第五章 救う人々 一
※虫が出るので注意してください。
騒がしい繁華街の裏通りに、薄汚れたビルがあった。三階建てのこぢんまりとした建物で、立地条件が悪い為か、人の出入りもまばらだ。道路に面した一階店舗への入り口は、両開きのガラス戸となっており、近付いて覗けば店内の様子が容易に見て取れる。
ブランド物のバッグや貴金属類が並ぶこの店は本来、寂れた質屋だった。しかしつい数ヶ月前、あろうことか浄霊屋を始めた。
入り口から見て正面、一番奥に位置するカウンターには、日がな一日中、暇そうに煙草を吹かす男が座っている。まばらに無精髭を生やしたその顔付きは精悍なものだが、奥二重の瞼が半ばまで落ちているせいで、間が抜けて見える。
不器用で無愛想、更に口下手という凡そ客商売には向かない性質の藤堂匡はしかし、この店の主だ。
その横に腰を下ろした女は、不満そうに白い頬を膨らませて、組んだ指に顎を乗せていた。きつく巻かれた金髪は背中まで伸ばされ、瞳の大きなつり目を縁取る睫毛は、上向きに隙間なく生えている。
西洋人めいた容貌だが、彼女は純日本人だ。家業の退治屋を捨てて浄霊屋となった、高屋敷本家の一人娘である、高屋敷渚。
「まだ出来ませんの?」
ふてくされた表情で、渚は藤堂に不満をぶつける。そう言われても藤堂が飯を作っている訳ではないので、返答のしようがなかった。何より、空腹なのは藤堂も同じだ。
「さあねえ……つうか、堤もまだか」
「依頼を一件片付けてから来るそうですから、もう少しかかるのじゃありませんこと?」
渚は指を組んだままカウンターの上で腕を伸ばし、猫のように伸びをした。大物の新入りのせいで急激に忙しくなったとはいえ、昼飯時は流石に暇だ。
渚は最近、暇な時間を見つけては、霊媒師見習いと一緒に講義を受けるようになっていた。業種を浄霊・退治屋に改めた後だったのだが、講師は彼女の前向きな姿勢に、両手を挙げて喜んだ。
つい先日、藤堂は初めて霊を抹消する場面に出くわし、その意味を知った。消された霊は幽世へは行けず、その後輪廻の輪に組み込まれることさえない。退治屋の仕事とは、霊の存在そのものを消滅させることだ。真面目な渚が嫌がるのも無理はない。
藤堂が煙草をもみ消した時、自動ドアが開いた。吸い殻を灰皿に投げ捨てながら、顔を上げる。
「あれ、もうお昼済んだの?」
入店してきたのは、セーラー服姿の少女だった。今時珍しい黒髪は肩の少し上で真っ直ぐに切り揃えられ、歩く度にさらさらと揺れる。大きな垂れ目と幅の広い唇、皮膚が薄いのか血の色が透けてばら色に見える頬が、いかにも少女らしい。
知恩院明はカウンターに近付くと、渋い表情の二人を見て不思議そうに首を捻った。藤堂は頬杖をついたまま、親指で背後の扉を指し示す。
「逆。腕によりをかけるとか言って、ゆながまだ作ってんの」
「どうせ、かかっているのは時間だけですわ」
憤慨する渚を見て、明は苦笑いした。藤堂の腹の虫が、ひもじそうに鳴く。
「そろそろお客さん来始める頃なんだけ……」
言いながら何の気なしに足下を見た明の表情が、俄かに凍り付いた。怪訝に細い眉を寄せた渚が、カウンターから身を乗り出して床に視線を落とす。引きつった表情を浮かべ、みるみるうちに青ざめて行く渚の顔を見ながら、藤堂は何かを予期して耳を塞いだ。渚の口が大きく開かれる。
絹を裂くような悲鳴が事務所中に木霊し、キャビネットのガラスが震えた。明がそろりとその場から離れ、凍り付いた無表情のまま床を指差す。
「と、藤堂さん……これ……」
「ああ、夏だからなあ。この辺飯屋だらけだから、多いんだよ」
「呑気に言ってる場合じゃありませんわ!」
明が小さく悲鳴を上げた。渚はその声に反応して、咄嗟に立ち上がる。カウンターの下から音もなく這い出してきたものは、藤堂の予想通りの姿をしていた。
頭部から伸びる二本の長い触角。蛍光灯の光を反射して不気味に黒光りする羽。忙しなく動く、棘の生えた三対の足。
紛うことなく、立派なゴキブリの姿だった。しかも、最近では滅多に見なくなったクロゴキブリだ。まだ存在していたのかと、藤堂は感動さえ覚えた。
渚は背後の壁にぴったりと背をつけ、息を殺していた。明はその場から動けないようで、助けを求めるような視線だけを藤堂に向ける。しかし藤堂は無視して煙草に火を点けた。
「ちょっと、藤堂さん何呑気に……ひっ」
苛立ったような明の声にも小さな悲鳴にも、藤堂は反応しなかった。空腹のあまり、動きたくないのだ。
床の上を恐ろしい速さで這い進む黒い嫌われ者は、入り口付近まで辿り着いた所で突然方向転換し、カウンターへ戻って来る。震え上がる明と渚は、固まったまま動けずにいた。
摘んで捨ててやっても良かったが、そんな二人の様子が面白いので、藤堂は放っておく事にする。
「こ、こっち来た! ちょっと藤堂さん!」
「俺のせいじゃねえよ」
我関せずとばかりに煙草を吹かす藤堂の背後から、彼を呼ぶ声が聞こえた。藤堂は気の抜けた目でそちらを一瞥した後、改めて二人の様子を窺う。激しく狼狽する彼女らは、呼ぶ声には気付いていないようだった。
明がまた悲鳴を上げ、部屋の中央へ逃げた。カウンターの下に隠れた虫を見て青ざめた渚は、ゆっくりと横移動して行く。
「何をなさっているのです」
藤堂宅へ続く扉から顔を出した少女は、不機嫌そうに小さな唇を尖らせていた。呼んでも来ないので、痺れを切らしたのだろう。
小柄な少女だった。くすんだ水色に染められた髪は傷んで所々跳ね、尻を覆い隠すほど長く伸ばされている。ふっくらとした頬は幼い少女のそれだが、肌がやけに青白い。への字に垂れ下がった眉は少々太いが、目が大きい為か、そう気にはならなかった。
黒江ゆなはカウンターの中へ入ってきた黒光りする虫を見つけると、愛らしい仕草で小首を傾げた。藤堂はやおら椅子から立ち上がりつつ煙草を揉み消し、ゆなを振り返る。
「未知との遭遇ですか」
「してない」
カウンターの中から逃げた渚と硬直する明を見て、ふうむ、とゆなが呟いた。そして玄関に置いてあった藤堂のサンダルをつっかけ、店の方へ降りる。
「なんなのです、お二人とも情けない。たかが虫ごとき、そんなに怯えくさってからに」
ゆなは藤堂の足下に屈み、小さな手でむんずと虫を鷲掴んだ。カウンターの陰に隠れて見えなくとも、その動作から、ゆなが何をしたか理解したのだろう。明と渚が、同時に悲鳴を上げる。藤堂はゆなの剛胆さに呆れた。
果たして年頃の娘が、ゴキブリを素手で掴むものだろうか。毎度の事ながら、ゆなの行動には驚かされる。あの子煩悩な親の下で育って何故こうなってしまうのかと、藤堂は頭を抱えたくなった。
「ゴキブリがなんだというのです」
ゆなは虫を掴んだ手を、カウンターの上に突き出した。蒼白になった明と渚は、悲鳴を上げる事も出来ずに立ち尽くしている。
「ゴキブリが何をしたというのです。さあ言ってごらんなさい、お二人とも」
「ゆ、ゆなちゃんやめて……それ外に……」
ゆなはカウンターから出て、腕を突き出したまま明に近付いて行く。カウンター脇の壁に張りついていた渚が、ゆなの手の中で揺れる触角を見て震え上がった。
「は、早く捨てなさい汚らわしい!」
感情の読み取り辛い大きな目が、渚を見上げた。そこで彼女は己の失言に気付き、じりじりとゆなから逃げ始める。藤堂はゆなが出て来た扉脇の壁に凭れ、成り行きを見守っていた。
ゆなが唇だけを笑みの形に歪めた。渚はその表情を見た瞬間、弾かれたように藤堂に飛び付く。藤堂は僅かに眉をひそめたが、避けることもしなかった。
藤堂の腕に縋りつく渚を見て、ゆなの表情が険しくなる。
「ゴキブリは太古の昔から同じ姿で生き続ける、珍しい生き物なのです。生きる化石を汚らわしいとは何事でしょう。そしてそこはゆなの指定席です、おどきなさい」
「こ、来ないでちょうだい!」
「……何を騒いでいるんだ」
呆れた声に入り口を見ると、長身の女が立ち尽くしていた。白い細面に凛々しくつり上がった眉と、切れ長の目。凛とした美貌に、腰まで伸ばされた長い銀髪がよく映えている。黒いパンツスーツを纏った体はすらりとして細かったが、シャツの生地を押し上げる胸は豊かで美しい。
「おう、お疲れさん」
藤堂は呑気に片手を挙げて挨拶したが、他の三人は無言だった。三者三様に、硬い表情を浮かべている。
「おはよう、藤堂」
堤芹香は整った顔を困ったように歪め、挨拶の言葉を口にしながらカウンターに近付いて来る。傍目には、ただ無意味に大騒ぎしているようにしか見えなかっただろう。
「何をやって……」
芹香はそこで、言葉を止めた。
渚を睨むゆなも、ゆなの手の中で暴れる虫に視線を注いだままの渚も、芹香の背後にいた明も、その表情には気付かなかっただろう。しかし藤堂は確かに、彼女が浮かべた今にも泣き出しそうな表情を見た。
最強の退治屋もゴキブリは苦手なのだろうかと、彼は意外に思う。万人が苦手とする虫を鷲掴みにして平然としている、ゆながおかしいのだろうが。
赤面症といい、芹香も案外、可愛いところがある。藤堂は心中そう独りごちて、ゆなの頭を軽く叩いた。無表情のまま顔を上げた彼女の頭上で、入り口を指差す。
「ゆな、それ外にポイしてこい」
「あい」
ゆなは素直に頷くと、サンダルで床を擦る音を立てながら、小走りで外へ出て行った。呆然とゆなの背中を見送っていた渚がようやく我に返り、勢い良く藤堂から離れる。気の抜けた視線を渚に向けた藤堂は、紅潮した彼女の顔を見て、軽く肩を竦めた。
程なくして、名残惜しそうに何度も入り口を振り返りながら、ゆなが戻ってきた。藤堂は彼女に向かって手招きする。
「手洗って来い、飯食うぞ。高屋敷、突っ立ってないで中入れ」
声を掛けられてはっとした渚は、逃げるようにカウンター裏の扉へ入って行った。ゆなもそれに続く。
「堤、メシは?」
びくりと肩を震わせ、芹香は僅かに視線を上げた。未だに表情が硬い。
「あ……ああ……食べる」
「私、店番してるね」
「頼むわ」
カウンターの中へ入る明に片手を挙げて見せながら、藤堂は玄関に上がる。青い顔をした芹香も、それに続いた。どことなく、動きがぎこちない。
短い廊下の突き当たりにある居間に入ると、ゆなと渚は既に丸い卓袱台を囲んで座っていた。大人数用のものではないので、皿を四つも乗せると窮屈そうに見える。
「お前、オムライスにどんだけ時間かけてんの」
「デミグラスソースを手作り致しました」
「アホか」
短く悪態を吐いて、藤堂はフローリングの床へ直に腰を下ろした。ダイニングキッチンには卓袱台とゴミ箱しか置かれていないから、狭いながらも殺風景だ。
渚と芹香は声を揃えていただきますと言って、手を合わせた。ゆなが誇らしげな表情で、大様に頷く。藤堂は何も言わずに手だけ合わせ、スプーンを取った。
「明日は芹香さんですか」
ゆなはのんびりと食事しながら、横に座って黙々とスプーンを口に運ぶ藤堂を見上げた。口の中のものを飲み込んで、藤堂は左右に首を振る。
「堤はダメだ、当番から抜け。台所焦がす」
「す、済まん……」
「お気になさらないで。人には得手不得手があるものですわ」
食事する手を止めて俯く芹香を慰めた渚は、何故か得意そうな顔をしていた。調理師免許を持っているというだけあって、確かに彼女の作る昼食は美味い。すぐにでも嫁に行けると言ったら、セクハラだと怒鳴られたのだが。
渚はゆなに視線を移し、細い眉をつり上げる。まだ怒っているようだった。
「あなたも、余計な事さえしなければね」
口いっぱいにオムライスを頬張っていたゆなが、無表情のまま視線だけを渚に向けた。
「長い触角」
「えっ……」
ゆなが呟いた一言に、渚は食べる手を止めて固まった。凍りついたような彼女の様子に構わず、ゆなは更に続ける。
「つやつやとした真っ黒な体」
芹香が静かに、硬直した。段々と青褪めて行く白い顔を眺めながら、やっぱり苦手なのかと、藤堂は再確認する。
「とげとげのある足。猛スピードで飛び回る……」
「ゆな、メシは静かに食いなさい」
「あい」
素直に従って食事を再開したゆなは、もう何も言わなかった。渚は渋い表情で、のろのろとスプーンを動かしている。あれでは食欲も失せるだろう。藤堂は少し、渚に同情した。
一方、芹香はまだ俯いていた。藤堂は彼女の肩を、スプーンを持った手で軽く小突く。
「平気?」
顔を上げた芹香は、今度は僅かに頬を赤らめた。形の良い唇が何か言いたげに動いたが、彼女は結局、無言で頷いた。
店の方から、明の声が聞こえてきた。客でも来たのだろうかと、藤堂は食べるペースを速める。しかし食べ終わる前に、明が扉から顔を出した。
「もう食べ終わる? ちょっと行ってくるね」
「ゆなも行きます」
皿に残ったオムライスを一気にかきこむと、ゆなは傍らに置いてあったヘルメットを被りながら立ち上がった。明は頷いて、店に引っ込む。
仕事が入ると、ゆなは必ず明について行く。言動も行動も突飛だが、自分が何の為にここにいるのか、また何をすべきか、ちゃんと理解しているようだ。
ゆなが出て行った後、後片付けは自分がするのだろうなと、藤堂はぼんやりと考えながら煙草に火を点けた。