第四章 終わりなき連鎖 二
かしまし娘等が依頼人と共に出て行ってから、藤堂はカウンターに座ったまま、ぼんやりと外を眺めていた。眠たげに欠伸を噛み殺し、店の前を通る人影をドア越しに目で追う。
客を期待しているわけではない。期待したところで誰も来ないことなど、分かりきっている。
何より渚がバッグを買ってくれたのと、友人から依頼料にと貰った金がまだ残っているので、当面は食費の心配をしなくていい。預金残高は今月の家賃を払うには足りない額なのだが、食費が手元にあるだけで安心して、すっかり仕事をする気が失せてしまった。元々大した仕事もしていないのだが。
膿み疲れたサラリーマンが、重い足取りで店の前を通り過ぎて行く。買い物袋を提げた主婦達が足早に、それを追い越した。店内から見える空は、季節を象徴するかのようにどんよりと雲っており、今にも泣き出しそうだ。出て行った従業員たちが、帰りに雨に降られなければいいと思う。
代わり映えしない風景だ。自分の何が変わっても、ここから見える人々の姿は変わらない。藤堂は何故だか、それを感慨深く思う。周囲の様子が変わった所で藤堂は流されるだけだが、その分、変わらない事が嬉しくもあった。
藤堂のそれは、安心しているだけなのかも知れない。平坦な日常をだらだらと繰り返していた筈の藤堂に、急激な変化が訪れたのは、つい最近の事だ。身の回りが目まぐるしく変わって行く事に、彼はひどく疲れてしまっていた。
落ち着いたと思ったら、また別の人間が現れては引っ掻き回し、何故か藤堂の手が届く場所に居座る。無論彼女らを疎ましく思っている訳ではないし、これはこれで楽しいと思う。けれど流されるばかりの彼は、これでいいのだろうかとも考える。
良かろうが良くなかろうが、受け入れるしか道がない事を、藤堂は理解している。強く主張するような事はしたくないし、拒絶するのは尚のこと苦手だ。時折、何故こんな風になってしまったのかと考えたりもするが、これが生まれつきの性分なのだと、藤堂は自分をそう納得させている。
ガラス扉越しに、見慣れた人影が見えた。店外を見る藤堂に気付くと、彼女は軽く手を振る。
「ヒマそうね、藤堂クン」
黒のジャケットを片手に持った、色の黒い女だった。赤みがかった茶に染められた髪はさっぱりと短く切られているが、襟足が僅かに伸びて来ている。タイトなミニスカートから伸びる、ストッキングに包まれた肉感的な足に、藤堂は目を奪われた。
新藤祐子はパンプスのヒールが立てる軽やかな音を響かせながらカウンターに近付き、渋い表情の藤堂を見て笑った。彫りの深い顔立ちの為か、一見年齢の判断がつかない。
「いつも通り」
短く返すと、祐子は藤堂を見下ろして首を捻った。藤堂の視線は彼女の顔よりも、見上げる形になった豊満な胸へ行く。
「最近儲かってるって聞いたけど?」
「どうだか」
祐子は呆れたように小さく息を吐いた。
「結構お客さん入ってるじゃない。アタシが来ると、大体ここに誰かいるわよ」
言いながら、祐子はカウンター手前の椅子を軽く叩き、その背もたれにジャケットを引っ掛けた。座る気はないようだ。
事務所の経理面を全面的に受け持っているのは藤堂だが、儲かっているという実感はあまりない。実際儲かっているという程金が入ってくる訳ではないし、始めた頃よりは客が増えたというだけの話だ。生活は大分楽になったが、それでも毎月家賃を捻出するのに苦労している。
「ああ、だからあんた最近来なかったのか」
祐子は更に呆れた視線を藤堂に向けた。逐一気にかけてくれるのは有難いが、この目はやめて欲しいものだと思う。
「もう……君ってホント、何にも興味ないのね」
「そんな事ないけど」
「ヒトの胸見ながら言わないでよ」
軽く握った祐子の拳が、藤堂の額を小突いた。いて、と呟いて額を撫でる藤堂を見て、祐子はさも楽しそうに笑う。
そう言われても、目の前に見事な胸があれば自然と視線が向いてしまう。祐子の場合、常に見て下さいと言わんばかりにワイシャツの胸元を大きく開けているから、見なければ失礼だという気にさえなる。それも藤堂の勝手な考えだが。
「祐子さんには興味ありますぐらい言えないワケ?」
「祐子さんの胸には興味あります」
「本気で行くわよ」
「カンベンして」
拳を振りかざした祐子に、藤堂は肩を竦める。今回は冗談だと分かっているが、たまに本気でひっぱたくから気が抜けない。
「そんなにヒマなら、実家帰ればいいじゃない。ご両親健在でしょ?」
藤堂は思わず眉間に皺を寄せる。祐子に家族の事について口を出されたのは、初めてだった。
「盆と正月には帰ってるけど」
帰った所で一日中ごろごろしている藤堂を待っているのは、母親の小言と姉の愚痴ばかりだ。早く結婚しろだの仕送りを増やせだのという母の苛立ったような口振りと、鬼のような形相が思い出され、藤堂は更に渋面を作る。
帰ったら帰ったで、いちいち帰って来るなと言うのが藤堂の親だ。父親は藤堂と同じく無口だし、姉夫婦は、わざわざ口下手な弟と話そうとはしない。帰らないとそれはそれで、電話口で小言を言われるのだが。
「たまにはふらっと帰ってみたら? 喜ぶよ」
「……何いきなり」
怪訝に問い返すと、祐子は誤魔化すように苦笑した。藤堂は祐子の家族構成を知らないし、聞いた事もない。仲が良いとはいえ、常連客とそんな込み入った話をするのも気が引けた。
そういえば、と、藤堂は祐子から視線を逸らす。
明の家族構成も、彼は知らない。年中制服でいる割に、学校へ通っている様子もないので気になってはいたが、明は殆ど自分の事を喋らないから、聞きそびれていた。
しかし今更聞くのも、妙な按配ではある。聞いてはならないような事だったらと思うと、余計に聞きづらい。最近は片親の子供が多いから、家庭の事情に首を突っ込む羽目になったら面倒だ。
目を逸らした藤堂を見て、祐子は何を思ったのか、彼の頭を軽く撫でる。驚いて顔を上げると、祐子はどこか、寂しそうに笑っていた。初めて見るその表情に、藤堂は思わず身を硬くする。
「藤堂君さ、いい人だって言われるでしょ」
返答に困った。確かによく言われる類の言葉ではあるが、言葉通りのいい意味で使われる事は滅多にない。明に言われた時も、本気なのか揶揄われているのかさっぱり分からなかった。
祐子は前髪をかき上げながら、視線をカウンターに落とした。憂えているようなその仕草が、やけに艶っぽく見える。
「でもね、話聞いて欲しい時もあるのよ。たまには」
「センチな気分? なんかあったの」
「そーかもね」
藤堂はそれ以上言及しなかった。しつこく問いただすのは好きではないし、言いたくない事なら、匂わせたりはしないだろう。言いたいなら、こちらが何も言わなくとも、祐子は話すだろうと思っていた。
黙り込んだ藤堂に、祐子は曖昧に笑って見せた。
「……一ヶ月ぐらい前だったかな、父親が死んでさ」
藤堂は目を丸くして、まじまじと祐子を見た。切り出された話の内容自体に驚いたのではなく、祐子がそんな重い話を自分に打ち明けた事が意外だった。
「うち母親いなくてさ。兄弟もいないから、アタシと父だけだったのよ」
ふうん、と生返事をして、藤堂は煙草に火を点ける。真面目に話を聞くのが照れくさいような、申し訳ないような気分だった。何より祐子の方も、真面目に聞く姿勢を取らない藤堂だから、こうして話しているのだろう。
誰かに聞かせるには照れ臭くなるような愚痴や悩みを聞いてもらう相手には、興味のない態度を取る人間が適している。真摯な態度で聞かれると、余計に恥ずかしくなるからだ。
そして誰にも秘密をばらさないような、口数の少ない者。その点自分はお誂え向きの人間なのだろうと、藤堂は思っている。昔から藤堂は、仲間内でそういう役割を担っていた。
「だから上京するの止められたんだけど、都会への憧れがあってさ。ハタチの時、大喧嘩して家出たの。それからつい半年前まで、連絡も取ってなかった」
祐子はどこか懐かしそうに、目を細めた。泣きたいのかも知れないと藤堂は思ったが、何と言ったらいいか分からないので、口は挟まない。慰めの言葉も浮かばない自分が歯痒かったが、この不器用さが功を奏す事もある。
「それで半年前、父が倒れたって叔母から連絡があってね。急いで戻ってみたら、お父さん、昔の面影もないぐらい痩せちゃってた。アタシの顔見て怒ったけど、すごい泣いてた」
祐子の声は、僅かに震えていた。藤堂が姿勢を落とした先で、カウンターに着いていた両手の指先が握り込まれる。何かを堪えるような仕草だった。
「バカだったって、思った。でも仕事があるから、結局向こうには戻れなくてさ。それでも一週間に一回ぐらいは、会いに行ったのよ」
視線だけを上げて盗み見た祐子は、タバコの煙に霞んで見えた。懐古するような表情を浮かべて上を向いた彼女の姿が、別人のように小さく感じられる。藤堂は口を開きかけたが、結局やめた。
「死に目には会えなかった。なんかね、よく覚えてないの。そこんとこ。お父さん、気がついたら、小さくなっててさ」
再び俯いた藤堂は、祐子の顔を見る事が出来なかった。もし今祐子が泣いていたとしたら、彼女はその顔を見られたくないだろうと思う。見てはいけないような気がした。
藤堂に彼女を叱る権利はないし、慰める術もない。祐子が果たして叱咤して欲しかったのか、それとも胸を貸して欲しかったのか、藤堂には分からない。けれど話を聞いて欲しいのだと言われたからには、そうするだけに留めておくのが最良だと思った。
祐子が何を思って藤堂に懺悔を始めたのか、彼には分からない。分からないが、彼女の一言一言が胸に沁みた。黙っているよりほかはなかった。
「さ、どこまでホントだと思う?」
藤堂は反射的に顔を上げ、は、と呟いた。呆然と見上げる藤堂を見て、祐子は朗らかに笑う。
「何よう、情けない顔しちゃって。あんた冷めてるくせに、意外とこういう話弱い?」
悪戯を企む子供のような笑みを浮かべ、祐子は藤堂の顔を覗き込んだ。開いた口が塞がらない。
「……何ソ、あっち!」
いつの間にか燃え尽きようとしていた煙草の火が、藤堂の指まで届いて皮膚に触れた。驚いた藤堂が煙草を取り落としたのを見て、祐子は慌ててカウンターを転がるそれを摘み、未だ燻る火種を灰皿に押し付けた。
火傷した指に息を吹きかけて冷ましながら、藤堂は恨みがましい目で祐子を見る。彼女は赤くなった藤堂の指先を見ながら、少し首を竦めた。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃねえよ、痛え……」
唸る藤堂を暫く困ったような面持ちで見つめていた祐子は、ふと口元に笑みを浮かべた。藤堂は訝しげに片眉を寄せる。
「キミのそういう優しいとこ、似てる」
主語が抜けた台詞に、父親の事だろうかと藤堂は思う。嘘なのか本当なのか判らない話だったが、騙された恨みより、信じたい気持ちの方が強かった。敢えて真偽を問う事もしないが。
祐子は椅子に掛けてあったジャケットを取り、藤堂の頭にぽんと手を置いた。
「ごめんね。ありがと」
何に対しての礼なのか、藤堂には分からなかった。祐子は怪訝な表情を浮かべる藤堂に背を向け、入り口に向かって歩き出す。片腕に引っ掛けられたジャケットがなびいた瞬間、藤堂は目を見開いて咄嗟に立ち上がった。
「ゆ、祐子さ……」
藤堂の声に気付かなかったのか、祐子はそのまま出て行った。藤堂は暫くの間、そのまま呆然と立ち尽くしていたが、やがて力が抜けたように椅子へ腰を下ろす。
祐子のジャケットの襟で光っていた金色の徽章には、嫌と言うほど見覚えがあった。見間違う筈もない。
「まさか、商売敵とはね……」
そう独りごちて、藤堂は椅子の背に凭れ、天井を仰いだ。