第四章 終わりなき連鎖 十
ひとしきり泣いた後、祐子はその場にいた全員に頭を下げて謝った。渚は執事と顔を見合わせ、肩を竦める。
「まあ、無事に収まって良かったですわ」
「メイさんもこの通り生きておりますから、お気になさらず。罪を憎んで人を憎まず、です」
ゆなは藤堂の腕を抱き込み、抑揚のない口調で言った。大人びた彼女の口振りに、祐子はようやく普段通りの笑顔を見せる。それを見て、明も安堵したような笑みを浮かべた。
「ありがと。……明ちゃんも、ごめんね」
明はおかっぱの黒髪を揺らして、左右に首を振った。
「私も説明不足だった。最初から、ちゃんと言っておけば良かったのに」
「あー……もーいいわ、辛気くさくなるから」
憑き物が落ちたかのようにけろりとした祐子に、藤堂はついて行けていなかった。これがつい先程まで泣き濡れていた女だろうか。殺されかけたというのにあっさり許してしまう明にも驚いたが、祐子の豹変ぶりには開いた口が塞がらなかった。
真面目くさって説教じみた事を言った自分が馬鹿らしく思え、藤堂は溜息を吐いて肩を落とした。何故あんなに腹が立ったのか、自分でもよく分からない。元々あまり怒らない性分だし、何かに苛立っても、声を荒らげる事は滅多になかった。
落ち着いた今となっては、祐子の様子が普段と何ら変わりないのが不思議でならない。浅くはあるが短い付き合いでもないのに、藤堂には未だに祐子がよく分からなかった。
そもそも女は分からない。祐子などは特に、違う生き物としか思えない。男と女とは脳の作りからして違うのだから、やっぱり違う生き物なのではないかと藤堂は考える。
「藤堂君も、ありがとう」
唐突に振られて気のない視線を向けると、祐子は見た事のないような表情を浮かべていた。困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑顔に、藤堂は一瞬怯む。
「……いや、別に」
藤堂は身を硬くしたが、答えた時には既に、祐子は笑顔を消してしまっていた。そんな彼女の様子に、藤堂は更に困惑する。
結局彼女は、引くに引けなかっただけなのではないだろうか。本当は、父親が死んだ時点で、祐子の中で復讐心は失われかけていたのではないのだろうか。
だから、藤堂の指摘に涙を流した。今こうしてあっけらかんとしている所を見る限り、そうとしか思えない。自分で分かっていても、敵を見つけてしまったから、動かずにいられなかった。そう思うと、今普段通りに振舞っている彼女が、痛々しくも見えた。
「それにしてもあんたホント、何なのよ。人間?」
祐子の訝しげな視線を受けて、白銀は微苦笑した。本人からすれば苦笑いするしかないだろうが、祐子の言葉には藤堂も同意せざるを得ない。
「残念ながら人間だ。一週間じっとしていたから、少々鈍ったが」
はあ、と感嘆とも驚嘆ともつかない息を吐き、祐子は呆れたように肩を落とした。
「あれで? やっぱ人間じゃないわ」
「サイボーグか何かですか」
奇異の視線を向けるゆなを、祐子が笑った。しかし明は、失言したゆなを睨む。何も言わない事が逆に恐ろしい。
「それはないわよ。ちゃんと柔らかかったから」
「何したんですかどこ触ったんですか!」
祐子の発言に、明が過剰に反応を示した。目を見開いて詰め寄る彼女に、祐子は両手のひらを体の前に翳して身を引いた。藤堂は祐子の発言に引く。
「な、何もしてないわよ……」
祐子は怯えた表情で否定したが、白銀は俯いて顔を赤くしていた。痴女だとは常々思っていたが、まさかそこまでとは、と、藤堂は更に引く。
困り果てる白銀を見て、渚がくすりと笑った。フランス人形が笑ったようなその仕草に、藤堂は安堵する。渚なら、祐子を糾弾し始めてもおかしくないと思っていた。
対して白銀に慣れたかと思われた明は、最早いつものように熱い眼差しを向けていた。あれだけの立ち回りを目の前で演じられた後では、憧れる気持ちは分からなくもない。しかし明のこれは、度を超えすぎているように思われる。一瞬嫌な想像が脳裏をよぎったが、藤堂は慌てて打ち消した。
「あなたはこれから、どうするんだ?」
話を変えたかったのか、白銀は唐突にそう切り出した。祐子は首を捻って小さく唸る。
「とりあえず、退治屋は辞めるわ。ポチもやられちゃったし、退治屋でいる意味もないし、普通のOLに戻る」
ポチという呼び名には、誰も突っ込まなかった。
「普通のOLだと思ってたよ、俺は」
ゆなの手を虫でも払うような仕草で退けさせた後、ジーンズのポケットから煙草を取り出して火を点けながら、藤堂は溜息混じりに言った。反対側に首を捻った祐子は、ああ、と声を漏らす。
「そういえば言ってなかったね。びっくりした?」
「いや。こないだ来た時、鳳の社員章付けてただろ。あん時は驚いたけど」
「陰のある女っていいでしょ」
背中を丸めて顔を覗き込む祐子の襟元から、豊かな胸の谷間が覗いた。やはり痴女だ。しかし有難くも感じられるから困る。藤堂は吸い寄せられるように胸元を見ながら、短く否定する。
「別に」
明らかに視線を下へ向けた藤堂に、祐子は呆れて片眉を顰める。狭い眉間に皺が寄った。
「胸ばっか見てんじゃないわよ。ホントムッツリねあんた」
「こんなに堂々としてんのに、むっつりも何もないって。つうかね、そこにありゃ見るだろ。あんたの場合、見せてるようにしか見えな……おっと」
目の前に立ちはだかったゆなに煙草が当たりそうになり、藤堂は慌てて手を避けた。ヘルメットを被った頭が、目線の下にある。表情は窺えないが、この娘の事だから、普段と大差ないだろう。
「ダメです」
何がどう駄目なのか、藤堂にはさっぱり分からなかった。きっぱりと言い切ったゆなに驚いて忙しなく瞬きした後、祐子は更に背中を丸めて、彼女の目線の高さまで屈む。
「藤堂君はやめときなさいよ。このダメ男、胸しか見ないから」
「それならそれで、ゆなは藤堂さん好みの女になります。その内あなたや白銀さんにも負けないような、欧米人並のダイナマイトボデーにメタモルフォーゼしてみせます」
「それじゃ整形だバカ」
さも楽しそうに笑って、祐子はゆなの頭をヘルメット越しに撫でた。ゆなは両手を合わせて、目の前に迫った胸を拝む。
「どうかあやかれますように」
「頑張ってねえ。牛乳たくさん飲みなさい、牛乳」
「えっ……」
驚きの声を上げた渚に、全員の視線が集まった。明が桜色の頬を膨らませて噴き出す。
「渚さん、牛乳嫌いだもんね」
「なっ……」
真っ赤になった顔を背けた渚は、唇を引き結んで身を守るように腕を組んだ。気にしていたのだろうかと、藤堂は少々意外に思う。ゆなが渚を振り返って、にやりと小さな唇だけで笑った。
「仲間なのです」
「お、お黙りなさいっ」
裏返った声で怒鳴る渚を、明は更に笑った。朗らかな笑い声につられたのか、困り顔だった白銀も頬を緩ませる。
一時はどうなるかと思ったが、無事に収まって良かったと藤堂は思う。和やかな空気の中、排水溝に煙草を捨てた藤堂は、ふと思い立って白銀を見た。
「あんた、会社辞めんのか」
一瞬反応の遅れた白銀は、二三度瞬きしてから、ああと呟く。明が目を丸くした。
「色々あってな。今日まで新藤の家に厄介になっていた」
「ああ、それで……」
仲がいいのかと言おうとしたが、俄かに硬直した白銀が耳まで赤くなるのを見て、言葉を止めた。元々肌が白いせいか、夜目にも目立って見える。案外赤面症の気があるのかも知れない。
「ち、違う! 何もない!」
「……祐子さん、何したの」
過剰な反応を示した彼女を訝って、藤堂は呆れた目を祐子に向けた。慌てて首を振るその様子を見る限りでは、確かに何もしていないのだろうと藤堂は思う。困ったように頬に掌を当てた祐子は、僅かに首を傾けた。
「何もしてないったら。ウブねえこの子ったら」
「ゆなを見習って頂きたいものです」
「ゆなさんはもう少し慎みを覚えなさい」
ぴしゃりと叱咤され、ゆなは渚を見上げて小さく肩を竦めた。全く反省はしていなさそうだが、渚はその仕草を了解の意と取ったようで、それ以上何も言わなかった。彼女は存外素直だ。
「それよりあんた、会社辞めちゃってどうするのよ、これから」
顎に手を当てて祐子が聞くと、白銀は眉尻を下げた。困り顔の彼女を見て、明が勢い良く身を乗り出す。藤堂は嫌な顔をした。
「それなら是非うちに! 今なら昼食付きですから!」
「ソレお前作ってねえだろ」
「いや、しかし……」
手を取って詰め寄る明に、白銀は狼狽して言い淀んだ。更に限界まで近付いた明の顔を避けるように、身を反らせる。
「じ、事情があるんだ。迷惑は掛けられない」
「そんな事言わずに! なんなら藤堂さんち間借りしても……」
「いやそれは問題だろ」
突っ込む藤堂の声は、明の耳には入っていないようだった。更に口を開きかけたが、横から袖を引いたゆなに気付くと、彼女は視線を落とす。
「それは聞き捨てなりませぬ」
助け舟を出されたと思ったのか、白銀が表情を緩めた。藤堂は次に続く言葉を予想して、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。ゆなの言葉は混乱しか生まない。
「藤堂さんはゆなと六畳一間で暮らして行く内に、間違いを犯すべきなのです」
明が呆れた顔をした。藤堂には、彼女もゆなと大差ないような気がするのだが。
「俺二十歳以下興味ねえから」
「凄いですよ。つるつるですよ」
「お前の発育事情になんか毛ほども興味ねえよ。つうかソレ発育不全じゃねえの、病院行け」
渚が頭痛を堪えるように額を押さえ、溜息を吐いた。己の間違いに気付いたのだろう。ゆなの辞書に、慎みという言葉は載っていないのかも知れない。
祐子までもが面食らって口を噤む中、ゆなは更に食い下がった。藤堂は身を引いて逃げる。
「何故です。若い体は素晴らしいですよ」
「無理。色々と無理。どっちかっつー……ッ」
後頭部を襲った衝撃に前のめりになった藤堂は、驚いた拍子に舌を噛んだ。渚が小さく悲鳴を上げたのが聞こえたが、頭を抱えて痛みを堪える藤堂は反応出来ない。
「セクハラはダメだよ」
いつの間にか、明がバットを肩に担いで仁王立ちしていた。あれで殴られたのかと、藤堂は後頭部をさすりながらぞっとする。よく死ななかったものだ。白銀にはまた踏まれるし、今日は後頭部の厄日だろうか。
何を言いかけたのかも、すっかり頭の中から抜けてしまった。藤堂は非難がましい目で、明を睨む。
「いてえよお前、殺す気か。つうかなんで俺だけ?」
「ゆなちゃんバットで殴れって言うの?」
「人殴るのにバット使わないでくんねえかな」
噛んだ舌が痛くて、上手く回らない。藤堂はバットで人を殴ったにも関わらず悪びれる風もない明に、呆れて肩を落とした。何故こうも際物ばかり集まってしまうのだろう。
未だ痛む頭をしつこく撫でさする藤堂を無視して、渚が困惑する白銀を見上げた。
「行く当てがないなら、うちにいらして下さいな。お部屋が余ってますの」
「何それ嫌味?」
藤堂の突っ込みは、全員無視した。
「いや……しかし」
言いよどむ白銀の背後から祐子が近付き、肩に両手を置いた。困惑した面持ちで、彼女は祐子を振り返る。あれほど凛々しくつり上がっていた眉が情けなく下がっているのを、藤堂は意外に思う。押しに弱いのかも知れない。
「いいじゃないの、お言葉に甘えさせてもらえば。あんたどうせ、幽霊退治しか出来ないでしょ」
う、と言葉に詰まって、白銀は視線を宙に流す。
「それはそうなんだが……」
尚も渋る白銀を見かねて、明が再び彼女に詰め寄る。期待に満ちた眼差しに圧倒され、白銀は藤堂を見て助けを求めるような目をした。その視線に気付いた明は、勢い良く藤堂を振り返る。
ようやく頭痛の治まった藤堂は、二人の視線を受けて渋い顔をする。何故こういう選択ばかり任されるのだろう。
しかし、悪い気はしない。藤堂は二人に向かって、口角を上げて笑って見せた。
「いいんじゃねえの。あんたが居て困るこたねえよ」
明は目を輝かせて、白銀を見上げた。逐一自分にお伺いを立てる必要はないのではないかと、藤堂は思う。
白銀は藤堂と明を交互に見た後、曖昧に微笑を浮かべた。抜けるように白い頬が、仄かに赤く染まっている。
「……堤芹香と言う。宜しく頼むよ、藤堂さん」
明に掴まれたのと反対の手を差し出し、芹香はそう言ってはにかんだ。戦っている時はあれほど凛々しいくせに、相変わらず笑った顔は可愛いと、藤堂はぼんやりと思う。
思えば彼女と初めて会った時も、こうして手を差し伸べられたのだ。あの時とは立場が全く逆だが、藤堂にとっては感慨深いものがある。
「いいよ藤堂で。宜しく」
差し出された手を握り返すと、芹香の頬の赤味が増した。あれ、と呟く藤堂の声を聞いた彼女は、慌てて掌を引っ込めて俯く。傍で見ていた祐子は、何故かにやけていた。
ゆなが藤堂と芹香を交互に見て、肩を落とした。
「これは勝てそうにありませぬ」
明はぼやくゆなを見て、芹香を二度見した後、藤堂を振り返って鬼のような形相になった。