表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明なひと  作者:
32/75

第四章 終わりなき連鎖 八

 藤堂は状況が理解出来ないまま、呆然と立ち尽くしていた。彼の目の前で睨み合う明と祐子は、一触即発の緊張感を漂わせている。女同士の睨み合いとは何故こんなにも恐ろしいものなのかと、藤堂は現実逃避のように考えた。

 唖然としていた所で、唐突に腕を引っ張られた。驚いて手元を見ると、ゆなが俯き加減に二人を注視したまま、藤堂の腕を引いている。表情は普段と大差ないが、焦っているような仕草だった。

「藤堂さん……下がった方が良いのです」

「何?」

 聞き返すと同時、肩を押されて藤堂は数歩横へ退く。彼をどかしたのは、ゆなの手ではない。

「邪魔よ藤堂、おどきなさい」

 居丈高な台詞と共に、渚が明の横へ立った。首を捻っていた彼女も、漂う緊張感には気付いたようだ。

 渚は胸ポケットから札を取り出し、軽く振った。現れた執事が肩越しにちらりと背後の藤堂を見て、また正面へ向き直る。守られてでもいるかのような状況に、藤堂は複雑な心境になった。確かに彼には、何も出来はしないのだが。

「なんなんですの? ただの質屋の常連さんが発していい気ではなくてよ」

「あの人は……」

 つり上げた眉根を寄せて複雑な表情を浮かべた明が、ぽつりと呟く。

「私が昔、不幸にしてしまった人」

 ゆなに手を引かれるまま後ろへ下がりつつ、藤堂は明の台詞に目を丸くした。言葉の真意は知れないが、関わり合いがあったのかと、そちらに驚く。祐子はひらひらと札を振りながら、鼻で笑った。

「用があるのは、そこの市松人形だけよ。高屋敷の子は下がってなさい」

「ちょっと待ってよ祐子さん」

 穏やかならぬ空気に耐えかね、藤堂は三人の後ろから声を掛けた。祐子は彼に一瞥もくれず、札を顔の前に翳す。

「……ゴメンね藤堂君。でも許せないの」

 祐子が小さく呟いた瞬間、札から黒い塊が這い出して来た。明が刀を握り締めたまま硬直し、渚は驚愕に目を見開く。執事までもが凍り付く中、ゆなは口元に手を当てていたが、変わらぬ無表情を保っていた。

 それはただの、黒い塊のように見えた。手も足も生えてはおらず、瓢箪型の胴体だけが宙に浮かんでいる。高さは藤堂の身長より、少し低いぐらいだろうか。ずんぐりとした胴体の上部には、切れ込みを入れたような目が二つあり、時折開いては周囲を見回していた。よくよく見れば表面は人間の皮膚のような質感を持っており、尚の事不気味に感じられる。

 目を開いているから意思はあるのだろうと、藤堂は思う。しかし目の前の霊に、人間の面影は殆ど残されていなかった。ここまで変容していると不気味ではあるが、逆に滑稽に思えて、恐怖さえ感じない。

 怪訝な表情の藤堂とは対照的に、三人は黙り込んだまま黒い瓢箪を見つめていた。一瞬にして凍りついた空気に、藤堂はあれがそんなに恐ろしいものなのかと訝る。

「な……なんで……退治されたんじゃなかったの?」

 呆然と呟いた明の顔は、青ざめていた。渚は執事に寄り添い、緩く首を振っている。目の前の光景を、信じたくないようだった。未だに緊張感のない藤堂は、片眉を寄せて顎を掻く。

「アタシが使役してるから、無闇に暴れなくなっただけよ。でもね」

 祐子の人差し指が、明を指した。明はびくりと華奢な肩を震わせ、一歩後退する。

「狂暴さは変わんないわよ」

 祐子の目が妖しく光った。この瓢箪が一体何だというのだろうか。この塊が一体何をするのか、藤堂には想像もつかない。少し指で押したら、後ろへ転がって行ってしまいそうに見える。

 すっかり気圧されていた明は、頭を左右に振ってきつく刀を握り締めた。腹を括ったのかも知れない。

「藤堂さん。絶対、コウ君達に手を出させちゃダメだよ」

 瓢箪の目が、明を見下ろした。胴体の中央部に切れ目が入り、両端がつり上がる。笑っているかのようだった。

「食べなさい」

 祐子の声が合図だったかのように、瓢箪の中央に入った切れ目がぱっくりと割れ、大きく開いた。藤堂は思わず、身を竦める。

 それは巨大な口だった。尖った歯がびっしりと上下に並び、歯茎も口腔も血のように赤い。粘性のある唾液が糸を引きながら、コンクリートに滴り落ちた。これは確かに忌むべき存在だろうと、藤堂はようやく理解する。

「……なに、アレ」

「五年ほど前まで、巷を騒がせていた大食いの悪霊なのです。通り魔です。魂を食べます。なんかもう色々食べます。浮遊霊が何人も食べられました」

 ゆなは藤堂の腕を胸に抱き込み、瓢箪を真っ直ぐに見ていた。淡々とした口振りからはとてもそうとは思えないが、その仕草を見る限り、怯えているようだ。

「食うの? 霊を?」

「はい。でも鳳さんが退治したと聞いていたのです。あの方が飼っておられたのですね」

 そんなものを相手にして大丈夫なのだろうかと、藤堂は不安に駆られる。しかし外野の心配をよそに、明と執事は同時に地を蹴った。口腔から覗く細長い舌が、尖った歯をなぞる。その異様な光景に、藤堂は身を引く。

 瓢箪の口から触手のように細長い舌が何本も飛び出し、明に襲い掛かった。明は不規則に蠢いて足を捕らえようとする舌を蹴り飛ばし、腕に絡み付いたものを刀で切り落とす。切断された舌の先端は暫く地面でのたうった後、煙のように消える。

 僅かに動きが鈍った瓢箪の胴体に、拳を構えた執事が飛びかかる。しかし振り被った腕を舌に跳ねのけられ、慌てて飛び退いた。元々霊体である執事は、捕まったら一巻の終わりだろう。

 次々と際限なく伸びて来る舌を一気に斬り払いながら、明は瓢箪の向こうの祐子を見て叫んだ。

「お願い聞いて! 違うの!」

「何が違うの? 頼んでもいないのに、あんたはアタシの恋人を消した。まだ四十九日も過ぎていなかったのに」

 明は悲しげに表情を歪め、スカートを翻してその場から飛び退いた。しかし何本もの触手がその後を追い、白い足に絡み付く。それを刀の刃が切り落とすが、また新たな舌が迫る。

「そうじゃないの、あのままじゃあの人……」

「言い訳なんて聞きたくないわ」

 祐子の声は、あくまで静かだった。しかし藤堂は彼女の張り付いたような無表情に、息が詰まるような感覚を抱く。気のいい常連客だった彼女とは、まるで別人のように思えた。

 掌に感じた痛みに、藤堂は己の腕を見下ろす。そこでようやく拳を握り締めすぎていた事に気付き、ゆっくりと力を抜いた。鈍く痛む掌は、爪の形に鬱血している。

 死を身近に感じた事は、今までに何度かあった。しかし他人の死に怯えることなど、あっただろうか。出来れば経験したくはなかった。明も執事もいつも通りの動きを見せてはいるものの、不安は拭いきれない。

「おいアレ、吸い込めねえのか」

 藤堂の問いに振り返った渚は、苦しげに表情を歪めて首を横に振った。ゆなが落胆して肩を落とす。

「無理ですわ。使役されている霊は、札を破らない限り奪えません」

 藤堂は渚に聞こえないように溜息を吐き、再び俯く。

 明と祐子に何があったのか、藤堂には想像する事も出来ない。二人の過去は聞いた覚えもないし、聞こうとも思わなかった。しかし何があったのか分からなくとも、例え万が一、明の方が悪かったのだとしても、祐子のしている事は間違っていると彼は思う。

 何があろうとも、他人の命を脅かしてはならない。人の命を奪うのは、何よりも重いことなのだ。

「昔の話、してあげようか」

 手元に落としていた視線を上げると、祐子は真っ直ぐに藤堂を見ていた。どこか悲しげにも見える微笑に、藤堂は顔をしかめる。彼の腕を掴むゆなの手に、僅かに力がこもった。

 距離を隔てたまま牽制し合うように視線を交える二人の間で、瓢箪相手に苦戦する明が執事に目配せした。首に巻きつこうとした舌をちぎり取って投げ捨てた執事は、明の視線を受けて小さく頷く。

「うちのカレね、病気だったのよ。結婚の約束までしてたんだけど、保たなくてさ」

 明と執事が、瓢箪の左右へ分かれて駆け出した。舌も同じく左右に別れて彼らを追ったが、道幅がそう広くない為、二人はすぐに身を翻して方向転換する。失速が間に合わず勢い良くぶつかった拍子に、触手は電柱に絡み付いた。瓢箪の目が慌てた様子で忙しなく動いたが、一度絡んだ舌は、なかなか解ける気配がない。

「せめて四十九日まではと思って一緒にいたんだけど、そこの子が余計な事してね」

 瓢箪が四苦八苦している間に、胴体の正面へ回った明が刀を構えた。祐子の指が瓢箪を差し、軽く振られる。途端に電柱に絡み付いていた舌が消え失せ、新たに口腔から這い出したものが明の足を捕らえた。

「消されちゃった。カレは常世どころか、幽世にも行けなかったの。可笑しいでしょ、浄霊屋なのに」

 絡み付いた舌を振り払いながら、明は次々伸びて来る触手を踏み台にして跳んだ。後を追う舌を執事が纏めて掴み、一緒くたにちぎり取る。刀を両手に持ち替えた明が瓢箪の頭上で大きく振りかぶり、銀色に煌めく刃を脳天へ叩き付けた。

 しかしその刃は、跳ね返って再び後ろへ放物線を描く。叩きつけられた刃は、黒い表皮だけを僅かに削り取って、大きく弾き返されてしまっていた。

「え……」

 渚の口から、驚愕の声が漏れる。明は苦々しく表情を歪め、伸びて来る舌から逃げるように地面へ降り立った。取り落としそうになった刀を握りしめ、彼女は体勢を立て直す。

「斬れないのですか」

 呆然とゆなが呟いた矢先、執事が飛び上がって瓢箪の眉間に拳を叩き込む。大きく開いた口が歪み、反射的に閉じられた目がぎょろりと動いて執事を見た。彼に気を取られている隙に、明は蠢く触手を切り払う。

「迷ったわね。わかりやすい子」

 祐子が冷笑した。

 藤堂は己の腕を抱き締めるゆなを見下ろして、宥めるようにその手を撫でた。見ていられない。相手の力量まで藤堂に測ることは出来なかったが、明の刀が効かないとなれば、こちらの劣勢は火を見るより明らかだった。

「どうにかなんねえのか」

 ゆなは藤堂を見上げ、小さな唇を引き結んだ。大きな目が、涙を湛えて潤んでいる。彼女に聞いても仕方がないのに、そうせずにはいられなかった。

 執事の一撃を食らって動きの鈍くなった瓢箪へ、再び明の刃が迫る。触手が足に絡み付いたが、最早彼女は構わなかった。片手を束尻に添え、握り締めた刀を勢い良く瓢箪の片目めがけて突き立てる。今度は手ごたえがあった。

 深々と刺さった刃が抜かれた瞬間、細い両目が一瞬大きく見開かれる。明の足を掴んでいた舌が離れて口内へ引き戻されるかと思いきや、彼女の腕を勢いよく叩いた。明は小さく悲鳴を上げ、衝撃で刀を取り落とす。

 地面に落ちた獲物を取り返す間もなく、明の足下を触手が掬った。大きくバランスを崩し、よろめいた彼女を支えようと執事が腕を伸ばしたが一瞬遅れ、明の腹に真っ赤な舌が巻き付く。

「メイさん!」

 ゆなと渚が同時に叫び声を上げ、藤堂の表情が凍り付いた。祐子は唇を歪めて笑う。それはいつもの快活な笑顔ではなく、暗いものだった。

 動きを封じられた明の手足に、次々赤い舌が絡み付いて行く。引きずられて行く彼女を執事が慌てて追ったが、足を払った触手に体勢を崩されてよろめき、地面に膝を着いた。

 裾が捲れて露わになった白い腹に絡み付く舌が、徐々に彼女の体を絞め上げて行く。首に巻き付いた触手を掴んだ明の表情が、苦しげに歪む。

 このまま、喰われるのか。藤堂の背筋を寒気が這い上がる。

「祐子さん、やめてくれ!」

 藤堂の声に、祐子は小さく首を振った。浮かべられた微笑が、不気味にさえ感じられる。

「これはアタシの悲願なの」

「殺されたから殺すってのかよ! そんなの間違ってんだろ、あんたそれで余計苦しむんじゃねえのか!」

「バカげてるなんて事、自分でも良く分かってる」

 祐子は俯き、自嘲気味に笑った。そして再び顔を上げ、真っ直ぐに藤堂を見据える。

「キミのそういう優しいとこ、好きだったよ」

 ゆなが息を呑み、渚が悔しげに歯噛みする。膝を着いた執事は、両手足を絡め取られて動けずにいた。

 明は、駄目なのか。諦めが藤堂の胸をよぎった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ