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透明なひと  作者:
39/75

第五章 救う人々 五

 芹香と共に事務所へ戻ってみると、明が般若のような形相で仁王立ちしていた。入ってきた二人を見たゆなも、カウンターに突っ伏して顔だけを上げた姿勢で、半目になって明らかな侮蔑の視線を送っている。芹香の表情が引きつった。

「遅いよ、どこ行ってたの!」

「ゆなが行く時はついて来てくれないのに、どこへ行っておられたのです」

 ほぼ同時に私情丸出しの不平を述べた二人に、藤堂は疲れた溜息を吐く。これだから、店を出たくないのだ。

「依頼が来たから、行ってきただけだろ。そんな怒んなよ」

「藤堂さんまで行く必要ないでしょ!」

「まあ、そうなんだけど」

 言い訳はしなかった。店を空けてしまったのは、自分が悪いからだ。明が怒っているのは、その事に対してではないだろうが。

 藤堂は肩を怒らせる明の横を通り抜け、煙草に火を点けながら、カウンターに腰を下ろした。ゆなが横で睨んでいる。こちらは藤堂が誰かと二人でいる事が、気に食わないのだろう。

「藤堂も、ちゃんと仕事をしたぞ。な?」

 芹香が背中に負ぶさって肩口から顔を出していたコウに同意を求めると、彼は明に向かって何度も頷いた。しかし明は更に眉をつり上げて、勢いよく藤堂を振り返る。

「仕事したのは藤堂さんじゃなくてコウ君でしょ!」

「ああまあ、そうなんだけど」

 どうでもよくなった藤堂は、明の勢いに流されて肯定した。やったのがコウだというのは事実だが、今回一番大変な目に遭ったのは藤堂だ。負った精神的ダメージは疲労に変わり、全身に蓄積されている。無駄に疲れただけかも知れない。

 怒る明に、コウが悲しそうな顔をした。彼だけは藤堂の味方で間違いないだろう。明相手では、些か心許ないが。

「あっ違うよ、コウ君が悪いんじゃないよ……あれ?」

 コウの顔を覗き込んだ明が、訝しげな声を漏らした。彼女の視線の先、芹香の首には、集合霊に付けられた傷がある。襟が汚れていたから、近付けば明でなくとも気付くだろう。

 明が見上げた瞬間、芹香の顔が強張る。見えなくとも明がどんな表情を浮かべたのか、藤堂には予想出来た。

「なんですかこれなんで怪我してるんですか!」

「いや、ちょっと手こずって……」

 しどろもどろになる芹香から視線を外し、明は再び勢いよく藤堂を振り返った。鬼のような形相だ。これはあの霊より怖いかも知れないと、藤堂は頬杖をついて煙草を吹かしながら呑気に考える。

「何してたのよ藤堂さん!」

「何もしてねえよ」

「何もしないから怪我するんでしょ!」

 全くだ。藤堂は納得したが、明は尚も憤慨していた。これは暫く収まりそうにない。

「何騒いでんのよあんたら」

 入口から聞こえた声に、明が驚いてそちらを向いた。

 肩越しに振り返った芹香の後ろから顔を出したのは、新藤祐子だった。赤みがかった茶に染められた髪をかき上げて、彼女はドアの前に立ち尽くす芹香の背中を叩く。しかしすれ違いかけた所でコウに気付き、立ち止まって目を見張った。

「あら何この子、どこで憑けてきたの」

「藤堂の守護霊だ。懐かれた」

「ヘェ、藤堂君と一緒で巨乳好きなんだ」

 祐子の言葉に、コウは不思議そうに首を傾げた。明が笑う。

「藤堂さんと一緒にしたら、コウ君が可哀相ですよ」

「言うわねえメイちゃん。子供ってそういうもんよね」

 相変わらず大きく開いたシャツの襟を摘んで風を送りながら、祐子は芹香を避けて店内へ入ってくる。外はまだ暑いのだろう。

「元気?」

 誰にともなく問い掛けた祐子は、彫りの深い顔に笑みを浮かべて見せた。焼けた肌に、うっすらと汗が浮かんでいる。

「皆さん元気すぎて大変なのです」

 ショートカットの髪を揺らし、祐子はカウンターへ歩み寄る。両手で頬杖をついたゆなの顔を覗き込み、ヘルメットを被った頭を撫でた。

「元気なのはいい事よ」

 ゆなの頬が、僅かに赤らむ。嬉しいのだろう。

「ホント、ちっちゃいわねえ」

「小さいのは今だけなのです。その内、祐子さんのように大きくなってみせます」

「頑張ってね」

 ゆなのヘルメットを軽く叩き、祐子は楽しそうに笑った。ゆなは祐子の胸に向かって手を合わせ、真剣な表情で拝む。

 ついこの間あんなことがあったばかりなのに、何故彼女はこんなにもこの事務所に順応しているのだろう。祐子の順応性にも驚くが、ゆなや明の寛容さにも呆れる。渚がいたらどうなっていただろうと思ったところで、藤堂はふと、顔を上げた。

「そういや、高屋敷帰ってねえか。アイツ、気がついたらいなくなってたんだわ」

 あ、と明が呟いて、店内を見回した。広くないのだから隠れていても居れば分かるし、隠れる意味もない。明の様子を見る限り、帰ってはいないのだろう。

 祐子は目を丸くして、大きく瞬きした。

「渚ちゃんなら、昼間に見たけど。高屋敷の人と出てったわよ」

「高屋敷?」

 俄かに表情を硬くして、芹香は問い返す。

「本家か?」

「誰だったっけなあ……あそこ、親戚の家が多すぎていちいち覚えてないわ」

 芹香は更に表情を曇らせた。藤堂は煙草の火を消しながら、訝しげに眉をひそめる。

「アンタ仕事してんの?」

「話の腰折らないでよ」

 祐子は迷惑そうに藤堂を見ながらカウンターの入り口側に置かれた椅子を引き、腰を下ろした。芹香が扉から離れ、キャビネットに寄りかかる。

「何かあったのかも知れんな……そもそもあの厳格な家が、渚の家出を許した事がまず疑問だったが」

「連れ戻されてしまったのでしょうか」

 抑揚のないゆなの声から感情は読み取れなかったが、心配してはいるのだろう。元々垂れ下がった眉が、更に下がっている。芹香は顎に手を当て、考え込むような表情を浮かべた。

「いきなり連れ戻すほど、常識知らずな方々ではない。文句があればまず、こちらに連絡して来るだろう」

 そんな懸念をするほど、渚は厳しい家で育ったのだろうか。藤堂は高屋敷家が有名だということしか知らないし、そもそも苗字の違う遠い血縁者でさえ、一括りに高屋敷家と呼ばれていることさえ知らなかった。

 先ほどから黙りこんだままの明をふと見ると、彼女は眉をつり上げていた。藤堂はその表情に、思わず嫌な顔をする。

「何よもう、大人って勝手すぎる!」

 唐突に大声を上げた明に、全員の視線が集まった。肩を怒らせた彼女は憤慨した様子で、つかつかと藤堂へ歩み寄ってカウンターを両手で叩く。

「明日になっても帰って来なかったら、絶対乗り込んでやるから! いいよね、藤堂さん?」

 芹香の言葉を聞いていなかったのだろうかと、藤堂は呆れた。しかし息がかかりそうなほど顔を近付ける明の剣幕には逆らえず、思わず頷いてしまう。

 祐子が呆れたように肩を竦め、椅子の背もたれから身を乗り出して、芹香を見上げた。

「それよかあんた、今日どうすんのよ。あの子帰って来ないと、家帰れないんじゃない?」

「あ」

 合鍵を作っていないのだろうかと、藤堂は思う。彼女達は別々に帰る事がないから、なくて不便はしないのかも知れないが。

 困った顔をした芹香を、祐子は笑った。

「またウチ来ればいいわよ。藤堂君じゃ何するかわかんないし」

 煙草に火をつけながら、藤堂が肩を落とした。明は立ち上った煙を避けて、カウンターから一歩下がる。

「しねえよ。どっちかっつーとアンタだよ心配なのは」

「どんな心配よ」

「お前達、私をなんだと……」

 ふと横を向いた芹香の顔を、コウが覗き込んでいた。寂しそうなその表情を見て、芹香は言葉に詰まる。コウが寂しがるからうちに泊まりなさいとも、藤堂には言えない。そんな事を言ったら、今度こそ明に殺されてしまいそうだ。

 藤堂は浅く溜息を吐き、コウに向かって手招きした。彼は藤堂と芹香の顔を見比べた後、素直に藤堂の下へ戻る。子供は若い女性の方が好きと言うが、本当なのかも知れない。

「とにかく今日帰って来なかったら、連絡取るなりするしかねえな。アイツ一応、従業員だし」

「そうだよ、絶対怒鳴り込む!」

「うるせえよメイ」

 拳を握って意気込んだ明に、藤堂は短く溜息を吐いた。


 渚は結局、夕方を過ぎても帰って来なかった。その日は暑さの為か客も来店せず、憤る明を無視して渚を心配しながら、各々家路に着いた。

 結局閉店まで事務所で話し込んでいた祐子と共に、彼女の家へと帰った芹香は、夕食後の晩酌にまで付き合わされていた。節約に努める祐子は晩酌をビールから発泡酒へと切り替えたようだが、煙草を吹かしていた。芹香がいた時は、気を遣って吸わなかったのかも知れない。これでは発泡酒に変えた意味がないような気もする。

「あの刀、破魔刀よね」

 テーブルに頬杖をついた祐子は、問い掛けるでもなくそう呟いた。芹香はタコの刺身を摘みながら、小さく頷く。

「そうだろうな。あれは扱いが難しいと聞いた」

「ちょっと迷うと斬れなかったりね」

 祐子は缶に口を着けて残っていた中身を一気に飲み干し、新しい缶に手を伸ばしながら続ける。

「こんな事言うモンじゃないと思うけどさ、得体の知れない子よね」

 祐子は長い爪に当たらないように、指の腹で缶を開けた。空気の漏れる小気味よい音がする。安い発泡酒を一口嚥下し、芹香は苦笑した。

「気付いていたくせに」

「アラ、ばれた?」

 おどけた仕草で肩を竦めて見せ、祐子はぺろりと舌を出した。その舌で缶の縁に付いた飛沫を舐めとり、縁に口をつける。芹香はそれにつられて、缶の底に残っていた中身を飲み干した。

 暫し続いた沈黙の間、時計の音がやけに響いて聞こえていた。秒針が立てる規則的な音に、芹香は尻の座りが悪くなる。

「高屋敷本家の子ってさ、身内に婚約者いる筈よね」

「ああ、従兄弟がそうだと聞いたが」

 祐子は頬杖をついたまま首を傾げ、テーブルへ無造作に置いてあった缶を芹香の前に置き直した。

「変ねえ。あの子藤堂君好きみたいだけど」

「えっ……」

 缶を取ろうとした芹香の動きが、止まった。祐子が小さく噴き出す。

「やあねあんたも、ホント鈍いんだから」

「あなたが聡すぎるだけだ。……しかし渚はもう二十だろう。結婚していて然るべきだが」

 持ったままだった缶を置き、祐子は頷く。頬杖をついた姿勢から緩慢な動作で身を起こし、煙草に火を点けた。甘い香りが鼻腔を擽る。一見快活そうに見える彼女の仕草には、逐一陰性の艶がある。

「変よね。連れ戻されたんなら、その辺かしら」

 芹香は眉間に皺を寄せて、厳しい表情を浮かべた。祐子は両肘をテーブルに着いて、両手にそれぞれ煙草と発泡酒を持ったまま、首を捻る。

「何度も言うがな、あそこのご両親はそんな方々じゃない」

「何よ、知ってんの?」

 芹香が頷くと、祐子は意外そうに眉を上げた。

「提携関係にあるのだから、元締めと挨拶ぐらいはするさ」

 ふうんと鼻を鳴らしたが、祐子は得心が行かないような様子だった。タバコの煙が細く立ち上り、室内の生温い空気に拡散して行く。

「元締めって言い方もよく分かんないけど……高屋敷はウチに輪かけてぼったくるじゃない。そんなのがいい人とは思えないわよ」

 祐子の言は尤もだ。高屋敷家は依頼された仕事は確実にこなすが、その分法外な金額を請求する。しかし芹香には、ぼったくりというのは少々違うような気もしている。

「あの人達は、少しずれている。渚もそうだが」

「何がずれてんのよ」

 芹香は困ったような表情を浮かべて視線を彷徨わせ、口を噤んだ。他人の噂は好きではないし、祐子にわざわざ教えるような事でもない。あまりいい話でもないから、他言するのも憚られる。

 そんな芹香の心中を察したのか、祐子は煙草の火を消しながら緩く首を振った。吐き出される煙が、彼女の顔の前を通り過ぎる。

「まあいいや。あんたも辞める直前に、また会社のバイク壊して放っといたみたいだしね。部長が怒ってたわよ」

「う……」

 芹香は言葉に詰まって、缶の縁に口をつけた。祐子はにやにやと笑みを浮かべている。

「アレ、五台目だっけ?」

「……六台目だ」

 祐子は高らかに笑い声を上げた。乗り捨てたりするのが悪いのだが、大抵急いでいたから、そうせざるを得なかった。

「あんた、藤堂君どう?」

 唐突な問いかけに、芹香は思わず缶を傾けていた手を止めた。質問の意を図りかね、彼女は眉を顰める。

「何がどう、なんだ」

 祐子は赤い唇を弧に歪め、企むような笑みを浮かべた。芹香は思わず身を引く。彼女は、祐子のこの顔が苦手だ。

「やあねえこの子ったら。どうって言ったらアレしかないでしょアレ」

「……酔ってるのか?」

 元々色黒なせいで顔色からは判断出来ないが、よくよく見てみれば、祐子の目は重たそうに半分閉じられていた。艶やかに潤んだ目が、上目遣いに芹香を見ている。

 祐子は背中を丸めて頬杖をついたまま、片手に持った発泡酒を口元へ持って行き、缶を殆ど垂直になるまで傾けた。嚥下する度に喉が動き、首筋を液体が伝って行く。

「やあだ、酔ってないない」

 口元を手の甲で拭いながら否定したが、彼女の目は明らかに潤んでいた。寝かしつけた方がいいだろうかと、滅多に酔わない芹香は冴えた頭でそう思う。

「酔っ払いは大体そう言うな」

「話逸らさないでよ。あんたまだ若くて綺麗なんだから、もっとがっつきなさい」

「何の話だ」

 祐子の晩酌に付き合うのは好きだが、酔っ払いの相手をするのは本意ではない。芹香は五本目で彼女を止めておけば良かったと後悔しながら、目を逸らして安い酒を飲む。

 父を失くしてからもそこまで寂しいと思わなかったのは、祐子がいてくれたお陰もあった。彼女が何やかやと世話を焼いてくれていたから、完全に一人になってしまったとは、思わなかった。感謝こそしているものの、絡まれるのは流石に御免被りたい。

「あのねえ、人間恋よ恋。恋しなきゃ生きてけないの。人生面白くないの。恋愛しなさい」

 祐子の口調は普段とそう変わりないが、手振りのせいで酔っ払いが管を巻いているようにしか見えなかった。芹香は心中、溜め息を吐く。元々絡む性質の祐子が酔うと、こうもひどくなるのかと呆れる。

「出来る事ならそうしたいが、こんな長身ではな」

「何身長コンプレックス?」

 本音ではなかった。とりあえず話を逸らそうと言っただけの事だが、祐子は身を乗り出して食いついてくる。二十歳を過ぎた頃、父から彼氏の一人でも作れと言われたのを思い出して、芹香は口元に笑みを浮かべる。

 そんな暇がなかったというのが、実際の所だ。好いた惚れたとはよく聞く話ではあったが、自分には関係のない事だと、頭から決めてかかっていた。何しろ仕事が忙しかったから、そんなものに割く時間がなかったのだ。

「大丈夫よ、大丈夫」

 何がどう大丈夫なのか、芹香には分からなかった。祐子の目は最早、すっかり据わってしまっている。

「あいつ胸しか見てないから。巨乳大好きだから」

 瞬間的に、頭に血が上った。芹香は目を見開いて、テーブルを叩く。衝撃で並んだ空き缶が揺れ、何本かが倒れた。

「胸のことは言うな!」

 声を荒げてから、はっとした。祐子はにやにやと、嫌な笑みを浮かべている。芹香は己の顔が一気に熱くなるのを知覚した。

「やーねえ可愛いんだから。でかくて悪いこたないわよ」

「う……うるさいもう寝ろ! 寝る!」

「あんたホント赤面症ねえ。おやすみい」

 満足げに鼻を鳴らしてひらひらと手を振る祐子から顔を逸らし、芹香は溜息を吐いて席を立った。

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