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透明なひと  作者:
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第四章 終わりなき連鎖 四

 重い瞼をこじ開けて無理矢理開かせた目に入ったのは、真っ白な天井だった。閉め切られたカーテンの生地越しに差し込む光に、芹香は眩しそうに目を細める。未だぼんやりと覚醒しきらない頭で、見慣れない光景だと考えた。それが当然だった。最近は家でゆっくり眠れる事も滅多にないほど、忙しかった。

 帰宅するのが面倒になって、社宅の空き部屋を使うことなどざらだった。田舎の山中まで遠出した時などは、車内で一晩過ごす事もままあった。こんなによく眠ったのは、久しぶりだ。

 そう考えた瞬間、芹香は弾かれたように上半身を起こして室内を見回した。よく眠れる筈がないのだ。

 しかし全身を走る鈍い痛みに顔をしかめ、思わず背中を丸める。血管に鉛を流し込まれたように体が重く感じる上、四肢が熱を持っている。視界を暗転させる立ち眩みのような感覚を厭い、きつく目を瞑って、頭を左右に振った。

 ここはどこだ。痛みを堪えるように毛布をきつく握り締め、彼女はそう考える。こめかみが鋭く痛んで、上手く頭が回らない。脳が思い出すことを拒んでいるような、奇妙な感覚だった。

「もう目が覚めたんですか?」

 反射的に声のした方を振り返ったが、芹香は再び襲った目眩に眉根を寄せた。一瞬狭まった視野が開けるのを待って、改めて声の主を見る。

「まだ起き上がらない方がいいわ」

 女は困ったようにそう言って、ベッドへ近付いた。よく日に焼けた小麦色の肌に、赤みがかった茶髪。手にはコップと、粥の入った皿が置かれた盆を持っている。

 見覚えのある顔だった。覚えがあるどころではない、よく知っている。

「新藤主任……か」

 祐子は呟いた芹香を見て微笑み、小さく頷いた。勤務地が違うからそう親しくはないが、何度か一緒に仕事をしたことがある。あの時本人から悪い印象は受けなかったが、彼女が使役する霊にはかなり問題があるように思われたから、よく覚えていた。

 鳳の退治課では、提携関係にある高屋敷家指導の下、殆どの社員が祐子のように霊飼いとなる。それ以外、元々の霊感が強い人材は会社役員の下で対霊体用の術を修め、管理職への道を歩む。

 実力を付けるしか昇格の術がない鳳では、最初の篩いで大体の道が決まる。定年まで平社員でいるか、芹香のように異例の昇格を遂げるか。全てが生まれ持った才能如何であると言っても、過言ではない。元々の霊感が強くないと、技術の身につけようがないからだ。

 そんな中、祐子のような霊飼いが管理職に就くという事は、極めて稀だ。研修期間中に余程の功績を残したのだろうと芹香は思っていたが、一緒に仕事をしてみて、違うと悟った。理由は祐子が使役する、霊の方にありそうだ。

「あなたが助けてくれたのか」

 祐子は苦笑いを浮かべ、首を横に振った。

「私は何もしていません。本社の執行部長があなたを抱えて来て、匿ってやってくれって」

「……部長が」

 芹香は複雑な表情を浮かべ、祐子がベッド脇のナイトテーブルへ盆を置くのを眺めていた。社員になってから、部長には良くして貰っていた。しかしよくぞ見つけられたものだと思う。

「路地でうずくまっている所を、見つけられたそうです。たまたま家が近かったので、私の所へ連れて来られたようですが」

「そうか……済まない」

 頭を下げようとすると、祐子は手を振ってそれを制止した。

「聞きましたよ、過激派の反乱ですって? 穏健派の大多数がいなくなったと思ったら……危ない所だったそうですね」

 祐子はどこか、悲しそうな表情を浮かべていた。芹香は黙って頷く。

「人事が小田原支店長を切っただろう。あれから、向こうの動きが活発化してな。退治課が人手不足で、処理に奔走していたから内情は良く知らなかったが、気がついたらこのザマだ」

 何故人手が不足しているのかも、彼女は知らなかった。誰が居なくなったのかさえ、きちんと把握していない。

 覚えていなかったわけではない。確認するために帰社する暇さえなかったのだ。早朝から現場へ直行して何件かを渡り歩き、夜遅くに直帰する。ここ数年、そんな生活が続いていた。

「焦ったんでしょうね、向こうも。それにしたって、まさかあなたを……」

 祐子は口ごもって、少し俯いた。しかし無理はないと、芹香は思う。彼らにとって一番邪魔なのは、他ならぬ芹香だった。追われる身になるとは到底予期していなかったが、疎む気持ちは分かる。

 過激派の面々は、その殆どが霊に近しい人間を殺された遺族だ。当然霊を憎むだろうし、根絶やしにしたいと思うだろう。ただの浮遊霊を、出鱈目に抹消しているわけでもないと知っている。

 それでも、悪霊にはそうなっただけの理由がある。生前の行いが祟ってそうなった者だけでなく、恨みを持って死んだ為に、悪霊となってしまった者も、少なからずいる。誰にも供養してもらえず、浮かばれない霊が負の感情に晒されて、悪霊となるケースもある。そういった哀れな悪霊を、浄霊屋や霊媒師に任せればいいものをわざわざ出向いて行って抹消するから、会社には自然と悪評が立つ。

 悪い噂は良い噂より、数倍早く広まってしまう。会社の信用を取り戻す為には、彼らを阻止する人間が必要だった。

 そんな過激派を止める為に集まったのが、『白銀』を筆頭とする穏健派の面々だった。こちらはただ単に、白銀の傘下に在りたいが為に手を貸す者も少なからずいたが、中には過激派の横暴に被害を被った者も存在する。

 怨みを抱いて誰かが暴走すれば、全く関係のない誰かが悲しみ、また新たな怨念を生む。終わりのない負の連鎖を、止めてやりたかった。それが、こんな結果を生んでしまうとは。

 疲れた溜息を吐いた芹香の背を、祐子の手がそっと撫でた。子供にでもするような手つきだ。

「あなた、過労ですって。働き過ぎですよ。お忙しいのは分かりますが、最近は特にひどかった。ロクに会社にもいらっしゃらなかったんでしょう? もう少し、ご自分を省みて下さい」

 母親か配偶者のような口振りに、芹香は苦笑した。こんな事を言ってくれるのは、父親ぐらいのものだった。

 ここ最近は胸に澱が溜まったように気分が晴れず、ひたすら仕事に打ち込んでいた。忙しいのは事実だったが、自己管理がなっていなかったという事だろう。風邪や病気とは縁がないと思っていたし、気をつけてもいたが、過労で倒れてしまっては元も子もない。

 祐子はナイトテーブルに置いた盆から、水の入ったコップを取って、芹香に差し出した。

「とにかく、何か口に入れて下さい。早く戻らないと、あなたの不在なんてマスコミがすぐに嗅ぎつけてしまいますよ」

 芹香はコップを受け取りながら、緩く左右に首を振った。

「騒がれるのは申し訳ないが、社には戻れない」

 続けて皿を取ろうとした祐子は、驚いてその動きを止めた。芹香はコップの中身を一息に飲み干す。渇いた体に冷たい水が浸透し、心なしか四肢の熱が冷めたような気がした。

「私がいると、また同じような事になる。私がいなければ、残った穏健派も目につくような動きはしなくなるだろう」

「でも、常務がなんとかして下さるんじゃ……」

「無理だな。……とにかく見付かる前に、私はここを出る。あなたは中立の立場だろう。迷惑は掛けられない」

 祐子は眉をつり上げ、厳しい表情で芹香を見た。

「いけません」

 叱るような口調に、芹香は驚いて眉を上げた。両手を彼女の肩に添え、祐子は背中を丸めて屈み込む。

「身の振り方が決まるまでは、ここに居て下さい」

「どうせ一人になるんだ。あなたの厚意に甘えてはいられない」

 祐子の目が、すっと細められた。芹香は思わず身を硬くする。

「いけませんよ、そんな体で」

 肩に添えられた手が、シャツの上を滑るように下りて行く。蛇が這うようなその手つきに、芹香は身震いした。祐子の赤い唇が、ゆっくりと弧を描く。

「あなたの身になにかあったら、皆困ります」

 柔らかな掌が、胸の上に乗せられるような形で止まる。己の頬が熱くなって行くのを、芹香は呆然としたまま知覚した。

「ね、課長?」

 胸に触れた指先に、僅かに力が込められる。痛いわけでもなく、ただ皮膚が沈む感覚に耐え切れず、芹香は息を呑んで後ずさった。

「わ、分かった! 分かったから……」

「良かった」

 祐子はにっこりと微笑み、立ち上がってナイトテーブルを指差した。

「食べて下さいね。私仕事に行きますから、部屋は適当に使ってください」

 赤い顔のまま芹香が頷くと、祐子は部屋を出て行った。ドアが完全に閉まって漸く安堵の息を吐き、芹香はベッドから足を下ろす。火照った素足には、フローリングの床がやけに冷たく感じられた。

 ナイトテーブルに視線を移すと、先ほどまでは気付かなかったが、皿に隠されるように位牌が置かれているのが見えた。祐子が置いてくれたのだろう。

 皿を取りながら、部長は無事でいるだろうかと、芹香はぼんやりと考える。本部長は中立派だから、直接危害が及ぶ心配はないだろうが、もしばれたら、どうなるか分からない。

 全てが自分の不始末のような気がしていた。正義漢ぶってここまで来たはいいが、それが正しいことなのかどうかなど、彼女には分からなかった。こうなってしまった以上、正しくはなかったのかも知れない。しかし向こうが正しいとも言えないし、言いたくはない。仮にそうだったとしても、信じたくはない。

 何が正しくて何が間違っているのかなど、今はどうでもいい。彼女の厚意に甘えてばかりもいられない。しかし当面は、ここで厄介になるとして。

 そこではたと、芹香は粥を口に運ぶ手を止めた。

 どうすればいいのだろうか。行く当てもないし、そもそも父親以外に身寄りもない。頼れる人間は社内にしか存在せず、それも自分が頼ってしまえば、必ず矛先が向くだろう。それだけは、避けなければならなかった。

 芹香に私生活と呼べるものは、殆どなかった。ひたすら仕事に打ち込み、たまに休みがあれば、一日中眠る。そんな毎日を過ごしていたから、会社では特定の友人も作らなかった。死んだ父以外に親類はおらず、その父が死んで、本当に一人になってしまった。

 仕事をなくし、帰る家もなくし、たった一人の父さえ奪われた。突如として訪れた孤独が、背筋を冷やす。

 何も、なくなってしまった。喪失感だけが胸を満たし、芹香は震える。

「……惨めだな」

 空になった皿を置き、芹香は自棄になったようにベッドへ仰向けに倒れこんだ。最早涙も出ない。今の今まで抱いていた喪失感さえもすっかり消え失せ、残ったのは自責の念だけだ。辛いとも悲しいとも、不思議と思わなかった。

 あの時、高屋敷本家の一人娘が浄霊屋となる道を選んだ時、羨ましいとさえ思った。彼女は今、自由だ。自由な人の下で、自由に生きている。窮屈な社内で、針の筵に座るような思いをすることもないのだろう。

 自分は何をしていたのだろう。忙しさにかまけて、自分を省みることもなかった。自分自身の事など、どうでもいいとさえ思っていた。夢はあったけれど、それは永遠に夢のままだと、叶える前から諦めてもいた。

 常に前へ進んでいるつもりでその実、ただ同じ場所をぐるぐると回っているだけに過ぎなかったのではないだろうか。総てを知っているつもりでいて、本当は鳳コーポレーションという、狭い世界の事しか知らなかったのではないか。

 浄霊屋のあの娘も、霊媒師になると言った少女も、家を飛び出した彼女も。今は恐らく、芹香よりは広い世界を見ている。そして気がついたら浄霊屋になっていた、彼も。

 鳳という大きいようで狭い世界の中で暮らしていた彼女は、それ以外の事など知る由もなかった。ひと時の暇をどのようにして使えばいいのかも、分からない。とにかく今は体を休めることが先決なのだろうが、動いていないと落ち着かなかった。

 中身がない人間なのだ。白銀という屈強な殻の中には、何も存在しない。その名前だけが一人歩きして、芹香自身には、何もなかった。幽霊退治以外の事は、何も分からない。

 その名前を、何度恨んだだろう。それが自分でなければいいとさえ思っていた。憧憬の目を向けられるのも、賞賛されるのも、嫌だった。それはただの退治屋であって、芹香ではなかったからだ。

 だから、だったのだろう。あんたは何だと聞かれた時、嬉しかったのは。白銀という退治屋を知らない人がいた事が、嬉しかった。そして、思った。彼なら芹香を、芹香として見てくれはしないだろうかと。

 そんな事を考えている場合では、ないというのに。彼女のそれは、現実逃避だったのだろう。境遇を憂えている訳ではないし、自分を哀れんでいる訳でもない。

 ただ鳳に居場所を失くした今、次に働くのならあの人のところがいいと、そう思った。


「白銀は初心だって、本当だったのね」

 祐子は愉快そうに小声で呟きながら、ジャケットを羽織った。その襟には、金色の徽章が光っている。

「申し訳ないけど、大人しくしてて貰わないと困るのよ」

 誰に聞かせるでもないその独り言は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。祐子は姿見の前で身形を整え、軽い足取りで玄関へ向かう。

 ようやく、悲願が成就する。そう思うと、心ばかりでなく体まで軽くなったような気がした。

「もうすぐよ、俊樹。やっと見つけたの。邪魔も入らない。やっとここまで強くなれた。もうすぐ終わるわ」

 パンプスに爪先を滑り込ませながら、靴箱の上で微笑む青年の写真を一撫でし、祐子は玄関から出た。マンションの廊下は静寂に包まれており、彼女のヒールが立てる音だけが響く。

「待ってなさい、知恩院明」

 呟いた祐子の声は、到着したエレベーターが立てた高らかな音に掻き消さた。

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