先、発光ダイオードの明かりに照らし出された指輪を覗き込んで、藤堂は目を凝らす。
彼は視力がいい方ではないのでよく見えないが、指輪の内側には確かに、文字のようなものが刻まれていた。
「なんだこりゃ。なんて彫ってある?」
「光っちゃって読めないけど、イニシャルに見えるなあ。出してよ、これ」
急かすように人差し指の先でガラスを叩く祐子に、藤堂は曖昧な返事をした。
ショーケースから出すわけには行かない。触るのもためらわれるし、まさか生霊の憑いた指輪です、とも言えない。そんなものを並べておくなと、叱られるに決まっている。
「蓋開けんのだるい」
「あんたってその内、息すんのも面倒とか言って、死んじゃいそうよね」
馬鹿にしたような声に、藤堂は反応しなかった。
祐子は指輪に視線を注いだままショーケースから顔を離し、腕組みをして首を捻る。
「エンゲージリングなのかな? ていうか、なんで気付かないのよ。ちゃんと見なさいよ」
「言い値でいいって言われたら、適当に言うだろ。俺に出せる額なんか限られてるし」
大きく溜息を吐いて、祐子は嘆かわしげに首を振った。嘆きたいのは、こんなものを掴まされた藤堂の方だ。
「やあねホント、どこもかしこも適当な店ばっかでさ。こないだ酒屋行ったら、お釣りちょろまかされそうになっちゃったし」
祐子は呆れた調子でぼやいて、キャビネットを背にして扉に寄りかかる。適当な店ばかりと言われれば、その通りなのだろうと藤堂は思う。
「やる気ないのかな。キミは元々だけど」
「まあね」
彼女の言うとおりだ。稼ぎがなくとも助成金が出るから、自営業の店は大抵やる気がない。やる気があろうがなかろうが、客が来ない事には変わりないのだ。消費者側の立場としては、安心して使えるのは、大手コンビニエンスストアぐらいのものだろう。あちらは客があっても、働き手が少ないのが問題のようだが。
「それよりあんたどうするのよ、こんなの買い取っちゃって。買い手つかないわよ」
「どうもしない」
藤堂の返答に不思議そうな顔をした後、祐子はふと手首を反らせて時計を見る。白い革ベルトの華奢な時計は、彼女の浅黒い肌によく映えていた。
「あら、もうこんな時間」
祐子は肩から提げていたハンドバッグの紐を掛け直し、入り口を向いてから藤堂を振り返った。
「仕事戻るね。寝てちゃダメよ」
「ああ。次は彼氏連れてきて、なんか買ってくれ」
「バカ」
愉快そうに笑って、祐子は外へ出て行った。開いたUVカットのガラス戸から店内へ差し込む光が、やけに眩しく感じられる。藤堂は目を細めたまま、入り口から視線を逸らした。カウンターの上に放置された携帯が、視界に入る。
携帯は一向に鳴らないし、待ち人も現れない。しかし指輪に憑いた生霊は確実に、藤堂を蝕んでいく。正直なところ、明から連絡が来るまで体が保つかどうか、不安だった。
藤堂はジーンズの尻ポケットからキーケースを取り出して、慣れた手つきで鍵束の中から一つを選ぶ。触るのもここから出すのも嫌だったが、指輪に何が彫ってあるのかだけでも確認したかった。
それが指輪の持ち主を探す手がかりになるかどうかは別として、単純な好奇心からの行動だ。本当なら、買い取る前に確認すべき事柄である筈なのだが。
手探りでキャビネットに掛けた鍵を開け、ガラスの扉を開く。棚の一番端に置かれた指輪は、生霊が憑いているとは到底思えないほど見事に輝いている。しかし藤堂には、その輝きが不気味に見えた。藤堂に霊感はないし人一倍鈍感な方だから、憑いていると知っているから、そう思うのだろう。
要は気の持ちようだと分かってはいたが、やはり、指輪に触れるのはためらわれた。何より明から、指輪には触るなとあらかじめ警告を受けている。
藤堂は慎重に指輪へ顔を近付け、目を細くした。指輪の内側に彫り込まれた細かな文字は、光に反射して読み取りづらい。
「S.T……」
呟いた瞬間、突如として立ち眩みに襲われ、藤堂は目を瞑る。続けてひどい耳鳴りが頭の奥で響き、思わず両手で耳を塞いだ。
「痛ってえ……チクショウ」
藤堂は腹立たしげに吐き捨てた。すぐにでも扉を閉めてしまいたかったが、靄がかかったように視界がかすんで、差したままの鍵がどこにあるのかも分からない。霊感がない事をこれほどまでに悔やんだ事は、未だかつてなかった。
否、霊感がないから、これだけで済んでいるのかも知れない。霊感が強ければ強いほど霊の攻撃に対する抵抗力は上がるが、自衛の術がなければ、霊が居る事によって受ける影響は大きくなる。
耳元で、声がする。
返せ、と、そう言っている。
しかし、どこへ返せというのだ。
「ほんと、カンベンしてくんねえかな」
藤堂の首に、冷たいものが触れた。背筋を悪寒が駆け上がり、一気に全身の肌が粟立つ。冷たい指が、首に絡まったような感触だった。これは死ぬな、と、藤堂は痛む頭を抱えながら考える。
見えないものに殺されるなど、考えてもみなかった。自分とは関係のない事だと思っていたのだ。しかし何故、自分が殺されなければならないのか。返せるものなら返したいと、藤堂はそう思っているのに。
「藤堂さん!」
巡る思考と寒気に頭の中が真っ白になった時、店の入り口から悲鳴じみた声が届いた。視線だけをそちらに向けて声の主を確認したが、藤堂には最早、助けを求めることはおろか、返事さえ出来なくなっている。
首に絡んだ見えない指が、徐々に気道を圧迫して行く。どくどくと響く自分の鼓動の音だけが頭に響き、藤堂はその場に膝をついた。頭痛がひどくて、振り払う事も出来ない。
徐々に圧迫感が増して行き、とうとう呼吸が出来なくなる。こんな不条理があっていいものかと、藤堂は心中憤った。
その時一瞬、耳鳴りが遠くなる。
――やめて。
耳鳴りの代わりに頭の奥で響いたのは、小さな、小さな声だった。耳に残る甲高い声に、あどけない口調。子供の声だと直感した瞬間、呼吸が楽になった。大きく息を吸うと、ひゅ、と喉が音を立て、藤堂は激しく咳き込む。
肺が痛むほど深く呼吸を繰り返してようやく、藤堂の咳は止まった。胸に手を当てると、未だ心臓は激しく脈打っている。首を絞めていた冷たい感触は、いつしか消えていた。
「と、藤堂さん、大丈夫?」
駆け寄ってきた明は、肩を上下させて深呼吸を繰り返す藤堂の傍らにしゃがんで、心配そうに顔を覗き込んだ。藤堂は苦しげに顔をしかめたまま、視線だけを上げる。明は彼ではなく、その背後を見ていた。
「ねえ……今の……」
藤堂は左右に首を振る。どちらに対して聞かれているのか分からなかったが、どちらにせよ、藤堂は何も知らない。
深く溜息を吐いて、藤堂は立ち上がった。不安げな表情で見上げてくる明へ曖昧な笑みを浮かべて見せ、ガラス戸を開け放ったまま、カウンターに戻る。藤堂には何が起こっていたのかさえ分からないが、命拾いした事だけは理解していた。
鈍く肺が痛んでいたが、とにかく今は落ち着きたかった。倒れこむようにイスに腰を下ろして、藤堂は煙草に火を点ける。
「その子たち、あなたの守護霊なんだね」
深く煙を吸い込んで落ち着いてから、藤堂は感心したように呟く明に視線を向ける。相変わらず制服姿の少女は、開いたままのガラス戸を閉めて、差したままだった鍵を掛けた。
「藤堂さんの事、守ったよ。生霊を、あなたから引き剥がした」
「守護霊って何?」
藤堂は差し出されたキーケースを受け取り、無造作にポケットへねじ込んだ。明の表情が呆れたようなものに変わる。そんな顔をされても、知らないものは知らないのだ。
「そのままだよ、護ってくれる霊。いつでも傍にいるの。……座敷童みたい。子供の守護霊なんて、初めて見た」
ふうん、と興味のない様子で鼻を鳴らした藤堂の背後を、明はじっと見つめていた。そして唐突に、にっこりと微笑む。自分に向けられた表情ではないと分かってはいたが、藤堂はその愛らしい微笑に、些か動揺した。
「でも藤堂さん、何してたの?」
今度は責めるような口調だった。藤堂は困ったように頭を掻き、灰皿の上で煙草を弾く。
「常連に言われて気付いたんだが、その指輪、内側に文字が彫ってあったんだよ。S.Tだったか」
明は目を丸くして、指輪を振り返った。そして藤堂に向き直り、カウンターに手を付いて顔を近付ける。思わず身を引いた藤堂は、次に明の口から出た台詞を聞いて、耳を疑った。
「わかった! 一緒に行こう、藤堂さん」
「は?」
聞き返した藤堂に、明は再び、笑みを浮かべて見せた。