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透明なひと  作者:
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第四章 終わりなき連鎖 六

 芹香が祐子の家に厄介になり始めてから、早一週間。母親のように世話を焼いてくれる彼女を有り難くも思ったが、反面、日に日に申し訳なさが募って行った。芹香は幼い頃から退治屋になる為に育てられてきたから、碌に料理も出来ない。家事の一つぐらい覚えておけば良かったと、今更ながらに後悔する。

 何も出来ない彼女に、祐子は嫌な顔一つしなかった。家政婦に任せきりで掃除もした事がないと言うと、彼女は朗らかに笑った後、おもむろに掃除機を持ち出して来て、使えるかと聞いた。流石にそれ位は分かる。

 言われるまま、彼女は祐子に家事を教わった。芹香は一人っ子なので、兄弟姉妹というものを知らなかったが、姉がいたらこんな気分だったろうかと思う。

「いつも済まない」

 夕飯の最中、唐突に切り出した芹香に、祐子は目を丸くした。

「何言ってんのよ。いなさいって言ったのはこっちよ、そんな遠慮しないで」

 もう社員ではないので敬語は使わないでくれと言ったら、祐子は存外簡単にやめた。堅苦しい喋り方は好かないようだ。

 遠慮するなと言われても、そういう訳には行かない。彼女にも仕事があるし、一つしかないベッドは来てからずっと、芹香が使わせてもらっている。いつまでもだらだらと厄介になっているのは、流石に心苦しかった。

 しかし行く当てがないのも事実だ。そろそろ職を探さなくてはまずいような気もする。家に戻ることが出来ないから諦めかけていたが、幸い残っていた荷物は、部長が持ってきてくれていた。すぐにここを出ても良かったが、騒ぎが落ち着くまで外に出るなと忠告されているので、勝手な行動は起こせない。

「会社ね、ちょっとまだ落ち着かないのよ。部長は忙しくてあれからあんまり話せないし、ニュースはあんたがいなくなった事で持ちきりだし」

 芹香は視線を落とし、僅かにうなだれた。

「済まない……私に何か出来ればいいんだが」

 口に運んだ飯を咀嚼しながら、祐子は言葉を遮るように箸を持った手を軽く振った。

「何言ってんの、今出て来られたらこっちが大変よ。ただでさえマスコミが会社に張り付いてるってのに」

 苦笑いを浮かべ、芹香は箸を置いた。多忙な日々を送っていた為か、彼女は異常に食事の時間が短い。

「それにさ、困った時はお互い様」

「それなら、あなたに何かあったら言ってくれ。幽霊退治以外は出来ないが」

 空になった茶碗の上に箸を置きながら、祐子はさも愉快そうに笑った。

「ホント、天下の白銀様が洗濯機も使えなかったなんてね」

「そ、それは言わないでくれ……」

 困ったように眉尻を下げると、祐子は目を細めて楽しそうに笑う。そして徐に立ち上がって台所へ行き、冷蔵庫から缶ビールを四つ取って戻ってきた。二本を芹香の前に置き、再び席に着く。

「お父さん、亡くなったんですってね」

 開けた缶から空気が漏れる音にかき消されてしまうほど小さな声で、祐子は呟いた。芹香は虚を突かれて目を丸くし、二三度瞬きする。

「知っていたのか」

「部長が言ってた。ていうか、あんたの家に荷物取りに行ったのアタシだし……大変だったわね」

 僅かに眉根を寄せて真剣な表情を浮かべた祐子に、芹香は曖昧に笑いかけた。

「実感が湧かないんだ。泣く暇もなかった」

「泣きたい?」

 缶を傾けていた手を止め、芹香は眉根を寄せる。泣きそうだったのは確かだ。しかし今泣きたいとは思わない。

 父は目の前で死んだ。あの時は確かに悲しかったし、怒りと共に涙が込み上げた。けれど、今思い出してみて泣きたいとは思わない。泣いている場合ではないのだとも思う。泣いている暇があるなら、職でも探すべきだろう。

 困惑して黙り込んだ芹香に、祐子は小さく笑った。

「アタシはね、泣きたかったの」

「亡くなったのか」

 驚いて聞き返すと、祐子は頷いた。それを見てから、芹香は缶の中身を一口飲んだ。冷えたアルコールが体中に染み渡る。

 酒は苦手なわけでもないが、飲む機会があまりなかった。会社の飲み会にも滅多に参加しなかったから、今こうして毎晩祐子の晩酌に付き合っているのが、不思議なことのように思える。

「そ、お父さんがね、ついこないだ。泣こうと思って知り合いのトコ行ったんだけど、あいつ鈍くてダメだったわ」

 思い出してでもいるのか、祐子は僅かに笑みを浮かべたまま遠い目をしていた。彼女は早々と缶の中身を飲み干し、無造作にゴミ箱へ投げ入れる。

「ダメね、アタシも意地っ張りだから。あんたみたいに、強くなれないわ」

「いや、私は……」

 強い訳ではない。ただ事実を事実として、受け入れきれていないだけだ。

 母が死んだ時の事を、芹香は知らない。彼女を生んですぐに亡くなったので、顔さえ覚えていない。祖父母も彼女が生まれる前に他界しているから、死というものを直視する事なく、芹香は今まで生きてきた。

 それが突然父の死と直面し、受け入れて泣けるかと言えば、そうでもない。死の瞬間を目の当たりにしたお陰で、そうと認識してこそいるものの、しっかりと受け止められている自覚はない。

 父の遺体がどうなったか、芹香は知らない。けれど今までも何かと世話を焼いてくれていた部長がその死を知っているならば、然るべき手続きを踏んで供養してくれているだろうとは思う。しかし出来ることなら、自分で供養してやりたかった。死という事実について深く考えられないから、それについて回る儀礼のことばかり考えている。

 我ながら、嫌な娘だと思う。父の死を軽んじているわけではないが、自身の事で精一杯で、悲しむことも出来ない自分が嫌だった。しかしまともに供養も出来ないのでは、どうしようもない。

「……あなたはどうして、退治屋に?」

 暫し続いた無言の間に耐えかねて、缶の中身を一息に飲み干してから唐突にそう聞いた。缶のプルトップを上げながら、祐子は視線だけを上げて芹香を見る。ううん、と曖昧な声が返ってきた。

「復讐」

 面食らって新しい一本を取りかけていた手を止めると、祐子は苦笑した。その表情を見て、嘘ではないのだろうと芹香は思う。

「アタシね、昔彼氏を亡くしたの」

 缶の縁に口を付けた祐子は、事も無げに言った。何と答えていいか分からず、芹香は缶を開けて黙ったまま一口飲んだ。独特の苦味が喉を通り過ぎる。

「まあ、色々あってね」

 詳しく言う気はないようだった。聞くのも憚られたので、芹香は残った煮物を摘みながら酒を飲み進めて行く。

 祐子は片腕をテーブルに着いたまま、視線を落としていた。ビールを嚥下する喉が立てる音だけが、静かな室内に微かに響く。聞かなければ良かったと、芹香は後悔した。

「……殺されたのか」

 少なくなった缶の中身を確かめるように振りながら、祐子は鼻を鳴らした。

「そんなカンジ。あんたも多分、知ってる人よ」

 彼氏の方なのか殺した方なのか、芹香には判然としなかった。怪訝な顔をすると、祐子は口角をつり上げて笑う。弧を描いた唇がいやに艶めかしく見え、芹香は一瞬たじろぐ。

 彼女には、祐子が時折恐ろしく感じられる。何を考えているのか、全く分からない。それだけではない嫌な空気を、纏っているように思えた。

「知ってるでしょう。浄霊屋の、あの市松人形みたいな子」

 驚愕に目を見開き、芹香はまじまじと祐子を見る。何を言われたのか、一瞬理解出来なかった。浄霊屋に知り合いなどそうそういないから、恐らく祐子が言ったのは、芹香が思い浮かべた人物で間違いないだろう。

「そんな……いやしかし、彼女は……」

「信じてくれなくてもいいわ。向こうにも考えがあったんだろうし、アタシは確かに良くない事をしてた」

 缶の底に残ったビールを飲み干して、祐子はテーブルに頬杖をついた。

「でも許せなかったの。許せないのよ……どうしても」

 伏せられた目に黒いものが渦巻いて行くのが、見えたような気がした。祐子の表情は変わらないが、芹香はその目に寒気を覚えて身を竦める。

「手伝ってくれる?」

 唐突な問いかけに、すぐには反応出来なかった。先ほどまで浮かんでいた確かな憎悪はどこへ消えたのか、上目遣いに上げられた祐子の目は、悪戯っぽく笑っている。芹香には、それが余計に恐ろしく思えた。

「彼女はそんな事をするような人間じゃない」

「真実なんて誰にも分からない」

「だが……」

 祐子の目をそれ以上見ている事が出来ず、芹香は視線をテーブルに落とした。米粒一つ残さず空にされた茶碗が目に映る。

 具体的に何をされたのかは判然としないが、彼女の言う事が真実ならば、それはとんでもない事だ。糾弾されて然るべきだが、芹香は迷う。

 祐子の言が真実であろうとなかろうと、復讐は何も生まない。悪霊に肉親を殺された事で恨みの念に取り憑かれ、無害な浮遊霊をも抹消するようになった人間を何人も知っている。

 恩人であろうと、否、恩人だからこそ、復讐に手を貸す訳には行かなかった。そんなものに手を染めて欲しくはない。

「あなたの復讐に手は貸せない。私は彼らに借りがある。迷惑は掛けられない」

 決然と言い切ると、祐子は再び目を伏せて笑った。酔いが回ったのか、その目は僅かに潤んでいる。

「ああ、藤堂君ね……いいわ」

 祐子が呟いた言葉に、どきりとした。あの浄霊屋の件は迷惑を掛けた事もあり、何度か会社に報告していたから、接触があったと祐子が知っているのも頷ける。

 しかし芹香は、藤堂の事など何一つ伝えてはいない。そもそもそこに結び付ける理由が分からない。確かに踏んでしまった借りがあるのは、藤堂なのだが。

 祐子は空になった食器を手際よく重ね、立ち上がった。

「その代わり、忘れて。何も聞かなかった事にして」

 芹香は思わず言い返してしまいそうになったが、すんでの所でやめた。何もしない代わりに、止めるなという事なのだろう。最初からそのつもりだったのかも知れないと勘繰りもしたが、言及はしなかった。

 その後はお互い一言も発しないまま、眠りについた。


 翌日、夕方を過ぎても、祐子は帰って来なかった。時刻は午後七時。いつも定時で帰って来る彼女なら、とうに帰宅していて然るべき時間だ。

 嫌な予感がした。しかし思い当たるのは、忘れてくれと言われた件だけだ。恩があるだけに関わるのも躊躇われるが、ここで手を拱いているのも嫌だった。

 復讐心からは、何も生まれはしない。憎悪は新たな怨念を生み、肥大する。負の連鎖はいつまでも続き、止まる事はない。復讐をやり遂げたところで、残るのは虚無感だけだ。それで満足するかといえばそうではないだろうし、失ったものは戻らない。

 芹香はソファーから立ち上がり、スーツのジャケットを羽織った。襟にはもう、鳳の徽章は付けられていない。

 上着を探って携帯電話を取り出して、二度と掛けはしないだろうと思っていた番号を選び、通話ボタンを押した。

「……白銀だ」

 コール二回目で電話を取った受付嬢は、名乗った瞬間大声を上げた。芹香は携帯を遠ざけて顔をしかめた後、どこにいるのかとまくし立てる声を遮って、早口に告げる。

「今はそれどころじゃない、騒ぐな。本部長に回してくれ……いない? 新藤祐子はまだいるか?」

 電話口からキーボードを叩く音が聞こえた後、否定の言葉が返ってきた。芹香は更に渋い顔をする。

「新藤主任のGPS情報を、私の携帯に。誰にも何も報告するなよ、急いでくれ」

 最早一刻の猶予もない。それだけ言って、芹香は電話を切った。

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