第四章 終わりなき連鎖 七
「どうして封印して帰ってきちゃうの、何の解決にもなってないじゃない!」
憤慨した明は先程からずっと、肩にバットを担いだまま渚に説教していた。最初は逐一言い返していた渚も、明の相手をする内に段々と疲れてきてしまったようだ。今や呆れた表情で、言い訳じみた返答を繰り返すようになっている。
「だ、だから違……」
「そんなにひどい悪霊だったら他の業者に頼めばいいのに、もう」
事の発端は、渚の発言。最初は他愛ない雑談だったのだが、渚が井戸に霊を封じた事があると言ったのを、明が叱ったのだ。封じてどうなるのか、と。
幽霊屋敷の場合は、手の施しようがなかったから仕方なく封じたという異例で、通常は封じたまま放置しておく事はない。手に負えない場合は別の業者に片付けてもらうのが通例であり、そう決まっているらしい。そんな連携があったのかと、藤堂には少々意外に思えた。
「あれは悪霊じゃありませんでしたの」
「尚更問題じゃない!」
「だ、だからあの霊は……」
「霊をほっといたら、そこら辺の邪気を吸って悪霊になっちゃうよ」
藤堂とゆなは正直なところ、明の説教に閉口していた。面倒だったので藤堂は止めたが、結局全員明に引っ張って来られてしまった。憤慨する明の前では、渚が何を言っても無駄だ。
藤堂には、依頼も請けていないのに、首を突っ込む事の方が問題に思われた。浄霊屋とて慈善事業ではないのだ。金が入らないのにわざわざ交通費をかけて、全く関係のない件に口を出す必要はないだろうと思う。
しかし優等生の明からしてみれば、そうは行かないのだろう。黙っていられないのは分かるが、引っ張り回される方の身にもなって欲しい。
「今回はそうじゃな……」
「どんな霊だって、供養もしないでほっといたら駄目だよ」
「話聞いてやれよメイ」
呆れた藤堂が諫めるも、明はそれも聞いていなかった。流石の渚も、最早それ以上口を挟めないでいる。ゆなが大きな目で明と渚を交互に見た後、無表情のまま藤堂を見上げた。
「ダメなのです。師匠はああなったら誰の話も聞きませぬ」
「見りゃ分かる。大人しくついてくしかねえな」
前を行く明と渚を見て、藤堂は憂鬱な溜息を吐いた。タダ働きに全員ついて行く必要が、果たしてどこにあったのだろう。勢いで連れて来られたはいいが、せめて自分ぐらいは静かに店番をさせていて欲しいと藤堂は思う。
最近はようやく、客が入るようになってきたのだ。相変わらず質屋の方は儲からないが、浄霊屋の方は一週間に三四件は依頼が来る。高屋敷の娘が入ったと評判になっているようだから、そのせいかも知れない。
「あれかな?」
寂れた商店街を抜けた先、大きな公園の敷地内にある鬱蒼とした林の中に、それはあった。明が指差した先には、古めかしい井戸がぽつんとある。
「足元が非常に悪いのです」
腐葉土に沈むブーツを見ながら、ゆながぼやいた。渚もパンプスを気にしていたが、明だけはさっさと井戸へ近付いて行く。
朽ちかけた古い井戸には、不規則に札が貼り付けられていた。入り口を塞ぐ木製の蓋だけはやけに新しく、縁が五カ所ほど札で押さえられている。井戸の周りを囲むように一升瓶が置かれてあり、強いアルコールの臭いが鼻を突いた。
「渚さん、剥がして」
しつこく足元を気にしていた渚は、細い眉を困ったように顰めた。言い返そうと口を開きかけたが、これ以上明と口論したくなかったのだろう。渋々井戸へ近付き、ゆっくりと蓋に封をする札を剥がして行った。
「もう勝手になさい」
自棄になって吐き捨てた渚が蓋を開けた瞬間、井戸の中から騒がしい笑い声が響き渡り、酒気が強くなった。ゆなが思わず耳を塞ぐ。藤堂は慌てて眼鏡を掛けたが、何も見えなかった。
井戸の中からは、複数の人間が笑う声だけが聞こえてくる。嫌な雰囲気ではないから、確かに悪霊ではないのだろう。しかし井戸に反響して山彦のように響くその声は、藤堂に違和感を覚えさせた。やけに楽しそうに聞こえるのだ。
明が顔をひきつらせ、鼻を摘んで井戸から一歩離れた。漂ってくるアルコールの臭いに、耐えられないのだろう。
「な……なんかこれ……」
「酔っ払いの声に聞こえるのです」
への字に曲がった眉の尻を更に下げたゆなに、藤堂は頷いて見せた。声からすると、中年の親父だろう。強い酒気と共に聞こえてくる声は、明らかに酩酊した人間のそれだ。
渚は井戸から三歩ほど離れて、漂う酒の臭いを払うように顔の前で手を振っていた。
「だから言ったじゃありませんか……あら」
ぼやいた渚は、何かに気付いたような声を上げた。食い入るように井戸を見つめていた藤堂も同じく、げ、と呟く。
「煩いのが出て来てしまったじゃない。知りませんわよ、絡まれても」
井戸の縁に、半透明の手が掛かっていた。同時に呂律の回らない声が、よっこらせ、と呟く。光景だけ見ると背筋の凍るような思いがするのだが、その声のせいでなんとも間抜けに見える。
「お、なんだいお嬢ちゃん。酒はまだ早えんじゃねえのかい」
明は井戸から這いだしてきた霊を見て、唖然とした。
それは赤ら顔の親父だった。丸まると太った体を窮屈そうに井戸から引っ張り出したが、上半身が出たところでバランスを崩し、地面へ転げ落ちる。無機物に触れない幽霊は、井戸に引っ掛かる事などないはずなのだが。
酔っ払いは痛そうに顔をしかめて膝を撫でながら、井戸の縁に腰を下ろした。実際はそう見えるだけで、単純に座った姿勢で浮いているのだろう。
明は頬を引きつらせて、酔っ払いの霊を指差した。指先がわなわなと震えている。
「な……何やって……」
「んん? 飲むかい?」
足下の一升瓶を指差して、親父は呂律の回らない口調で問い掛けた。明は慌てて首を左右に振る。
「何やってんの、あんた」
呆れた藤堂が、気の抜けた声を掛ける。泥酔した親父は藤堂を見て、ううんと首を捻った。
「兄ちゃんは生きてんだなあ。生きてちゃ宴会にゃ、参加出来ねえなあ」
「いや、しないから」
きっぱりと拒否すると、酔っ払いは悲しそうな顔をした。死ねとでも言うのだろうか。たとえ死んでも、こんな辛気臭い場所で開かれる宴会になど、参加したくはない。
「もういいでしょう」
溜息混じりに渚が言うと、親父はぱっと顔を明るくした。
「おう姉ちゃん、久しぶりだなあ」
「お元気そうで何よりですわ。蓋を閉めますから、さっさとお戻りになって」
「冷たいなあ。ここはいいよ、いつでも皆いるし」
「いいから早くなさい」
渚がぴしゃりと跳ねつけると、親父は肩を竦めて上体を後ろへ傾けた。そのまま倒れ込むように、彼は井戸の中へと吸い込まれて行く。藤堂は驚いて目を丸くしたが、三人は無反応だった。
渚は何事もなかったかのように再び井戸へ歩み寄って蓋を閉め、胸ポケットから取り出した札を元のように貼り直した。そして呆然と立ち尽くす三人を振り返り、溜息を吐く。
「だから言ったでしょう。もう行きますわよ、靴が汚れてしまいましたわ」
文句を言いながら林を出て行く渚の後ろ姿を見ながら、三人は顔を見合わせて、後を追うように歩き出した。明は複雑な表情を浮かべている。
「あの……ごめんね、疑って」
明は小走りで渚の横へ並び、おずおずと顔を覗き込んだ。渚はちらりと明を見たが、鼻を鳴らしてすぐに視線を戻す。
「私が受けたのは、騒音に対する苦情でしたのよ。毎晩酒盛りしていてうるさいから、追い出してくれと言われましたの」
井戸を窺うように肩越しに振り返った渚は、丁度後ろにいた藤堂と目が合って、慌てて正面に向き直った。説明を聞いた明が、益々肩を落とす。後悔する位なら人の話はしっかり聞けばいいだろうにと藤堂は思うが、一度思い込んだら止まらないのだろう。藤堂は何度も、明のこの思い込みのせいで大変な目に遭っている。
「あの井戸の底は幽世だったのですわ。常世でも現世でもない、幽霊の世界。だから取り壊されずに残っていたの」
「繋がってるの?」
「そのようですわね。だから、騒ぐ声が漏れないようにああして蓋をして、現世の邪気が入らないように封をしましたの」
常世と常夜はあの世、現世はこの世。幽世はその狭間、常世と常夜の手前にある世界。それがどんな場所なのかは、死んでみなければ分からない。藤堂は以前、明からそう聞いた。
邪気とは果たして何なのだろうと、藤堂は時折思う。現世に蔓延するあらゆる負の感情を、総じてそう呼ぶらしいのだが、いまいち腑に落ちない。怨念、憎悪、嫉妬、悲哀。怨念と憎悪は確かに邪気だろうと思うが、嫉妬や悲哀は果たしてそうなのだろうか。
体をなくして魂だけの状態となったものが、幽霊だ。彼らは非常に無防備な状態であるが故に、他人の感情に影響を受けやすい。己の怨念や生前の行いだけでなく、邪気にも影響されて悪霊化するのはその為だ。
霊は供養されて幽世へ送られない限りは、現世を彷徨い続ける。四十九日というのは、供養された霊が幽世へ行く目安の日なのだそうだ。恨みや強い未練を残していない霊でも、供養もされず邪気を受け続けた霊は、徐々に変貌して行く。これに藤堂は驚いたが、ゆなも初耳だったようだ。渚は当然知っていたが。
そうして最終的に害を為すようになったものを、悪霊と呼ぶ。これには多く種類があるようだが、藤堂は忘れた。長々と話を聞いても、覚えているのは一部だけだ。
「あれで大丈夫なのです?」
「害はありませんわ。あの札の効力が切れる頃には、彼らも常世へ行っていることでしょう」
事務所付近まで戻って来た頃には、辺りはすっかり橙色に染まっていた。夕陽が照らし出す街並みは、いつもと同じ風景である筈なのに、どこか物悲しく感じられる。
「……あれ?」
渚と雑談しながら先を歩いていた明が、怪訝な声を漏らして立ち止まった。反応の遅れた藤堂は彼女より一歩前へ出てから、同じく足を止める。
明の視線の先には、質屋のシャッターに凭れる人影があった。逆光で顔形は覗えないが、体型から察するに女性だろう。藤堂は訝しげに首を捻り、人影へと近付いて行く。
「ああ……祐子さんか」
夕陽を背にしていた祐子はシャッターに凭れていた体を起こし、藤堂を見て華やかな笑みを浮かべた。その表情に、藤堂は違和感を覚える。いつもと同じ笑顔なのだが、どこか陰があるように見えた。
「遅いじゃない、待ったわよ」
眉根を寄せて、藤堂は怪訝な表情を浮かべる。何を待っていたというのだろうか。待ち合わせをしていた記憶はない。
背後からゆなが駆け寄って来て、藤堂の腕にしがみついた。
「どなたです?」
藤堂は見上げて来る大きな目に視線を落とし、ああ、と呟いた。そういえば、ゆなは祐子と顔を合わせたことがない。
「うちの常連」
「こんばんは」
微笑みかける祐子にじろじろと不躾な視線を送るゆなは、引き結んだ唇をへの字に曲げた。藤堂の腕を掴んだまま、数歩ばかり後ずさりする。子供らしい仕草だが、ゆなの場合、実際何を考えているのか全く分からない。
「後ろの方もですか?」
「へ?」
藤堂には、祐子の後ろに何も見えなかった。眼鏡は掛けっぱなしだった筈なのだが、レンズ越しでも見えない。果たしてゆなは何を見たのかと訝って背後を振り返ると、明が凍り付いたような表情で立ち尽くしていた。渚は藤堂と同じく、不思議そうに首を傾げている。
藤堂の背中を、冷たい汗が伝う。祐子は何も答えない。
日が長くなったとはいえ、時刻は六時をとうに回っている。流石にもう、夕闇がすぐそこまで迫っていた。暮れなずむ街を覆い始めた夜の帳が、体内までも侵食して行くような錯覚に陥る。見知った人物がこんなにも恐ろしいと感じたのは、初めての事だった。
「勘がいいのね。普通気付かないわよ」
恐る恐る祐子に向き直ると、彼女は未だ、うっすらと微笑を浮かべていた。普段となんら変わりないその表情に、藤堂は薄ら寒さを覚える。
「ゴメンね。藤堂君」
祐子の指先が、大きく開いたシャツの胸元に伸びる。豊かな胸の谷間から取り出された札を目にした明が、ようやく我に返った。
「藤堂さん、下がって」
明は刀を抜きながら藤堂の前へと進み出て、祐子と対峙する。彼女を見た祐子の目には、どす黒い憎悪が渦巻いていた。