第五章 救う人々 二
明とゆなが出て行った後、店番がいなくなると怒った渚が、早々に事務所へ戻った。渚は大抵いつも怒っているが、疲れないのだろうかと、藤堂は思う。食事後すぐに動きたくない彼は、食器を片付ける芹香を、煙草を吹かしながら眺めていた。
彼女は初めて事務所に顔を出したその日に鍋を焦がし、皿を一枚割った。藤堂は食えないような食べ物というものを生まれて初めて目の当たりにし、それで幽霊退治しか出来ないという祐子の言葉の意味を、ようやく理解したのだ。だから芹香を咎めはしなかったが、食事当番からは抜いた。
「やんなくていいよ、お前皿割るから。そこ置いといて」
振り向いて渋い顔をした芹香は、何も言わずに重ねた皿を流し台に置いた。つくづく台所の似合わない女だと、藤堂は思う。先入観がそう思わせるのかも知れないが、彼女には生活感がない。似合わない上に、家事も碌に出来なさそうだ。
それでも、やろうとするだけマシだろう。少なくとも藤堂のように、出来るのにやらないよりはいい。
「……女が家事しなきゃなんねえってのは、時代遅れだからなあ」
済まなそうに眉尻を下げる彼女が可哀相に思えて、藤堂は慰めるように呟く。
家庭的な女を望む男は、夢見がちだと馬鹿にされる。藤堂はそんな愚痴めいた実姉のぼやきを聞きながら育ったので、どうでもいいと思うようになっていた。姉は家事をするより仕事をしていたいという、ごく有り触れた女性だった。あちらはいつまでも独身生活を謳歌している藤堂と違って、さっさと嫁に行ってしまったが。
「……任せきりだったんだ、家政婦に」
「お前は仕事が出来るから、いいんじゃねえの。ゆなはアレ、修行中だから」
藤堂には、言い訳のようにぼやく芹香が微笑ましく感じられた。歳の差が開いているからか、彼女にしろ渚にしろ、同僚というよりは妹のように思える。藤堂には妹どころか、弟さえいないが。
「学校で掃除するようなものか」
「そんなもん。情操教育?」
「それとは違うな」
藤堂は煙草の火を消して立ち上がり、流し台の前に立った芹香の横へ移動した。食器を洗おうと手を伸ばすと、芹香はその手を避けるように、流し台の脇に置かれた冷蔵庫の前へ移動する。
常に明が横にいるから、かなりの長身なのだとばかり思っていたが、芹香の目線は藤堂より少し低い。学生時代、ウドの大木と貶されていた事を思い出した。
「なんで会社辞めたの?」
何の気なしに問い掛けると、彼女は僅かばかり眉をひそめた。聞かれたくなかったのだろうと、藤堂は少し後悔する。要領が悪いのか頭の回転が遅いのか、たまに自分から話を振ると、余計な事ばかり言ってしまう。
「色々あってな。居づらくなって、辞めた」
それ以上言及する事も出来ず、藤堂は生返事だけして流し台へ視線を落とした。芹香は食器を洗う彼の手元を見つめたまま、離れるでもなく懐古するような表情を浮かべている。なんとなく、居心地が悪かった。
「不思議だな」
「ん?」
感慨深げな声に短く聞き返すと、芹香は少し笑った。小振りな冷蔵庫に凭れる彼女の目は、穏やかに澄んでいる。
「私は物心ついた頃にはもう、あの会社にいた。それが今になって転職して、こうしてあなた達といる事が、不思議だ」
洗い終わった食器を拭きながら、藤堂は驚いたように眉を上げて、すぐ隣にある整った横顔を見た。
そんなに昔から、退治屋として働いていたのだろうか。それなら家事が出来ないのも頷けるが、何故、という疑問もあった。
何故退治屋なのか。それは明にも渚にも言える事だが、終ぞ聞いたことはない。わざわざそんな危ない職に就かなくとも、今はどんな店も慢性的な人手不足に悩まされているから、どこでも雇ってもらえるだろう。
「そんな昔から?」
職に就いた理由など聞くつもりもなかったので、藤堂はそう聞いた。芹香は頷く。
「ゆなぐらいの歳の頃には、ある程度の事はしていたな。正式に雇用されたのは十八の時だが」
「そっからずっと?」
「ああ、毎日忙しかった……言い訳ではないが」
皿を洗い終わっても芹香が動かなかったので、藤堂はやかんに水を入れて電気コンロに置いた。
彼女が入って一週間ほど経つが、常に明が纏わりついているか外出するかしていたから、ゆっくり話す時間がなかった。別段話そうと思うような事もなかったのだが、彼女の穏やかな表情を見ていると、もう暫くこうしていたいような、それも気恥ずかしいような、複雑な心境になる。
芹香は事務所にいる時、必ず明にしがみつかれて困った顔をしているから、笑顔を見るのも久しぶりのような気がした。そう考えると、なんとなく得をしているように思える。相手が有名人であるからというのが理由かも知れないが。
横にいると実感が湧かないが、世間的には有名人なのだ。本人が騒がれたくないと言うから宣伝材料にはしていないが、彼女を見て挙動不審になる依頼人が何人もいた。そんなに有名な退治屋を知らなかった藤堂は、彼女に申し訳なくも思う。
「のんびりしているな、ここは」
「退屈?」
芹香は微かに笑みを浮かべたまま、視線だけを藤堂へ向ける。
「いや。楽しい」
「そ」
その目が嬉しそうに見えて、藤堂は視線を逸らした。真っ直ぐに見られない。純粋な目を向けられると、自分が嫌に思えて仕方がなくなる。藤堂が目を見て話せる知り合いなど、旧知の友人か祐子ぐらいのものだ。
同僚達の目はあまりに真っ直ぐで、藤堂はまともに見る事が出来ない。全員が全員、彼が失くしたものを何がしか持っている。それだけで、ひどく眩しく思えてしまう。
インスタントのコーヒーを入れて渡すと、芹香はありがとうと呟いた。渚に入れてやった時は、インスタントなど不味くて飲めないと騒いでいたものだが。藤堂には、それでも結局飲み干した彼女がよく分からない。
「浄霊屋に、憧れていたんだ」
藤堂は思わず目を丸くした。憧憬の対象である彼女が、憧れるものがあったのかと、驚く。
「なんで?」
短く問い返すと、芹香はコーヒーを一口啜って息を吐いた。
「他人の業によって悪霊になった霊は、原則として浄霊屋に任せる事になっている。知っているな?」
「ああ、まあ」
明にそんな話を聞いたような気もする程度だが、逐一問い返していては話が進まないので、曖昧に肯定した。
「何度か仕事を任せたが、彼らは皆、いい人たちだった。根からの悪人が死んで悪霊化した、救いようのない悪霊であっても、なんとか救おうとした」
夢見るような表情を浮かべる芹香から、藤堂は再び視線を逸らす。かねてより綺麗だと思っていたが、今日になって更にその認識が強くなった。そして恐ろしいほどに、眩しく感じられる。
憧憬でも、羨望でもない。ただ、眩しかった。若さだけではない、藤堂がなくした何かが、彼女にはある。
「羨ましかったんだ。私のような退治屋には、消すことは出来ても、救うことは出来ない」
「浄霊屋になりゃ良かったのに」
流しの上の窓を開け、藤堂は煙草に火を点ける。窓の外、すぐそこに苔むした塀が見えた。隣家との距離が異常に近いのだ。
芹香は両手でカップを包み込むように持ったまま、思いつめたような表情で俯いた。また余計な事を言ってしまったと、藤堂は再三ながら後悔の念に駆られる。
「母がな、浄霊屋だったんだ」
「へ」
藤堂は妙な声を出したが、芹香は構わず続けた。
「だが、強い悪霊を無理に浄霊しようとしてな。駄目だった。産後すぐで、体力がなくなっていたのもあったが」
何も言えなかった。慰めるのも妙だし、何より掛ける言葉が見つからない。こんな時になんと言ったらいいかさえ分からないから駄目なのだと、藤堂は心中己を叱咤する。
「だから父は、私を退治屋にした。誰にも、どんな霊にも負けない退治屋にな」
藤堂は口を開きかけてやめ、ああ、とぼやいた。困り果てて頭を掻く。言葉が出てこなかった。カップから立ち上る熱気に当てられ、頭が回らない。
そもそも藤堂は、込み入った話をするのが苦手だ。今までずっと避けてきたし、他人とそんな話をする程深い間柄になる事もなかった。人付き合いを避けてきたと言うなら、そうなのだろう。
「……なんで、そんな事俺に言うの」
流しへ灰を落としながら、藤堂は迷った挙句そう言った。芹香は僅かに目を丸くした後、首を捻る。
「さあ」
「さあって」
「あなたなら、黙って聞いてくれそうな気がした」
そんな答えが、返ってくるような気はしていた。藤堂は予想と違わぬ答えに安堵する反面、残念なようにも思う。何故そう思うのか、自分でもよく分からなかった。
どう返して欲しかったのだろう。タバコを銜えたままの唇の隙間から煙を吐き出しながら、藤堂はそう自問する。
祐子が父親の話を始めた時も、何故自分に言うのかと疑問に思った。同情するでも叱咤するでもなく、黙って聞く姿勢を取る自分だからだと答えを出して、それで納得したが、今のようにそれを残念だとは思わなかった。
頼って欲しいのだろうか。人付き合いの苦手な自分が、そう思っているのだろうか。それも中々、考え辛い事だ。
考えても仕方がないと、藤堂はそこまで考えて諦めた。水を流して煙草の火を消しながら、ふと、芹香を見る。色素の薄い目は、未だ真っ直ぐに彼を見ていた。
「あの常務、堤つったよな。親父さん?」
芹香の瞳が揺れた。またやってしまったと、藤堂は思わず顔を逸らす。何故自分はこうも不器用なのかと、罪悪感さえ覚えた。
何も答えない芹香を見る事も出来ず、藤堂は薄いコーヒーを啜る。恐らくは、図星だったのだろう。けれど返答がないという事は、何かあったに違いない。行く当てがないと言っていたから、何があったかは、なんとなくだが予想はつく。
無言の間に耐えられなくなって意味もなく首を振り、藤堂はカップを持ったまま廊下へ向かう。自分から振っておいて逃げるようだと、情けなくも思う。
正直に答えられるのも、濁されるのも嫌だった。そろそろ渚が怒鳴り込んで来てしまいそうな気もしていた。そんな思考が言い訳に過ぎない事も、重々承知している。
「……藤堂」
扉に手を掛けた瞬間、背後から声が掛かった。藤堂は恐る恐る振り返る。
「あなたは優しすぎる」
芹香の顔が寂しそうに見えて、藤堂は何も答えられなかった。答えないまま、扉を開けて店へ出る。そして空っぽのカウンターを見て、怪訝に眉根を寄せた。
「おい、高屋敷いねえぞ」
え、と驚いた声を上げ、芹香が玄関から出てくる。藤堂は誰もいないカウンターにカップを置き、眉間に皺を寄せたまま顎を掻いた。
「どこ行ったんだアイツ」
「依頼が来たんだろうか」
「何も言わずに出てく奴じゃねえよ。案外几帳面だから、あれ」
ううんと唸り、藤堂は結局カウンターに着いた。急な依頼が入ったのだろうと、そう思うことにする。
芹香は怪訝に首を捻りながら、藤堂の横に腰を下ろした。座った途端、その目が入り口を見て止まる。つられてそちらを見ると、大学生と思しき青年が三人、扉の前で何事か話していた。
藤堂が客だろうかと思った矢先、彼らはカウンターに着いた二人に気付いて自動ドアを潜った。
「すげえ、白銀がいる」
「辞めたってホントだったんだ」
不躾な三人の視線に、芹香は僅かに身を引いた。この場に明がいたら、さんを付けろと怒鳴っていた事だろうと藤堂は思う。実際彼女はそれをやって、後で渚にこっぴどく叱られた。無論反省はしていたが、何故堪えられないのかと、藤堂は呆れたものだ。
「従業員が出払ってるんで、浄霊は出来ませんけど」
「あ、大丈夫。どっちでもいいんで」
藤堂の問いに掌を振りながら答えた大柄な青年の目は、彼ではなく芹香の胸を見ていた。よくよく見れば、他の二人の視線も同様の場所へ注がれている。
気持ちは分かる。藤堂とてついこの間までは、彼女の胸ばかり見ていた。しかし同僚として働くようになった今は、その視線に気付いていい気はしない。
自分の事は完全に棚上げして不愉快になった藤堂は、椅子を勧める事も忘れて細めた目を三人に向けた。
「で……依頼内容は?」
三人は同時に顔を見合わせ、お前が言えとばかりに、お互いの腕を肘で小突いた。藤堂に睨まれて気後れしたのかも知れない。藤堂は己の行動を恥じる。これでは明と一緒だ。
「それがその……」
困ったように頭を掻いて、大柄な青年が口ごもった。そしてちらりと、真ん中の青年を見る。気の弱そうな茶髪の彼は、入ってきてからずっと、暗い表情で俯いていた。ややこしくなりそうだと考えながら、藤堂はコーヒーを啜る。
「この間、中古で車買ったんです」
肩を落とした青年は、暗い声でそう言った。最近は面倒なので名前を聞かない事にしているが、三人もいると混乱しそうだと藤堂は思う。聞いてもどうせ、彼は覚えていられないのだが。
「妙に安かったから変だと思ったんですけど、キレイだったし、買っちゃったんですよ」
最近は後先を考えず、曰く付きのものを買ってしまう若者が問題視されている。若者は幽霊に対する危機意識こそ強いものの、そのものが見えなければいい、といった一種楽観的な傾向にある。
安くていい中古車があれば、訝っても自分なら買ってしまうだろうと藤堂は思う。しかし本当に悪霊に取り憑かれているような代物だったとしたら、後で除霊や退治を依頼するのに、余計な金がかかる。タダより高いものはないのだ。
「それで何の気なしにボンネット開けたら、お札がびっしり貼ってあって……」
「販売業者から、説明は受けなかったのですか?」
黙って聞いていた芹香が、ようやく口を開いた。疲れているのか、青い顔をした青年は無言で頷く。後の二人は、困ったように顔を見合わせていた。
「特に何かあるわけじゃ、ないんです。問題なく乗れますし……でも、やっぱりあれだけびっしり貼ってあるのを見ちゃうと、気持ち悪くて」
「俺も見たんですけど、凄い数だったんですよ」
ひょろりとした眼鏡の青年が、横から口を出す。真剣な表情だったが、その目はやっぱり芹香の胸を見ていた。
「封じる方が安く済みますからね。大方業者が陰陽師に依頼したんだろう……何も言わずに売ったとなると、罪に問われるぞ」
怪訝な面持ちの藤堂に、芹香はそう説明してから立ち上がる。長身の彼女に、三人が驚いた顔をした。
「私が行きます。放っておいたら、どうなるか分からない」
「本当ですか! ありがとうございます」
青い顔をしていた青年の表情がぱっと明るくなり、深々と頭を下げた。芹香は僅かに頷いて、カウンターから出る。それを見た眼鏡と大柄の青年が依頼主の頭越しに目配せし合い、薄く笑った。
安堵の表情とも取れたが、藤堂はその顔に違和感を覚えた。マスコミに垂れ込まれるのではないかと、そう懸念する。ニュースの内容を聞く限り、行方を捜しているような節があるから、つい訝ってしまう。
三人に先導されて事務所を出ようとする芹香に、藤堂は思わず声を掛ける。
「堤」
振り返った芹香に何と言ったらいいのか、藤堂は迷った。本当なら、気をつけろと一声掛ければ良かったのだろう。けれどやっぱり一人で行かせるのも、危ういような気がした。
藤堂は結局立ち上がり、カウンターから出る。ついて行けば牽制になるだろうと、そう思った。
「俺も行く」
芹香は驚いたように目を丸くした。それもそうだろう。藤堂が行った所で何が出来る訳でもないし、何より彼は芹香が入ってから、従業員の頭数が増えた事もあって、事務所から出なかった。
藤堂の目には、芹香が微かに笑ったように見えた。
「行こう」
これでは本当に妹を心配する兄のようだと思いながら頷くと、藤堂は店を出てシャッターを閉めた。