第五章 救う人々 三
依頼人宅は、駅から恐ろしく遠かった。三十分はかかるというから、車も欲しくなるはずだ。藤堂はうんざりしながら、依頼人達の後ろをついて行く。
彼らは三人でルームシェアしているようで、よくよく聞いてみれば、車も代金を折半して買ったのだと言う。学生同士ならば珍しくない話ではあるが、よくもこう個性もバラバラの三人が集まってしまったものだ。
「すいません、遠くて……」
駅を出て二十分。既に疲れた様子の藤堂を振り返り、三代と名乗った更に疲れた表情の青年は、申し訳なさそうに詫びた。事務所で話していた時も思ったが、彼が一番まともそうだ。
「ああ……君ら毎日ここ通ってんの?」
敬語を忘れた藤堂が溜息混じりに問うと、大柄な明石が苦笑する。藤堂の方が年上なこともあってか、対等な話し方をされても気にする様子はなかった。
「そうなんです。駅から大学までは、電車で五分なんだけど」
「駅から家まで遠くちゃ、意味ないよなあ」
眼鏡の由井が、うんざりしたようにぼやいた。全くだ、と藤堂は思う。
藤堂に歩調を合わせて隣を歩く芹香は、流石に涼しい顔をしていた。この蒸し暑い中、スーツをきっちりと着込んでいるにも関わらず、汗一つかいていない。藤堂は額に浮いた汗を手の甲で拭い、再び溜息を吐いた。
元々体力が違うのは分かっているが、自分が情けなくもなる。昔はこれしきの事でばてる程、軟弱ではなかったのだが。
「俺も学生ん時は金なくて、ボロいワンルームでその日暮らししてたわ。金は今もねえけど」
「え、浄霊屋って儲からないんすか?」
藤堂が疲れきった声でぼやくと、明石が驚いたように目を丸くした。驚かれても、何故儲からないのか藤堂には分からない。芹香が苦笑した。
「浄霊屋はそれ自体の知名度が低いからな。よく分からん業者に依頼するよりは、退治屋に行くだろう」
「忙しくなったの、高屋敷が入ってからだしな」
言いながら腕時計を確認すると、駅を出発してから三十分ほど経過していた。駅から三十分ではなかったのだろうか。こんな事なら来なければ良かったと、藤堂は後悔の念に駆られる。しかし今更引き返す事も出来ない。
もうそろそろ六月も終わるのだが、梅雨前線は未だに頑張っているようだ。蒸し暑い上に、雲行きも怪しい。ただでさえ湿っぽい空気に容赦なく体力を奪われて行くのに、その上雨に降られでもしたら洒落にならない。
「あ、そこです」
三代が指差した先には、巨大なマンションが堂々と構えていた。あれはファミリー向けではないのかと藤堂は訝ったが、学生向けの狭いマンションでは、ルームシェアする意味もないだろう。
敷地内へ入ってエントランスホールを抜けると、子供用の遊具が設置された中庭に出た。予想通り、ファミリー向けマンションのようだ。中庭を囲むように各部屋の扉が並び、時折どこからともなく子供の声が聞こえる。藤堂はコの字形に折れ曲がった廊下を歩きながら、横目で中庭を眺めていた。
何の気なしに眼鏡を掛けると、小さな滑り台で遊ぶ子供がレンズ越しに見えた。その傍らで、母親らしき女性が穏やかな表情を浮かべている。眼鏡を掛ける前までは確かに何も見えなかったから、あれも幽霊なのだろう。
ふと横を見ると、芹香が中庭の親子を見詰めていた。どこか寂しそうなその表情を見て、彼女は母親を知らないのだと考える。
芹香は父親と二人で、どんな生活をしていたのだろう。藤堂は両親も姉も犬もいる騒がしい家庭で育ったので、片親という感覚がよく分からない。
彼女の父親は、亡くなったのだろうか。ついこの間祐子からそういった話を聞いていたから、それと結び付けて考えてしまっているだけなのかも知れない。しかし今渚の家にいるという事は、やっぱり身寄りがないのだろう。
芹香はどうして、一人になってしまったのだろうか。疑問を抱きはするが、聞くのは憚られる。突っ込んだ話をする程、仲がいいつもりもない。そういう事は、明に任せておけばいいのだ。
そうは思えど、尻の座りが悪いような心地はしていた。何も聞かずに無理矢理引っ張り込んだのはこちらだから、今更聞きづらい部分はある。それでも事情さえ聞かないままでいるのは、如何なものかと思う。
そして藤堂はふと、思考を中断する。何故こんなにも、気にしているのだろうか。
「藤堂さん、こっちです」
ぼんやりしていた藤堂は三代の声を聞いて我に返り、慌てて少し離れた彼らの後を追った。
エントランスから一番遠い廊下の突き当たりに、柵が設けてある。三代が鍵を差し込んで抜くと、すうと音もなく横に開いた。開いた柵の向こうにある地下へと続く狭い階段を、三人は藤堂達に先立って一人ずつ下りて行く。
コンクリート打ちっ放しの壁に手を添え、藤堂は三人に着いて先を行く芹香に続く。一歩階段を下りる度、ひんやりとした空気に包まれて行くような心地がした。じんわりと全身を湿らせていた汗が、一気に引いていく。
「地下は涼しくていいなあ」
明石は次々と流れる汗をタオルで拭いながら、独り言のようにぼやいた。
「お前が暑苦しいんだよ。お前だけだぞ、そんなに汗かいてるの」
先頭を行く三代は、肩越しに明石を振り返りながら階段を下りきった。続いて明石が駐車場へと下りて行く。
「そんな事ねえって、なあ由井」
「いいや、お前だけだなデブ」
「ひっでぇなー」
言葉と裏腹に、明石の声は楽しそうだった。彼らの会話を聞きながら、藤堂は大学生の頃つるんでいた友人達を懐かしく思う。
どんなグループにも明石のようないじられ役がいたし、由井のような皮肉屋もいた。藤堂はどちらかというと、一歩引いた三代のような位置付けをされていたように思う。
霊感のない藤堂がこの職に就く事を、一体誰が予想していただろう。藤堂自身考えてもみなかったし、あの頃はただ、現在が楽しかった。過去を振り返る事も、未来を諦める事もなかった。夢を持っていた覚えはないが、いつだって、どうにかなると思っていた。現在が全てだったのだ。
それが今は、夢もなく過去を振り返る事もせず、漠然とした不安だけを抱いて日々過ごしている。夢など昔からなかったが、少なくとも今のように、明日の飯を心配するような事はなかった。明日の事は、明日考えればいいと思っていた。
老けたという事なのだろうか。それともまた、違うような気がしている。
「これです、この車」
三代が指したのは、何の変哲もない青い軽自動車だった。封じられているのだから当然だが、霊の姿も見えない。
隣で車を見つめる芹香の様子を窺うと、彼女は顔をしかめていた。同じく三代の表情も曇っているが、明石と由井は先ほどまでと大差ない様子だった。恐らく彼ら三人の中で三代だけは、霊感が強い方なのだろう。
「どうなの、堤よ」
「難しいな」
切れ長の目が細められ、睨んでいるような顔付きになる。芹香は車に視線を落としたまま、スーツのポケットから白い手袋を取り出した。
「ボンネットを開けて頂けますか」
全体に細かい文字が書かれた手袋に指を通しながら、芹香は三代に声を掛ける。彼は慌ててポケットから鍵代わりの小さなリモコンを取り出したが、開ける段になってためらう。少し迷って、三代は明石に鍵を渡した。
明石は躊躇なくリモコンを操作し、ボンネットに掛けられたロックを解除する。ゆっくりと開いて行く蓋の裏側に貼られた札を見て、藤堂は嫌な顔をした。
「なんだこりゃ」
思わず、そう呟いた。蓋の裏側には、一面に大小様々な札がびっしりと貼り付けられている。これほどまで厳重に、一体何を封じているのだろうか。
顔をしかめる藤堂をよそに、芹香は車に近付いて蓋の裏側に貼り付けられた札の内、一枚を無造作に剥がした。あ、と三代が声を上げる。明石と由井も驚いて肩を震わせたが、何も起きなかった。札を剥がした張本人はまじまじとそれを見て、納得したように小さく頷く。
「高屋敷家のものだな」
「高屋敷ィ?」
渚の家だ。藤堂が奇妙な声を上げると、芹香は大様に頷いた。怪訝に眉を顰めた明石が、太い首を捻る。
「高屋敷家ってあの、すごい依頼料取るトコですよね?」
「ええ。本家と血縁関係にある家に依頼すると、封印するだけでも法外な依頼料を請求されます。彼らに悪意はないのですが……」
芹香はそう言って、困ったような顔をした。剥がした札を丸めながら、彼女は視線を上げて藤堂を見る。
「業者が頼んだなら、これは婚姻関係にある家の者の仕業だろう。あちらは少々頼りないから、依頼料も安い」
少しひそめた声で、芹香は言う。藤堂は首を捻った。
「そうなの?」
「大体はな。渚がいなくて、良かったかも知れん」
「なんで?」
芹香は聞き返した藤堂に向かって、苦笑いを浮かべる。
「出来が良くない。身内がこんなものを使ったと知ったら、あれはまた怒るだろう。仕事は確実なんだがな」
この女はそんな事まで分かるのかと、藤堂は些か呆れた。除霊屋の繋がりというのは、よく分からない。
「だからたくさん貼ってあったんですね」
三代の声は、安堵したようなものだった。弱い札だと聞いて、そう強い悪霊ではないと思ったのかも知れない。
「恐らく。二束三文にもなりませんね、この札は」
「売れんの?」
「本来はな。これは売れないが……藤堂、剥がすのを手伝ってくれ。これでは除霊もままならん」
凄い凄いと明から散々聞かされていたが、実際何が凄いのか、藤堂はついこの間まで知らなかった。そして今ようやく、彼女が凄いという理由を理解し始めている。
うろたえる依頼人達を尻目に、芹香は更に札をまとめて剥がした。藤堂も車に歩み寄り、端から札を剥がして行く。心なしか、生臭いような黴臭いような、不快な臭気が漂って来る。
札を剥がして空いた箇所から、蓋の裏本来の色が覗いた。しかしそのまだらな色に、藤堂は首を捻る。
「……なんだ、これは」
芹香の声が、俄かに硬くなった。彼女が剥がした札の下から、水が飛び散ったような跡が見える。濃い茶色をしたその跡を見て、藤堂は思わず眉をひそめた。
「血の跡じゃねえの、これ」
「ボンネットの裏に血痕か……少なくとも、事故車ではないということだな」
肩越しに振り返り、芹香は呆気に取られたように立ち尽くす三人に声を掛ける。
「申し訳ありませんが手が離せないので、どなたか警察に連絡して下さい」
青年達は三人一斉に、顔を見合わせた。由井がポケットから携帯電話を取り出しながら、駐車場を出て行く。流石にここでは電波も入らないだろう。
藤堂はそれを横目で見ながら、更に札を剥がす。仕事と思っているせいか、徐々に露わになって行く血の跡を、不思議と恐ろしいとは感じなかった。しかしこんな所に付着した血痕が、ここまではっきりと残るものなのだろうか。いくらなんでも、業者が洗わなかったとは考えにくい。
大方剥がし尽くしたところで、藤堂はシャツの裾を引かれる感覚に振り返る。しかし誰もいなかったので、訝りつつ視線を落とした。そこには、見覚えのある小さな幽霊が立っている。
「なんだ、コウ」
藤堂の後ろで、額にほくろのある少年の霊が、心配そうな表情で彼を見上げていた。藤堂の守護霊は問いかけられても何も言わず、左右に首を振る。藤堂が驚いて大きく瞬きをすると、コウは小さな指で、芹香の背中を指し示した。
「何?」
「どうした」
視線だけを向けた芹香に、藤堂は顎でコウを示して見せた。彼女は差された先に視線を落とし、目を丸くして首を傾げる。少し考えた後、ああ、と呟いた。
「あなたの守護霊か」
「そう。コウっつーんだと」
コウは芹香を見上げて、気の抜けた笑みを浮かべて見せた。愛くるしいその表情を見て、芹香の頬が仄かに赤らむ。そしてゆっくりと顔を上げて藤堂を見ると、二三度瞬きした。
「……いいな」
「なにが?」
子供好きなのだろうかと藤堂は思ったが、女というのは大概子供が好きなものだ。彼女も多分に漏れずそうなのだろうが、意外ではあった。
コウは更に、藤堂の服の裾を引っ張った。彼は最近、何故か口を利かない。少し前までは喋っていたように記憶しているのだが。
「なに、堤に任せんの?」
コウは意思が通じた事が嬉しかったのか、破顔して何度も大きく頷いた。藤堂は肩を竦めて芹香を見たが、彼女は未だ、愛しいものを見るような目でコウを見つめている。
「堤、残り頼むわ」
言いながら藤堂はコウに引っ張られるまま、後ろへ下がった。芹香は呼ばれてようやく我に返り、暫く名残惜しそうにコウを見つめた後、車へ向き直る。
実際、服を引っ張られていた訳ではないのだろう。霊体は人に触れても、無機物に触る事は出来ない。恐らく、コウの気付いて欲しいという念が、藤堂を振り返らせた。幽霊の想いとは、かくも強いものなのだ。
「霊の怨念が強ければ強いほど痕跡が濃く残るというが、これはひどいな」
どこから出してきたのか、三代が持ってきたゴミ袋に剥がした札を捨てながら、芹香はそう言った。三代の表情が凍りつく。少し離れた場所で見ていた明石も、表情を引きつらせた。
藤堂は蓋の裏を見て、僅かに眉根を寄せた。茶色い跡は、押し付けられたように歪んでいる。車に何があったのか想像してしまい、藤堂は顔を背ける。
「……濃いな。三人とも、離れていた方がいい」
最後の一枚に手を掛けて、芹香は背中越しに言った。藤堂は怯えた表情を浮かべる二人を見て軽く肩を竦めた後、コウを見下ろす。真っ直ぐに芹香を見つめていたコウは、藤堂の視線に気付くと、彼を見上げて頷いた。大丈夫なのだろう。
「剥がすぞ」
芹香は残った最後の札を、一気に剥がし取った。瞬間、生臭い臭気が鼻を突く。藤堂は思わず鼻を摘んだ。
大きく目を見開いた芹香は、手元の札を改めて見て、苦い顔をした。親指で札の端を捲り、引き裂く。それは綺麗に、二枚の札に分かれた。藤堂は普通の札の厚みを知らないし、芹香も手袋をしていたから、気付かなかったのだ。
「え、何それ、二枚?」
藤堂が聞くと、芹香は険しい表情のまま彼を見て、更に札の端を捲った。
「三枚だ……見誤った」
車から、地の底から響いて来るような声が聞こえた。