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透明なひと  作者:
33/75

第四章 終わりなき連鎖 九

 ここへ戻って来てから、何時間が経過しただろうか。そう長くは経っていないのだろうが、藤堂には何日もの時が過ぎたように感じられた。街並みを橙色に染め上げていた夕陽は既に姿を隠し、それに取って代わった街灯が、舗装された道路を照らし出している。人工的な街の灯りが、夜空を仄かに明るく見せていた。

 普段となんら変わりない風景に、感傷的になっている場合ではなかった。戦況は絶望的だ。気を失った明の体は、引きずられるまま大きく開いた口へ近付いて行く。それ以上見ている事が出来ず、藤堂は深く俯いた。

 瞬間後頭部に走った衝撃に、彼は前のめりになる。よろけはしたが、ゆなにがっちり掴まれた腕を支点に、なんとか踏みとどまった。藤堂は痛む頭を撫でながら、ぶつかったものを確認しようと慌てて顔を上げる。そこには、既視感のある光景が広がっていた。

 頭上を通り過ぎて行く、長い足。黒のスーツに包まれたしなやかな長身。大きく振り上げられた、白い手袋を嵌めた手。そして翻る、銀色の長い髪。

「白銀!」

 藤堂は思わず大声を上げた。瓢箪めがけて躊躇なく飛び込んで行った白銀は、着地すると同時に、振りかざした手刀を勢いよく漆黒の胴体に叩き込む。衝撃で大きく歪んだ瓢箪は地に落ち、後ろへ倒れ込んだ。

 体を地面に叩きつけられた衝撃で、触手が明と執事を捕らえたまま宙へ舞い上がる。力の抜けた触手が、空中で二人の体を放り出した。

 白銀が凍り付いたような表情で、放り出された二人を振り返る。ゆなは思わず両手で口元を押さえ、渚が悲鳴を上げた。執事はすぐさま着地したが、気を失った明はそうは行かなかった。

 落ちる。そう思うと同時、気が付いたら、体が動いていた。藤堂は落下する明の下へ駆け寄り、両腕を伸ばす。そしてその腕に吸い込まれるように落ちてきた体を、しっかりと受け止めた。

 思っていたより遥かに軽いが、それでも腕に受けた衝撃はかなりのものだった。びりびりと痛む腕をなんとか引き寄せ、抱きとめた明の体を抱え直す。

 しかし胸に抱き込んだ華奢な体を、藤堂は危うく取り落とす所だった。

「な……メイ! おい、生きてんのかお前!」

 制服越しに触れた明の肩は、恐ろしく冷たかった。血の気の失せた顔は紙のように白く、見ていて痛々しい。息をしているのかどうかさえ、分からなかった。

 駆け寄ってきたゆなが心配そうに明の顔を覗き込んだ後、藤堂を見上げた。執事の無事を見届けた渚が三人を振り返り、不安そうに眉尻を下げる。

「メイさんは……」

 今にも泣き出しそうなゆなの声に反応して、明の瞼がかすかに動いた。それに気付いた渚が藤堂に近付き、その腕の中で眉根を寄せる明を、恐る恐る覗き込む。

「忘れてって言ったのに。どうして来たの?」

 心配そうに明を見詰めていた白銀が、祐子を振り返った。緩慢な動作で起き上がる瓢箪の向こうで、祐子は険しい表情を浮かべている。白銀は体ごと彼女へ向き直り、睨むような視線を送る。

「友人としてではない。私は本社執行部役員として、お前を止めに来た」

「仕事熱心ね。一人でこいつと戦うって言うの? あんただって無事じゃ済まないわよ」

「どうかな」

 明がゆっくりと目を開き、間近にあった藤堂の顔に驚いて息を呑んだ。ゆなの表情がぱっと明るくなる。

 しかし明は慌てて周囲を見回した後、無理に抱き上げられた猫のように、藤堂の腕から逃れようとした。面食らった藤堂は、肩を竦めて振り回される腕を避けながら手を離す。

「ちょ、ま……」

「ご、ごめんなさいっ」

 無意識に暴れていたのだろうか。地面に降りた明は、驚いた声を上げる藤堂に早口で謝った。存外元気そうな様子の彼女に、渚が安堵の息を吐く。

「これが鳳コーポレーション社員としての、最後の仕事だ。やり遂げるさ」

 明の無事を確認して安心したのも束の間、全員が驚愕に目を見開く。藤堂は一瞬、彼女がなんと言ったのか理解出来なかった。その台詞を数回反芻してようやく、は、と間の抜けた声を出す。

 何を思ったのか、瓢箪を挟んで対峙する二人に向かって、明が一歩踏み出す。藤堂は慌ててその首根っこを掴み、引き止めた。

「手出すな。ありゃなんかある」

 戸惑う視線が藤堂を振り返って宙を泳いだ後、ゆっくりと正面へ向き直った。握り締めた小さな拳が、小刻みに震えている。噛み締められた唇が、白くなっていた。

 明が何を思うのか、藤堂には分からない。けれどその何かを堪えるような思いつめた表情から、思わず目を逸らした。

「戻れないのか」

 白銀の問いに、祐子はもう答えなかった。小さく溜息を吐いた白銀は肩越しに振り返り、明を見る。

「いいのか、説明しなくて」

 凛とした声に、明はびくりと肩を震わせた。戸惑う少女は視線を彷徨わせて、助けを求めるように藤堂を見上げる。目を細めてその視線に応え、藤堂は顔を上げた。

「そいつが邪魔で、祐子さんと話も出来ねえんだ」

「……分かった」

 梅雨を感じさせる生ぬるい夜風が、持ち主の通り名と同じ色の髪を靡かせる。街灯に照らされて機械のような輝きを放つ銀糸に、藤堂は一瞬目を奪われた。

「悪いがお前の飼い犬は消させて貰うぞ、新藤」

 言い終わる前に、祐子の指が白銀を差した。瓢箪の口が大きく開かれて真っ赤な口腔が露わになると同時、数十本もの細長い舌が飛び出す。不規則に蠢いて迫り来る不気味な触手を見ても、白銀は眉一つ動かさず、目前へ迫った舌を片手で横へ払いのけた。

 両足目掛けて襲い掛かる舌を跳び上がって避け、伸縮性のあるそれを踏み台にして更に高く、白銀は跳躍する。不規則に蠢いていた舌は彼女を追うように一塊になり、一斉に空中へと伸びた。

「頭は悪いようだな」

 形の良い唇が弧を描き、切れ長の目が細められる。その表情を見た時、藤堂は胸を締め付けられるような感覚に襲われた。恐ろしかった訳ではない。藤堂自身その感覚が何なのか分からなかったが、彼女とは住む世界が違うのだと、そう思った。

 白銀は追い掛けて来た舌を再び踏み台にし、更に高く跳んだ。空中で体を反らせて頭を下にし、彼女は落下しながらすれ違いかけた舌を纏めて左手で掴む。触手の先端が暴れ回って背中を叩くが、白銀は動じない。痛そうな素振りさえ見せなかった。

 声望高い退治屋は、自由落下するに任せて地面へ向かって手を伸ばし、触手を掴んだまま瓢箪の手前に掌を着いた。倒立の姿勢から腕のバネだけで体勢を変え、両足で着地し直す。捕まれた触手が暴れ回り、自身の胴をも叩く。瓢箪の向こうで、祐子が目を見開いたまま呆然としていた。

「こいつに手加減させるな新藤。どうせ私は喰えんぞ」

 しかし傍目には、瓢箪が手加減しているようには到底見えなかった。先ほどまでの動きと大差ない。力量の差が開きすぎているだけだ。

 白銀は両手で舌を握り直し、片足を瓢箪の胴に着いた。

 嫌な予感がした。藤堂はそっと、両手で耳を塞ぐ。ゆなは小さな拳を握り締めたまま固唾を呑んで見守り、渚は執事に寄り添ったまま、唖然と口を開けている。ただ一人明だけは、思い詰めたような表情で俯いていた。

 白銀は暴れる舌を強く引くと同時に、胴体を蹴り飛ばした。大きく開かれた口から獣じみた悲鳴が響き渡り、どす黒い血が口腔から吐き出される。

 それが本当に血だったのか、夜目には判断出来なかった。纏めて引っこ抜いた舌を放り捨て、白銀は顔に掛かった液体を手の甲で拭い取る。

「私を食えるか?」

 銀色の髪が異形の吐き出した血に濡れて、斑に赤黒く染まっていた。瓢箪の目が忙しなく動き、大きく開いた口がわなわなと震えている。挑発的な台詞に怒ったのか、今まで微動だにしなかった胴体がようやく動いた。

 瓢箪は鋭い歯が並んだ口を、更に大きく開く。胴体の殆どが巨大な口と化した異形は地面すれすれを滑るように移動し、白銀へ迫って行く。

 退治屋は再びその美貌に薄い笑みを浮かべ、目前まで迫った瓢箪の下顎を、爪先を持ち上げて踵で止めた。勢い余って倒れこみそうになった上半分を片手で掴んで止め、白銀は瓢箪の細い目を見上げる。

「お前も元は人間だろう。何故こうなった?」

 異形の悪霊は、何も答えなかった。ただただ、口を閉じようと顎に力を込める。しかしその目は、言葉の意味を探すかのように瞬きを繰り返していた。

 白銀は一瞬、悲しげに目を伏せる。血塗れの白い顔に陰が差した次の瞬間には、彼女は指先を口腔へ向けて手刀を構えていた。

「知っているか、新藤」

 唐突に呼び掛けられた祐子は、肩を震わせてその声に反応した。

「こうなるともう、浄霊は不可能だ」

 白い手袋が、光ったように見えた。

 白銀は勢いよく腕を口内へ突き入れ、手刀を口腔に叩き込んだ。空気が詰まった袋を割ったような破裂音と共に、大気が震えるほどの絶叫が木霊する。

 異形の体が、膨らみすぎた風船のように弾けた。しかし後には破片すら残らず、千切り取られて落ちていた筈の舌も消え失せている。白銀の顔に飛び散っていた血の跡すら、なくなっていた。

 思えば藤堂は、抹消という言葉の意味をよく理解していなかったように思う。だから今こうして目の当たりにしてみて、呆然とするしかなかった。

 両腕を下ろした白銀は、僅かに顔を俯かせたまま、暫くその場に立ち尽くしていた。凛とした横顔からは、彼女が抱く感情の片鱗すら窺い知る事が出来ない。しかし藤堂には何故か、その薄い背中が悲しそうに見えた。

 顔を上げた退治屋は、俯いたまま微動だにしない祐子へ真っ直ぐに歩み寄り、手袋を外してその肩に手を添えた。祐子の顔が、更に下を向く。白銀は呆然とする五人を振り返り、明を呼んだ。

「浄霊屋、話せるか」

 胸の前できつく両手を握り締めた明は、顔を上げて、はいと答えた。返答に頷き、白銀は促すように祐子の背を押す。

「私に浄霊を依頼したのは、あなたの恋人本人だったの」

 ゆっくりと近付いてきた祐子を真っ直ぐに見据え、明はそう言った。祐子は弾かれたように顔を上げ、目を丸くする。

「彼は気付いてた。あなたの悲しみを受けて、変質して行く自分に」

「彼はまともだったわ」

「見た目はね。悲しみに暮れるあなたの想いは、霊体である彼にとっては邪気でしかなかった。悲しむことは供養じゃないの。残された人が死を受け入れて、死を悲しんであげる事でようやく、供養される」

 明はゆっくりと息を吐いて、更に続けた。

「彼はあなたを連れて行ってしまおうとしてた。でも私に依頼をしに来た時点では、彼の中にはまだ、まともな自分がいたの。あなたを連れて行きたくなかったから、私に依頼しに来たんだよ」

 祐子は険しい表情で、唇を引き結んだ。

「でも私が浄霊しに行った時、彼はあなたの魂を引きずり出す寸前だった。ゆっくり浄霊なんてしている暇はなかったの」

「何故そのままにしておいてくれなかったの」

 え、と明が呟いた。祐子の肩を抱く白銀が、厳しい表情を浮かべる。叱りつけたいのを堪えているような顔だった。藤堂は顔をしかめ、祐子を睨んだ。

「連れて行かれたって、良かったのに。連れて行って欲しかったのに。そっとしておいてくれれば、こんな事にはならなかったわ。アタシには彼が全てだったのに!」

「バカ言うな」

 怒気を孕んだ藤堂の声に、祐子は驚いたように身を硬くした。何故こんなにも腹が立つのか、藤堂自身分からない。

「良くねえだろ。あんたの彼氏はイヤだったんだろ?」

 祐子の体から、徐々に力が抜けて行く。

「あんたが良くても、そうじゃねえ人はいただろ。あんたが帰った時、親父さん泣いてたって言ったじゃねえか。どこまで嘘か知らねえけどさ」

 果たして論点がそこにあったのかどうか、藤堂には最早分からない。頭に血が上って、まともな思考も出来ない。ただ、明から聞いた小磯親子の話と、祐子自身が語った父親の話が綯い交ぜになって、彼の胸中を揺さぶっていた。

 泣き出しそうに顔を歪ませた祐子の体を、白銀が支えた。明は悲しそうに眉尻を下げて、祐子を見つめている。

「彼氏忘れろとは言えないけど、これ以上苦しもうとするなよ。メイもな」

 祐子の眉根が寄せられ、目が細くなる。苦しげな表情を浮かべた彼女の目から透明な滴がこぼれ、頬を伝い落ちた。

「……ごめんね」

 祐子は掠れた声で、小さく小さく呟いた。彼女は両手で顔を覆い、白銀に支えられるまま体を預ける。

「ごめんね……」

 静かに涙を流す祐子の背を撫でながら、白銀が顔を上げて藤堂へ微笑みかける。感謝の意を示されているのだろうと思ったが、その整った笑顔も、泣き続ける祐子も見ていられなくなり、藤堂は視線を逸らした。

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