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透明なひと  作者:
38/75

第五章 救う人々 四

 開いた蓋の裏側から、断末魔にも似た絶叫が聞こえる。それに混じって車のブレーキ音とクラクションが、脳を直接侵食するかのように鳴り響く。周囲一帯に漂う生臭い空気が、一層濃くなった。

 藤堂は顔をしかめて、駐車場の壁際まで下がる。濃厚な臭気にも、玉突き事故の現場に出会したような騒音にも、耐えられなかった。

「……ホントに平気なの?」

 鼻を摘んだ藤堂は、鼻声でコウに問い掛ける。きょとんとして藤堂を見上げた少年は、殆ど頬が肩に着くような角度まで首を傾げた。子供らしいその仕草に、しかし藤堂は呆れて肩を落とす。当てにならない。

 どこからか吹いてくる生温い風が、全身に纏わりつく。濃縮したような重たい空気に、呼吸さえままならない。

「動くなよ。出て来るぞ」

 芹香が背中越しにかけた声を聞いて、動きたくとも動けないだろうと藤堂は思う。タイミング悪く戻ってきた由井は、駐車場全体を覆う臭気に鼻を摘んだ。

 不意に、巨大な鉄の塊同士がぶつかったような轟音がとどろく。車の衝突音だろうと藤堂は呑気に思ったが、青年達は同時に息を呑んだ。悲鳴を上げる事さえ、忘れているようだった。

 血痕がこびりついた蓋の裏から、黒い塊がずるりと這い出してくる。明石と由井が逃げるように駐車場の壁に張り付き、三代は呆然と立ち尽くす。徐々にその全貌を現す霊を見て、藤堂は思わず、げ、と呟いた。

 黒い石が連なって巨大な岩のようになった霊を見て、芹香が苦い顔をした。よくよく見れば、岩かと思われた塊は苦悶の表情を浮かべた人の顔で構成されており、ぽっかりと開いた口から各々悲鳴を上げている。どす黒い顔達の目には、光がなかった。

「集合霊だ。引き寄せられたな」

 苦々しく呟いた芹香を、数十対もの目が一斉に見る。視線を向けると同時に彼女へ迫った集合霊はしかし、真っ向から繰り出された拳とぶつかって止まった。拳が触れた箇所から波紋が広がるように霊の顔が歪んで行き、円の中心付近にあったものが弾ける。空いた場所は、別の顔がずれて埋めた。

 拳を引いた芹香は、僅かに表情を曇らせていた。藤堂も怪訝に片眉を寄せる。あれだけまともにぶつかっていれば、破裂していてもおかしくなかったはずだ。

 顔の幾つかを失った霊は、一回りほど小さくなって僅かに後退した。しかし動きが衰える事はなく、鳴り響く不協和音も止まない。然したるダメージもないようだ。

「これ、どうにか出来んの?」

 藤堂が問い掛けると同時に、霊達の口が大きく開かれた。芹香は一瞬目を見開いて慌てて後ろへ退くが、次の瞬間には両耳を塞いできつく目を閉じた。

「いたっ」

 何が起きたのか、藤堂には分からなかった。同じく明石と由井も不思議そうな顔をしていたが、三代は両耳を押さえて呻く。

 芹香が小さく舌打ちを漏らした。音波でも出したのだろうかと、藤堂は考える。耳を塞いだ隙に、芹香の眼前へ霊体が迫る。

「問題ないが……これは抹消するしかないかも知れん」

 遅れて藤堂の声に答えた芹香は、霊体とぶつかる寸前、片足を上げてその体を止めた。触れられるということは、靴にも何がしかの術が掛けられているのかも知れない。

 霊体を構成する顔の内一つが本体から離れ、大きく口を開いたまま彼女の首筋を掠める。芹香は咄嗟に片手を伸ばし、後ろの四人に被害が及ばないよう霊の頭を食い止めた。しかし僅かに髪が切れ、銀色に煌めきながら床へ落ちる。首筋に一筋傷が付き、じわりと染み出した血の滴が、白いワイシャツの襟を汚した。

 流石に痛かったのか、芹香は僅かに眉をひそめ、鷲掴んで止めた頭を握り潰した。風船が弾けるような音が鳴り響き、集合霊の顔達が一様に苦しげな表情を浮かべる。彼らは感覚を共有しているのかも知れない。

「ひどい……」

 三代がぽつりと呟いた。芹香の所行に対してなのか霊の様子に対してなのか、藤堂には判断出来なかった。

 足に力を込めた芹香のパンプスのヒールが、霊体にめり込む。しかし破裂させるには至らず、顔達が叫び声を上げるのみだった。つんざくような悲鳴に耐え切れず、藤堂は両手で耳を塞ぐ。

 お互い一歩も引かぬ膠着状態の中、芹香が肩越しにコウを見た。彼女の視線が逸れた隙にまた一つ霊の顔が飛び出したが、退治屋の手はそれを許さない。勢い良く掌に当たった顔は大きく歪み、衝撃で弾け飛ぶ。また甲高い悲鳴が木霊した。

 藤堂の横にいたコウが、ふわりと宙に浮かんだ。少年は藤堂をちらりと見た後、闇を切り取って作られたような悪霊へ向かって飛んで行く。それに先導されるように、小さな守護霊達は一斉に藤堂の下から飛び立った。

 子供等は小さな両手を大きく広げ、後ろから集合霊をがっちりと抱え込んだ。同時に芹香が足を離し、一歩下がる。ひ弱な手で抱えられた巨大な霊は、脈打つように全身を動かしたが、逃れる事は出来なかった。

「全力で行く。寸前で離れろよ」

 白い手袋が、淡く光った。コウが頷くと同時に、芹香は右腕を大きく引き、集合霊に力一杯手刀を叩き込んだ。子供達が示し合わせでもしたかのように同時に手を離して、それぞれ散り散りに黒い塊から離れる。霊の顔全てが苦痛に歪み、断末魔の悲鳴を上げた。

 芹香の手が、更に横へ動く。大きく裂けた黒い顔達は、尚も金切り声を上げ続ける。内部へめり込んだ手が、黒い塊を一気に切り裂いた。

 ぱん、と弾ける音が鳴り響く。音と共に集合霊は消え、芹香が息を吐いた。

「お前が本体か」

 塊が消えた後には、髪の長い女が項垂れて立っていた。その体が半透明に透けている事から、幽霊であると知れる。藤堂の位置から女の顔は見えないが、芹香は複雑な表情を浮かべていた。女の背後に浮かんでいたコウが、芹香の側へ移動する。

 女は何も言わなかった。あれほど喧しく鳴り響いていたクラクションもブレーキ音も、もう聞こえてこない。しかし藤堂の腕には、知らぬ内に鳥肌が立っていた。寒い訳ではない。霊が発したものなのか、淀んだ生温い空気のせいで、寧ろ暑い位だ。

 寒気がする。彼らが離れるだけでこんなにも霊の影響を受けやすくなるとは、思ってもみなかった。有り難くもない能力を持って生まれてしまったものだ。

 ふと気付くと、女は顔を俯かせたまま首だけを向けて藤堂を見ていた。光を失った目と目が合った瞬間、視界が一瞬暗くなる。嫌だと思っても、逃れる事は出来なかった。

 五感は、耳と目しか働かない。触覚も嗅覚も塞がれてしまったかのように、何も感じなかった。しかし大勢の男女が笑っているのは聞こえる。視界一杯に広がるアスファルトに、血の塊が吐き出された。口いっぱいに、生臭い鉄の味が広がる。折れた歯が吐いた血の中に混じり、地面を転がって軽い音を立てる。頭を割らんばかりの耳鳴りが、頭蓋に反響している。その内視界が真っ暗になり、また開ける。同時に、開かれた車のボンネットが見えた。嫌な予感がする。笑い声が耳鳴りのように木霊する。浮遊感と共に再び視界が暗くなり、次に開いた時には車の機械部分が見えた。背筋が寒くなる。そんな筈はない。そんな事が出来る筈がない。視界が反転し、振り下ろされる金属バットが見えた。視界が真っ赤に染まる。次々に鈍器が振り下ろされるが、何も感じない。笑い声と共に片側だけ視界が暗くなり、意識が途切れた。

 気付けば藤堂は、地面に膝を着いていた。背中を伝う汗が、シャツを湿らせる。煩い程に脈打つ己の心臓の音に、生を実感した。

「メイを……メイを呼べ。助けてやれ」

 藤堂は絞り出すようにそう呟いてから、恐る恐る顔を上げた。芹香の不安そうな目が真っ直ぐに藤堂を見ていたが、女の霊はもう、彼から顔を背けていた。彼女が何故ああなったのかまでは、藤堂には分からない。犯人グループが誰だったのかも分からないが、彼女がされた事だけは、しっかりと理解した。

 芹香の背後で、コウが気の抜けた笑顔を見せる。怪訝に思った藤堂は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。自分の情けなさに、力なく失笑する。

 コウが芹香の横をすり抜け、霊の前に降り立った。女の背後にいた子供達が、藤堂の下へ帰って来る。コウ以外の守護霊は普段見えないのだが、姿を見せないだけなのだろうかと、藤堂はぼんやりと考える。

 あどけない笑顔が、女を真っ直ぐに見上げている。女は僅かに顔を上げ、コウを見たようだった。

 誰一人として、一言も発しない。コウが小さな指で上を差した時、淀んだ空気が揺らいだ。長い髪に隠れていた女の顔が天井を見上げ、両目から大粒の涙を零す。藤堂の背中を伝っていた冷や汗が、すうと引いた。

 彼女がどうして集団暴行を受け、死に至ったかは定かではない。藤堂に見えるのは霊が覚えている記憶だけで、その時の心情も感情も、分かりはしない。けれど彼女が零した涙を見て、苦しかったのだろうと思う。

 女の足が、徐々に透けて行く。コウは天井を指差したまま、浮かべた笑みを深くした。その表情を見た女の唇が微かに動いたが、藤堂の位置まで声は聞こえてこない。

 コウが女に向かって、小さな手を振る。全身が消える間際、彼女はかすかに笑ったように見えた。


「あっちー」

 服の裾を摘んで風を送りながら、藤堂はうんざりとぼやいた。ジャケットを脱いだ芹香も、流石にワイシャツの袖を捲っている。抜けるように白い腕は、しなやかな筋肉で引き締まっていた。

 女の霊が成仏した後、藤堂達は暫く何も言えなかった。遅れて警察が到着してからも、何を話せばいいやら皆目分からず、芹香が説明するのをぼんやりと聞いていた。

 警察に軽く事情を聴取されてから解放されたが、藤堂は浮ついた気持ちのままだった。依頼人達が依頼料は後日振り込みますと言うのを聞くまで、ずっと呆けていた。

 芹香は足を引きずるようにして歩く藤堂を見て、苦笑した。彼女の首には、にこにこと機嫌の良さそうなコウが抱き付いている。余程彼女が気に入ったのか、先ほどから離れようとしない。

「まさか浄霊しちまうとはね」

「ああ……驚いた」

 ぼやく藤堂に同意して、芹香はどんよりと曇った空を見上げる。眩しそうに目を細める彼女が、藤堂には陰鬱な曇天より遙かに眩しく見えた。

「子供は強いな。迷う人に、真っ直ぐに道を示してやれるんだ。あなたが、助けたいと願ったからかも知れないが」

「そういうもんなの?」

「そういうものだ。……ああ、大丈夫だよ。すぐ治る」

 首の傷を覗き込むようにして見たコウに、芹香は笑って見せた。よくよく見れば皮膚が僅かに腫れ、傷に沿って赤紫色に変色している。安堵したように頷く少年の手が、彼女の頭を撫でた。透けた小さな掌越しに、銀色の髪が煌めいて見える。

 藤堂はこの少年に護られているのだと思うと、どうにも複雑な気分になる。コウが果たして何故自分の守護霊となったのか、知りたくもあり、知るのが怖いような気もした。

 守護霊が如何にして守護霊となるのかは、未だに分かっていない。守護される側にはそれだけの理由があるという以外のこと。どのようにして守護霊が選ばれるのか、またどんな霊がそうなるのかも、無闇に口を利かない彼らは黙して語らない。彼ら自身、知らないのかもしれなかった。

「痛くないの?」

 穏やかな表情を浮かべていた芹香が、怪訝に眉を上げた。藤堂は首を指差して見せる。

「もう平気だ。済まんな」

「痛そうだけど」

「これぐらいでいちいち痛がっていたら、退治屋は務まらん」

 ふうんと鼻を鳴らし、藤堂はようやく辿り着いた駅の、改札口を抜ける。のんびりとホームへ向かう彼の歩調に合わせ、芹香は歩く速度を落とした。

「あんま怪我すんなよ、女なんだから。メイもよく、顔に傷作ってっけど」

 ホームの適当な位置で立ち止まって芹香を振り返ると、彼女は少し離れた場所で、目を丸くしていた。藤堂は首を捻る。

「なに?」

「……あ、いや」

 電車の到着を告げる駅員の声に会話を遮られ、芹香は黙り込んだ。また妙な事を言っただろうかと、藤堂は内心ひやりとする。

 ホームに滑り込んだ電車に乗り込み、空いた席に並んで腰を下ろした。乗客の視線が刺さるが、藤堂は気に留めないように目を逸らす。芹香は良くも悪くも目立つから、行きもこうして、嫌と言うほど通行人から不躾な視線を送られた。

「父にも、同じような事を言われたんだ」

 目を見張った藤堂を見て、芹香は苦笑した。

「私のように肉弾戦派の退治屋は、霊に攻撃が通じるように、刺青を入れるだろう」

「ああ……」

 小田原と言ったか、以前見た鳳の退治屋は、そういえば刺青をしていた。あれはとても肉弾戦するようには見えなかったが。

「あれの呪文は皮膚に直接彫りこんだ方が、高い効果が得られる。しかし父は、それを嫌がった」

「そりゃ、娘の手に刺青入れたい親父なんかいねえだろ」

「そうでもない。……これは、父が考案したんだ」

 芹香は手に持っていたジャケットから、手袋を取り出して見せた。何か書いてあるものとしか認識していなかったが、改めて見ると、恐ろしく細かい文字でよく分からない言葉がぎっしりと書かれている。こんなもの、藤堂には考案するどころか、書くことさえ出来ないだろう。

「布地に書いても、彫りこむのと同じ効果が得られるようにな。これを書けるのは私と、研究に携わった一部の人間。それから、父だけだった」

 長い睫毛を伏せて、芹香は手に持った白い手袋を握り締める。眉間には、僅かに皺が寄っていた。

 彼女の父親に何があったのか、藤堂は知らない。聞いてはいけないような気がしている。しかしそれは、父親の愛が確かに存在した証なのだろう。

 寂しげな横顔に頭でも撫でてやろうかと思ったが、藤堂が手を伸ばす前にコウが撫でていたので、やめた。

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