第四章 終わりなき連鎖 三
何の説明もないまま事務所を追い出された明は、道中で繰り返される依頼人の愚痴に閉口していた。自己紹介して早々のマシンガントークは、相手を黙らせる為にしているのではないかと勘ぐってしまう程だ。流石のゆなも、耳を塞ぎたくなるのを必死で堪えているような、苦々しい表情を浮かべている。
これでは藤堂も嫌な顔をするはずだ。渚など、あからさまに不機嫌そうな面持ちのまま、一言も口を利かない。しかし踵を返す事なく黙ってついて来る辺りは、彼女も昔よりは大人になったという事だろう。
明が渚と初めて会ったのは二年前、彼女が十八の時だった。彼女はあの頃、傍から見ていて心配になるほど不安定で、がむしゃらに霊体を抹消し続けて、同業者を困らせる事もままあった。明も何度か仕事を取られて、高屋敷家へ殴りこみに行ったことさえある。
しかしつい一年前執事が死んで、彼を使役するようになってから、彼女は変わった。渚にとって執事がどんな存在だったのか、明には知る由もない。けれどその死によって変化が起きるということは、大事な人ではあったのだろう。
随分と、丸くなったものだ。明は彼女の変化を嬉しくも思ったが、こうして今仲間として働いている事が、不思議なように思えた。昔の彼女なら、仲間などいらないと言っただろう。
だから浄霊屋にしてくれと言われた時は、本当に驚いた。共闘しようと持ち掛けても決して首を縦に振らなかった彼女が、執事の死によってこんなにも変わったのだ。彼の死自体を喜ばしい事だとは到底思えないが、それに影響を受けて渚が変わった事が、明には嬉しく思える。
知らず知らずの内に笑みを浮かべていた明は、顔を覗き込むゆなに気付いて目を丸くした。
「な、なに?」
ゆなは愛らしい仕草で小首を傾げて明を見上げ、前方を指差した。明は大きく瞬きする。
「着いたようなのですが」
慌てて目の前のアパートを見上げてから、明は依頼人の姿を探した。里佳は呆れた表情を浮かべて立っている。その横では、渚が有り得ないものを見るような目で古ぼけたアパートを眺めていた。
明は怒鳴り込みに行った時に見た、高屋敷の家を思い出す。東京の一等地に堂々と構えるあの屋敷とここでは、雲泥の差がある。
生まれた時からあの広大な屋敷で暮らしていた事を考えれば、渚の反応も頷けるが、失礼に当たるような事はしないで欲しい。里佳が気付いていなくて本当に良かった。
「大丈夫?」
里佳の怪訝な声に、明は我に返った。
「す、すいませんっ」
明は反射的に頭を下げ、溜息を吐いて外階段を上り始める里佳の後を追った。ゆなと渚が不思議そうに顔を見合わせ、軽く肩を竦める。
「今時エレベーターないとか、有り得なくない? そこ手すり危ないから、触っちゃダメだよ」
見れば確かに階段は老朽化が進み、全体に赤錆が浮いている。一歩踏み出す度に軋む音を立てる階段に触るのも躊躇われて、明は結局手すりを使わなかった。
階段を上りきってからふと下を見ると、ゆなが渚の手を取って介助してやっていた。足下が悪いのもあるだろうが、お嬢様育ちの渚は、普段階段など使ったりはしないだろう。
「だいじょぶ? こっち、上がって」
いつの間にか自室に入った里佳が、ドアから顔を出して手招きしていた。怒ってさえいなければ普通の女性のようだ。
「お邪魔します」
ようやく階段を上りきった二人を伴って、明は里佳の部屋へ入る。玄関に入った瞬間、室内に充満した香水の香りが鼻を突き、ゆなが顔をしかめた。その匂いに混じり、おぼろげな霊の気配が感じられる。明はワンルームの室内を見回しながら、首を捻る。
気配はあれど、姿が見えない。明は怪訝な面持ちで部屋の隅々まで観察した後、意見を求めようと渚を振り返った。
「……大丈夫?」
しかし明の口からは、気遣いの台詞が出た。見るからに疲れ切った様子でぐったりした渚は、ゆなに支えられるようにして立っている。階段を上っただけでこれかと、明は些か呆れた。
「問題ありませんわ」
毅然と言い切る渚の顔は、心なしか青ざめていた。これは少し走るだけで息切れする藤堂より、遥かに体力がなさそうだ。藤堂どころか、ゆなと比べても劣っているように思える。
「気配はあるのに、姿が見えませぬ」
首を傾げたまま、ゆなが呟いた。大きな目はどこを見ているのか分からないが、霊の気配はしっかりと感じ取っているようだ。
「そうだね……存在が希薄っていうか、逃げ回ってるのかな」
こんな狭い部屋で霊を探す羽目になるとは、思ってもみなかった。アパートを見た時点で部屋は狭いだろうと予想していたから、楽な仕事になりそうだと、勝手に考えていたのだが。
「やっぱ、いるんだ」
明につられて室内を見回していた里佳の表情が、徐々に硬くなって行く。居るという確信を持たされて、不安になったのかも知れない。
ようやく回復した渚が、不思議そうに首を捻った。
「先ほどから、ちらちらと視界の端にいるのですけど……逃げ足が速いのかしら」
「呼んだら止まってくれないものでしょうか。るーるーるー」
「キツネ呼んでどうするの」
明が突っ込むと、ゆなは首を傾げて渚を見た。その視線を受けて困惑したように柳眉を顰めた彼女は、おもむろに胸ポケットから札を取り出す。
「とにかく、捕まえなくっちゃ始まりませんわね……じいや」
渚の声に反応して、札から燕尾服の老紳士がずるりと出て来る。じいやという呼び名に相応しいのは、整髪料でしっかりと撫でつけられた総白髪だけだ。破り取られた袖から伸びる丸太のような腕も、狼のように鋭い双眸も、凡そ似つかわしくない。
老紳士と呼ぶには体格が良すぎるその姿を見て、里佳が小さく悲鳴を上げた。
「な、何それ!」
「霊ですわ。あなた高屋敷家をご存知ありませんの?」
小ばかにしたような台詞を吐いた渚を、明が咎めるように睨んだ。ふん、と渚が鼻を鳴らす。
「じいや、さっさと捕まえてしまいなさい」
執事が素早く腕を伸ばした。明は目の前を通り過ぎた微かな気配に、驚いて小さく肩を竦める。ゆなはようやく霊の姿を目で捉えたのか、部屋の隅を人差し指で指し示した。執事がゆなに向かって頷いた後、指された方へ駆け出す。
執事は部屋の角に置かれていた化粧台を避け、壁を蹴って方向転換した。その腕が気配を掴もうと伸ばされたが、間に合わなかったようで、悔しげに拳を握る。
明には目で追う事も不可能だから、渚がいて良かったと安堵する。下手をすれば、刀でそこら中を傷つけてしまいかねない。
「っつーか超マッチョじゃん。超カッコイイ」
暫く執事をまじまじと見ていた里佳は、やけに呑気にそう言った。明は思わず脱力する。
何故こんな狭い部屋で、こんな事をしなければならないのだろう。明は段々とばからしくなってきた。執事が大真面目に追い掛けているのが、余計に馬鹿馬鹿しく感じられる。
しかしこれも仕事だ。真面目にやらなければ里佳の話を一人で聞いていたという藤堂に、申し訳が立たない。一人駆け回る執事を見ながら、明は表情を引き締める。
「こちらです」
ゆながヘルメットを外し、執事に向かって手招きした。明と渚は怪訝に眉を歪めたが、執事だけはゆなの意図を察したようで、僅かに頷いて見せた。
ゆなが大きく両手を広げる。執事の腕が伸び、その掌が逃げ回っていた霊の背を叩くのが見えた。やっと明の目にも見えたその姿は、初老の男性のように見える。
男性の霊は執事に背中を押され、ゆなの方へ向かって吹っ飛んだ。ゆなの唇が、にやりと笑みを浮かべる。
「かもんべいべー」
棒読みでゆなが言った瞬間、室内に悲鳴が木霊した。そういえばゆなは既に降霊する事が出来るのだと、明は今更思い出す。しかし先ほどの悲鳴は、何だったのだろう。霊が上げた悲鳴だろうか。
ゆなはその場に、がっくりと膝をついた。里佳が目を見開いて、両手で口元を覆っている。ゆなが上げた悲鳴だと思ったのだろう。
「入ったね。小磯さん、大丈夫ですよ。この子の悲鳴じゃありません。降霊しただけです」
明がそう説明すると、里佳は口元を覆っていた掌をゆっくりと下げ、恐る恐るゆなへ視線を落とす。役目を終えた執事は渚に歩み寄り、傍らで畏まった。
四人が神妙な面持ちで見守る中、ゆながゆっくりと顔を上げ、表情を引きつらせた。その仕草は、明らかにゆなのものではない。間違いなく霊が入っている。
「な……何だてめえら、何じゃこりゃ!」
ゆなの口から出た幽霊の第一声に、全員が脱力した。しかし里佳だけが、驚愕に目を見開く。
「お、お父さん!」
これには他の三人が一様に、目を丸くした。里佳は慌ててゆなに駆け寄り、床に膝を着いてその両肩を掴む。
「その声、お父さんでしょ! 何なのよ、なんでこんな……」
ゆなは眉間に皺を寄せて渋い表情になり、里佳から気まずそうに目を逸らした。呆然としている渚の肩を軽く叩いてから、明は二人の傍らにしゃがみこむ。
「お父さんなんですか?」
逸らした視線の先に屈んだ明を見上げ、ゆなに憑いた霊はおずおずと頷いた。無言で肯定の意を示した父を見て、里佳が眉をつり上げる。大きく息を吸い込む音がした。
「どうして逃げたのよ! あたしが霊感弱いの知ってんでしょ、言いたい事があるなら、この人達に伝えてくれれば良かったじゃん!」
畳み掛けるように怒鳴る娘に、父親の表情が険しいものへと変わった。先ほどまでしおらしかったというのに、随分ころころと表情が変わるものだ。血の気の多い家系なのかも知れない。
「突然大勢乗り込んで来たら、退治屋かと思うだろうが! そりゃ逃げるっつーの」
「何よ臆病者!」
「あの、すいません、親子喧嘩はその辺で……」
見るに見かねて明がたしなめると、二人は同時に彼女を見て、同じタイミングで肩を落とした。叱られて素直に静まった父子に、明はほっと肩の力を抜く。
「ええと、お父さん。言いたい事があるなら、今の内に」
明に促されると、ゆなに憑いた父親はちらりと娘を見てから、改めて彼女に向き直る。そのままその場で正座した後、厳しい表情を浮かべた。里佳は僅かに身を硬くする。
「父さん言ったよな、あの男はやめろって」
里佳は一瞬目を丸くした後、父親から視線を逸らした。思うところがあるのか、悲しげに眉根を寄せている。
「お前、あいつがどんな男かまだ分かってないのか」
唇を噛み締め、里佳は暗い表情で深く俯く。思い当たる節があるのかも知れない。
父親の口振りと里佳の反応から察するに、里佳の恋人の事なのだろうと明は推測する。介入するどころか、第三者が聞くのも悪いような話になって来てしまった。
しかし今の内にと言ったからには、会話を止める訳にも行かない。ゆなを残して部屋を去るのもいけないし、何も解決していないのに出て行くのは、依頼人に申し訳ないような気がした。しかし、そ知らぬふりで聞いている訳にも行かない。
結局明は気まずそうにゆっくりと立ち上がって、渚の横へ立つ。渚も同じく、居心地悪そうに視線を宙にさまよわせていた。
「あのな、あいつは多額の借金を背負ってる。お前がいくら貢いでも無駄だ、ギャンブル狂いは直りゃしねえ」
里佳が弾かれたように顔を上げる。明は父が夢枕に立ってまで言わんとしていた事を、なんとなく理解した。
「そ、そんなのウソ!」
「嘘じゃねえよ、俺ァこの目で見た。あいつはただのギャンブル狂だ。お前が貢いでる金は全部、馬やらパチンコやらに注ぎ込まれてんぞ」
里佳はぽかんと口を開けたまま、何も言い返さなかった。
何故、こんな話を聞かされているのだろう。浮遊霊がストーキングすることは決して珍しい事ではないから、てっきりその類だと思っていたのだ。
聞いてはいけない事を聞いてしまったような気になり、明は隣で立ち尽くす渚の顔を盗み見る。執事はさすがに居心地が悪かったようで既にいなくなっており、渚は複雑な表情を浮かべていた。
存在が希薄になっている事から考えるに、この父親は恐らく、亡くなってから四十九日をとうに過ぎている。娘の様子を見る限り供養はきちんとしているのだろうが、四十九日を過ぎて尚、彼は現世に留まっているようだ。
霊自身にこの世への未練があっても、四十九日の法要を迎えてさえいれば、強い念を抱いていない限りは天に昇る。摂理に逆らってまで現世に留まれば、霊体が消滅してもおかしくはない。存在こそ希薄になっているものの、それが今まで現世にいたのだから、よほど娘を心配していたのだろう。
「……これが言いたかっただけだ。悪かったな、お嬢ちゃん方」
俯いたままぼんやりとしていた明は、慌てて視線をゆなに移した。里佳は未だ呆然と肩を落としている。
「もう……いいんですか?」
「ああ、後はこの馬鹿娘の判断に任せるさ。この子にも、礼言っといてくれ」
父親の霊は体を間借りしたゆなの顔を指差し、寂しそうに笑った。その表情に、明は胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
「じゃ、盆には帰って来らァ。達者で暮らせよ、里佳」
父の手が娘の頭に伸び、軽く叩くように撫でた。里佳はゆっくりと瞬きを繰り返す。
ゆなの体から、ふっと力が抜けた。糸の切れた人形のようにがっくりと項垂れ、ゆなはその場に倒れこむ。しかし明が駆け寄るとすぐに目を開けて、横たわったまま彼女の顔を見上げた。
里佳は父に名前を呼ばれた事でようやく我に返り、ゆなの口から抜け出た白い靄に手を伸ばす。しかし、触れることは叶わなかった。里佳の指先は虚しく空を切り、靄は逃れるように天井へ上って行く。明の目には、その靄は寂しそうに笑う男性の顔に見えたが、果たして里佳は気付いていただろうか。
慌てて立ち上がった里佳の目からは、大粒の涙が零れていた。
「お父さん、あたしカレと別れる! 別れるから、安心して!」
次から次へと溢れる涙を拭おうともしないまま、里佳は大声で叫んだ。父を追うように伸ばされた里佳の手は、しかし何も掴む事がない。靄は了解の意を示すように、天井付近で円を描くように漂った後、消え失せた。