第四章 終わりなき連鎖 一
父が死んだ。その死因は老衰でもなければ、病死でもない。
他殺である。殺されたのだ。危うい状況にあるのは知っていたが、まさかここまでとは、彼女自身思ってもみなかった。忙しさにかまけて、何一つ手を打たなかった自分の落ち度だ。自分一人が何がしかの行動に出た所でどうにもならない事も知っていたが、そう思わずにいられなかった。
この目で見たにも関わらず、父が死んだという、その事実が信じられなかった。仕事を終えて帰宅してみたら、数多の霊に囲まれて、父は息を引き取っていた。否、その時にはまだ、息があった。父は逃れようと懸命に腕を伸ばしていたが、呆然と立ち尽くす彼女に気付くと、今まさに己を喰らわんとする者に、文字通り魂を引き裂かれながら、最後の力を振り絞って逃げろと言った。そして握り締めていた位牌を彼女の方へ滑らせ、事切れた。
その声を聞いて霊飼い共が飛び出して来た時、彼女は逃げた。母の位牌を拾い上げ、脇目も振らず逃げた。逃げてしまった。あの数の悪霊相手に何か出来ると思える程、彼女は愚かではなかったし、一矢でも報いたとして、死んだ者は戻らない。
彼女を産んですぐに母が死んでから、父は男手一つで彼女を育てた。二十歳の誕生日には飲みに行こうと誘われたが、父は無言で、ひたすら杯を重ねるばかりだった。流石に酩酊して前後不覚になった父に肩を貸しながらの帰路で、彼はようやく、お前は母さんにそっくりだと呟いた。そんな不器用な父が、好きだった。
何故、自分は追われているのだろうか。いずれこうなるのではないかという懸念はいつでも胸の内にあったが、まさかここまでとは、考えてもみなかった。考え得るどころか、予想だにしなかった最悪の事態だ。彼らにとって自分は確かに、邪魔なだけの存在だったろう。しかしまさか、殺意まで向けられるとは。
飛び出してしまうのではないかと不安に思う程、強く打ち続ける心臓が痛い。忙しなく酸素を取り込む肺が、悲鳴を上げる。込み上げる涙を堪えているせいか、喉が焼け付くように熱い。泣くのを堪えてまで走らなければならないこの状況に、無性に腹が立った。
路地へ入り、背後を振り返って追っ手を確認する。まだ姿は見えない。逃れるように薄暗い裏道へ入ってようやく、彼女は深く息を吐いた。
心臓が、早鐘のように打っている。体力はある方なのだが、これほど走ったのは久々だったせいか、足が痺れたように痛む。己の荒い呼吸音だけが、耳障りな程響いている。静まり返った夜の闇に包まれていると、五感の全てが研ぎ澄まされて行くような、不気味な感覚を抱く。
これは恐怖なのだと認識した瞬間、背筋を悪寒が這い上がった。手にしたままの位牌を握り締め、彼女は呼吸を整えようと何度も深呼吸を繰り返す。けれど一度恐怖を覚えてしまうと、駄目だった。胸を叩く鼓動につられるように、上がった息は更に荒くなって行く。
怖いものなど、ないと思っていた。初めて感じる死への恐怖に総毛立ち、息を殺しながら身を竦ませる。
死は恐ろしい。そんな当たり前の事さえ、忘れてしまっていた。
騒がしい足音が近付いて来るのが分かった。よもやここまでかと考えた時、脳裏を男の顔がよぎる。自嘲気味に笑みを浮かべ、彼女は静かに目を閉じた。
終わりなき連鎖 一
「有り得なくない、毎晩毎晩夢枕に誰か立つのよ! ホンット気持ち悪い!」
ヒステリックに叫んだ女は、やけに細い眉をつり上げて店主の方へ身を乗り出した。近付いて見た彼女の金髪は、可哀相に思えるほど傷んでいる。香水の強い匂いが、店主の顔をしかめさせた。
藤堂匡は濃い眉を下げて、呆れた表情で依頼人の話を聞いていた。話というよりは、殆ど愚痴だ。何をしにここへ来たのかと訝ってしまうが、依頼人、小磯里佳はどうも、家に出るようになった霊をなんとかして欲しいようだ。
「あたし霊感弱いから何言ってるかわかんないし、ホンットムカつく!」
里佳は再び苛立ったように叫んで、カウンターを掌で叩いた。朝早くに訪れて来てから、ずっとこの調子だ。勝手に話を進められる事には慣れている藤堂も、流石に閉口する。
藤堂は本来、質屋の店主だ。精悍な顔付きの割に常にどこか気だるげな佇まいの、凡そ客商売には向かない男だが、つい二ヶ月ほど前、新たな商売を始めた。最近では本業の質屋よりそちらの方が軌道に乗ってしまっているから、本人の心境としては複雑だ。
「アレ絶対、こないだあたしの事ずっと見てた浮遊霊だし! ウザいから早く退治しちゃってよ!」
この間と言われても、藤堂は知らない。目に落ち掛かる前髪をかき上げて、うんざりと溜息を吐いた。
「あのねお姉さん、うちは退治屋じゃなくて浄霊……」
「どっちも同じでしょ!」
確かに大差はない。霊を排除するという点においては、同じようなものだろう。しかし退治しろと言われれば、従業員の気持ちを考えると渋るより他はない。
「そう言われましてもね……」
ぼやく藤堂が何の気なしに顔を上げると、呆れた表情の女が視界に入った。ガラス製のキャビネットに凭れて立ち尽くしているが、いつからいたのだろうか。
「いたのか高屋敷、ちょっとこちらさんの話聞いてあげて」
藤堂が手招きすると、高屋敷渚は整った眉を困ったように歪めてゆっくりと近付いて来た。途中から聞いていたようだから当然だが、関わり合いたくなさそうな表情だ。
目尻がつり上がっているが、くっきりとした二重瞼のせいか、目つきが悪いという印象はない。隙間なく生えた長い睫毛は綺麗に上を向いており、フランス人形を思わせる。背中まで伸ばされた金髪はきつめに巻かれ、一歩踏み出す度に風を孕んで揺れた。
「大体聞いてはいましたけれどね、依頼人の話を聞くのは、所長の仕事ではありませんこと?」
「何も分かんねえ俺が聞いてどうすんの、こういうのはメイの仕事なんだって……小磯さん、高屋敷です」
渚が軽く頭を下げると、里佳はどうもと素っ気なく言った。渚の表情が俄かに硬くなる。態度が気に食わなかったのだろう。この二人は馬が合わなさそうだと、藤堂はげんなりする。
早くも場の空気が冷え切っている。残りの二人が早く来てくれないものかと藤堂は思うが、片方は余計に状況を悪化させてしまいそうだ。
「……夢枕に立つと仰ってましたけど、それだけなんですの?」
流石に無言のままでいるのはまずいと思ったのか、渚はそう聞いた。明よりは遥かに堪え性がありそうだが、彼女の口調からは刺々しさを感じる。
里佳は椅子に浅く腰掛けて腕を組んだまま、億劫そうに首を捻った。もう説明する気が失せたようだ。
「多分それだけ。さっきも言ったけどさあ、あたし霊感弱いから。なんかあっても分かんないんだよね」
「変ですわね。ストーキングするような悪質な霊なら、気付いて貰えるようにラップ音を鳴らしたりするものですけど」
顎を持ち上げて、見下すような視線を里佳へ向ける渚の言葉は、藤堂の耳には嫌味にしか聞こえなかった。里佳も言葉に含まれた棘に気付いたようで、表情を引きつらせる。
藤堂は激しく後悔した。何故、渚を話に入らせてしまったのだろう。さっさと受付用紙に必要事項だけ記入させて、帰らせれば良かったのだ。後は明がなんとかしてくれた筈だ。
「そうじゃないのもいるかも知れないじゃん。困るんだよね、あたし彼氏いるし」
里佳は指先に髪を巻き付けながら顎を引いて渚を見上げ、両の口角をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべた。今度は渚の表情が引きつる。つまり渚は今フリーなのだろう。しかしそんな事はどうでも良い。
藤堂はこの場から逃げ出したい衝動に駆られていた。張り詰めた空気が、全身に容赦なく突き刺さる。無言の間にさえ、底知れない恐怖を覚える。
女の争いは恐ろしい。その理由がどんな事であっても、藤堂は女の喧嘩にだけは、挟まれないように生きてきたつもりだった。それなのに何故、従業員と依頼人の冷戦に関わっているのだろう。
仕事中なのだから、現実から逃げてはいけない。分かってはいても、逃げざるを得ない状況だった。
不意に、里佳と睨み合っていた渚が顔を上げた。天の助けとばかりに、藤堂は縋るような目で入り口を見る。
「……何この空気」
顔をしかめたおかっぱの少女が、呆然と呟いた。幅の広い唇が、呆気に取られたようにぽかんと開いている。彼女は流石に、冷え切った室内の空気に気付いたようだ。その垂れ目は恐る恐る藤堂を見たが、彼が浮かべた情けない表情に気付くと、さっと目を逸らした。
天然記念物のような美少女だ。髪も目も今時珍しい漆黒で、そろそろ梅雨に入るというのに、長袖のセーラー服を着ている。大人びた空気を纏っているものの、膝丈のスカートから伸びる両足は、少女の面影を残していた。
日本人形めいた顔立ちを困惑したように歪め、知恩院明はまっすぐにカウンターへ近付いた。札が幾重にも貼り付けられたヘルメットを被った少女がその横をすり抜け、藤堂の腕にしがみつく。大きな目が渚をちらりと見て、眉尻を下げたまま藤堂を見下ろした。
「ゆなが来たからには、もう大丈夫です」
黒江ゆなは張り詰めた空気から何を感じ取ったのか、抑揚のない声でそう言った。感情というものを感じさせない無表情だが、ふっくらとした頬と小さな唇は、まさしく少女のそれだ。
「何がどう大丈夫なのかわかんねんだけど」
「隠さなくとも良いのです。藤堂さんの貞操の危機なのでしょう。お天道様が許しても、ゆなは許さないのです。この手で必ず守り抜いて見せます」
場の空気が更に凍った。この数週間でゆなの突飛な発言に大分慣れた渚は、赤面するだけで済んでいる。しかしゆなを知らない里佳は、口を開けたまま絶句していた。動じない明や藤堂がおかしいのかも知れない。
「あのねゆなちゃん、お兄さんお前が思ってるほど清らかな体じゃな……」
「藤堂さん!」
明の鋭い怒声が飛ぶ。藤堂は奥二重の目を明に向け、軽く肩を竦めた。ゆなは咎めないのに何故自分は咎めるのかと、藤堂は怪訝に思う。そもそもの原因は全て、ゆなにある筈だ。
はっとして依頼人を見た明は、一つ小さく咳払いをして、誤魔化すように空々しい笑みを浮かべた。里佳は黙り込んだまま、呆れた目で藤堂とゆなを交互に見ている。
「……ねえお兄さん、ここ大丈夫?」
里佳の問いに、藤堂は無精髭を生やした顎を撫でながら目を逸らした。大丈夫かと聞かれても、大丈夫だとは言い難い。
「ココ?」
藤堂がゆなの頭を指差すと、里佳は小さく噴き出して、人差し指でカウンターを叩いた。ああ、と藤堂は得心が行ったような声を漏らす。
「あんまり大丈夫じゃねえなあ、儲かんねえし……頭と発言はアレだが、腕は確かだから安心して下さい」
言って藤堂は、視線を流して明を見上げた。
「おい、三人で行って来い」
突っ込みたそうにうずうずしていた明は、その言葉に首を捻る。
「藤堂さんは?」
「俺は留守番」
ゆなが不満そうな面持ちで藤堂を見た。傍目にはいつもの無表情と大差ないが、常に近くで見ている為か、藤堂には最近ようやく、その変化が分かるようになってきた。
しかし藤堂は、その表情を無視した。ゆなをいちいち気にしていたら、何も進まない。あからさまに嫌そうな顔をした渚も、しかし不平を述べないので放っておく。最近は依頼があっても、藤堂自身は店を出ない事にしている。
そもそも、全員で出かけていた今までがおかしかったのだ。店番も置かないで出かけるのは、あまりいい事ではない。
「話は高屋敷から聞いてね。今からでいいですか、小磯さん」
「ああ、丁度今日しかヒマなかったの。じゃ、ウチ来て」
気軽にそう言って、里佳は椅子から立ち上がる。明が不満そうな面持ちで渋々カウンターから離れる二人を見て、うんざりと肩を落とした。